先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。 中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。 先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。 ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか? そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。 先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
自死を選ぶ人の気持ちがわかりません。 誰も身寄りもいない人とかなら分かります。でも、愛する我が子がいて愛する家族がいるのに… 何故自死を選ぶのか… 未だ、自死した夫の気持ちが分からず、最後、何を思いながら亡くなっていったのか… 亡くなったら、魂は、残された家族の近くにいれるものですか?
昨日、有名な某お寺で、住職の立場にあるお坊さんが暴力で人に怪我をさせ逮捕のニュースがありました。怪我をさせる暴力がお寺の中で起こったようです。 1度だけではなく、何度かあったとのことでした。 質問ですが、お坊さんや住職というのは人柄に関係なくなれるものなのでしょうか? きちんと修行をおこない、その立場になるための規律を守っていれば、人間性は関係なくその立場を与えられるのですか? それとも、きちんと見定められるシステムがあるのでしょうか。 お坊さんだって人です。逮捕されたご住職は、何か辛いことや思わず暴力をふるってしまう事情があったのか、と考えてしまいます。 仏教に従事する世界でも何か我慢のならない、よんどころない事があるのかと。 仏教の教えやこのサイトのお坊様の回答を見てると、非常に考えにくいのですが、少ないながらもやはりあるのかな。 一般的な会社や学校等である、ごく一部の心無い人のおこないが、お寺やお坊さん達の間でもおこっているとすれば、どこにでもある現実ということでしょうか。 仏教の教えを説く方々なので、なんだか悲しい現実に思えます。 私の感覚ですが、お坊さんや仏教に対して、聖職というイメージを抱いています。 でも、人間なので色々あり、色々起こるだろうと思います。 たくさん巻き起こる事柄の中で負けてほしくないです。 ものすごく多くの人の心を実際に救ってるお坊さんが現にこのサイトには沢山いるので複雑な気持ちになりました。
家族で住める一軒家を探しています。 敷地内に長年の夢だったお店も併設できる条件で探していたところ、 土地の広さ、値段、雰囲気全て私の願う条件にぴったりのところが出てきました。 ですが、不動産屋さんより 事故物件であるとお話がありました 80年ほど前に、敷地内で自死された方がいらっしゃるとのことです それ以上の情報は聞いていません 主人は全く気にしていないようです 初めて聞いた時は私も その亡くなった方にむけてきちんと供養をすれば問題ないかと思い深く聞かなかったのですが 時間が経つにつれ、やはり、商売をしお客様をお招きする場所にもなる訳ですから 大丈夫なのかと不安な気持ちが正直あります。 売主の方に、どのような方で、どういう状況だったのか確認するべきでしょうか。 それとも亡くなった方を想い、供養をすることで消化するべきでしょうか。 事故物件(それぞれ背景、事情があるので事故物件と、一括りにする言い方もあまり好きではないですが)に対するお考えをご教示ください。よろしくお願い致します
私が6歳の時に両親が離婚していてそれから父に会っていません。今どこにいるかも生きているかも分からないけどとても会いたいです。 わずか6年しか一緒にいなかった父ですが不思議と色々な思い出があります。一緒に遊びに行ったことも父がよく読んでくれた絵本もすごくよく覚えています沢山思い出はあるのに父の顔が思い出せません。父に繋がる情報も一切なくて思い出す度に苦しいです。会いたくても会えないもどかしさや苦しみはどうすればなくなるか教えて頂きたいです。 もし父と会えたら私は高校生になって部活も勉強も頑張ってるよって伝えたいです。 まとまりのない文章で申し訳ありません。回答頂けると幸いです。
話せば長くなるので省略しますが、私は恋愛を諦めました。 しかし、DNAの呪いは解かれず、異性を求めることを本能が止めてはくれません。 本能に直接言い聞かせる為の何か良い方法はありますでしょうか? お釈迦様は欲求、執着や嫌悪を無くし、家族までも捨てて悟りを開いたと理解しています。 そこで何かしらのヒントがあると思いました。 すでに試したことはまず、自己催眠。 しかし私は被暗示性が極めて低く、催眠に上手くかけれませんでした。 瞑想。 ヴィパッサナーの合宿にも行きました。良い経験にもなり学ぶこともありましたが、本能をコントロールするまではいきませんでした。 今考えているのは、アヤワスカです。 日本では受けられないので、簡単には出来ませんが、何かしらのヒントになると考えています。 去勢。 これは、一応最終手段で考えています。 瞑想の方法でも、何か効果的な種類の瞑想法などがあれば教えていただきたいです。
(編集部より。hasunohaでは基本的に質問時に対する回答で完結する形をとっています。お礼の欄での新たなご質問に回答することは必須としていないので、新たに回答を求められる場合は新規投稿をお願いします。また文章でのやりとりなので、書かれていない部分は背後を想像して回答する場合もあります。そのため誤解を生じてしまう場合もあるかもしれず、申し訳ございませんが、hasunohaは字数制限ある文章でのやりとり上、そのような性質を持っていることをご了承の上ご利用をお願いします。) 前回、『呪いの代行について』で質問させて頂きました。その時に、 『どんな人に対してであれ、人の不幸を祈るようなことをする、そのこと自体が、そういう気持ちが、貴女の人格として滲み出し、人とのご縁を遠ざけてしまいます。先祖のせいにしてはいけないことです。 まず、貴女が人の不幸ではなく、幸せを祈れる人になってください。』 とご回答を頂きました。 人の不幸を願う人間と決めつけられて、凄いショックでした。でも、そのお坊さまからしてみれば、『呪いの代行』とあったので、『呪い』ということにこだわってしまわれたのかなとも思い、お礼欄に人の不幸を祈り依頼したわけではないこと、恋愛成就の相談をしたことを記載させて頂いたのに、それに対してはご回答を頂けませんでした。 お坊さまとは、私の中では、もっと心に寄り添って下さる方と思っていました。一方的にアドバイスされ、それに対して返答しても、ご回答を頂けず、とても残念です。
相談ではなく、単純な質問ですみません。 しかしとても気になります。 私は現在職を探して3ヶ月になろうとしている20代です。 履歴書や面接の準備のときに必ず用意するものの中で、「志望動機」というものがありますが、 私はこの「志望動機」が苦手で、つまずいて応募も躊躇してしまうこともあります。 その為、この3ヶ月は道行く働いてる人へ 「ねえ、あなたはどうしてその会社に入ったの。なんて理由で応募したの。」 心の中でめちゃめちゃ問いかける毎日です。 半分くらいは知識欲なのですが… そんな時、「お坊さん」という、あまり私の身近にはいない方々に質問相談ができるというこちらのサイトを見つけました。 しかも真摯に、丁寧に、おそらく正直に回答してくださっているご様子。 私、今、喜んで質問させていただきます。 「なぜ、『お坊さん』という道を選んだのですか?」 欲張りで申し訳ありませんが、もし差し支えなければ、 「お坊さんになる前はどんな事をしていましたか?」 という疑問にも答えていただけると嬉しいです。 まとまりのない文章で、他の誰かの為にもならなさそうな質問で大変申し訳ありませんが、どうかこの個人的な疑問にお答えください。 よろしくお願いします。
生の先に肉体の死があり、その先に輪廻転生があるならば、また生の前に戻り、その先に生がある。 ならば、肉体の死を自然に任せなくとも良いのではないでしょうか。 辛い生を送り続けるより、早く新しい先へ進んだ方が良い。 それが逃げであっても。
「身体」と「精神」に障害を持つ者です。 昨日の相模原市の障害者施設での殺人事件で動揺しています。 健常者はやはり本音の部分で「障害者なんて死んでしまえばいい」と 思っているのでしょうか。 子供のころから実際に言われているので、「やはりそうなのか。」 と思ってしまいます。 負けずに戦えばいいのでしょうか。聞き流せばいいのでしょうか。
死とは苦しみからの旅たちなのですよね? 死んだら無になるのですか? 残された人は苦しみが増しますよね。 それは亡くなる人にとっても苦しみなのではないのですか? ということはやはり死ぬことは苦しいことなのではないですか?
幼なじみの父親が亡くなりました。 小さい時からかわいがってくれたおいちゃんです。 葬式の日程を聞くと 家族葬だから遠慮して欲しいと返答。 おいちゃんの仕事、友人関係も断るとのこと。 最後にお別れがしたかったのですが 別の意味で涙が出ました・・・ 最近、こういうの多いんですか?
現在、心身の不調により幾つかの病院に通い続けておりますが、どの病院でどんな治療をしても、全く良くなっておりません。 むしろ悪化しております。 幼少期より、あらゆる箇所に不調が現れ、その頃から手探りで病院に行っておりました。 高校生の頃から、幾つかの病院へ本格的に通うようになりました。 それでも どんどん悪化し、今は20代前半ですが、ほとんど動けず、寝たきりに近い状態です。 安静にしていても、いじめ等、過去の辛い記憶が頭を支配して非常に辛いです。 かなり前より希死念慮はありましたが、年々強くなっております。 検査で明らかな異常が出るわけでもないためか、お医者さんは未だに病名を断定しにくいようです。 心と体の両面を、行政にも相談しましたが(電話や対面で医療相談が出来るもの)、とても面倒くさそうで、適当な返答をされるだけでした。 検査で明らかな異常も出ないため、周囲にも理解されず、ただ怠けていると思われているようです。 (動きたいときに動ける方から見れば、そう思えても当然かと思いますが、やはりショックです…) 何をしても改善されないため、この病気が治るのか以前から疑問に思い、何度か医師に聞きましたが、あまり相手にされませんでした。 しかし先日改めて聞くと、 「こちらも困ってるんですよ」「あなたはもう治らない」「一生病院に通って薬を飲むしかない」 とのことでした。 覚悟はしていましたが、この状態が自然死するまで続くとわかると、今すぐ終わりを選びたいと、更に強く思います。 仕事も出来ず、話し相手もおらず、1日中 家の中で孤独に横になる生活が何十年も続くのならば、今すぐ死を選びたいです。 誰かに殺されるのでも構いません。 日本にも安楽死の制度があれば良かった。
駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。
生きるのがつらくて、阿弥陀様になんとか救って頂きたくてお縋りしています。 でも阿弥陀様が約束された救済は死後の救済、今生ではありません。なので阿弥陀様を拝んで顔を見上げる時に「死んだ後と言わずに今救われたい…」と思ってしまいます。 阿弥陀様に良くなりますようにと祈っても現世利益はないと言いますし、私はどんな気持ちで阿弥陀様と向き合えばいいのでしょうか? とても恥ずかしいし苦しいし、阿弥陀様に申し訳なくてご本尊の前にいられません。私は地獄に落ちるのでしょうか。
前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?
先日はお世話になりました。すごく参考になりました。 新たな質問をさせていただきます。 仏教には、現在の一瞬を大切に生きることが大切であるというような 釈尊の教えがあります。私はとても大切なことであると思います。 でも私はどうしても、過去の失敗や過ちと未来への 不安にとらわれてしまいます。心身ともに疲れてしまいます。 今、現在をしっかりと生きようと決心しても、過去や未来へのとらわれから 自由になれず、今をおろそかにしてしまいます。 そこで、過去にも未来にも余分に精神を浪費することなく、現在の一瞬だけを強く生きるコツがございましたら、ぜひアドバイスをお願いいたします。
はじめまして。とうこといいます。 お寺で参拝するととても落ち着くので、よく行っています。 知識も得ようと本を読んだりしたのですが、そこには「様々な仏は架空の存在である」と書かれていました。 お釈迦様はおられましたが、阿弥陀さまとか薬師如来さまはフィクションだと初めて知りました。 私は深く考えたことがなく、てっきり実在されているのだと思っていたのでその時はショックを受けました。 お坊さんはこのことを知っておられるのだと思いますが、どう受け止められましたか? 仏はいないと思いながら学問としてされているのか、存在されて人々を助けて下さると信じているのか、お坊さんのとらえ方を教えて下さい。
つい先程、ペットの金魚が亡くなりました。今日のお祭りで金魚すくいで出逢った子で、 本当に可愛い金魚でした。雑種でオレンジに黒のまだら模様で片方の顔が黒くて眼帯をはめてるような見たことのない金魚でした。 琉金の特徴が一番強く、少し丸くて三尾の可愛い金魚。一週間看病しましたがお昼前に亡くなってしまいました。 昨日まで、元気だったのに。絶対に病気を治すと決めたのに。最初は片方のヒレが動くなり、別のバケツに移し、塩浴させてました。ヒレが白いのと尻尾が切れているのに気がつき、薬を飼いましたが改善しませんでした。結局、水カビ病と尾ぐされ病という病気でした。薬浴中に無くなってしまうことは、あるそうです。早く治してあげたくて、病気の治りが悪いから、私は今回、薬の種類を切り替えでしまいました。小さな金魚にとって薬を切り替えることは死ぬリスクも伴うことは知っていましたが、最初の薬でなかなか治らないのと早く治してあげたくて、薬で治療しているのに後から後から、病気が出てくるので、やもうえず薬を変えました。まさか死ぬなんて。昨日まで元気でした。今日のお昼前に電池が切れるみたいに、ブルッと動いて無くなってしまいました。まさか、死ぬなんて。最初はヒレが動かないだけだったのに。すぐに塩浴したのに。いつもこれで元気になるのに何でって思いました。たったの7ヶ月でしたけど、友達でした。植木の根元に埋めてお線香を上げました。いつまでも泣いてちゃ浮かばれないですよね。ありがとう!って言わないとダメですよね?本当にかわいくて支えで、私がボロボロだったとき、支えになってくれました。ありがとう!っていったあとどうしても、涙が溢れてくるのですが。。。
一歳の娘を仕事復帰を理由に4月から保育園に預けます。 生活のため働かなくてはいけないので、頭では子どもを保育園に預けなければいけないとわかっていますし、現実そうしなくてはいけないのですが、どうしても気持ちがもやもやしてしまいます。 一歳になったばかりの娘はまだ言葉は話せませんが、全身で母である私を必要としてくれます。人見知りもあり、私にベッタリです。 こんなに私を必要としてくれている娘を親の都合で一日の大半母親である私といれなくさせるのは可哀想なんじゃないか。 離れたくないと泣く小さな娘を保育園においていくことにメリットはあるんだろうか。 保育園の先生方はプロだと思いますが、当然のことながら娘につきっきりではありません。私と一緒にいれば、それなりにずっと娘をみてあげれるし、きちんと娘のすることに声かけて反応してあげたりもできますが、保育園に入れば集団の中の一人になるので相手にされないこともあるでしょう。そうしたことで娘に寂しい思いをさせるのでは、と不安です。 預けることへの罪悪感や、小さいうちから保育園に預けることで娘にさみしい思いをさせてしまうのではないかという不安がつきまとい、どうしても娘を保育園に預けて仕事へ行くことを悪いことのように思ってしまいます。 日に日に成長していく娘の姿をずっとみていられないことへの淋しさもあります。 保育園に預けて娘に泣かれることを思うと不安で辛いです。保育園入園が近づくにつれ、娘に対してごめんね、という気持ちが増し胸がしめつけられます。 こんな私が心から笑顔で娘を保育園に送り出せるよう、保育園にいかせることに前向きな気持ちになれるような助言をいただければ嬉しいです。