夫婦関係に悩み、初めてのお寺に観音様の参拝に伺いました。事前にHPを拝見し、聖天様と浴油祈祷の記載もありましたが、何のことか私には理解できない事だと思い、観音様の参拝にと伺いました。 参拝後、本堂横の授与所で、あるお守りに惹かれましたが、お寺の方に"観音様ではなく聖天様ですが宜しいですか?"と2度念をおされ、意味はわからないまま"一旦考えさせて下さい"とその場を離れました。 そして聖天様について携帯で調べると、安易に拝むべきでない、信仰するなら一生、辞めると怖い等の情報を目にしました。 その後別の授与所で、お寺の方に"本堂で念を押された意味は何なのか、聖天様が怖い神様だと目にしたこと、私は一生信仰はできないだろうし、お守りを一度も粗末なく扱えると言い切れないので私が授かって良いのか迷っていること"を尋ねました。すると"確かに聖天様は神様なので私達の様な者に対して何をしてるんだ!と気づかせるイタズラはされます。でも一般の方にはないと思いますし、イタズラもせいぜい転ぶ程度です(私が心配する様な一生を左右するような罰はない)。一生信仰できなくても、綺麗に終われば良いです。願いが叶ったらお供えでも浄財でも構わないのでお持ちし、心を込めて感謝すれば大丈夫です。惹かれたということは心が呼ばれているということなのでお求めになれば如何ですか"と言われ、悩んだ挙げ句、"予め聖天様に、もし失礼があったら申し訳ないのですがお守りに惹かれ授からせてくださいとお参りしても良いですか"と聞くと、"良い事だと思います"と言って頂き、何の作法も知らずただ聖天様に手を合わせ、家庭の状況・観音様の参拝に伺ったがお守りに惹かれ授かりたいこと、もし粗相があったら申し訳ありませんと伝えお守りと共に帰宅しました。 その際はとても心強い安心した温かい気持ちになったのですが、その後も聖天様について調べてしまい、怖い気持ちが肥大し、そう思う事自体失礼で申し訳ない様な、でも分不相応な事に手を出してしまったような恐れを抱き質問致しました(以前の問答を読んだ上でまだ恐れてしまう自分がいます)。 お寺の方のお話をただ信じ、聖天様を触らぬ神に祟りなしと恐れず、他の仏様やお守りと同じ様に考えて良いのでしょうか?そもそも一生信仰とは何を指すのでしょうか?聖天様にお願いをしたら別の神様に同じお願いをしてはいけないのも本当ですか?
初めて質問させていただきます。 何かの番組で「若くして亡くなる人は、人間として完成されたから、神様から早く呼んでもらった証拠」という話しを聞いたことがあるのですが、反して長生きされている方も尊敬されたり、「ご長寿の秘訣は?」などとインタビューされたりしていますが、実際のところ、人間にとってどちらが本当に幸せなのでしょうか。
福袋が定番だと思ってたけど、福箱が出てました。ちゃんと中身を確認してから行動しないといけないので今年は買いませんでした。我慢しました。大人になった気がします。大人ってなんだろって思います。いつも適切なアドバイスありがとうございます。
こんにちは 私は元よりネガティブな人間であり、ちょっと悪いことが続くとすぐに「きっとこの先も悪いことが続くのだろう」と考えてしまいます。 こんな苦しい生き方はもう辞めたいので色々と自分で前向きになる方法を調べていたのですが、どうやら「自分に起こった良い・悪い・全てのことを前向きに捉える」という方法を多く見かけました。 しかし、これが、この考え方が私にはしっくり出来ませんでした。 それって例えば「試験に落ちた帰り道にスリにカバンを強奪されて、その衝撃で尻もちをついて怪我をした。」ということでも「よかった〜不合格で、カバンも盗られて怪我もした」と思う事と同じでしょう。 こんなお気楽に考えられませんし、まず落ち込んで気を病みます。絶対に前向きには考えられないのです。 この様に人生で起こる出来事を全部良い様に、前向きに捉えることなんて不可能であると私は考えるのです。 それとも、私がもう前向きに生きることに向いてないだけなのでしょうか?
結婚してもうすぐ1年になります。 昨年子供も産まれ、 自分でも信じられないくらい幸せです。 しかし、主人に出会う前まで、 恋人から何度も浮気されたり、自分が浮気相手になっていたり、浮気や不倫をしている人が周りに多かったりした為か、 正直私は、浮気しない人なんていない、 一生その人だけを愛することなんて無理と思っていました。 主人は真面目で優しく、正直者です。 浮気も絶対にしないと言います。 不安ですぐヤキモチを妬く私の性格を分かってくれているので、その度に大丈夫だよと言って安心させてくれます。 しかし主人の職場の女の人の事が気になったり、飲み会の話が出るたびに不安な顔をしてしまいます。 人の気持ちは変わるし、 それを止めることもできないというのが どうしても頭から離れず、 嫌われたらどうしよう、 他に好きな人ができたらどうしようと、 不安になってしまいます。 今まで出会った人がこうだったから、ではなく これからずっと過ごしていく主人を見たいです。
こんばんは。 以前よりこちらのサイトにお世話になっておりますゆうでございます。 さて、在家出家はずっと思っていたこともあり、そして長年悩み続けた悪縁とも縁がきれ、最小限の浮世のつながりとなりました。今もっとも心は自分が出家するタイミングなのではないかと思っています。 いっそ本当であれば何もかも捨てて、出家をしたいとは思いますが、まだ子供が幼いために、在家での出家を望んでおります。 私の実家の菩提寺は臨済宗ですが、なぜか小さなころからご縁があるのが真言宗です。臨済宗、真言宗、どちらも素晴らしい宗派と思っております。 真言宗とのご縁をとるか、臨済宗の教えをとるか悩んでおります。 この時点で悩んでいる私などが在家出家する資格があるのかとも思いますが、どちらかを選ぶ手段と在家出家の仕方など教えてください。
何もかもやる気が出ず前へと進む勇気が持てません。何をモチベーションにすれば良いのでしょうか? 社会人6年目になります。会社で評価もさらず社内の取りまとめ役などに尽力しているのにも関わらず感謝もされず何のために頑張っているのだろうと思います。 自分より遅く入社した方が昇進し自分は平社員のまま。嫉妬と憎しみが込み上げます。 将来特にこれがしたいといった明確な希望もなく前へ進む事ができません。 転職した先も同じなのではと考えたりこのまま歳とって死んでいくのかなと考えたり。 自分から好かれに行くことも出来ず、会社でも空気のような存在になっています。 どのようにして過ごすことが良いのでしょうか? よろしくお願いします。
前回、元彼への執着について相談をさせていただきました。悲しみや執着がまだある為、どう乗り越えていけばいいのか悩んでいます。こんな相談で申し訳ありませんが、お読みいだだけたら嬉しいのです。 思い出すたびに、心の中で彼とお母様の幸せを祈ったり感謝の気持ちを伝えてから、頭を切り替えるようにしていますが、自分自身無理をしているのか時々泣いてしまいます。泣いている時は、本当に悲しくて悲しくて仕方がないのですが色々な気持ちが入り混じり何が悲しいのかも分からないままです。同時に何に執着してるのかもわからなくなってきました。最近では乗り越える事が出来るのかな、と心配です。
3年位前に、お坊様がTVで『とらわれない心が大事』と話されてるのを観てから、ずっと気になっていることがあります。 『とらわれない心』というのは、自分の欲や我を手放して、人と争わずおだやかに生きること、ではないかと私なりに受け止めました。 でもそれで、『私はこうしたい、こうなりたい』という目標があって、人と意見がちがったら、『私はこうしたい』と言うのは『とらわれている』のでしょうか? 意見がちがうときは自分か相手が譲るか、全く別の案を見つけるかだと思うのですが、いつも自分が譲るスタンスなら私はその人のいいなりになってしまいそうです。 自分の欲というのは望みであり、自分のあかしでもあると思います。 その欲=望みがなるべく汚いものではなく、きれいなものであるように願っていますが、他人から見たら『我』でしかないのでしょうか? とらわれない=思い通りになるようコントロールしない、ということだとしたら、将来に期待はしないでただのぬけがらになってしまわないか疑問です。 私も未熟ながら、人にやさしくありたいと願っています。相手にとって安らげる存在になりたいです。自分と相手をともに大切にして、なおかつ『とらわれない』境地って私にはまだわかりません。 どうか、私に道を説いてくださいますよう、お願い申し上げます。
徳の高いお坊様方に質問です! 地涌の菩薩 についてできるだけ詳しく、解りやすく説法して下さい。 自分で調べたのですが、メチャ解りにくかったです…… ですので、仏教に余り詳しくない衆生の私に教えて下さい!!! 地涌の菩薩様はお釈迦様や阿弥陀様みたいに元人間だったのでしょうか? 観音様は元人間で生まれ変わるたびに善行を積み、清められて菩薩になった… と、何かで聞きましたし、阿弥陀様も元人間で法蔵菩薩と名のり生まれ変わるたびに修行し、功徳を積んで如来になり極楽浄土を築いた… と、書籍で読みました… この流れから行くと、地涌の菩薩様も元人間だったのでしょうか? 物凄く、興味がありますので、教えて下さい!!!
タイトルの通り、自分がいつか死ぬことを考えると恐ろしくて、パニック状態になってしまいます。朝起きた瞬間から寝るときまで、常に「死」の恐ろしさ、得体の知れなさが頭から離れず、最近は趣味も楽しいと思えません。 いつか死ぬからこそ今を一生懸命生きることが大切だとか、いまのわたしにはきれいごとにしか思えないのです。 べつに、近しい人の死がトラウマになってるとか、そういう事実もありません。ただ、死が途方もなく恐ろしいことに思えて仕方ないのです。 これほどまでに重度の死の恐怖を克服すること、あるいは克服せずとも上手く折り合いをつけて生きていくことは可能なのですか? また、仏教に帰依することは、死の恐怖を克服する手助けになりますか? お忙しいところ恐縮ですが、ほんとうに、どなたか助けてください。このままでは発狂しそうです。
前に授業で仏教について習った時、仏教の最終目的は解脱して輪廻転生から抜け出し、あらゆる苦しみから解き放たれて「無」になること、と習い、驚きました。私は自分の意識が無になることが1番怖いと思います。お坊さんは死ぬのが怖くないのだろうか?と不思議に思いました。どうなんでしょうか?
周りの幸せそうで充実してる人生を送ってる人達を見ると、自分が情けなくなり、ふと消えたくなります。 また、他人の幸福を羨むだけで何もしないくせに、地元の友達や親には見栄を張って楽しい大学生活を送っていると見せかける自分が惨めで、嫌気がさします。 漠然とした気持ちで入った大学ではやりたい事が見つかりません。こんな事ではお金を出したり、奨学金の保証人になってくれたりした親や親戚に申し訳が付きません。 僕は生きてる意味があるのでしょうか?
一つの悩みが解決したら次の悩みが生まれます。一つの幸福を覚えたら次の幸福を求めます。どっちの方向性も永遠と続きます。過去も未来も同じであって全体のスパイラルが見渡せる所へ大衆を導ければ一気に全員が楽になります。しかし必然的に個々でその気付きに達しないと無理とも思ってます。いっそ自分の想念を強めて、見えてる現実世界を追従確定させる事ができれば、大勢の人が精神的に楽になるのかなと思ってます。「他人」の向こうに「自分」がいる事実だけでも、他人の精神に植え付ける事は悔い改めるべき考え方なんでしょうか? この文章含め、全ての意味や価値、疑念は個々の中に存在しそれが全てです。お坊さん風に言うなれば、 「無」とは頭の中でさえ唱えず、魂なる精神が先行したその瞬間です。 「煩悩」は無くすのでなく、その先にある自身の姿を捉え全ては手中にあると知れ わたしの幸福は他人の向こうにあります。逆も然りです。心構えの相談です。 宜しくお願い致します。
私が寝坊したせいで、主人を遅刻させてしまいました。結婚してからなかったぶん本当に申し訳なくて、、、、。社会的にもう終わったとラインが来て更におちこんでいます。私が悪いのですが取り戻すこともできないわけで無力を感じます。
苦しみが抜けた状態とは、どのような状態ですか?自分はまだ苦しんでいるのかいないのか、よく分かりません。
何度もお世話になり申し訳ありません。 私は一か月前、取り返しのつかない事をしてしまいました。 未だに、あの時こうしていればと悔やんで、もうどうしようもない事を考え続け、堂々巡りで先が見えません。 自分のせいで命を失ったと思うと怖くてたまりません。 飼い主に守ってもらえなかった愛犬を思うと、可哀想でなりません。 自傷行為を繰り返し、自分で自分を責め続け、心身ともにボロボロです。 また、何とか仕事には行っていますが無気力で家庭のことが手につきません。家族に心配と迷惑もかけています。 苦しくて病院にかかりたい気持ちもありますが、自分が悪いのに、愛犬を理由にかかりたくない気持ちもあります。 心理学では罪悪感を手放さないと幸せを掴めないそうです。 ご飯を食べる事も、クーラーをかける事も水を飲む事も、愛犬に申し訳ないと苦しくなります。 でも楽になりたいです。幸せは望みませんが、この苦しみから抜け出したいです。許してほしいです。許してくれないのはきっと私自身です。 あんなに愛しい愛犬が今では死のイメージばかりです。それがとても申し訳 ないです。 どうしたら気持ちの切り替えが出来ますか? 罪悪感を捨てていいですか?許されてもいいと思いますか? こう考えるには甘えですか?喝を入れて下さい。
私は数年前、とある施設の女性トイレに私自身の携帯電話を置き、盗聴するという愚かな行動をしました。 警察に通報されたわけではなく、相手の方が気づいていたのか、気づいていないのかはわかりません。 お相手の方は、全くの他人であり現在何をしているのか知ることはできません、その時に私自身、法によって裁かれ直接相手の方に謝罪ができていればと悔やむ毎日です。 ネットなどで、盗聴や盗撮などに被害に遭われた方の事を見たり、聞いたりすると心から傷をつかれた方が沢山目に入ってきます。 私もお相手の方の心、そしてその周りにいる方々の心に大きな傷をつけてしまったと思っています。 お相手の方は今、生きて幸せになっているのだろうか、それとも私の愚かな行動で、心に傷をおって、自ら命を絶ってしまったのではないかと思ってはいけないことを思ってしまっています。 ならば、私も自らの命で、償うべきではないのかと思い、日々葛藤する毎日です。 私は現在、その方が幸せに生きていると願い祈り、そして謝罪をしながら日々生きて おります。 そして自分勝手ながら、人の心を助けたいという夢も見つかりました。でも、誰かを傷つけた私なんかに人を助ける夢などという言葉があっては良いのかともおもっております。 もうお会いすることのできない方に、幸せに生きていてほしいという願いを届けるためには、私はどのような心を持ち、どう行動していけばいいのか教えていただけないでしょうか。
アマゾンの森林火災が深刻な領域に達していると聞きました。遠い地の出来事ではありますが、彼の地を愛する方々の心中を想うと痛ましい限りです。 現在も、狩猟や採集によって生計を立てている人達が数多くアマゾンで暮らしているそうですが、皆さん私がぬくぬくと育ってきた環境よりも遥かに苛酷な生活を送っているようです。動物や他民族による襲撃などの脅威は私には想像もつきません。 仏教には不殺生戒という決まりがあるそうですね。文字のまま読むと、私の目にはなんとなく「誰も殺しちゃ駄目!」という意味のように見えました。 不殺生戒とはどのような決まりなのでしょうか。 もし、本当に「殺生、ダメ、絶対」という決まりなのであれば世界中の狩猟民族が困り果てると思います。(まあ仏教には異なる考えを攻撃的に批判する印象も躍起となって布教する印象もありませんが…不殺生戒がどのようなものかとは関係なく的外れな考えかもしれないとは内心思っています。)
私は全てを失いました。夢も希望も愛するものも全て失いました。 一瞬楽しいことがあってもまたすぐに虚無が私を取り囲みます。 満たされるってどういうことですか? 誰が教えてくれるんですか? 何で満たせばいいんですか? 何が私を満たしてくれるんですか? 美しいものを全て失って、嫉妬や欲ばかり詰まったこの命。捨ててしまっても良いと思いませんか? 私の人生は五年前にすでに終わってしまった。それからの人生は意味の無い後日談のようなものです。終わらせるべきです。こんな無意味なことは。 それともこの救いようのない命を満たせる圧倒的な福音がこの世にあるのでしょうか?