何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。
人間は殺生罪などを犯しているので死後は必ず地獄だと聞きました。 死後が必ず地獄であることを釈迦は言ってますか? 言っている場合、どの経典に書いていますか?
夫は精神疾患を抱えています。 頭では「この人は病気になっちゃったんだから、仕方ないんだ。私が受け入れないと」と思っています。 でも、「一生、楽しく笑って暮らそう」「子どもたちとどこか遊びに行こう」などなどの、夫が元気だった頃の言葉が心に引っかかります。 うそつき。私、泣いてばかりだ。あなたは子どもたちと、どこにも行かないじゃないか。ドロドロした気持ちがわいてきます。 夫は自立支援の申請を病院から勧められましたが、プライドが許さないらしく、申請していません。生活費と治療費で、貯金が減っていく一方です。自立支援が通れば、治療費がかなり減るのに。 今日は、このまま夫が事故にあってくれないか、と思ってしまいました。病気が治らないなら、私が大好きだった夫のまま、パッといなくなって欲しいと。 でも、現実も、私は分かっているつもりです。 子どもたちに、夫のことは回せません。私と義父母の代で、夫をなんとか寛解させなくては。 夫は「別居してくれないか。見張られるのはイヤだ。一人暮らしがしたい」と言いました。 一人暮らしなんかされたら服薬管理出来ないです。第一、夫は無職なのに生活費はどこから? 誰も見張ってません。仕事と子どもたちのことで、そんな余裕ありません。 病気だと分かっていますが、好き放題言う夫にイライラします。 でも、それをグッとこらえて、毎日ご飯を作ってます。家族の時間を増やせば治りも良いと聞き、一緒に食事をしています。 でも、本当は憎いし、悔しいのです。 この気持ちを、どこにどうぶつけていいのか。どうやって鎮めればいいのでしょう?
先月、母が他界しました。 生前とても苦労して病気になり辛いまま逝ってしまいました。 魂となった母は成仏するまでの49日は審判を受けているとお葬儀の方にお聞きしました。 ネットで調べてみるととても怖い事ばかりで拷問のような仕打ちばかり書いてありました。 魂になってからも苦労してるんでしょうか?今どういう状態にあるんでしょうか私の近くに母はいるんでしょうか? よろしくお願いします。
こんにちは。前回も地獄が怖いという内容で相談させていただいたものです。さて、前回の後、浄土真宗の南無阿弥陀仏を念仏して、極楽浄土に行くしかないと思いしばらくは安心していました。しかし、髪の毛の先の疑いもいけないや、親鸞さんは唯除五逆…というのをこれらを反省させ2度とさせない為とありましたが、それでも不安です。さらに、殺生や、強盗、邪淫(強姦歴などは無いです)を犯しているので、殺生だけでも、1兆年は地獄行きなど…どうか阿弥陀仏を信じる方法を教えていただけないでしょうか?他力信心などと言われていますが、それでも、まだ私には疑蓋が残っていると思います。こんな煩悩まみれの凡夫でもどうか南無阿弥陀仏の救いを受けられるのでしょうか?または、その他で苦しみから救われる方法はあるのですか?回答お待ちしております。
半年前に息子が自死しました 彼の魂はどこにいるのでしょうか。苦しんでいないのでしょうか 生前苦しみ、もうどうしていいか分からず、死を選択するしかなかった息子の魂は苦しみから解放されているのでしょうか? 一昨日、夜中にコンコンコンというノックのような音が聞こえて、5分おきに5回くらい、玄関とか彼の部屋を見に行ったりしたのですが何にもなくて、気になっていたのですが、昨日の夜中に金縛りに合いました 体が動かなくて、声も出なくて、ベットから引き摺り落とされそうになるのを踏ん張って耐えた気がします。夢かも? もしかして、息子は悪い霊にいじめられて苦しんで助けを求めているのでは?とか成仏できずに彷徨って苦しんでいるのでは?と心配になりました 現世でも十分苦しんだのにこれ以上苦しんでほしくないです。
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
お坊さんの煩悩とは何ですか? 煩悩が生じた時にそれをどう対処されますか? 失礼過ぎてすみません。
地獄とはいったいどんな事をされるところなのでしょうか? 八大地獄というのを聞き、この八大地獄とはどんなところなのか気になります 悪行はどんなちいさなことでも悪になって地獄なのでしょうか?
先月の終わり妹がうつ病(仕事の悩みなど)で両親の目の前で実家のマンション9階から飛び降り自殺しました。即死でした。 私とは4、5年前から些細な喧嘩で連絡もとっていませんでした。その時からうつ気味だったようです。 姉もいます。三姉妹でとても仲良しでした。悲しくて涙が止まりません。 先日初七日の時は妹がしきりに(私の意識の中で)私の名前を呼んでいるのが聞こえました。亡くなった頃の時間になるとそれはおさまりました。 翌日はすぐそばで妹が歩いている気配がします。余りにも不憫で私の思い込み からきているのでしょうか。どうしたら良いでしょうか⁉何か伝えたいことがあるのでしょうか。
いつも心の支えにさせてもらっております。 このサイトに来て仏教という物に関心を持ったのですが、私はお寺に行くという事が滅多になく、どういうところなのかピンと来ません。 神社とか願掛けによく行っていたのですが、お寺は大晦日くらいです。 私の家の宗派は真言宗のようですが、宗派の違うお寺でも皆さん気にせず参ったりしてるようで、ほとんど観光って感じですよね。 日本人はあまり特定の宗派に信仰心が無いのは知っていますし、信仰心が文化レベルまで落ちついているとか言われてますが、寺に観光に行けば願掛けしたり、 健康になると煙を浴びたり、神社とあまり変わらないような、 ふと思ったのですが、みんな何しにお寺に行ってるのかと、 私は神仏に対する知識はほとんど無いけれど、なんとなくのイメージとして 本来寺院は煩悩を無くし、心を正すところと思っているのですが、 願掛けなどは煩悩で、それと真逆の事なのでは? 大抵の人がお寺に参拝するときはどういう心構えなのか気になりました。
仏教でいう六道とはなんですか? 教えてください。
享年29歳で私の子供が事故で亡くなりました。あるお人に聞いたところその子の運命は生まれる前から決まっていたとの事、子供は親を選べないと言いますが、そうじゃなくそれも生まれる前からどの家に生まれるかも決まっているとの事でした。私の家に生まれて不幸だったのか、子供の今までの人生を考えるといたたまれない気持ちで、まだ死を受け入れきれなくてどうしようもないです。もうすぐ四十九日です。何も手に付かず悲しい毎日を送ってます。教えて下さい。
高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。 高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。 医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。
般若心経に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とありますが、 生じることもなく、滅することもなく、汚くもきれいなものでもない、減りも増えもしないものとは、具体的に何のことを言っているのですか? 教えて下さい。宜しくお願いいたします。
今は私自身が1人暮らしのため少し離れていますが、20年以上ずっと一緒に同居していた祖母が間もなくこの世を去るときが近づいています。 癌の末期ですが、本人は知らずあと2、3日と医者から言われましたがもぅその日にちは過ぎています。大好きだったおじいちゃんが、そろそろ呼びに来たと思っていますが、分かっていても落ち着かず仕事にも集中できません。 何もしてやることが出来ず待つだけです。その毎日の気持ちの持って行き方に悩んでいます。
悟りとは 実はすべて幻だった!ときづくことですよね? 悟りすら単なる概念ですよね?
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?