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hasunoha 問答検索結果 : 「 死後 」
検索結果: 1332件

人を殺して自殺しようと考えています

『発達障害』と診断され、苦しんでいた頃に出逢った人がいます。 自分の障害を理解してくれ、仕事は『発達障害を持っている子供達を教える元教師の塾講師』です。 独りぼっちの生活に寂しがり屋の自分は、その人の言葉を信じました。 『家族になろう』 しかし、それは自分を無給で働かせ、奴隷にするためでした。 自分はその人のために貯蓄を渡し、名義を貸して借金をし、全てを信じ引っ越しまでしました。 しかし、全て嘘だったのです。 色々な人達の力を借りて、その人から逃げ出し、現在また別の所に引っ越しました。 現在は労基と弁護士がついていますが、ついに債券会社(借金が自分名義のため)から自分が告訴されてしまいました。 精神的にツラく、仕事は見つかったものの月に約8万程しか稼ぐことが出来ない仕事で(障害者用の作業所)、収入より支出が多い状態になっております。 弁護士に言ったそうです。 『結婚する気は無かった』 自分はその人を殺して、自殺しようと考えています。 現在精神的に疲れていて、告訴までされ、生きていることに疲れてしまいました。 しかし、自分だけが死ぬことで、自分を騙した人が喜ぶのは許せないのです。 ですから、その人を殺して自殺しようと考えています。 自分は狂っているのでしょうか? 自分の考えはオカシイのでしょうか? 自分の誕生日(今月)に実行しようと考えています。 今まで自分の誕生日に嬉しかったことはありませんでした。 最期の誕生日にその人を滅茶苦茶にして、自分自身も居なくなろうと考えています。 『被疑者死亡』で裁判になっても結審するでしょうし…。 証拠がなく、詐欺では訴えられないことも弁護士から言われております。 法で裁けないなら自分が裁きたいです。 こんな考えをする自分は普通ではないのでしょうか? 逃げ出したのは冬ですが、今でもその人が乗っている車種を見たり同じ苗字を聞くだけで、ツラさ、恐怖、憎しみ、悲しみ等色々な感情が湧き上がってくる状態です。 自分では普通だと思っているのですが…、御意見をお伺いしたいと思います。 お忙しい中くだらない事で申し訳ありませんが、よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 22
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2023/08/03

天部の神様と死について

こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

感受性が鋭すぎる人

私の兄と母の体験談なのですが、母が子供の頃塾の帰りにある場所の前を自転車で通った時、急に自転車が重たくなり、振り替えってみると後ろの荷台に霊が乗っており、顔は見なかったけど普通のおばあさんが乗っていたと言っていました。驚いた母は、急いで必死に自転車をこぎました。しかし、ある家の前で急におばあさんは居なくなって自転車も軽くなったそうです。母は、二度とその道は通りませんでした。 また、母が小学生の学校行事で、お寺に泊まった時、夜部屋に居る母を含む半数が、日本髪を結った数百年は前の人で在ろう霊が、部屋をスーっと横切っているのを見たそうです。金縛りになった子も居たそうです。そこの住職もお経を上げているが、なかなか成仏をして頂けないって言っていたそうです。 兄は、幼少の時に、自宅で落武者の霊を見ました。髪は、長く下ろしてあってお腹から上だけがある姿だったそうです。兄は母に「お侍さんがいる」と言いましたが、その時、大人には見えなかったそうです。自宅があるところは山を切り開いて住宅街が立てられた所だそうです。 また兄なんですが、自宅から十分県内にあるお家でお葬式が上げられていたある日、小学生の兄がそのお家の前に白い着物を着たおばあさんの霊がたたずんでいるのを見たそうです。 またまた兄ですが、家から20分位のところにある神社があります。そこは、山の中にあり、私と兄と母でカブトムシを探しに行きました。 そこで、兄が急に「白い着物を着た巫女さんみたいな女の人が見えるけど大丈夫?」って聞いて来ました。私達は、直ぐにその場を離れました。 兄も母も中学生以降からは見えなくなったそうです。 私も、霊は見えませんが、感受性がかなり強く人や動物の気持ちに敏感で人なら、離れている人の感情や話声まで必要以上にキャッチしてしまいます。その為、見たくないものや聞きたくないものを感じてしまう人の気持ちも分かります。 よく霊は、心の中でその人を思う気持ちが強いから見えた幻想のようなものと言いますが、何故普通の心理状態で知らない人の霊まで見えるのでしょうか? この様に霊が、日常で普通に見えてしまう人は、霊は、サンタクロースのようなものと言われたらどうしたらいいんでしょうか? 見えた者の存在をそのまま認めるのは、おかしいんでしょうか?

有り難し有り難し 8
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職場で隠蔽してしまった後悔

職場で大きなミスを隠してしまい、先輩が不機嫌になったらどうしよう、これなら大丈夫なはずだ、とパニックになり報告せず隠蔽してしまいました。たまたま何事も無かったですが、場合によっては人の生命に関わることでした。 これまで意図せず人を傷つけたり、間違ったり嘘をついたりも沢山してきましたが、職業人して、人としてこんな酷い行いをしてしまったことをただただ後悔しています。日常で何かが壊れたり、悪いことがあると私のせいだと思います。 やっぱり職場に正直に報告しよう、この仕事をする資格はないと何度も考えましたが、安定した収入を失い結婚したばかりの夫に迷惑がかかることに万が一なったら、と思うとできませんでした。 他の家族にとって大切な人を預かる立場で、幸せにしてあげたい大切な家族(夫)が出来たのに最低なことをしました。 夫に打ち明ければ、「過ぎたことは仕方ない」と言ってくれるでしょうが、幼い時から辛い思いをしてきたのに、自分が楽になる為に打ち明けるのは申し訳なく もっと最低な人間はいる、親が私に酷いことを言ったからこんな人間になったんだと保身して毎日過ごしています。 夫は私との子どもを望んでくれていますが、こんな人間は親になっていいのでしょうか。 誰にも打ち明けなければ、死んだ後まで苦しむのでしょうか。

有り難し有り難し 11
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2022/12/19

何故死を選んではいけないのでしょうか?

タイトル通りですが、なぜ死を選んではいけないのでしょうか? 生きることが尊いこととされ、生きる権利は日本国憲法でも保障されております。 ですが、同じ生命にかかわることで死を選ぶ権利、つまり死ぬ権利はどこにも保障されていないのです。 これはとても歪なことのように感じます。 私自身、周りの人が幸せと一般的に思うようなことを幸せと感じることがほとんど無いということに、漸く気づけました。 つまり、他人と行動を共にして社会生活をするということそのものが大きなストレスでしかないのです。 それを根本に踏まえた結婚だとか出世だとか友人づきあいだとか、正直に言うと全てが無駄なことにしか思えません。 じゃあなぜ未だにそういった無駄なことを続けているかというと、この国では、というよりもいま世界的には死ぬ権利が認められていないからです。 私の望みは一切の他人との縁を断ち、孤独に死ぬことです。 自分のことで葬儀だのなんだのと煩わしいことをしてほしくもないし、記憶に残してほしくもありません。 ですが困ったことに現在の社会ではそれを実現することが非常に困難、というよりも不可能であるように思います。 人間は自己実現と自身の望みの完遂のために生きているのだと私は思います。 この考え方はきっと何があっても変わらないでしょう。 私の望みは上記のものですが、然してそれはどうやってもかないません。 どうやっても叶わない望みを持ち続けるのならば、もはやそれは耐えようのない苦痛としてのしかかり続けるだけです。 ならばさっさと命を絶ってしまった方が、幸福の総量は多いのではないでしょうか? 今でも楽しいことが皆無かと言われれば、そんなことはありません。 趣味である読書や、いくつかの行いは確かに私にとってプラスになります。 ですが、そのプラスが精々週に1~3だとすると、生きているだけで他人とかかわる以上毎日マイナス5ぐらいはされてしまっているのです。 これでは話になりません、ずっと損をしています。 長くなってしまいましたが、どうしてこのような意味のない生活を送り続けなければいけないのか、終わらせてはいけないのか。 このことについてよろしければ解答お願いいたします。

有り難し有り難し 13
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命に対するジレンマ、疑問

看護師をしています。 私は病院で働く中で多くの患者様を見てきました。軽症から重症まで。若い人から超高齢者まで。 その中で、看護師として働くことを諦めるような悩みを抱えました。 ご高齢の方や終末期の方は、死への恐怖というより現在ある痛みや苦しみ、排泄など恥ずかしい部分を他人に見られる羞恥心などから、もう楽にしてくれという方が多くいました。殺してくれとも。 命を救う側の私たちは、目の前の命を救うという責任があります。見捨てることはできません。 しかし、それでも何度も何度も楽になりたい、あちらの世界に生きたい、今自分の意思で生きているのではなく他者に生かされてるだけだと、涙ながらに、そして時には怒りながら訴えられました。 そんな方々を多くみる中で、私は看護師として生きることを諦めないようにお話をする機会もありました。 その中で私は、ここが生き地獄だと思っている人たちを救うことが本当に人のためになるのだろうかと疑問を持ちました。 本人の意思ではないのに、多くの管で繋がれ、ベッドに縛り付けられてまで命を守ることが本当に正しいのだろうかと疑問に思いはじめました。 私はこの疑問に対する自分の中での答えが出ず、看護師を一度完全に辞めました。このような疑問を持つことは、命を救う立場の者としてあってはならないと思ったからです。 世の中には尊厳死や安楽死などの言葉が存在します。尊厳死は、延命治療を無理にせず苦痛を取り除きながら、自然に死を迎えられるようにというものですが、日本の医療の現状としてなかなか行われていないのも事実です。苦痛は痛みだけではありませんし。安楽死などもっての外です。 以上の過程があった上で相談したいことは以下の通りです。 ・生命は大切にしようとよく言われるが、そもそもその考え方はどこから生まれたのでしょうか?生き地獄だったとしても必ず守らなければならないのでしょうか? ・安楽死などの考え方について、仏教の視点からはどのような考えがあるのでしょうか? ・命の大切さという根本的なところが分からなくなっている私は医療従事者として失格でしょうか? 長文で申し訳ありません。 お時間のある際にご回答いただけると幸いです。

有り難し有り難し 30
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死の恐怖から未来に希望が持てません

はじめまして。 初めてご相談させていただきます。 現在高校3年生の女子です。 私は最近死の恐怖に囚われています。 死んだ先に何があるのか、死んだら無になってしまうのか、私はいつ死ぬのか、いつか死んでしまうのに何で一生懸命に生きるのか、死んで大好きな家族とお別れしなくないなど考え出したら止まりません。普通の高校生というとこれからの明るい未来に想いを馳せ、夢を抱くような時期だと思うのですが、自分の最終的な未来が死だと思うと怖くて怖くてたまらないのです。自分の最終的な未来が死だと思うと何だか未来に希望が持てません。 私はなんのために生きるのでしょう? 実は半年前にも死がたまらなく怖かった時期があるのですが、何とかあまり考えないようにしてこの瞬間を生きることに一生懸命になることで忘れることが出来ていましたが、また考えるようになってしまいました。初めて死ぬ恐怖について考えたのは高校2年生なのですが、死ぬ恐怖のことなんて一切考えてなかった幼少期の無邪気な自分に戻りたいとも思います。そのほうが幸せなのかなと思います。でも一度考え始めると本当に自分でもどうしょうもないくらい止まらなくて、苦しいです。授業中とか友達とくだらない話で笑ってる時も考えてしまいます。周りの人たちは日々を楽しんでいるように見えるのにこんな自分が嫌になります。 今の私の気持ちが楽になる方法はあるのでしょうか? たいへん長く読みにくい文章になってしまい、申し訳ありません。私にとって人生の先輩であるお坊さんに何かしらのアドバイスやお言葉を頂けたらと思い、相談させていただいました。

有り難し有り難し 34
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死んだ猫の供養について仏教の考え方は違う?

ウチの家は西本願寺系なので、ペットの供養を頼みにそこそこ有名な寺に行きました。 するとどうでしょう、御坊が言うには「あなたの気持ちはわからないこともないですが、そもそも宗教というものは、人の幸せを願ってできたもの。ゆえに人の供養、御先祖様の供養はしても、動物は言葉も発せず、理解もできず、ただただ人が擬人化したものにすぎません。人は人、動物は動物とお考えて下さい。ゆえにその動物のための法要はしません。」と・・・ 以前猫の死んでここで相談した時、「必ずやそのこは仏様のもとにて心安らかに成仏なさいます。そしてこらからもあなたをお見守りなさってくださいます。 いずれあなたの生命が全うされた時にはあなたは仏様のもとにてそのこに必ず巡り会います。そして以前のように親しくなさることでしょう。 」と書かれておられ私も喜んで頼みに行ったのですが・・・ その時は口では言いませんでしたが、「御坊だって、木や金属でできた像を拝んでるじゃないか!思いが大切なんだよ、思いが!オマエさんにはガッカリした!」と思って帰りました。 ウチが火葬を頼んだ東本願寺系は予約をすれば猫の法要しますと書いてあるのですが、動物に対する供養は、同じ仏教の浄土系のお寺、お坊さんでも考え方は違うのですか?

有り難し有り難し 94
回答数回答 3
2023/03/25

実際に死とどう向き合っていますか?

以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。 たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。 問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。 私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。 そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。 それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。 前置きが長くなりましたが、 お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。 また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。 お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2