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hasunoha 問答検索結果 : 「 死後 」
検索結果: 1344件

位牌閉眼供養後の日々の供養について

こんにちは、日々の供養について相談させてください。 ここ数年のうちに相次いで両親を亡くしました。子供は私しかおらず私にも子供がいないため、将来を考えて両親とも永代供養です。 永代供養にともない仏壇は処分し、あとに亡くなった父の一周忌には父母の魂の入った位牌を閉眼供養しお焚き上げをしていただきました。(これも将来を考えて決めました) ここからが相談なのですが、魂の入った位牌がない今、日々の供養をどうしたらよいかということです。 今現在仏壇がないので、両親の写真にお線香とお茶を供えています。お線香は亡くなった人の食事と聞いたことがあるのですが、これからもお線香を炊いたほうが良いのでしょうか? 狭い賃貸のリビングにお線香立てとお鈴とろうそく立てが並んでいる眺めはなかなかシュールでずっと違和感を持ちながら今日まできました。 位牌ももうないのでいっそのことお線香をやめて、写真とお花を飾ることで日々の供養になったらよいなという思いがあります。 父も母も花や植木が好きでしたので華やかだと喜ぶかなという純粋な気持ちと、お線香立てを仕舞うことでリビングにも馴染みやすくなるし煙で喉がイガイガせずに済むなという不純な気持ちと、両方が入り混じってはいるのですが……。 (お線香は煙が少ないものにしていますがそれでも煙くて寒い日でも燃え終わるまで換気が必要です) お線香をやめるという考えは間違っているのでしょうか? どんなことでもかまいません、お言葉をいただけますと助かります。よろしくお願いします。

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2022/10/30

祈りの効果は自分の力か神仏や霊魂の力か

祈りの効果ってあると思いますか? あるとしたらそれは祈った人の力によるものか あるいはそれを見ていた神仏や霊魂のものか お聞きしたと思います。 参考 https://diamond.jp/articles/-/98488 これは病気の人に対して 患者を2つのグループに分けて、一方のグループだけに他の人から祈りを送ってもらい 祈ってもらったグループの方が病状が改善するという大学の研究結果があるという話です ネットで検索するとこの大学だけでなく 複数の大学でこんな研究結果が出たという話があります 霊能力があると詐称する霊能者が出てきてあることないことを言って人から金をまきあげる霊感商法の宣伝の類ではないようです ここで話は脱線しますが 医学や薬学の話をすると やはり患者を2つのグループに分けて、一方のグループだけに薬を投与して  薬の効果を見定める ランダム化比較試験 と言うものがあり効果があれば、 医学的なエビデンスが得られているとして日本では正式に認可され保険適用の治療が受けられます。 現実は 研究開発を始めてから いくつかの過程を通過した後 ランダム化比較試験を経て保険適用になる薬は1万分の1と言われています https://www-user.yokohama-cu.ac.jp/~amod/kenkyu/rinsho.html 話を戻して 祈りの効果も このランダム化比較試験と同じ方法を取っていると思われ 科学的に効果があると証明されたと 研究した大学は主張しています このような研究結果が事実だとしたら それは 全ての人に祈りの力が僅かながらあると考えるべきなのか (例えば万有引力の法則も、天体だけでなくあらゆる物体や生命体に引力があるが微々たるものなので人はそれに気が付いていない) それとも 神仏もしくは 守護霊などの霊魂の力によるものか どう解釈すれば良いのでしょうか?

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母が他界しました。

母が他界しました。63歳でした。 3年半闘病しました。2年間は食べる事も飲む事もできませんでした。 旅行が好きな母でした。私が社会人になってからはいろんな所へいきました。 最後の旅行の時「あなたと後何回いろんなところへ行けるかな。」とポロっと言われました。その時は「何言ってるのー?」と笑って返しましたが、その旅行が最後の旅行になりました。何故こんな事を言ったのかずっと心に突き刺さっています。 亡くなる3日前に急に体調が悪くなり、肺炎でした。施設に預けていましたが、亡くなる前日少し状態が良くなり、付き添いを止め、私も自宅に帰りましたが、夜中に1人で逝ってしまいました。 「付き添いをしてあげればよかった」「仕事で忙しいと言わずに時間を作ってもっと会いに行ってあげれば良かった」いろんな感情がぐるぐる回っています。3年半も頑張ってくれて、もう辛くないんだから前を向かなきゃと思いますが、どれだけ泣いてもふっと気を抜くと涙が止まりません。 そばにいて貰いたくて、分骨したいと思い骨壷ペンダントを買いましたが、家族に言えずにしまっています。 分骨も悪い事ではないとインターネットで見ましたが、やはり身内にお願いできません。また遺骨を砕く勇気も私がありません。身体が鉛のようで何もできないです。 このままじゃ母が心配しそうです。

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人を殺して自殺しようと考えています

『発達障害』と診断され、苦しんでいた頃に出逢った人がいます。 自分の障害を理解してくれ、仕事は『発達障害を持っている子供達を教える元教師の塾講師』です。 独りぼっちの生活に寂しがり屋の自分は、その人の言葉を信じました。 『家族になろう』 しかし、それは自分を無給で働かせ、奴隷にするためでした。 自分はその人のために貯蓄を渡し、名義を貸して借金をし、全てを信じ引っ越しまでしました。 しかし、全て嘘だったのです。 色々な人達の力を借りて、その人から逃げ出し、現在また別の所に引っ越しました。 現在は労基と弁護士がついていますが、ついに債券会社(借金が自分名義のため)から自分が告訴されてしまいました。 精神的にツラく、仕事は見つかったものの月に約8万程しか稼ぐことが出来ない仕事で(障害者用の作業所)、収入より支出が多い状態になっております。 弁護士に言ったそうです。 『結婚する気は無かった』 自分はその人を殺して、自殺しようと考えています。 現在精神的に疲れていて、告訴までされ、生きていることに疲れてしまいました。 しかし、自分だけが死ぬことで、自分を騙した人が喜ぶのは許せないのです。 ですから、その人を殺して自殺しようと考えています。 自分は狂っているのでしょうか? 自分の考えはオカシイのでしょうか? 自分の誕生日(今月)に実行しようと考えています。 今まで自分の誕生日に嬉しかったことはありませんでした。 最期の誕生日にその人を滅茶苦茶にして、自分自身も居なくなろうと考えています。 『被疑者死亡』で裁判になっても結審するでしょうし…。 証拠がなく、詐欺では訴えられないことも弁護士から言われております。 法で裁けないなら自分が裁きたいです。 こんな考えをする自分は普通ではないのでしょうか? 逃げ出したのは冬ですが、今でもその人が乗っている車種を見たり同じ苗字を聞くだけで、ツラさ、恐怖、憎しみ、悲しみ等色々な感情が湧き上がってくる状態です。 自分では普通だと思っているのですが…、御意見をお伺いしたいと思います。 お忙しい中くだらない事で申し訳ありませんが、よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 22
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2023/08/03

天部の神様と死について

こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 3
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感受性が鋭すぎる人

私の兄と母の体験談なのですが、母が子供の頃塾の帰りにある場所の前を自転車で通った時、急に自転車が重たくなり、振り替えってみると後ろの荷台に霊が乗っており、顔は見なかったけど普通のおばあさんが乗っていたと言っていました。驚いた母は、急いで必死に自転車をこぎました。しかし、ある家の前で急におばあさんは居なくなって自転車も軽くなったそうです。母は、二度とその道は通りませんでした。 また、母が小学生の学校行事で、お寺に泊まった時、夜部屋に居る母を含む半数が、日本髪を結った数百年は前の人で在ろう霊が、部屋をスーっと横切っているのを見たそうです。金縛りになった子も居たそうです。そこの住職もお経を上げているが、なかなか成仏をして頂けないって言っていたそうです。 兄は、幼少の時に、自宅で落武者の霊を見ました。髪は、長く下ろしてあってお腹から上だけがある姿だったそうです。兄は母に「お侍さんがいる」と言いましたが、その時、大人には見えなかったそうです。自宅があるところは山を切り開いて住宅街が立てられた所だそうです。 また兄なんですが、自宅から十分県内にあるお家でお葬式が上げられていたある日、小学生の兄がそのお家の前に白い着物を着たおばあさんの霊がたたずんでいるのを見たそうです。 またまた兄ですが、家から20分位のところにある神社があります。そこは、山の中にあり、私と兄と母でカブトムシを探しに行きました。 そこで、兄が急に「白い着物を着た巫女さんみたいな女の人が見えるけど大丈夫?」って聞いて来ました。私達は、直ぐにその場を離れました。 兄も母も中学生以降からは見えなくなったそうです。 私も、霊は見えませんが、感受性がかなり強く人や動物の気持ちに敏感で人なら、離れている人の感情や話声まで必要以上にキャッチしてしまいます。その為、見たくないものや聞きたくないものを感じてしまう人の気持ちも分かります。 よく霊は、心の中でその人を思う気持ちが強いから見えた幻想のようなものと言いますが、何故普通の心理状態で知らない人の霊まで見えるのでしょうか? この様に霊が、日常で普通に見えてしまう人は、霊は、サンタクロースのようなものと言われたらどうしたらいいんでしょうか? 見えた者の存在をそのまま認めるのは、おかしいんでしょうか?

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命に対するジレンマ、疑問

看護師をしています。 私は病院で働く中で多くの患者様を見てきました。軽症から重症まで。若い人から超高齢者まで。 その中で、看護師として働くことを諦めるような悩みを抱えました。 ご高齢の方や終末期の方は、死への恐怖というより現在ある痛みや苦しみ、排泄など恥ずかしい部分を他人に見られる羞恥心などから、もう楽にしてくれという方が多くいました。殺してくれとも。 命を救う側の私たちは、目の前の命を救うという責任があります。見捨てることはできません。 しかし、それでも何度も何度も楽になりたい、あちらの世界に生きたい、今自分の意思で生きているのではなく他者に生かされてるだけだと、涙ながらに、そして時には怒りながら訴えられました。 そんな方々を多くみる中で、私は看護師として生きることを諦めないようにお話をする機会もありました。 その中で私は、ここが生き地獄だと思っている人たちを救うことが本当に人のためになるのだろうかと疑問を持ちました。 本人の意思ではないのに、多くの管で繋がれ、ベッドに縛り付けられてまで命を守ることが本当に正しいのだろうかと疑問に思いはじめました。 私はこの疑問に対する自分の中での答えが出ず、看護師を一度完全に辞めました。このような疑問を持つことは、命を救う立場の者としてあってはならないと思ったからです。 世の中には尊厳死や安楽死などの言葉が存在します。尊厳死は、延命治療を無理にせず苦痛を取り除きながら、自然に死を迎えられるようにというものですが、日本の医療の現状としてなかなか行われていないのも事実です。苦痛は痛みだけではありませんし。安楽死などもっての外です。 以上の過程があった上で相談したいことは以下の通りです。 ・生命は大切にしようとよく言われるが、そもそもその考え方はどこから生まれたのでしょうか?生き地獄だったとしても必ず守らなければならないのでしょうか? ・安楽死などの考え方について、仏教の視点からはどのような考えがあるのでしょうか? ・命の大切さという根本的なところが分からなくなっている私は医療従事者として失格でしょうか? 長文で申し訳ありません。 お時間のある際にご回答いただけると幸いです。

有り難し有り難し 30
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死の恐怖から未来に希望が持てません

はじめまして。 初めてご相談させていただきます。 現在高校3年生の女子です。 私は最近死の恐怖に囚われています。 死んだ先に何があるのか、死んだら無になってしまうのか、私はいつ死ぬのか、いつか死んでしまうのに何で一生懸命に生きるのか、死んで大好きな家族とお別れしなくないなど考え出したら止まりません。普通の高校生というとこれからの明るい未来に想いを馳せ、夢を抱くような時期だと思うのですが、自分の最終的な未来が死だと思うと怖くて怖くてたまらないのです。自分の最終的な未来が死だと思うと何だか未来に希望が持てません。 私はなんのために生きるのでしょう? 実は半年前にも死がたまらなく怖かった時期があるのですが、何とかあまり考えないようにしてこの瞬間を生きることに一生懸命になることで忘れることが出来ていましたが、また考えるようになってしまいました。初めて死ぬ恐怖について考えたのは高校2年生なのですが、死ぬ恐怖のことなんて一切考えてなかった幼少期の無邪気な自分に戻りたいとも思います。そのほうが幸せなのかなと思います。でも一度考え始めると本当に自分でもどうしょうもないくらい止まらなくて、苦しいです。授業中とか友達とくだらない話で笑ってる時も考えてしまいます。周りの人たちは日々を楽しんでいるように見えるのにこんな自分が嫌になります。 今の私の気持ちが楽になる方法はあるのでしょうか? たいへん長く読みにくい文章になってしまい、申し訳ありません。私にとって人生の先輩であるお坊さんに何かしらのアドバイスやお言葉を頂けたらと思い、相談させていただいました。

有り難し有り難し 34
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