前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか お釈迦様が怪しくないですか? 自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 最終的には無記なんですもん わかんないですもん ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね
前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。
一人で悟ることはできますか? お寺も無いお坊さんもいない国にいます。 お坊さんや書物の力を借りなければ悟ることはできませんか?自分一人で悟ることはできますか? 一人でも悟れるなら、悟るために何をする必要がありますか?座禅ですか?
いつも お世話になります。 私は今日一日 行きつけのお寺で座禅を組んだのですが お坊さんからなるべく何も考えないように言われたので 何も考えないように頑張ってみたのですが、雑念だらけでどうしても 無 になれなかったので 諦めかけた時 昔 母から 楽しいことだけ考えて生きよう と言われたことを思い出して これだ!と思いました。 これが 答えだ! って思いました。 これは ある意味では 悟りに準じているのでしょうか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。
今回初めて質問させていただきます。 私は10年間、心の問題でカウンセリングを受けていますが、まだ苦しみから抜け出すことができません。 何事も自分から行動をしないし、全てのものに対して不満をもってしまっています。 この問題を解決するために、カウンセラーより以下の質問を沢山の人にしてみなさい。 全て100%満たされている人なんていない、みんなどこかで折り合いをつけているんだよ。と言われました。 厳しい修行を積んで、お坊さんになられた皆さまはレベルが違うかとは思いますが、どうか教えて下さい。 ・あなたが満たされている事を教えて下さい。 ・あなたが満たされていないことを教えて下さい。 ・満たされない不満、不安をどう処理しているか教えて下さい。 ・今までの人生で、自分で「100%やりきった」事は何ですか? よろしくお願いします。
お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?
俗世間で言われている幸せ(会社員として働き、良い家庭をつくる)に価値を感じず、悟りを開きたいと思っております。 ですが、今の仕事では結果を出すため、そして生活を送るために毎日嘘をつくことになる(不妄語戒をおかしてしまう)ため、出家すべきか転職すべきか迷っています。 2015年10月から訪問販売の仕事をしています。今の会社では、この仕事で生活できている人たちは皆、 「この辺りのお宅では皆、買ってもらってますよ」などと日常的に多くの嘘をついています。私も結果を出すために、同様の嘘をついています。 嘘をつけば不妄語戒をおかし、悟りには至れない。嘘をつかなければ、結果が出ないのでこの仕事では生活できないというジレンマがあります。 元々「自由に休みが取れるようになりたい」という欲から選んだ仕事なので転職自体はまったく問題ないのですが、そもそも嘘をつかないで俗世間の仕事をこなせるのかどうか疑問です。 もし俗世間の仕事で嘘をつかざるを得ないのであれば、いっそ出家して修行の道に入る方が良いのではないかと思っています。 また、生活のために嘘をついている面もありますが、それ以外でも自分の心の弱さゆえ、見栄を張るために嘘をつくことがあります。 まずは出家せずとも、俗世間の仕事をする中で戒律を守り、悪行をしない努力をさらに重ねるべきなのでしょうか。最後までお読みいただき、有難うございます。
浄土宗を信仰していますが、禅宗へのコンプレックスがあります。 道元禅師は「曹洞宗なんて言わないでくれ。釈尊の仏教そのものだから」という姿勢だったそうですが、なるほど釈尊が菩提樹下で坐禅(のようなもの?)をして悟りを開いた以上、禅宗が仏教のメインストリームであることは自然だと思えます。 我が浄土宗も「禅宗のような自力行に耐えない人は念仏しましょう」だったらまだ問題無いんですが、法然上人の主張では称名念仏だけが正道だと説くわけで、行者の機根の問題だけでなく行としての坐禅をも退けてしまっている。これはやり過ぎなんじゃない?と思うわけです。 浄土系のお坊さま方はこんな思いになることはありませんか? また、禅宗のお坊さまからのご意見も聞きたいし、もちろんその他の宗派のお坊さまからも広くご意見聞かせていただきたいです。
仏ゾーンという、少し昔の少年漫画をご存知でしょうか。 簡単に説明すると弥勒菩薩の生まれ変わりの女の子のもとに、千手観音のセンジュ君が現れ一緒に悟りの旅に出るというバトル漫画です。 宗教の問題で打ち切りになったとか噂されますが、実際の所は多分違います。 しかしそれでも、お坊さんとしてはああいった仏様を主人公にした漫画をどう思われますか?罰当たりでしょうか。 私は仏様に対して「カッコイイ!!」と思ってしまう、信仰とはちょっと違った好きという感情を持ってしまった仏教マニアです。(もちろん有難いとも思う。) 仏様を主人公にした漫画は大好きで、有名なみうらじゅんの仏教趣味にもいいなぁ、と思います。 しかし、これは仏様に対する冒涜なのではないか?という思いもあります。 だって、煩悩を断ち切ってくれる仏に煩悩が止まらないのですから。 そういった仏教趣味にお坊さん達はどう思われるのでしょう。 また、もし許してくださるなら「これだけは気をつけろ」というマナーを教えてくださると嬉しいです。 蛇足、仏様は有難ければ有難い程にカッコイイと思うのです。
久しぶりに地獄についてなのですが、 さっき何気なく地獄について調べたら、阿鼻地獄(無間地獄)のことで気になりました なんかよく読んだら、「五逆罪 謗法罪」というのがあり、特に五逆罪は父母、そしてお坊さんや悟りを開いた方などを殺してしまうと無間地獄行きとかいていたと思います。でも無間地獄=人殺しがおちる と思ってたのですが殺しの中にも殺生があって、それについて調べたら、命あるものをころしてはいけない。とあり、殺人者は五逆の罪に入ってなければ無間地獄行きではないのかな?と思いました。 僕の思ってたのは間違ってたのでしょうか?でもずっと前に地獄の絵本みたいなのがあったのですが「ひとをころすも2000年も真っ逆さま」とあって、これは阿鼻地獄(無間地獄)と関係してますよね。 五逆罪と殺生の違いがイマイチ把握できてませんでした。
お久しぶりです。 以前、アングリマーラに関する質問をしましたが今回もそれに関する質問をさせて頂きます。 自分は以前アングリマーラに嫉妬してましたが次第に憧れを抱く様になりました。 極悪人のレッテルを貼られて周囲からも相当、罵詈雑言を浴びせられたであろうアングリマーラはそんな困難も跳ね除けて仏様になられた。 そんな偉業とも言える事を成し遂げた人物の様に自分もなりたいと言う願望を抱いてます。 生半可な気持ちでは到底無理だと思いますが可能性が0でない以上は自分もアングリマーラの様に悟りを開いて立派な仏様になりたいです。 勿論、お坊さんでも悟りを開くのが困難なのに私の様な劣等種が無理なのは存じ上げております。 道のりは険しく長いですが私も光を纏った仏様になりたいです。 その為には先ず小さな周りへの気遣いだったりをベースに毎日を過ごしていこうと考えてます。 今は優しさを基本にしていき周りから注意を受けたらそこを直す努力をしたりする事の積み重ねが立派な仏様になる第一歩だと私は思っています。 今の私はとても心が汚れて徳もたいして積んでなく寧ろ悪い事の方が多い。そんな小物が簡単に思いつく様な事ですが、それでもアングリマーラの様になりたい。この気持ちだけは本物です。 長い文章を読んでいただきありがとうございました。 お坊さんの方々、私はアングリマーラの様に立派になれますでしょうか?
先日「お坊さんになるには」の質問をさせていただきました。 marukoです。 お答えいただきましたように、師となる方を探したいと思います。 それで、質問させていただきたいのですが皆様はどのように師を探され、であったのでしょうか? 座禅などで少しお坊さんのお話は聞いた事がありますが、法話を聞いたりくらいしかお坊さんと接する事が思い浮かびません。 どのような所からはじめたら良いのか分からないでいます。 初歩的な質問ですみません。 どうぞ、よろしくお願いいたします。
いつも拝見し、様々な方のご質問やお坊さん方のご回答を読ませていただいては多くを学ばせていただいており、ありがとうございます。 初めて勇気を出して質問させていただきます。。。 少しずつ本を読んだり話を聞かせたいただいていますが、まだまだ初心者です。 本来ならばいずれかの宗派に特化して学ぶべきなのでしょうが、まだそこまで絞れておりません。 少し学んだレベルなのですが、自力の仏教も他力の仏教も頷かされることが多々あります。 どちらの仏教も並立するんやないかなと思うこともあるくらいなのですが、他方、それぞれで相反する考え方もあります。お経さんでも同じです。 元はお釈迦様から始まった同じ根っこなのに何故なんやろう…と不思議でした。 これは、対機説法、応病与薬が具現化した結果だと理解するべきものなのでしょうか? そうであるとするならば… 浄土真宗では、煩悩はなくならず、自力では決して救われず、悟ることはできないと聞かせていただいています。 他方、禅宗では、煩悩を減らして行き修行を重ね悟りに至ることを目指すものと認識しています。 ということは、人それぞれによって(対機)、自力で救われる人もいれば他力で救われる人もいる、 煩悩のままで救われる人もあれば、煩悩を減らして(なくして)救われる人もいるということでしょうか。 どの様な人に、どの様な説法=教えが適切なのでしょう⁇⁇ 屁理屈の様な、ド素人の、アホな質問で大変恐縮ですがご教示頂けますと有難いです。 もしかして過去にどなたかが似た様な質問をされて回答がある様でしたら申し訳ありません。 宜しくお願いいたします。
他の問答で仏教は"心の平穏"を見つける事と書いてありましたが心の平穏が見つからないです。 ずーっと死ぬor投薬を数年続けてて最近本当に生きるのをやめようと確信しつつあり、今はもう絶望感と戦いながら生きてます。おそらく私の年代でここまで人生に苦痛を感じて、失敗して、でも普通の人ぽく振る舞い、誰にも悩みを離さず生きてる人はかなり少ないと思います。 365日10何時間「死にたい、生きる意味は?生まれてこなれけば」と何度も考えている人間ですよ? そんな私はやはり苦しみについて人以上に考えるし、哲学や仏教に自ずと向かいます。 でも普段心の平穏や幸福な人たちはどちらかというと、ここハスノハで説教されるような不勉強な人達で何の苦労もないし、不幸も少ないです。人生勉強とかいうけど勉強の量が圧倒的に違うし不公平すぎる。 ここで説教されるような物事の解釈を変えるとか感謝とか人以上にしてるし、人以上にどうすればいいか勉強してますし考えてます、説教されてない幸福な人より何億倍も向き合いました。 毎日死ぬような目にあって、希望もなくて、自信につながるようなことはなくて、不幸ばかり。 そんな時に"心の平穏"と言われても無理、できるわけがない。仮に少しでも好転してもこの状態があと何十年も続き、もはや変えられないことの方が多い中、苦しみ続けるのに心の平穏なんて得れるわけないです。 いつも思うのですが、苦しみを減らす方法ってどちらかというと他人を攻撃して嘘をついて生まれた環境や遺伝子の有利さを発揮して利己的に生きる方が何億倍も心の平穏が生まれるという事。 毎日苦しんでる私のような人は平穏どころか苦しみばかりです。どんな捉え方をしてもやはり不幸なのです。 そしてそんな運の悪い人は仏教を勉強しても悟りについて考えても知名度のあるお坊さんに負けてしまいます。結局知名度もあり、欲を楽しみ、私よりも恵まれてるお坊さんが"心の平穏"こそが悟りといってるだけじゃないかと思ってしまう。 実際は悟りなんて無くて生まれた時に苦しむ人は苦しむだけの人生なのでは?と。 一度人生の地獄が続くと脳細胞が死滅していてもはや戻る事は不可能です。 仮に生まれて虐待されて親に愛されなくて友達に虐められて苦しんで自殺した人ってもはや何を悟るの?と思います。
宗教家と臨床心理士の共通点と違いはどんなことが考えられますか? ユングの分析心理学の勉強をしているなかで、宗教的な考えがでてくることもありますが、宗教の実践者からみた意見をいただけましたら幸いです。 表面的に仏教を学んだ私から感じる共通点は、禅の「公案」が心理療法でいう夢分析、仏性というのが、ユングでいう、意識と無意識の全体性の中心にあるとした自己(セルフ)。などなど 単に依頼者に相談にのるという単純な共通点ではなく、宗教家も臨床心理士も無意識的なことが深く関わっている印象を持ちました。 また、お坊さんで臨床心理士の資格を取られる方がいらっしゃいますが、反対に臨床心理士が悟りの修行をすることの意義など考えられることがありましたらお願いします。
先日、亡き主人が幼少の頃からとてもお世話になっていた近所のおばさんが御参りに来てくださいました。 その方は般若心経を唱えていらしてました。おそらく全て唱えていたと思います。 凄い!とその時は素直に思ったのですが、後になって少し疑問が・・・ 我が家は真宗大谷派。般若心経は確か別の宗派。 いいのかな?悪いことはないやろうけど、教えが違うと伝わらないとかないのかな?と思ったのです。 それ言ったらキリスト教の人なんか御参り行かれへんやん、とも思ったのですが(((^^;) お坊さんはどのようにお考えなのか知りたく質問させていただきました。 くだらない質問ですがよろしくお願いしますm(_ _)m
人生を賭けて芸術と学問を極めるか、仏道に進むかで悩んでおります。 絵や小説、哲学、初期仏教が好きで個人的に学んでいるのですが、美や知識を探究することは煩悩や貪欲にあたりますか? 最近、何かを追い求めること自体が、迷いの只中に入ることなのではと感じます。仮に死ぬまで絵や小説を書き哲学を学んでもどこにも到達しないんじゃないかという不安が常にあります。 いっその事すべてを捨てて仏道に専念して、悟りを目指したいという思いもあります。しかし、芸術の極致を見たいという思いが寝ても覚めても頭の中から離れません。 今後どのように生きていくべきかわかりません。 何かしらの指針を頂けたらと思い質問させていただきました。 要領を得ない質問で申し訳ございません。
はじめまして。仏教について疑問を持っているのでお答えいただけると助かります。その過程でキリスト教の例を出すことをお許しください。 キリスト教ではイエス様を地上にお与えになったほどに地上に生きるものを神は愛しており、自分の御姿に似せて人間をおつくりになるほどに人を愛している、と習います。その神の愛こそがキリスト者の信仰のよりどころだと思います。 一方で仏教は悟りを開くことが目的であると聞きました。悟りを開くということと仏様を敬い信仰するということがいまいちつながりません。また仏様は人間をどう見ているのでしょうか?キリスト者にとっての神様と同様に、愛していくださるのですか。仏様を信仰する人にとっての心のよりどころとは何なのでしょうか? 何分仏教について全くわかっていないため、見当違いの質問を多くしてしまいごめんなさい。ほんの少しでも回答をいただけると助かります。