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検索結果: 1383件

人が嫌いなのに人に寄り添いたい

はじめまして。いつも拝読&勉強させていただいております。今回はお坊さんの方々の意見が聞きたく、質問させて戴きます。 自分は去年の年末に、会社の仲間の何て事無い一言からフラッシュバックを起こしその辛い記憶から自分を切り離したい為にカッターを腕に当てました。 親にも、自分を心配しながらも見守ってくれている会社の誰にも腕を晒すことが出来ず、「気付かれたのではないか」「非難されるのではないか」と人に怯えて、波のように押し寄せる衝動に負けて今日まで更に傷をふやして、人を遠ざけてきました。 一年も後半に差し掛かり、少しずつ自分に心境の変化が出てきました。「気付かれて、嫌われても自分のしたことだから仕方がない」「他人の思いまで自分がどうこう出来ることではない」「今までどうり(怯える前)の自分でいることが大事」と。 さて、上記のような思いに至った頃から少しずつ自分に“心理学(カウンセラーのような)”への興味を感じ始めました。 “自分と同じような痛み、悲しみ、苦しみを感じている人”の力になれるのではないか?何も出来なくても寄り添えるのではないか?と、身の程知らずですが思い始めました。 しかし、今の自分自身の事でいえば 介入・干渉されるのが苦手で孤独を好みあまり他人に深入りしません。他人の噂話にも加わりたくない、人と距離を取りたい人間がなぜこのように思うようになったのか、正直判らずにいます。 カミングアウトもできないような人間が他人様の助けになることは出来ないですよね? 長文で判り難いかもしれませんが、お坊様の考えを聞かせて戴けましたら幸甚です。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 71
回答数回答 3

主人が何をしたかったのかわからない。

いつも、相談にのっていただきありがとうございます。とても感謝しております。 今日は去年の7月に別れた主人の行動が府に落ちないのでお聞きしたく、質問させていただきます。 別れた主人は浄土真宗大谷派のお寺の孫です。ただ孫と言うだけで、浄土真宗とはまったく縁のない生活をしています。 しかし、事あるごとに「俺は浄土真宗のお寺の孫だから」と上から目線で話してきます。そして、私には「お前は浄土真宗のお寺の孫の嫁なんだから、もっと色々考えて行動しろ」と命令口調です。 一度、浄土真宗のお寺の孫の嫁と怒鳴られた時に思わず「早口言葉かよ」とつぶやいてしまい「お前は浄土真宗を馬鹿にしてるのか!!」とテレビのリモコンから子供のおもちゃまで投げつけられた苦い思い出があります。 確かに私も浄土真宗のお寺の孫の嫁として不勉強な所もあったかと思い、10数年前になりますがインターネットを通じて、何冊か書籍を取り寄せたこともありました。 その時主人は「お前はなんでもすぐ夢中になるから、檀家になるとか言い出すなよ」と言っていました。その言い方があまりにも憎々しげだったので、結局その書籍も読むのを辞めてしまいました。 主人の周りの人にも「俺、浄土真宗のお寺の孫なんですよ〜」と得意げに話していたようで、「聞き流しましたけど、反応に困りました」という声も聞きました。 浄土真宗のお寺の孫って、そんなにエライものなのでしょうか? 私としては、浄土真宗のお坊さんやその他の浄土真宗のお仕事に携わっているならともかく、ただ孫というだけなら普通の人だと思うんですが、違うのでしょうか? 長文、失礼致しました。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 7
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2022/03/09

存在そのものを悪と断じずにはいられない

「生きているのではなく、生かされていることに感謝すべき」だとおっしゃるのでしょう。 けれど、どうしても「生きていること、生かされていること」を肯定的に捉えることができません。 「盲亀の浮木」というように、この比較的平和で当たり前のように安全な生活ができる存在として生まれたことそのものがとんでもない奇跡、という理屈も承知しております。 しかし、「だから生まれたことに感謝すべき」と言われても感情が追いつかない上に、「存在するということはとんでもなく危険なことなのに、誰もそこから逃れられない」と、存在そのものをどうしても否定したくなってしまいます。 限られた運の良い生き物しか安全に生きられない。 限られた運の良い人間しか生きることを許されない(そんなことはないとおっしゃるかもしれませんが、自己責任論と優生思想のほうが人間の本音だとどうしても思ってしまいます)。 これまでの人生で幾度となく自殺を考えましたが、死んだところで「存在」からは逃れられないと気付き、「じゃあ生きるって何なんだ! なんでこんな悪趣味なことを強いられるんだ!」と、閉じた恨みの感情ばかりが強くなります。 所詮、うまくいかない自分の有様と社会問題を歪みきった認知で安易に結びつけているだけなのでしょう。 ただ、そこから脱却するための、理論的にも感情的にも強い根拠が見つからず鬱屈としています。 「生き物だから生きるのだ」と言われても、「それは存在の『罪』から目を背けているだけだ」「生きることは悪であるという、自分にとって都合の悪い真実を見て見ぬふりしているだけだ」と思ってしまいます。それとも、私が「生きることは善である」という真実を見て見ぬふりしているのでしょうか。生きることを肯定されてしまっては、私の苦しみに満ちた人生をも肯定しなければならないから、「生きることは悪である」という幻想に逃げているだけだとおっしゃるのでしょうか。 痛みや苦しみを憂うあまり存在さえ否定したくなるのが煩悩だとしても、「存在することをやめたい」「ありとあらゆる感覚器官を捨て去りたい」「物質的制限にまみれたこの次元から脱出したい」と思わない時はありません。 まして、この世界から「生きるに値する根拠」は急速に失われつつあるのではないでしょうか。 死ねないなら生きる苦痛を受け入れなければならず、しかしその覚悟が決まらないのが課題です。

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

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