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検索結果: 957件

生前の仏教の触れ具合は死後の「ハンデ」になる?

まず素朴な疑問のうえ、お坊さんの限りある時間と質問を増やしてしまい頭が下がります。 死後の行き先は生前の「行い」によって左右されるというのは勿論ですが、 こちらのサイトでもいろいろ知恵を授かっている内に、 死後の「裁判」は良い悪いの数直線上では計れないところもあると感じています。 たとえば、ある人は日本に住んでいて、 まったく仏教に触れていなかったとしたら? ある人は仏教に触れて、 仏教の「表面上の」知識は身に付けて、 それでもなお多かれ少なかれの悪い行いをして… 後者は私ですが、少なくとも「知っていて尚悪いことをする」のと、 知らずに悪いことをしたのとは、やはり裁判の天秤の重さに違いがあるのでは?と思いました。 「弥勒菩薩は兜率天に住み…」 「虚言はいけない」 「丸々寺は誰々により開かれ」 「般若心経」 「お寺や神社の真ん中を歩いちゃ駄目。」 「蚊を殺しただけで地獄」 「獄卒が火であぶる。」 私はこのような「情報」を得て、我を顧みることもなく過ごしています。 ただ蚊は殺めません。 仏教で守るべき掟も、出家された方にとっては、いままでとはより厳しくなると思います。 まず、 出家された僧たちにある戒律は、破ったときにのちの自分に降りかかるのでしょうか? それとも守ることで人のため、世界が良くなるべきの「願い」の要素がありますか? また、「在家」まではいかないが仏教を信仰する私として、 表面上の仏教を(インターネットで閲覧できる限りの知識を)覚えるごとに 死後の裁判の「ものさし」が厳しくなるということはあるのでしょうか。 おなじく、お坊さんとも一般人とも、仏教の知識が死後の「ハンデ」とはならないでしょうか?

有り難し有り難し 15
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自分は許されなかったことを堂々としている他人が憎い

この思考が自分ですごく嫌です。 いじめや虐待の連鎖につながる思考だと思うからです。 しかし、自分だったらこうはしないのに、という思いを他人に強く感じてしまいます。 例えば、しょうもないのですが、 歩道ですれ違う際に、こちらは道の端に寄ったのに堂々と真ん中を歩きぶつかってくる年配女性などが許せません。 電車などでワガママで騒ぐ子供も、なんであいつは殴られたり人格を否定されたりしてないんだと腹が立ちます。 先日は少しよそ見して運転をした彼氏に怒って楽しかった日を台無しにしてしまいました。 自分の基準が厳しすぎるのは自覚があります。 それを他人にぶつけるのは、八つ当たりだとも頭では分かっています。 が、悪いことをするやつは髪の毛をつかんで地面に叩きつけてやりたいくらいの怒りがこみ上げます。 心の底では、私は母から死ぬほど厳しく罰せられてきたのに他人は許されているのか、納得がいっていません。 私は母のストレスのはけ口でした。 どうしたら、他人の中に一定の「悪さ」を見た時に冷静になれるでしょうか。 どうしたら、自分が叶わなかったことを他人がしていても嫉妬したりせずにすみますか。

有り難し有り難し 32
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すぐに悲観的になって死にたくなります

私は心許せる友達もいますし、父親は早くに亡くしましたが、とても優しい母親もいます。でもどうしても死にたくなってしまいます。 3年前にとても大好きだった人と離婚しました。性格の不一致です。その当時は彼が悪いと思っていましたが、月日が経つにつれ、自分のワガママが原因だったと思うことが多々あります。 やり直したいと思ってももう彼と連絡を取ることはできません。 友達はもう忘れた方がいいと言いますが、私はどうしても大好きな彼の赤ちゃんが欲しかったです。 友達はみんな赤ちゃんがいます。 友達は私が想像できないくらい大変な思いをしながら子育てしてるのかもしれません。でも私も赤ちゃんを産んで子育てしたかったです。 仕事も他の人から比べたら絶対に恵まれています。でも小さな人間関係にくよくよ悩んでしまいます。職場の人とは仕事の話ばかりでもう長く働いているのになかなか打ち解けられません。 家と会社の往復で、仕事で疲れているので休みの日もずっと寝てしまいます。 部屋もすごく散らかっていて、辛うじて洗濯している程度です。 疲れ果てて下手したらお風呂に入らない日もあります。 周りの人と話せば話すほど、人として大事な何かが欠落しているんだなと感じて辛いです。 死にたいけど死ぬ勇気もない。死んだら親や周りの人に迷惑をかけてしまう。 いっそ出家しようかと考えたこともあります。でも逃げてばかりの私が出家しても挫折するだけだろうと思ってしまいます。 何も楽しくないし、友達の赤ちゃんは可愛いですがどうしても心の底から思えません。新しく楽しいことを探す元気もないです。 緩やかに死んでいきたい。大病を患って死にたいなと毎日考えてしまいます。 こんなこと誰にも言えず、ここに相談してしまいました。まとまりがないのですが、よろしくおねがいします。

有り難し有り難し 2
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父がいない人生を送りたい

私は父との接し方や、父の考えていることがわかりません。父に話しかけることはありませんし、話しかけられたときは体が硬くなり、うまく言葉を発せなくなります。 というのも、父は、物心ついた頃から家庭の事は全く興味がない様子でした。「仕事」による外泊が多く、私や兄の学校生活や、進学・就職について直接聞かれたことはなく、母に尋ねることもありませんでした。 そして、3年ほど前に母が父の不倫に気が付き、私に打ち明けてきました。それ以来、私は以前よりもずっと父が嫌いになりました。(嫌い、という言葉では表現しきれず、怖い・憎い・気持ち悪い…など、父の事を考えると、とにかく嫌な気持ちになるのです。) 不倫に関して母が父に問い詰めたのですが、父は開き直っていました。 母や子を差し置いて、不倫をしていた父が許せません。家族を愛さなかった「父親」をどうしても理解することができません。 そう思うようになってから、心の深くに石のようなものが留まるようになりました。 しばしば心のバランスが取れなくなり安定剤を飲む自分、外面ばかり良くして疲れてしまう自分、友達と言える人が少ない自分、恋愛でいつもすぐに相手が嫌になってしまう自分など、毎日至る所に嫌いな自分が存在し、それらが父のせいに思えてなりません。 自分の親にすら愛されることがなかった人間が、社会でうまくやっていけるわけがない、と思ってしまいます。私の人生に「父」さえいなければ、もっと穏やかに生きて行けたのに、と思ってしまいます。そして、父に影響され続けている自分も嫌でどうしようもないです。 母に何度かこの気持ちを話したことがありますが、「親のせいにするな」と言われたのがショックで、もうその話はできなくなりました。血のつながった父親の話ですので、深いことまでは親友にもなかなか相談することができません。 母や祖父母は「生活費を入れているだけまだマシだ」と言っており、大学まで行けた私を「恵まれている」と言います。それも分かるのですが、そう言われるたびに、私はなんだかつらくなります。貧乏でも温かい家庭が欲しかった、と思うのは願い過ぎなのでしょうか。 相談したいことがはっきりしておらず申し訳ありませんが、私は何をどうすれば、心が軽くなるのでしょうか。アドバイスをいただけると助かります。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 18
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2023/03/21

発起心について

私は34歳で会社員として働いているものです。 出家する事についての質問です。 私は今まで人より良くありたい、という虚栄心で人に対する劣等感で生きてきました。そのため親しい人やパートナーなどはおらず、なぜ生きているのかよくわからない空虚な状態が続いています。 一時的な慰みとして飲酒、暴食などをして気を紛らわしますが虚しさを感じうつうつとして気持ちになっています。 仕事も順調とは言えず、自分の居場所が無いと感じ、この職場を去りたいと常に考えています。でもそれは逃げているのではないか?という葛藤があります 職場の方は良い人ばかりなのですが、私自身の問題で態度に出てしまうため自分に対して罪悪感があり、それが元気が出ない原因にもなっていると思います。 (いい歳してお恥ずかしい限りなのですが・・・) 気力がわかない状態が辛く、自分なりに考えたのが出家です。環境を変えて厳しい環境に飛び込めば自分を変えられるのではないかと一縷の希望をいだいています。 20代前半のころから生きづらさを感じ、強い興味を持ち仏教書などをよく読んでいました。(ブッダ、道元禅師、親鸞上人の著書)出家願望はあり、親などにも話しましたが反対にあい今まで生活をしてきました。しかし年齢を重ねて自分が人生をかけて学びたいものは仏教だという確信めいたものを感じていて、生き方として僧侶の姿勢を学びたいという気持ちがあります。 老いた時、病気の時、死ぬ時苦しみが襲ってきたときに苦しみを和らげてくれるのは仏教ではないかと考えています。また自分が辛さを感じて生きてきたため克服、寛解できたときに苦しむ誰かの力になれるのではとも感じています。 もちろん出家したからといって完全に救われるわけではないと思いますし、修行の厳しさや職業としての僧侶を成り立たせることの難しさも考えないわけではありません。このまま社会人として生活し、仏教を学びながら日常を修行として生活していく道もあることは頭ではわかっています。 しかし自分の中では、一度きりの人生、年を重ねて後悔して死ぬよりも、昔からやりたいと思っていたことをやるべきなのではないかと考えています。 皆様にとって、私が出家をしようとしているきっかけについてどう思われますでしょうか。 これは逃げでしょうか。発起心でしょうか。 ご回答いただけますとありがたく存じます。

有り難し有り難し 8
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現実との折り合い

こんにちは 私は長く躁鬱病を患い、頭の中のリアリティも害もある想像の会話が止まらず苦しんで来ました。 昨今のマインドフルネスの普及から仏陀が仰ったことに興味を持っているのですが、 確かにマインドフルネスで今ここのあるがままを観察していると、心はただ離散集合しているだけの実体の無いものだし、執着するのではなくこのようにただ現象を観察することで過去や未来からも切り離されて楽になれるな、ということが実感としてわかります。 ただ現実で仕事をしていると、ある意味自己実現という幻想で駆動して物事にとことん執着し、過去と未来に執着し、ただでさえ認知的幻影である世界にさらに消費という幻影を作ってゆく作業だと思うので、いくらでもストレスが湧いて出てきます。 心は実体のないものだから執着したりすることはないんだ、と思えることで精神疾患的にはとても良いと思うのですが、仕事をして生きていくことを考えるとマッチポンプ状態で、この二つは折り合いがつくのかな? と思うのですが、仏陀はどう考えていたのでしょうか? それとも、元々が、出家してない人間には向いてない考え方なのでしょうか。 どうやって「現実世界で生きること」と元々の仏陀の教えたことと折り合いをつけるのか(そしてそれで苦から放たれるのか)知りたいです。 なるべくおおもとのエッセンスが知りたいです。 浅い知識で質問しているため誤解に基づいて書いてるところも多々あると思いますがよろしくお願いします。

有り難し有り難し 12
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