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hasunoha 問答検索結果 : 「私 宗派 」
検索結果: 2552件

遺骨を持ち帰って供養したい

前回質問させていただいた後、お寺さんや親戚と話し合いをしました。 その際、私たちの気持ちの整理がつくまで父の遺骨を自分たちの元へ持ち帰ってもいいか相談しました。私たちが住んでいる場所から父の実家、納骨場所は遠く、なるべく自分たちのそばに置きたいと思ったからです。しかし持って行く先に仏壇も仏像も無いのならダメと言われました。仏壇や墓なんてまだまだ考えていません。とりあえず納骨はまだ考えておらず、実家に遺骨を置きっぱなしにするぐらいなら持って行きたいのですが…新盆もその後の法事も自分たち主体でやっていきたいんですが、ダメなんでしょうか。 宗派は浄土真宗です。仏壇と過去帳が父の実家にあり、仏となった父はその仏壇にいると。(祖父もいます。)だから法事は実家で。どうしてもというなら喉仏を分骨して持って行きなさいということでした。私たちの生活圏内に知り合いの寺があるからなんなら紹介するとまで言われました。 将来的にも父実家方面へ赴くのは大変で、できれば近くに遺骨を持ってきてゆっくり今後のことを考えたいんですが、それはわがままなんですか。住職の言う通り仏壇が無いといけないんでしょうか。過去帳は自分で買い求めて自由い記入することができると、本で見ました。自宅にて遺骨と写真と線香、お花、自分で用意した過去帳で供養じゃだめですか? 距離の問題もあるし、そもそも気持ちの面で整理がつかず相談をしているのに、そこには一切寄り添ってもらえず、許可を得ないといけないような感じなので心がもやもやしています。 そんなものなんでしょうか?住職がなんと言おうと自分たちの気持ち、やりたいことを貫いたらわだかまりが残ってしまうでしょうか。実家には祖母や親戚がいるので、しばらくは喉仏を持ち帰りお骨はこちら(実家で祖母にということです)で供養してもらえばいいんじゃないですか、と言われてしまいました。 はっきりこうしたいと住職さんにお伝えしていいものでしょうか。

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先祖供養について教えてください。

こちらで、質問及び皆様の回答など 拝読させていただきまして心のモヤモヤが 少しづつ晴れてきます。 この度もよろしくお願いします。 今回は先祖供養について、質問させてください。 私は母が未婚の母のため、実家とは疎遠になり、母の実家ももちろん実の父の先祖の墓参りをした事がありません。 私自身、結婚は出来ましたが、夫とは 一度離婚をして再び同居をしています。 その夫は現在、癌で闘病中です。 最近は病状が、さらに悪化している為 色々 先の事を考える毎日です。 近所のお寺の住職にお伺いという占いで度重なる不幸について、占っていただいた所、両家の〇日と〇日の先祖の供養がされていないとの事で、祈祷済みの御札をいただき神棚に入れ、毎日お参りしています。 離婚の際も姑との折り合いも元々悪い事もあり、夫の実家のお墓参りなど当然今後も出来ません。 宗派なども分かりませんが、許される事なら 夫と、私は現在の住まいから通いやすい場所にお墓を、立てたいと思います。 姑は現在も健在なので、もし夫のが先に亡くなった場合は骨を分けてもらうなどの話はしてもいいものでしょうか? 話し方としては、子供が通いやすいという理由で言ってもいいものでしょうか? 先祖供養とは、9月のお彼岸の時期に、お寺で合同供養祭などで、両家の名前を読み上げてもらうだけで、少しは気持ちが届いているのてしょうか? 聞きたい事がたくさんあって、話にまとまりがなく申し訳ありません。 私は自分の母の墓の用意と夫と自分の墓の用意を、して子供達の未来が 少しでもよくなるように、命の限りつくしたいと常々思っています。 子供の幸せを願うのは、親の使命だと思っているので、 出来る限り、私達が、被ってきた不幸を 絶ち、子供達には 世間並みの、幸せを歩んでもらいたいと思います。 思いが、強いばかりで何から手をつけていいか分からず、今回もこちらを頼りにさせていただきます。 長文で大変失礼しました。 どうかよろしくお願いします。

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2023/10/05

仏さまは「人を殺せ」と命令しうるか?

 いつもお世話になっております。先日ツイッターを見ていたら、 「私が信仰を辞めた理由は、アメリカに住んでいたとき、宗教の 違う信者10数名に対し『もし、神が、人を殺せと命令してきたら、 あなたは人を殺すか』と尋ねたら、全員が『殺す』と答えたから」 「『もし、ここで誰かが、『神はそんな事を命令なさらない』と 答えていたら、私も信仰を続けた」 「彼らは、皆生活や対人面で問題を抱えている。宗教は、人を 救えていない」 と言っている方がいました。  それに対し、 「シューキョーなんてそんなもの。シューキョーをやってる奴ら のことは、狂人だと思って扱えばいい」 と言っている人がいて、その発言には19もの「いいね」がついて いました。  私は、あくまで、この10数名に問題があると思いたいのですが、 実際、私は色々なお寺で問題のある僧侶や信者をたくさん見てきて います。  既婚なのにヤリ目ナンパする者。友だちになるふりをして 近づいてきて、他の信者をいじめる者。宗教をオカルトと勘違い している者。境内に女がいると、後をつけたり見つめる者(お寺 を発展場と思っているのでしょうか)。  あげく、「慈悲殺生」など、荒唐無稽な論を唱える僧侶もいれば、 「他の宗派はろくでもない」などと宣ったり、大きなお寺はお守り やおみくじなど、霊感商法まがいの事を平然としています。  戦国時代には、徳川家康の軍勢が、のぼり旗に念仏を書いていたり、 今も、外国では仏教僧団が中心となってイスラム教徒さんを弾圧 しているそうです。これじゃ、誤解されるよな。と思います。  しかし、本当の仏様の教えには、 「体を切られても怒るな」 「恨みに恨みで返すな」 という平和的な教えがあることを知っています。ですが、これを 知っているのは一握りの仏教徒でしょう。  私はお寺の山門をくぐるとき、周りに人がいないことを確かめて からくぐるようになりました。また、出るときに人と鉢合わせして しまった際は、その人に頭を下げるようにしています。 「私たちはが欲の塊ではないぞ」 とアピールするためです。  仏さまは、「人を殺せ」なんて命令しませんよね?あくまで、 その人たちが愚かだっただけですよね?混乱しています。

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2025/05/10

ご利益とかバチとかいう言葉が苦しい

いつもありがとうございます。 長年、実家の宗教について悩んできて、思い切ってこちらでご相談させていただきます。                         父母、そして母方の一族(母方の祖父母や伯父、叔母たち)は、ある仏教の熱心な信者として生きてきて、私も幼い頃から信仰するのが当たり前という環境でした。真面目な宗派だとは思いますし、基本的に一族は情が深い方なのではないかと思います。親や親戚からは、祖先や親を大事にしなさい、信仰すればご利益がある、信仰心が薄かったり感謝の気持ちがないとバチが当たる、本物の宗教はこれだけである、などと毎日のように言われて育ちました。しかしながら、周囲の大人たちは、私にとってはあまり信頼感の持てる人たちではありませんでした。なぜなら、当時同居していた母の妹が機嫌を損ねると手が付けられないほどの暴言をはいて暴れる人で、それを目の当たりにしながらも、父母や親戚は何も改善しようとしなかったからです。あの人は変わっているから仕方がない、静かになるまで我慢しているのが一番だ、ご信仰をしていれば徐々に状況は良くなる、と言っていましたが、小さかった私や兄弟には苦しい時間でした。信仰しているのに何でこんな目に合うのかと時々母に文句を言っても、「感謝の気持ちが足りない」と言って怒られるだけでした。祖先だけでなく、子どもももっと大事にしてほしかった。 結局叔母は変わることはなく、私は結婚して実家を出てからも、ずっと父母や親戚に対しては複雑な思いがありました。でも、皆にかわいがってもらったという記憶もたくさんあるので、父母には尽くしてきた方だと思うし、叔母の老後のケアもしています。 自分も60代になった今、若い頃には考えられなかった悩みや不安をかかえ、何かにすがりたいという思いが強くなってきました。でも、小さい頃の心の傷から、母の一族と同じ信仰は持ちたくないという気持ちになってしまいます。その一方で、母の一族を批判したり、他の宗教を心の支えにしたいなどと言ったら、バチが当たるのではないかという恐怖感もあります。これからどのような心構えで生きて行けばいいのか、お坊様にご指南をいただけたらと思います。

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自分が汚らわしいです。ヒントはお経にも?

 いつもお世話になっております。こちらでご相談を重ねるうちに、 戦い疲れた私は他人への無闇な疑念という危険な武器を捨てることに しました。疑ってしまう自分、改善していくべき言動や行動ととことん 向き合って、まさに修行をしていこうと思いました。  そこで、新たな問題が生じました。自分が汚らわしくて仕方がない のです。空気が読めない自分、人との適切な距離感がわからない自分、 列挙に暇がないほどです。  通っている近所のお寺のご住職にそれを告げ、メモを握り締めご助言 を仰ぐと、 「僕の感想を述べるけど、それはカウンセラーさんに言ったほうが いいと思う。僕が言うと越教になっちゃうな」 とのことでした。  数日後のカウンセリングで相談する予定ではいますが、できない 自分が汚らわしくて、恥ずかしくて、やはり人の目が気になります。  そこで私はカウンセリングや日々の訓練と並行し、ヒントを仏典に 求めました。通販等であらゆる経典を購入し、読もうと思います。 カウンセリングや訓練のない日はお経で勉強しようと思ったのです。  しかしそこで、 「お経を読んで解決するのは、悩んではいるけれど、医者にかかるまで ではない健常な方なのでは?」 と考えました。  私は浄土宗の檀信徒ですが、死後思想的な要素の強い三部経だけでは なく(個人的な考えですが、一時期阿弥陀経ばかり読んでいたら希死念慮 が発生して自傷一歩手前まで行きました)他宗派の…例えば理趣経、 法華経などもうまく生きるヒントを得るため読みたいと思っています。  こんな時、今は亡き親たちがしっかりしていればとつくづく思います。 思えば私が発心したきっかけは、「家庭が崩壊しているので、人として しっかり生きるヒントを仏教に求めたから」でした。  仲良くしている近所の奥さんには、 「私たちはそんなの読まなくても生きてる」 と言われましたが、それは親御さんがしっかりしているからでしょう。 (自分でも「うちの親はいいよ!あんたんとこ、酷いもんな(笑)」と 言っていました。悪意はなく、いじられているだけです)  経典を読む際の注意点、私は経典を読むのに適するのか、お言葉を 頂きたく存じます。よろしくお願い致します。

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亡くなった母親の希望を叶えたい

長文失礼します。 先月21日に一緒に住んでいた最愛の母親が浴室で亡くなりました。昨年難病になり今年3月再発し、4月に入院の件で喧嘩しながら再入院、翌5月に退院し一週間後に亡くなりました。 直前迄元気だったそうですが、前日身体が動かない、治療が悪い、こんな苦しい治療を選択させたのは貴女達(嫁に行った姉がます)のせいだ。と言われました。亡くなった当日病院に行く予定でしたので、後悔と苦しさで毎日泣いてます 49日はまだですが、葬式後姉夫婦がお経をあげてくれたお寺に行き、永代供養等話聞いてくれました。実は墓守は私限りで、今年お彼岸の際、父親が介護保険施設に入所中見舞いの帰り、母親とお墓の話をしてました。母親は『決してお墓の土地は売るな、一度は入れろ、墓守は甥や姪にさせろ』と言ってました。 私は現実的では無い、と言いそれきりになってしまいました。 購入した墓の土地近くには叔母の同じく購入した墓の土地が有り、私がお参りしなくても、叔母やその家族がお参りしてくれるだろう、との考えだったようです。 生前話してました。 母親の生まれ育った土地柄そういう習慣でした。 姉が相談したお寺の住職様曰く、墓を建てるにも墓仕舞いもお金がかかる、考えてくれ。行事がある度遠い墓より、近くのお寺に永代供養した方が手を合わせられる。と言われたそうです。 そのお寺では永代供養とはお骨を皆と一緒にして、供養塔に納骨し、他の人と一緒に毎日祈ってくれるそうです。また、 納骨も納骨堂が有るそうですが、吹き曝しのお堂らしいです。かなり古い骨壺もあったそうです。 因みにそのお寺と当家族とは縁もゆかりもなく、たまたま母親の実家と父親の実家の宗派が同じだった事から葬式会社が頼み、お経を上げて頂きました。 49日も終わらず、また、私自身母親の死を受け入れておらず苦しい毎日です。 最後の母親の希望を叶えつつ、どうしたらいいのか教えて頂ければと思ってます。

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白骨の御文章に思う

広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが  この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。

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何故お布施の額は寺院により違うのですか?

よろしくお願い申し上げます。 先日、父親の葬儀を無事終えました。 浄土真宗です。 いくつか疑問に思ったので質問致します。私の勉強不足で失礼な物言いになってしまっていましたら申し訳ありません。 葬儀の打ち合わせをした際、直接お寺さんにお布施をどれくらいにするかをお聞きしました。 お車代1万(片道車で30分)精進落としは辞退(つまりお膳代1万) 法名付けて30万で結構ですよ。 と仰いました。 結構ですよという文言が気になりました。 お布施は阿弥陀仏に捧げるものなので、金額に不満ということではありません。 全国のお寺さんは集めたお布施をどのくらいご自身の生活に使われて、どのくらいを修繕維持費や拡張費、又は広告費や檀家接待費に割り当てているのでしょうか?それはお寺によりまちまちですという回答はお控えください。どうあるべきかを教えてください。 私個人としてはお布施に各寺院による金額差が出ている時点でおかしいと思っています。 例えば30万のうち20万はどこのお寺さんでも阿弥陀仏に必ずこの額のお気持ちを捧げますという意味で本山などへ送金し、残った10万はお経、説法の勤めと維持費に使いますという約束が欲しいのです。 先日では通夜葬儀含め1時間もいらっしゃったかどうか。荼毘に伏す前にお帰りでした。 葬儀社の方もそれが一般的と仰っておりました。一般的ってなんなのでしょう。 葬儀に伴い、初七日を式の日に合わせて行うことが多いそうですが、言い方がわるいですが、いい加減だなあという印象です。 どうしても仕事が外せないとか、遠方で行けないとかということで日にちを改める事を遺族から伝えることは致し方ないことと思いますが、葬儀社やお寺さんがまとめて法要をすることを勧めたりというのは如何なことなのでしょうか? 不勉強ですが私は霊的にちゃんと日を数えることに意味があると思うのですが、大事なことはそこではないのでしょうか。 四十九日がお盆になるということでその日はずらしましょうと言われました。 宗教は眼に見えず、なかなか体験し難く、自分なりの解釈を得るまでむずかしいですね。 私は無宗派ですが、神仏を習慣ではなくて本質的に大事にしたいと思っておりますので、尚更疑問に思っております。システム化して商売っ気を持ち込んで来ているように思えるお寺さんに対し虚しくなります。 皆様どうお考えですか?

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ワンオペ育児女医〜仕事セーブするのが辛い

私は3歳と1歳の子持ちの女医(外科医)です。夫は単身赴任で、ワンオペ育児中なので私は子供のために仕事をセーブせざる負えません。 育児をするだけで日々が過ぎ去り、仕事をバリバリ出来ないことがとても辛いです。 最近身近な人を亡くしたことをきっかけに仏教を勉強し始めました。日本の各宗派の成り立ちや教え、仏教の伝来と他国の仏教の教えを勉強し、今は主に初期経典のダンマパダやスッタニパータ、アビダルマなどを読んでいます。 お釈迦様の教えで自分の苦悩が楽にならないかずっと考えています。 お釈迦様は人間は五蘊で構成され、どこにも自我は無いとおっしゃいました。 私は他の男性医師や独身女医のように仕事に邁進してキャリアを積みたいと思うのですが、自分が!自分が!という自我に執着した欲にまみれた状態なのかもしれません。 過剰な欲は持つべきではないとお釈迦様は言ってます。 私は仕事のキャリアアップを諦め、子供のために仕事をセーブし続けるのが人間として正しい行動なのでしょうか。 フルタイムで働けば私の方が夫より収入が多く、修めた学歴も私の方が10年長く、男というだけで思う存分働ける夫に嫉妬しそうになります。しかし嫉妬の心は人間としての成長を妨げる、持つべきではない不善心所らしいので、頑張って嫉妬の心を持たないように心がけています。それに仏教的には金銭や学歴に価値はないということも理解は出来ます。 仏教を勉強し、人が幸せになるためには、自我をなくし、慈悲の心を持ち、自分以外の存在のために生きるしかないのだと理解しました。 しかしそうなると私が医師としてのキャリアアップを諦め、育児に専念するしかないのでしょうか。 育児は手がかかります。どうあっても誰かが仕事をセーブしなければ育てることは出来ません。 一生懸命医師として努力してきましたが、女性は子供を産んだら医師の仕事に全力で邁進するのを諦めるのが人間的に正しい行動なのでしょうか? お釈迦様は男女は平等だと説いています。育児も医療と同じように尊い行いだということも理解できます。 しかし子供を産んだというだけで、第一線を離れ続けるのがとても苦しいです。 そんな私に何か心が軽くなるアドバイス、解決法を教えてください。

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実家の継承と信教・婚姻の自由

私は福岡県の日蓮宗の寺の次女で、今は実家から企業に勤務に行っています。実家の寺は長女の姉が婿養子を貰う予定でしたが、うちの正干与の寺の住職が持ってきた見合いの話を受け、東京の寺に嫁がせることになりました。 よって私に実家の寺の継承の話が回ってきたわけですが、私は継ぐ気もなく、会社員の方と恋愛しているので、僧侶と結婚する気もなく、そろそろ実家を出ていくつもりです。しかし父は3年間したら戻ってこいと言います。そこで思ったのですが、日本国憲法では職業の自由も婚姻の自由も保障されているのに、人々の幸福のために働いている僧侶たるもの(父)が、そのように実娘の意にそぐわない婚姻をさせようとするのは、僧侶としていかがなものだと思われますか?姉も結婚などしたくなく泣いておりました。前時代的にもほどがあるし、うちの寺も檀家が減っており今後経済の保証があるかどうかもわかりません。寺の継承のための親のエゴでしかないように私は思います。実際姉の嫁入りの話も私には秘密裏に行われており話し合いもなにもなく決まりました。反発をすると感謝の意が足りないと言ってきますが、それと継承の話は話が別だと思います。 また、父母は私に「信仰しろ、拝みなさい」と言ってきますが、信仰とはそのように強制されるものではないと思っております。また生まれた家がたまたま寺であったというだけでその寺の宗派の信仰をしなければなりません。これは寺に産まれた場合、信教の自由はないのでしょうか?"改宗は良くない、バチが当たる、絶対に良いことがない"、などとよく言われてきましたが、改宗は本当に良くないことでしょうか。 現在の日本では宗教より法律が上です。私の人権、私の法の下の平等は宗教により制限されている気がします。 他のお正人方のご意見をお伺いすることができればと思います。

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色々つらいです

姉弟で差がある家庭で、姉だ・女だと事ある毎に理不尽で我慢し、甘えられず頼れず、羨んで憎んでヤケクソな強がりでその場を強く切り抜けましたが、更に憎たらしく思われた日々。 時は過ぎ結婚・出産し、相変わらず差別や罵倒はあったものの初孫はとても可愛がり愛情を見せ、子育てで助けてもらう内に、親に対するマイナスな気持ちも薄らぎ感謝し、私も親の苦労が理解出来る立場になった事でお互い穏やかになりつつあったのですが…親は突然倒れました、救命措置で命は助かったが脳挫傷で意識不明・寝たきり、気管切開で喋れず・食べられずです。そこからは少しは意識はあったけれど病院の診立ては違いリハビリは出来ず、本人も私達も辛い入院が続き、何とか復活を願ったのですが自分たち素人に出来る事は少なく、お見舞いで明るく振る舞ってマッサージや手を握り励ますくらいしかできないのが歯痒くて、とても辛く悲しくてショックで心が変になりました。そして寝たきりのままどんどん悪くなり一年後に亡くなりました。 辛い。残酷だ。恩返しも感謝もこれからだったのに、1人親なのに、孫ともお互い唯一の存在でとても仲良くて子供の心の支えでもあったのに、どうしてこんな酷さで持っていない所から奪っていくの?と受け入れられないで居ましたが 主人は、それは神様が決める事、そして皆んなに訪れる事だから天命だから受け入れよう、と言います。受け入れることは諦めることとどう違うのかわかりません。教えてください。 そして将来がとても不安になりました、親の死の後にもお金が動き手続きで忙しくて、親戚やきょうだいが居る事で助けになったのに、一人っ子で親戚の無い我が子の将来が心配でたまりません。不安と心配と後悔と悲しみで気が狂いそうになる時があります。救いの言葉をください。 それど死んだ後は各宗派によっても違うし、浄土やら魂やら輪廻やら何が本当ですか?ずっと見守っているのですか?生まれ変わるのですか?死後のことはわからないはナシでお言葉をください。よろしくお願いいたします。長文失礼しました。

有り難し有り難し 20
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読経

昨日、母の初盆で自宅にお坊さんに来ていただき、読経していただきました。 今まで無宗教だのあの世は信じないだの威勢のいい言葉を並べて生きてきましたが、母の死に直面して、純粋に「苦楽から解放されてあの世では安らかに過ごして欲しい」との思いで父方の宗派の浄土真宗大谷派のお寺さんにお願いして節目の法要をお願いしています。 お坊さんの法話で、私たちが心配しなくても極楽浄土で過ごされているから心配は無用なんだとの旨を教えていただき、少しずつ自分でもネットで調べて仏教に触れ、今まで無知だった仏教に対しての印象も段々と変わってきました。 そんな私のお坊さんに対する疑問ですが、母の法事のお坊さんの読経中は生前の母は「こんなことあったな」「あんなことあったな」と色々思いを馳せたり、お坊さんの「南無阿弥陀仏」が聞き取れた時はお坊さんの言葉に重ねて頭の中で南無阿弥陀仏と唱えているのですが、未熟なものでそのうち「お経長いな」とか「お坊さん、歌うまそうだな」とか「お経は何て言ってるのかな」とか色々と雑念がわいてきて、母や法事と無関係なことを考えてしまいます。正直お経の意味すら知らない自分が読経に合わせて手を合わせることに意味があるのかなんていう素朴な疑問もよぎります。 自分でも失礼だと思うし、「せめて今日ぐらいはお袋や先祖さま、お袋も可愛がっていた先代のペットのことを考えてやれよ!」と自分自身に突っ込みをいれたくもなるのですが、失礼な言い方ですが読経に自分でか「飽きてしまってる自分」もいるのだと思います。 そこでお坊さん方にお聞きしたいのですが、法事はもちろんこれからも参列する機会もたくさんあると思いますが、お葬式やお通夜など含めてお坊さんの読経中はどういった心持ちでいるべきなのでしょうか? もし同じような雑念が出てきてしまったら、どのように持ち直す?脱線を修正したらよいでしょうか? またお坊さんたちは自身のお勤めの際、どのようなお気持ちで読経なさるのですか?例えば劇の時のように、感情を込めてそのたちばになりきるように、お経の中の言葉の意味に思いを込めて唱えられるのでしょう?また同じような雑念がわくことはありますか? 子供じみた質問で申し訳ありません。

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子供は親を選べないのでしょうか。

子供の虐待死が相次いで報道されています。子供を持つ親として、また一人の人間として許せない気持ちになる毎日です。 もし、身近で様子がおかしいなと感じる子供がいたら、何と言われようが食い止めたい、絶対に見てみぬふりはしないと心に誓っています。 そんな虐待死のニュースが溢れている中で、ふと、親と子供の魂の関係についてお坊様に聞いてみたいと思い、投稿させていただきました。 私は特定の宗教に属してはいませんが、不思議な話(霊的なものから宇宙まで何でも)にはどちらかと言えば興味がある方で、不思議関係の本なども読んだりもしますが、中にどんなふうに生まれたか記憶があるという幼児の話を幾つか知っています。表現の仕方は様々ですが、「お父さん、お母さんを選んで上(天国)から長い滑り台で降りてきた」なんていうのもあります。私は「親を選んで望んで生まれてきた」という記憶のある子供の話が全て戯言とも思えません。でも、これらの話が真実だとすれば、虐待を受けるであろう親をわざわざ選んで生まれてくるだろうか…という疑問も残ります。 因果応報で、虐待受ける子供は、前世で悪いことをしたから、今生でその報いを受けているという説も読んだことがあります。が、あまりそのようには思いたくありません。それでは結局負の連鎖が続くばかりで、そんなことを天が望んでいるとは考えたくないからです。 今生は修行の場だから、この世での行いはポイント制になっていて、善行によりポイントが高い者は来世の運命がある程度選べる(どの両親に生まれたいかが選べる)が、ポイントが低いと選べない…という説も読んだことがあります。ポイントというと安っぽいですが、ある程度なるほどなあ、とは思いました。 宗派などにより、考え方は異なるかと思いますが、お坊様たちは虐待を受けるような子供と親との魂のつながりをどのように捉えていらっしゃるのでしょうか。

有り難し有り難し 8
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