お坊さん こんばんは。またお聞きしたいことがいくつか浮かんできてしまったので、こちらに分けて書き込みます。 先日、自分がした質問(25歳、これからの生き方について等)とお坊さんからいただいた回答に改めて向き合い、状況を少し客観的に見られるようになりました。20代後半という状態に突入し、どうしようもない焦燥感を持っています。職場にうまく馴染めなかった、大学院が思っていたような場所ではなかった、趣味も人付き合いも嫌気が差してすぐに放り出してしまう。何事も身にならない自分に対して、同世代である友人は毎日働いて社会経験を積み、結婚して家庭を築き、学会に出て研究業績をあげています。 自分だけ時間が止まっているようです。止まっている場合ではない、早く自分の道を選ばなければいけないと思って、資格や他の教育機関の受験、意経験分野の仕事の面接などに挑戦しましたが、ことごとく結果につながりませんでした。おそらく、行動の原点が「今の大学院へ行かないための理由づくり」という消極的な姿勢も関係してしまっていると思います。 この歳になると、今までと同じ道を進むなら、それなりのアウトプットが求められることを覚悟しなければいけない、と感じます。また、違う道へ運良く進めても、また同じ道へ戻りたいと思ったり、さらに違う道へ進もうというのは、もう許されないとも感じます。息苦しいです。どんどん選択肢が狭まっていくことに耐えられず、選ぶことが怖くなっています。他の20代後半のみなさんは、気がおかしくなってしまいそうな焦燥を、どのようにコントロールしているのでしょうか。お坊さんは、仏様を信じることで、このような状態から離れているのでしょうか。
旦那との関係性もあまりよくありません。 不妊治療もうまくいきません。 昔は幸せな恋をしていたし、幸せな人生を歩んでいたと思います。 年をとるにつれて将来が不安になるばかりで希望が持てません。 若い頃は不安なことやうまくいかないこともあったけど、いいなと思うこともたくさんありました。 今はいいこともあるけれど不安がたくさんです。 人間は不幸と幸福のバランスがあるのですか? 不幸なところがあるから片方がうまくいくのでしょうか? 逆に、うまく行ってる部分があるとそれ以外は不幸になるのでしょうか? 自殺をしたらその後も苦しむのでしょうか? もし不幸と幸運のバランスがあるのだとしたら、うまくいく部分があるのは嬉しいけど不幸な部分はそのまま。 不幸な部分がうまく行ったら今ある幸福な部分はなくなる。 そんな人生なんてひどいと思います。 希望が持てなくて、不安ばかりで、人が羨ましくて、自分がどんどん嫌いになりそうで、人生失敗したのかとおもいます。 これから先に希望が持てないのに、生きていくのは辛いです。 自殺したらその後も苦しむのだとしたら、殺されたり病気になるのは別なのでしょうか? その気はないのに死ぬという状況にならないと、だめなのでしょうか? どうして、こんなに苦しむのでしょうか。 前世で悪いことをたくさんしたのでしょうか。 それとも、若いとき幸せな時期があったツケなのでしょうか。 生まれて生きていくのは、本当に幸せなことなのでしょうか。
はじめまして、すもももと申します。3年前に大学を卒業して以来、自分の進路が定まらず、最近はもう挑戦する気力もなくなってきました。 新卒で入社した会社には人間関係で悩み、より自分の個性を活かせる研究職を薦められ大学院に進学しました。 しかし、研究室の雰囲気に馴染めず、すぐに不登校になりました。辞めてはいないものの、アルバイトを転々とし、いまは大学院を辞めて就職か、留学か、結婚して身を固めるか、大学院に通い続けるかで悩んでいます。 結婚は付き合った彼とかんがえていますが、早くも結婚式の方向性の違いからすれ違いしてしまう予感がしています。 何にも向いてない可能性も高く、無駄に生きて精神力やお金を消費するよりも、好きな場所で好きにいなくなれたら楽だし、それが一番な気もします。 とりとめのない質問ですみません。わたしはどのように、この先の進路を決めていったらよいでしょうか。
私はドラマ・アニメ系の業界で働いていて、大学の頃の友人も同じ業界で働いています。私は働き始めて5年目なのですが、最近、先輩、同期や友人が出世し(番組の重要な肩書を得る、インタビューを受ける、界隈でちょっとした有名人になる、等)、それが嫌で嫌で仕方ありません。 この嫉妬心が、30代に差し掛り、どんどん大きくなっています。「嫉妬をバネに」という言葉もありますが、この嫉妬心は自分の心を腐らせるだけになっている気がします。 私自身、自分の仕事に誇りを持っています。日々、目の前の仕事をこなすことで会社、取引先やお客様の役に立っているはずです。 それでも嫉妬心が抑えられません。死ぬまでに有名になりたい、肩書を得たい、他人から非凡だと思われたいという欲。はっきり言って邪魔です。こんな気持ちは捨てて、まっすぐ穏やかに日々を過ごしたい。真摯に仕事に向き合いたい。同門の仲間たちの出世は、手放しで喜びたい。 この嫉妬心を無くす、あるいは、無くせなくても、薄めるヒントが欲しいです。お坊さんやこの相談をご覧になっている皆様も、嫉妬心で苦しんだ経験はおありでしょうか。お言葉をいただけますと幸いです。
傲慢な性格とは何がキッカケで形成されるものでしょうか? 家庭環境だとしたらどういう状況だとそうなるのでしょうか? 職場にそういう人がいるのですが、対応の仕方が難しいです。
齢30を前を区切りとして、生来の性格と言動を見直した時、己の心の弱さ・下賤さ・欲深さを認知しました。特に、承認欲と嫉妬心が強いことに、ほとほと嫌気がさします。 色々な苦悩と対峙した人生を、今後も歩み続けるのだと、考えたとき、仏教の思想を身に着けることが、良き処方箋になるのではないかと思いました。2000年も前に同じような悩みを、哲学された御仁がおられるのですから。 どこかの宗派に属して、少しずつでも仏教の学びを深めてゆきたいのですが、はて、どの宗派を選択すればよいのか?どのような観点をもって選択すればよいのか、全くわからず困惑しています。 宗派の思想に共感した所を選べばよいのでしょうが、仏教やその歴に浅学な私が、適当に選ぶことも憚られます。また、(思想・精神的な面も含めた)戒律の制約なども関わるとすると、一層、選択が複雑となります。だからといって、自宅から近い、近所のお寺に伺うことも、どこか礼を失している気がします。 そこで質問なのですが、どのような着想をもって、宗派を選択すればよいのでしょうか?また、参考までにお坊様は、何を根拠に現在の宗派を選択されたのでしょうか?ご教示いただけますと幸いです。
嫉妬心をデイ・ケアのみんな(職員も含め)に見られるのが恥ずかしいので、いつも笑顔(ニコニコ笑顔)で隠してしまいます。。素直に嫉妬心だしたがいいですか?以前、スマイルコミュニケーションで一緒だったデイ・ケアの森さんに、スマイルコミュケーションで嫉妬の質問ばかりしてしまったせいで、デイ・ケアで森さんから距離とられてしまいました、私は、人の不幸探しが好きなので、(しかし、嫉妬心を森さんや職員全員に知られたくないので)嫉妬の質問ばかり森さんに質問してしまいました、私が嫉妬深い性格と言うことは職員全員や森さんにも知られていると思います。。森さんが仲のいい人に言った可能性もあります、、職員さんは森さんにもしかしたら、白川さん嫉妬心強い人だと思うから近寄らないがいいよと言った可能性もあります、私があまりにも、嫉妬心を必死に隠すので職員さんは、私に、嫉妬するのは分かるけど、嫉妬深いのは、とか、嫉妬の質問しないでくださいとは私には言わなかったです。。たぶんこれが原因かなと。。でも嫉妬深い性格を認めることになるので正直言って謝りたくないです。。(森さんに)長くなってすみません、。
4年ぶりに故郷へ日帰りでしが久しぶりに両親と会い、お墓参りに行ってきました。 両親も高齢になりましたが数年前より電話で毎日「何を食べたの?」と親子の話をしているので久しぶり感がないよう感じましたが、二人とも元気そうで良かったと思います。 お墓参りに行き父方、母方のご先祖さまの墓石は隣同士、枯れ葉や草が生い茂り熊手や箒もなく手で雑草を抜き取るだけ、祖父母に近況と御礼をしましたが、祖父母は久しぶりに墓参りに来てくれたが草を抜き取って枯れ葉も掃除しないで帰ったと思ってるのかな、、 子供の頃に遊んだ通りや街、眺めながら両親と一緒にラーメンを食べ買い物に行ったり笑ったり、帰る時に両親が段々と小さくなっていってることを感じましたが誰にでも年齢を重ねると通る道、これはご先祖さまが脈々と繰り返して来て今の僕がいること、感謝の気持ちです。それが生きる意味の一つなのかも知れませんね。 ふと、感じています。
私の職場は女性が多いのですが、オープニングスタッフということもあり年齢関係なく、皆仲良くていい人たちばかりだと思っていました。 しかし最近になって、やはり「結局女の世界だなぁ」というか、一見仲よさそうに笑顔で話しているのに、他ではその人の悪口を言っているのを聞いてしまったり、というような事が増えてきて、私は揉め事やトラブルに巻き込まれたくないと思っているのですが「私もきっと何か言われてるんだろうな…」と思い始めてしまい、前より仕事へ行くのが嫌になってきています。家に帰ってきてからも色々思い出しては、勝手に不安になったりもします。 どんな職場でもそういう事はあるとは思いますが、人からどう思われてるか気にしないでいられるにはどうしたらいいでしょうか?
どうぞ宜しくお願い致します。 浄土宗のお経?の中の言葉で 「心転倒せず、心失念せず、心錯乱せず」 (順番間違えてたり、漢字間違えてたりしたら すみませんm(__)m) が、好きです。 何か問題があった時など 心がフラつかないように、失わないように、乱れないようにしようと思っています。 中々出来てないですが。。。 実際、この言葉の私の解釈があってるかわかりませんので、本当のところの意味を どうぞ教えて下さいませm(__)m 宜しくお願い致します。
実家の居心地が悪く、転職を機に実家を出てから10年ほどになります。今では結婚して子どもも生まれて、私は私で家庭を築いています。 思春期の頃から4人家族(父母私と弟)の中で私だけ馴染めていないような、私の本当の居場所はここではないような気持ちを抱いていました。 両親にはもちろん世話になっているし、優しく良いところもたくさんある親です。 毒親というわけでは全くないのですが、幼いころより「お前の考えてることは理解できない」と言われることも多く、私とは相性が悪いのかなとずっと思っていました。 先日、父母とちょっとしたトラブルになり、それをきっかけに実家に対する違和感が再燃しました。 家も出たのにこの年齢になってまだ幼い頃のことを思い出して苦しむなんて!という悔しさ、 今まで育ててもらった恩・今でも心配してくれて援助してくれることに対する恩、その重さと私の感謝の気持ちが全く釣り合っていないように感じる苦しみ、 こんなことを考えるなんて親不孝だという自責の気持ち、 いろんな感情が混ざって爆発しそうです。 どのような心持ちで実家と接すればよいでしょうか? また、このような気持ちを静めるために参考になるような仏教の教えをいろいろ知りたいです。 よろしくお願いいたします。
現在高3で受験生です。 ここ6年ほどずっと、生きていたくないという思いを抱えながら生きてきました。 私は中学受験がうまくいかず、父親にはよく怒鳴られ殴られ、小学校や塾の先生とも衝突ばかりで、小6の時に恐らく軽い鬱状態に陥りました。 そのまま受験に失敗したので、地元の中高一貫校に進学しました。(受験をさせてもらえた上、私立に通わせてもらうことがどれだけ有難いことかは理解していますし、親にもとても感謝しています。) しかし校風の厳しい学校で、どちらかというとマイペース、というか協調性のない私は全く馴染めず、先生方には問題児と認識されていました。 そんな調子である上に、私はそもそも学校というシステムが苦手で、教室にいるだけで精神が摩耗され、毎日がとても苦しかったです。通学に片道2時間かかることもあり、怠惰さからすぐ不登校気味になりました。人生に少しも希望を見出せませんでした。 中1の冬に初めて自殺を真剣に考え、中2で首を括りましたが、意識が飛びそうになった瞬間怖くなり、未遂に終わりました。その後も何回か出来事が引き金になっては突発的に死のうとするものの、恐怖に打ち勝てずに完遂できたことはありませんでした。一度親にバレて、カウンセリングに通ったこともありましたが、あまり意味はありませんでした。 死ぬことすら満足にできない弱い自分に死にたくなります。 私は比較的恵まれているという自覚はありますし、もっと苦しい問題を抱えている方がたくさんいるのに、この程度で死にたいと言っていることが、甘ったれとも思います。 ですが、どうしても死にたいという気持ちが消えません。私は弱い人間なので、この暗くて悲しい世の中でこれからずっと苦しみながら生きていくよりも、死ぬ方が遥かに楽だろうと思ってしまいます。 もうすぐ共通テストです。 大学に合格し、迷惑ばかりかけてきた家族を安心させたい思い、受かれば人生をやり直せるかもしれないという思いもあります。 なのにここにきてまた、気持ちが沈んでしまいろくに勉強できていません。 机に向かって泣きながら何時間も呆然としている日々です。 なんてどうしようも無い人間なんだと毎日思います。 死にたいという気持ち、苦しい気持ちを抑えて、希望を持って勉強に集中するにはどうしたら良いでしょうか。
別段大きな理由がある訳ではないのですが、生きるのが辛いです。 これまではなりたい職業や結婚して子供を持つなどの夢や目標といったものがあっため考えませんでしたが、なりたかった職業になったものの、想像していたものと違い退職。大好きな人と結婚し、子供も出来、ふと振り返ってみると、これから先なぜ生きるのかがわかなくなっている自分がいました。 今は幸せか不幸かと言われれば幸せだとも思います。 仕事は好きではありませんが、安定しており、それなりの収入もありますが、 特に他にやりたい仕事がある訳でもなく、後何十年も働かなければいけないという事実やこれから動かなくなってくなっていく身体や将来の老後の生活のことを考えると何が楽しいのかわからず絶望しかありません。 もちろん生きているからこそ楽しいこと(家族での旅行や子供の成長や小さいことで言えば、サッカー観戦や待ち焦がれている映画の公開)があるというのは解ります。ただ、それと天秤にかけてもこれから生き続ける方が辛いです。 妻や子供の事は心から愛していますし、家族のために生きるというのが目的になれば一番良いと思うのですが、そう思うことが出来ず、むしろ家族を悲しませない為に生き続けなければいけないということが、苦しいです。 苦しいので色々な本等で調べたりましたが、概ね「人生は生きる意味などなく、どう生きるか」という言葉か宗教的には「人生は修行なので苦しいもの」という、どう生きるかの目標がなく、苦しいのから生きる意味を感じないのに、そもそも苦しい物だというとても救われる答えではありませんでした。 家族が悲しむので、自殺はしないでおこうと思いますが、何か大きな病気や不足の事故などで死ねれば楽なのになと思って今日も生きています。 こんな私はおかしいのでしょうか?おかしい私に何か楽になれる言葉をください。
こんにちは。初めて相談させていただきます。 私は今年、本厄の年です。 ネットで過去に本厄を経験された方のお話を読んだところ、嫌なことがたくさん起こったとか、自分だけでなく家族にも被害が及んだなど、とても怖い内容ばかり書かれていました。 でも数年前からパートも辞め、変化のない引きこもりに近い生活を送っている私は、特に気にすることもなくこれまで過ごしてきたのですが、今年の初めに、叔母さんが倒れたから来てという緊急の電話が親の元にかかってきたことから、やはりキチンと厄払いに行っておくべきだという考えに至ったのです。 親はひどく落ち込んでいて、これは全部私が厄年だからだ…と改めて恐怖を感じました。 久しぶりに外に出て、近所の神社に向かいました。厄払いのあと、叔母さんの体調がよくなるようにと絵馬を書き、賽銭箱の前で手を合わせ、『これから頑張るのでどうか叔母さんの体調を良くしてください』と神様の前で誓いのようなものをたてました。 その後叔母さんの容態は安定し、自宅で過ごしていたのですが、数カ月前に再び緊急入院することとなってしまいました。 私はその時、『これは私が神様との約束を守らないでいつまでも引きこもっているからだ、今からでも動き出せば間に合うかも』と思い、いつ働きに出てもいいように、髪を切りに美容室と、ワクチンも打ちに行きました。 叔母さんは、いつ亡くなってもおかしくないと家族へ医者から告げられていたようでした。 親は動揺して、たまに泣いているところも見たり、常にそのことが頭を離れないようでした。 でも私はあと一歩がどうしても踏み出せませんでした。数年のブランク、そもそも人付き合いが苦手でまともに仕事も出来ない、働きに出るのが怖くて怖くて仕方なかったのです。 そして一昨日、叔母さんが亡くなったと親のところに連絡が来ました。 これは私のせいですか。約束を破ったからですか。そもそも神様の前で簡単に約束してはいけないのだということも知らずに、出来もしない誓いをたててしまったせいですか。ネットで調べたら神様がひどく怒っているのだと書かれていました。 私が頑張って動き出していたら、叔母さんは死なずに済んだかもしれないと思うと親に申し訳なくて言葉になりません。私はこれからどうしたらいいですか。
「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。
四人家族。父母、わたし、大学四年の弟です。 弟のことで相談です。 大学4年の弟が家を出ていく、もう家族とも関わりたくない、縁を切ると言い出しました。 理由は私がわりと勉強が出来たりしたため、あらゆることを比べられてそれが嫌になったと本人は言っています。今まで自分にかけてくれたお金を返してこの家族と縁を切るとまで。 今年就職で周りにいい職につきなさいとか、言われてきたことが負担になったのでしょうか。 親も私だけ特別視するということは絶対になく、本当によくしてくれていたのに、どうして、話しても聞く耳持たずという感じで、、涙が止まりません。助けてください。家族がバラバラになるのがつらいです。
人は死んだらどうなるのでしょうか? 私の周りの一部の''人は死んだら無になる''と言います。でも私はどうしてもそうは思えません。たしかに死んだら形がなくなってしまいますが、魂は無くならないと思います。きっと見えない姿になって生き続けるのだと思います。そんなのはただの願望ですか?たしかに証拠がないので断定はできません。でももし死後の世界が存在するのなら死を目の前にする(私がそういう状況というわけではありませんが)人々にとってとても心強い支えとなるでしょう。まだまだずっと先のことだとわかっていますが、やはり死ぬのが怖いです。人間は死んだら自然の一部になるという考えが一番現実的だと思いますが、それは科学的なことです。今生きている自分の魂(心)はどこへ行ってしまうのか。死んだら全ての記憶や体験がなくなってしまうのか。もしそうならやはり「死」は人間にとってとてもとても怖いものだと思います。生きるということ自体が死によって無駄(リセット)されてしまう。形がなくても魂が永遠に生き続けるということは本当なのでしょうか??
いつもお世話になっております、今日あるお寺さんにお参りした時に引いたおみくじ(厳密には違いますが)にあった言葉で思った事があるので質問いたします そこに書かれていたのは「足るを知る」という言葉で、自分でも何度か聞いた事はあるんですがこの言葉と自分の生活を良くしたい、豊かになりたいという考えは矛盾するのではということです。 足るを知るという事は、自分が恵まれていると感じる事でそれなら豊かになろうとする必要は無いのではと思います。これが足りないから手に入れよう、と考えるもので満足している、恵まれているならそれ以上は必要に感じる事は無いはずです。 数字で言うなら、90%を100%にしようとする事と100%を110%にする事は違うのだろうと思いますが、私にはこの違いがよくわからないのです。 世間で言う金運アップやそれに関する本やその他色々の媒体では後者を言いたいのだと考えていますが、大抵の人は前者で考えそうですし自分もそうなのではと思います。 例えば、年収を倍にしたいとか家が欲しいとかそういったことは現実としてそうなってないから望むのであって、なっていれば即ち満たされていれば望む事がない、望む理由がないのではと思います。 お腹が空いていれば何かしら食べようとしますし、空いてなければ食べる必要はないです。仏教だと欲自体は悪ではなく、どう折り合いをつけるかが大事と聞いた事があるので、欲自体を悪とは言わないのでしょうけど… 自分も含めて現状に不満がある、つまり足りてないから金運アップの行動やその他色々行動をするのであって満足していれば必要性を感じる事があるのだろうかと疑問に思いました。 自分の生活を良くするための色々な行動とこの言葉は両立しないのではと考えて質問しました。自分自身も生活の質を上げたいと思っているので、否定されたとまでは言わないですがこれまでの行動は実は矛盾しているのではと改めて疑問に思いました。 足るを知るからこそ、より良い生活を求められると言う人もいますがぱっと見でも辻褄が合わないように思えます。 より良い生活、豊かさを求める事と足るを知るは両立するのかどうかよろしければ教えていただければと思います。
こんにちわ。 以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。 以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。 さて、表題の質問になりますが、 小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・ 死んだら考えることすらできなくなってしまう。 死んだらこうやって「死」について考えることもできない。 自分という存在はどこへ行くのか。 と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。 葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、 100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、 抗うものではなく受け入れるもの。 そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。 が大事なのではと思うようになりました。 私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。 よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。 宜しくお願いいたします。
夜分に失礼いたします。 私はうつ病で障害者雇用で一般企業に勤務させていただいております。 先日も同様のご相談をさせていただきまして、良いアドバイスをいただき、焦らずにうつ病と向き合い今できることをやってみようと近くのお寺のご住職に相談しにでかけてお話しをしてみたり、主治医の勧めで運動をはじめたりしているのですがいざ出勤となると体が動かない状態が数ヶ月続いております。 こちらでアドバイスをいただき、お寺のご住職のアドバイスもあり1日だけ出勤できたのですが お正月明けからまた出勤ができなくなってしまいました。それも仏様のお導きで私はその中でできることをするのが一番の努力なのではないかと自分なりに解釈しているつもりですし、毎日ではないですが思い出した時には呼吸法と共に「南無阿弥陀仏」を唱えたりさせていただいておりますがふと、他のお坊さんのアドバイスも聞いてみたくなりご相談させていただいている次第でございます。私の中ではこれも仏様が何かのアドバイスとして私に投げかけて下さっている。あとはできることをやってみなさいとご慈悲をいただいているのだと思っておりますが…とは言えこのままの状態で良いのかどうかと迷っております。仕事に対して嫌な気持ちも会社の人間関係にも不満はありません。 むしろ心配していただいたり、お気遣いいただいたりと恵まれた環境です。 今私が他にできることはあるのでしょうか? ちなみに友人と食事にでかけたりすることはできる状態の時もありますが、朝になると出勤ができないという状況です。 お忙しい中ではあるかと思いますがご回答よろしくお願いいたします。