hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
問答一覧
検索結果: 138件

仏教をもっと学ぶ方法は?

こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 54
回答数回答 4
2022/04/20

不安と言霊

初めて質問します。 このところの世界情勢に対して日々不安が増しています。 自分がこれまでどれだけ幸せな環境に生きてきたか心底実感し、これまで以上に感謝しています。 それと同時にこれまで世界で起こってきたことに対してとても無知だったと深く反省しています。 ニュース等を見ると怖くて眠れなくなったり食欲が無くなったりするのですが、見ないと逆に、もしああなってしまったら、こうなってしまったらと考え出したら止まらず、心拍が上がり落ち着かなくなり結局情報を見ています。 元々マイナス思考なのもあるのだと思います。 不安を吐き出したくても、言霊として放たれ引き寄せてしまいそうで言葉にできず溜め込んでしまいます。 今ある幸せな日々をしっかり過ごさないとと思い、極力普段通りに家族と接していますが、楽しいと思えば思うほど心の中で、もしもが押し寄せ心から笑えないです。 最近、飛行機やヘリコプターの音も少し怖くなってしまいました。 どうにか逃げることはできないか、怖さから解放されたい、苦しみたくないなども毎日考えています。 どうにか現実を受け止めつつ、心を少しでも穏やかに保てる方法は何かないでしょうか。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

思い出しムカつきを抑えるには

重ね重ね失礼します。 今回相談したいのは過ぎた嫌なことを思い出してはムカつく心理のことです。 私の推しはTwitter上で活動をしていて、私もたまに推しの名前で検索をかけていました。 ある時推しの名前で検索をかけていたら、 「この人(推し)何言ってるのかわかんないけどこのツイートはムカつく」 「あんたに指図されることじゃないよね」 と言った内容のツイートを見てしまいました。 ツイートの内容は、「差し入れにばかりお金を使っていないで、自分の外見を磨いたり、教養を付けたり、健康的なものを食べなさい」とファンに向けたものでしたが、元々口調が強く、ファン以外には少しわかりづらい文面でした。(このツイートムカつくと書いた方はおそらくファンではないと思います) 私は入試対策や卒業制作がうまくいかずにイライラしており、推しも質問コーナーが荒れに荒れていたことに苦言を呈していた直後だったのでさらに気が滅入っていたし、その状態で該当ツイートを見てさらにイライラしていましたが、「まぁ万人が好くような人ではないし、ツイートの内容もファンしかわからないような内容だからな、誤解を与えてしまうのも仕方ない」と思うようにしていました。 しかし、時間が経ったのにたまに思い出してはイライラし始め、怒りで何も手につかなくなりました。 もちろん「何でこんな小さな事で怒る必要があるんだ、今までは赤の他人のちょっとした一言として流せたじゃないか」とは思っていますし、思い出しムカつきほど無駄なことはないと思ってもいます。 でも、思い出したくないのに勝手に出てきてはイライラしてしまうのです。 このことで私は「このまま別のイライラが入ってきたらどんどん嫌な人間になっていく」と思い、Twitterをやめました。でも、思い出しムカつきは治りません。 もう誰も悪くないのに一人で勝手にイライラしている状態から早く脱却したいです。

有り難し有り難し 22
回答数回答 1

在家出家・親の理解

私は普段お寺で坐禅をしておりますが、時々出家の言葉が頭に浮かびます。 それで、一度だけ母に出家したいと言ったことがありますが、 何でそんなことを言うの?と嫌がられました。 私には姉が二人おりますが、(三姉妹です) 一人は自分の思い通りにいかないと少々イライラする人で、 もう一人はシングルマザーで精神疾患があり、自立できておりません。 子供も不登校で、両親の援助で生活をしております。 そういうこともあり、自分達の老後の世話を私に看て欲しい願望があるようです。 あとは、出家するとほぼ会えなくなるのだろうと、それが嫌なようです。 私も同様に、会うことはそうそうできないのではないかと想像しております。 私も今まで自分で苦しみを作り、はまっていたことがありましたが、 今は少しずつ解けていっております。 思い込みの苦しみに囚われている人達の手助けになりたいと思うのですが、 そのためにも、もっと本格的に仏道に打ち込みたいと願っております。 両親に納得してもらうにはどうしたら良いものでしょうか? 在家出身の方もいらっしゃいましたら、是非経験談をお聞かせ願えませんでしょうか? どうぞ宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 28
回答数回答 2
2024/01/22

寂しさや虚しさに向き合うこと

こんばんは。 最近、訳もなく寂しさや虚しさを感じることが増え、何故なんだろうと思い質問しました。 例えば誰かと一緒にいる時、楽しいはずなのに「寂しいな」と感じてしまったり、目標に向かって頑張っている時、ふと「虚しいな」と感じてしまったりします。 昔からそういう感覚はありましたが、最近になってそれが顕著になり、どうにも気力が続かない日々が増えたように思います。 私は26歳の独り身で、ある程度社会人生活にも慣れ、周りが結婚や出産といった新たなライフステージを進んでいく年代になっているため、漠然と将来に不安があるのだろうなとは思います。 私は今まで恋人がいたこともなく、結婚に対してあまり良いイメージを抱いていないため、誰かと人生を歩む未来を上手く想像できません。これから仮に一人で生きていくとなっても、自分が納得しているなら別にそれでいいと思っていました。 けれど、あと何十年も、自分が生きるためだけに汗水垂らして必死になって働いて、果たして私はこの寂しさや虚しさに耐えられるのだろうかと不安になります。 よく「自分のためではなくて、他人のために行動しなさい」と言われますよね。 私自身も、誰かの役に立てた時、心から嬉しいし、満たされていると感じられる気がします。 だから、というと押し付けがましいですが、周りの人たちには感謝していますし、優しくしてもらった分私もたくさん返していきたいと思っています。 義務感からではなく、本当に大切にしたいと思える人に、そう接しているつもりです。 それでも「虚しい」と感じるのは無意識に見返りを求めているからでしょうか。 「寂しい」と感じるのは、やっぱり一人に耐えられなくて、誰かを羨んでいるからでしょうか。 私は、結局自分のことばかり考えている利己的な人間なのでしょう。そんな自分に辟易とします。 いつか自分を好きになりたいと思いながら日々を生きています。自分の良心に従って、自分の気持ちに素直に生きようと考えて日々を生きています。 そしていつか、誰かを愛することができたら、私は満たされるのかもしれないとも思います。相手がいるからどう、という訳でもないかと思いますが。 こういう「寂しさ」や「虚しさ」はきっと死ぬまで付き纏ってくると思うのですが、お坊さんたちはどのような心構えで向き合ってらっしゃるのか、ご意見をいただきたいなと思います。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

宗派を選ばないと仏教徒になれないのでしょうか

この度はお世話になります。 私も家族もキリスト教の洗礼も受けていないし、仏教の宗派にも属していません。 きちんとどこかに属されて宗教を信仰されている方々からしたら無宗教と言われるかもしれませんが、神様、お釈迦様、仏様・・・具体的には分かりませんがすべてに感謝し、毎日何度か感謝と祈りを心の中で唱えています。 両親の実家はお寺とのお付き合いもあり、法事もきちんとされていたのですが、私の実家は兄弟が多く、裕福な家庭ではなかったので日々の生活に追われ、お寺とのお付き合いなどもありませんでした。 でも、母は自分が小さい頃に両親から聞いた仏教のお話を私たち子供にしてくれて、兄弟は皆おとぎ話か昔話のように興味深く聞いていたのを覚えています。 先祖の仏壇にお供えをし、お線香をあげ、手も合わせています。 最近仏教についていろいろ調べて、興味を持ちましたが、知ることが増えるにつれて、分からないことが出てきたため、どの宗派がいいのか決められません。 そこでいくつかお話をお聞かせいただけたら幸いです。 ①宗派に属さないと仏教徒とは言えないのでしょうか。 ②もし、宗派に属さなくても、仏教を信じる場合は、どのように手を合わせ、何と唱えればいいのでしょうか。宗派によって違うと思うのですが、共通するものや一般的なものがありましたらご教示ください。 ③仏教を信じているけど宗派に属していない場合は、お葬式、戒名、位牌などはどうすればいいのでしょうか。 ④日本でのお葬式は仏式が多いと思うのですが、仏教徒ではなくて仏式のお葬式をあげているだけの場合でも、戒名や位牌をいただくだけで出家して成仏し、極楽浄土へ行くことができるのでしょうか。 ⑤仏教を信じ、どんな困難も乗り越えて、真面目に、人を助け、一生懸命に生きた人でも、宗派に属さない、または宗派を決められないために戒名も位牌もない場合は成仏も極楽浄土へ行くこともできないのでしょうか。 調べているうちに、どこの宗派にも属さない単立の寺院や神社もあると知りました。 でも、それはそれである意味、単立という宗派のようにも思ってしまいます。無知な意見をお許しください。 お答え辛い質問かとも思いますが、ご教示いただけると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 28
回答数回答 2

孤独と劣等感でとても辛いです。

私は暴力的な父の元に生まれて、兄弟と共に殴られて育ってきました。父は働かずに祖母の貯金で生活費をまかない、また風俗で遊んだり、それに加えて兄にも何百万の借金をしていました。いろいろな問題があったせいで幼い頃から私の家庭はギスギスしていて家族はみんな仲が良くありませんでした。 また私は中学校で虐めを受け、その虐めと家庭環境から薬を飲み自殺を図ったのですが、結果死ねずにうつ病と診断されました。 私はその結果、中学校に通うのを辞め、また家庭でも孤立していました。 私はそれから高校へ進学せずにずっと好きだったバンドをやるために3年間フリーターをやるのですが、病気のせいか音楽がだんだんと苦痛になってストレスで精神科に入院しました。 精神科を退院して私はすぐバンドを辞めました。そして通信制高校に通い始めました、今年で2年生です。 私には何年も交友があった音楽好きの地元の親友がいるのですが、彼らは昨年大学に進学したあたりからどんどん疎遠になっていき、それぞれのバンドや大学の友達と毎日楽しく過ごしているらしく、学校も音楽活動も充実しているようです。 その音楽仲間と地元の友達で最近、久しぶりに集まって飲み会をしたのですが、彼らは音楽活動の話をずっとしていて、自分の夢や大学生活を楽しそうに語っていました。私は悲しくてずっと黙っていました。また、話題が恋愛に置き換わり、そしてその11人のなかで交際経験が無いのは自分だけでした。そしてそれを言った途端に憐れみと嘲笑の目で見られました。私は誰とも付き合ったことがありませんし女性の友達すらいません。悔しいし悲しかったです。私は飲み会でずっと黙っていました。 たしかに私は友達が好きなのですが、彼らといるとこのように私は劣等感で押しつぶされそうになります。彼らは私と違って学校の生活を楽しみ、友達と遊び、恋愛を経験し、音楽活動もがんばっています。私は彼らといると自分が惨めで仕方なくなります、だからバンドを辞めたあたりから私は彼らと距離を置くことにしました。 だから私はほとんどの日を一人で過ごしています。誰とも会話しない日がほとんどですし、上に書いたように家庭環境が崩壊しているので家でも会話はありません。音楽も辞めたので生きがいが何もありません。 最近、自分の不甲斐なさや劣等感や孤独感で頭がおかしくなりそうなくらい辛いです、どうしたら良いでしょうか。

有り難し有り難し 16
回答数回答 2

お寺に通うことは可能ですか

3度目の質問になり恐縮です。 新型コロナがおさまった後の話ということで、ご相談させていただけますか。 タイトルのとおり、お寺に通うことは可能かどうかについてです。 私は子供のころ、比較的お寺に親しんで育ちました。 法事以外でも、近所のお寺でご住職様のお話を伺ったこともありますし、仲の良かった友人の実家もお寺でした。 両親は、お寺の方を信頼し、お墓参りなども大切にしていたと思います。お寺の静けさと、さりげない人の気配に、子供時代の私は安心したことを覚えています。 その後、私の実家のお墓は兄が守ってくれることになり、私は地元を離れて結婚しました。 夫の実家は、事情があってどの宗教からも距離を置いており、夫の両親も夫も、今後お墓を持つ予定はないそうです。 そのため、私と家族は今、お寺や神社、教会といったすべての宗教と縁のない生活を送っています。 しかし、私は近年、年を重ねるごとに様々なことを考えるようになり、また子供のころのように、時々お寺に行ってお坊様のお話を伺ってみたくなりました。夫は「自分は宗教にはかかわらないが、君が一人で行くぶんには構わない」と言ってくれています。 少し地域のお寺を調べてみましたが、檀家でないのに一人でふらりとお寺を訪れるのは少し敷居が高い気がいたしました。法話の会も開催されているようですが、檀家の方や年上の方ばかりだと少し気おくれしてしまいそうと感じたり、一人で参加するのが不安であったり、いろいろなことを気にしてしまいます。 それならば一人で仏教を勉強しようかとも思いましたが、私は仏教を学びたいというよりは、どちらかというと、お寺やお坊様とつながりを得たいのだと思います。 私には今、ふと心が迷ったときに、自分の家以外に向かう場所がないからです。 お坊様に個人的に悩み事を相談するために伺いたいわけではなく、ただ、お堂でしばらくの時間座らせていただくだけでも十分気持ちが安らぐ気がいたします。 もちろん、自分の家は安らぐ場所ですが、ずっと引きこもってばかりです。 社会との接点として、お寺とつながりを持ちたいというのは、あまり一般的な考えとはいえないでしょうか。(ふさわしくない場合は、はっきりご教示くださってかまいません。申し訳ありません) 御多忙な折に、読んで頂きありがとうございました。

有り難し有り難し 10
回答数回答 1
2022/03/09

存在そのものを悪と断じずにはいられない

「生きているのではなく、生かされていることに感謝すべき」だとおっしゃるのでしょう。 けれど、どうしても「生きていること、生かされていること」を肯定的に捉えることができません。 「盲亀の浮木」というように、この比較的平和で当たり前のように安全な生活ができる存在として生まれたことそのものがとんでもない奇跡、という理屈も承知しております。 しかし、「だから生まれたことに感謝すべき」と言われても感情が追いつかない上に、「存在するということはとんでもなく危険なことなのに、誰もそこから逃れられない」と、存在そのものをどうしても否定したくなってしまいます。 限られた運の良い生き物しか安全に生きられない。 限られた運の良い人間しか生きることを許されない(そんなことはないとおっしゃるかもしれませんが、自己責任論と優生思想のほうが人間の本音だとどうしても思ってしまいます)。 これまでの人生で幾度となく自殺を考えましたが、死んだところで「存在」からは逃れられないと気付き、「じゃあ生きるって何なんだ! なんでこんな悪趣味なことを強いられるんだ!」と、閉じた恨みの感情ばかりが強くなります。 所詮、うまくいかない自分の有様と社会問題を歪みきった認知で安易に結びつけているだけなのでしょう。 ただ、そこから脱却するための、理論的にも感情的にも強い根拠が見つからず鬱屈としています。 「生き物だから生きるのだ」と言われても、「それは存在の『罪』から目を背けているだけだ」「生きることは悪であるという、自分にとって都合の悪い真実を見て見ぬふりしているだけだ」と思ってしまいます。それとも、私が「生きることは善である」という真実を見て見ぬふりしているのでしょうか。生きることを肯定されてしまっては、私の苦しみに満ちた人生をも肯定しなければならないから、「生きることは悪である」という幻想に逃げているだけだとおっしゃるのでしょうか。 痛みや苦しみを憂うあまり存在さえ否定したくなるのが煩悩だとしても、「存在することをやめたい」「ありとあらゆる感覚器官を捨て去りたい」「物質的制限にまみれたこの次元から脱出したい」と思わない時はありません。 まして、この世界から「生きるに値する根拠」は急速に失われつつあるのではないでしょうか。 死ねないなら生きる苦痛を受け入れなければならず、しかしその覚悟が決まらないのが課題です。

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

お坊さん33秒法話ピックアップ