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検索結果: 1265件

『とらわれない心』について教えてください。

3年位前に、お坊様がTVで『とらわれない心が大事』と話されてるのを観てから、ずっと気になっていることがあります。 『とらわれない心』というのは、自分の欲や我を手放して、人と争わずおだやかに生きること、ではないかと私なりに受け止めました。 でもそれで、『私はこうしたい、こうなりたい』という目標があって、人と意見がちがったら、『私はこうしたい』と言うのは『とらわれている』のでしょうか? 意見がちがうときは自分か相手が譲るか、全く別の案を見つけるかだと思うのですが、いつも自分が譲るスタンスなら私はその人のいいなりになってしまいそうです。 自分の欲というのは望みであり、自分のあかしでもあると思います。 その欲=望みがなるべく汚いものではなく、きれいなものであるように願っていますが、他人から見たら『我』でしかないのでしょうか? とらわれない=思い通りになるようコントロールしない、ということだとしたら、将来に期待はしないでただのぬけがらになってしまわないか疑問です。 私も未熟ながら、人にやさしくありたいと願っています。相手にとって安らげる存在になりたいです。自分と相手をともに大切にして、なおかつ『とらわれない』境地って私にはまだわかりません。 どうか、私に道を説いてくださいますよう、お願い申し上げます。

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疲れました。助けて下さい。

親の子育ては失敗ですよね? 子供の頃は親から 「お前はどうせ何をやってもダメなんだからやめろ、諦めろ」 「なんでこんな事もできないの?」とか言いまくって褒めてくれた事なんてないのに いざ自立してから 「やれる事は全てやってからだ、全て諦める人生になるぞ」「もう30才で大人なんだから、しっかりしてよ」 と言われます。 確かに私は社会常識のないクズですけど あんたら親が幼少期の人格形成に重要な時期に自尊心の育たない子育てとしつけばかりしてたから 私みたいな人間が育ったんだよ、お前らのせいじゃんと思います。 小さい頃親に悩み事や弱音を言うと頭ごなしに否定され怒鳴られるばかりで、 具体的なアドバイスをもらった事がありません。 小学校低学年で親に何をいっても無駄と言う考えになり、それが対人関係にも影響しお陰で人に頼るとか、相談するとか甘えるとか、悩みを自分の中で溜め込み 社会に出てからホウレンソウが出来ず苦労しました。 幼少期の実家は掃除もしてないので散らかり放題。 キレイな家が当たり前と言う感覚がないので、 一人暮らしの今でも掃除や整理整頓が苦手です。 私は両親のデキ婚の子です、妊娠当時両親にどんな背景があり出産したかわかりませんが まともに子育て出来ないなら産んで欲しくなかった。人生あと数十年生きるのがばからしい。 結婚は無理なので、動物が昔から大好きでペットを家族にお迎えしたら私の生活も少しは変わるでしょうか。 でも、 私に飼われるペット達がなんだか可哀想なのであとは自殺か何か消える方法を教えて下さい。

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結局仏教は人間が作ったマヤカシですよね?

ある仏教は、踊って念仏を唱えれば極楽往生ができるとかなんとか。 ある仏教を考えた人は苦行をするなといってるのに、ある人達は千日回峰◯をやり。 ある仏教を考えた人は欲を断念してこのクソ(この世界はクソです死も欲も病も苦しみも弱肉強食というルールもうえつけたクソな存在が作ったクソな世界)にまみれた世界から逃れようと考えた。 しかし今いる仏教の人達は、結婚もして死んだ人にお経を唱え、大金をもらい。 そして無知な人達は、それをありがたいと思い仏教をますます勘違いさせる。 仏教は政治に使われ、金儲けに使われ。 ナンジャコリャって感じ。 いや仏教道を貫いたとして、この世界の理をわかる仏教の偉い人はいないし、みんなを幸福にしてくれたり教えたりする仏教の人もいません。 例えば、説教みたいな形で君は考えが甘いとか言われてしまいます。その甘い考え(脳や思考回路の伝達物質やらなんやら)を作ったのはその仏様じゃね?と思うのです。 またじゃあ知能が低くて仏教すらわかんない存在に生まれた健常者って苦しむだけ?人間界に生まれたのに解脱できずに苦しむの?って感じです。 私は仏がもし存在するのなら私の全存在をかけて恨み通します。それだけ極悪非道な存在だと思います。 結局仏教って、一部の恵まれた人しか心理には辿り着けず、一部の生まれてきた親が仏教系の人が金儲けのために仏教を難しいことにして他人を説教して世の中のおかしな所をみてる若者に対して考えが甘いとかいって批判するのが仏教?

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「アブラハムの宗教の唯一神」の仏教的解釈を教えてください。

仏教は世界に名だたる宗教ですが、最も信者が多い宗教は何と言ってもキリスト教、ですよね?またイスラム教もかなりの影響力がありますし、それらの始祖たるユダヤ教も、アメリカの政経界に強い影響力を依然として持っていると聞きます。 そんな世界的な影響力の持つ、これら一神教が冠する「アブラハムの宗教の唯一神」に対して、仏教がなんのアプローチもした事がないとは個人的には考えにくいのですが、なんらかの仏教的解釈を加えて、仏教の中での位置づけ、みたいなものが決まっていたりするのでしょうか? ヒンドゥー教や神道などの多神教の神々を仏教の中に取り込んでいくのは、日本でも本地垂迹の歴史等があったように、既にやられて来たことですし、個人的にもそこまで波風が立つような事ではないと思います。 が、流石に「アブラハムの宗教の唯一神」を仏教の中に位置づけようとすると、各一神教徒から「そうじゃねーよ唯一神なんだよ!仏の中に入れるんじゃねーよ」と大バッシングが食らいそうで、なかなか難しさを感じます。 他宗教との兼ね合いの話になってはしまいますが、もし仏教として果敢に唯一神を取り込もうとした歴史や、または現役のお坊さんとして私はこう考えているなどありましたら、小生にご教授頂けたら幸いでございます。 ※最後に、小生はあくまで仏教や神道、一神教に対してはズブの素人です。質問文に根本的な間違いがあるかも知れません。その際はお手数ですがご指摘願います。

有り難し有り難し 62
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自殺って最高の救いではないか?

全ての苦しみから逃れることが出来、生きるという動から離れることができる。 自殺に対して迷惑!とか好きに死んでもいいけど、他人に迷惑かけるクズは死ぬべき!とかいっちゃう世の中の大半の利己主義な人達からも離れることが出来ます。 自殺は迷惑というのは=自分が損したくない、もしくは自分が死ぬ時に社会の迷惑になってないと思ってるお花畑。老人になって大量の国家予算のかなりの占める医療費を国が払い沢山のワーカーの働きにより初めて死ぬことができる。 しかし自殺は家で首をつれば終わり。アマゾンですぐ買える。 死ぬ前に警察でも業者でも呼んでおけばいい、もちろん死体の横に迷惑料数十万とか置いて掃除代金や葬式代にして貰えばいい。首吊る場所も山の中とかにすればいい。 本来ならマグマに落ちるとかそういうのが完全に死ぬ方法としては最高だと思うけど、そもそもマグマには行けないし遠い。 家族も悲しむけど、それだけ、遺書も70年分くらい書いたりしておけばオッケー。 でも生きてて変な苦しい生き方をしてて親も苦しんでるなら自殺した方が良くないか?と思うのです。 どうせこれから生きててもいい事はないし、小さなくだらん事で幸せを、噛み締めて生きるよりは安楽死した方がマシだろう。 いや実際こわいと思う、死刑囚と同じ死に方だし、何千億年も経っても目覚めないってのが壮大に怖い。 でもおそらく大半の自殺者はそれよりも今が苦しかった、あんまり考えてない小学生とかでも自殺してておそらくその場の雰囲気が大事。 輪廻転生とかいうけど本気で信じてるなら死も怖くないはずだよな。 生まれてきて知的障がいとか植物状態とかに生まれたらそもそも生きてる私という認識すら持てない認知症もそう。俺たちは結局は脳で動く電気信号にしか過ぎないって。 ISISとかの動画とか見たことあります?頭打たれて顔がそもそも原型をとどめていない。そんな人達が意識を残してると思う? 首切られた人は叫んでいて、ある一定に達したら半目になって徐々に意識を失う。 彼らの輪廻は?意識は?沢山殺した人はどうなるの? 結局チリになるだけだろう、魂なんてものはなくてコンピュータシミュレーションのようなこの世界で苦しみいつか死ぬ それが早いか遅いか。 何をしても苦しみはなくならない。 だから私は自殺は最高の救いではないか?と思う。そう思わないでしょうか?

有り難し有り難し 136
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納骨について

色々な質問にご回答頂き、ありがとうございます。 以前から供養、お盆、お寺さま、お墓のことと質問させていただきました。 今回も納骨についてですが、このお盆が母の初盆でした。お骨もまだ納骨できず(先祖代々のお墓が香川県にあり、私の体調も悪いため)、 弟の私が仏壇とお骨を供養しています。お盆のお経を頂くためお坊様に来ていただくことにしたのですが、その前日の昼に酔った兄から電話があり、いつ行けば良いか確認してきました。元々いつ行けるか分からないと言っていたため、お坊様が来られる日なら、早めにきておいてほしい、次の日ならいつでもいいからと伝えました。そして、生前に母が知らない土地の先祖の墓には入りたくない旨も伝えたところ、兄は憤慨し、父とバラバラにするのか?先祖はどうするのか?と。兄はいつまでも墓があり、自分たちも入り、娘に面倒を見させるつもりでした。 以前からご回答頂いているように、三十三回忌で撤去されたり、管理費等一銭も納めず、今までもお墓があるから、これからもそうだと言うのです。それにもし撤去されても死んだら終わりだと。 私には死んで終わりだと到底思えないし、合祀されることに抵抗があります。母と父がバラバラになるのがいやなら、父のお骨も引き取る旨を言うとそれも気にくわないようで、とうとうお盆に手も合わせに来ませんでした。来られたらお坊様にもお話しましたが、これがダメと言うことはないので、ご本人が一番良いというご供養をと。兄には墓をこちらに移す意向も財力もありません。父の分骨も話しましたが、何も分かっていないようで、考えたことも調べようともしません。それどころか、お前みたいに暇じゃないとまで。 その上、兄家族だけで、母の納骨に行くとまで言い、仏壇も引き取ると。私としては病の母と十数年間暮らし、亡くなったら 葬儀もすべて私がしました。亡くなったら急に引き取ると言い出す兄に怒りがこみ上げます。 このまま、母を別の墓に納骨し、私が供養していって良いものか、それとももういっそのこと兄に全て任せ、私は私で供養していく(新たに位牌を設け)ことも考えています。釈然としない、解決しないまま電話を切りました。やはり長男に任せるべきでしょうか?

有り難し有り難し 63
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子孫に因果応報?

こんにちは。 仏教を勉強するうちに今まで誤解していた色々なことが明らかになって、例えば、今は無我もちょっとだけ納得できるようになりました。だいぶ落ち着いてきたのですが、実は因果応報について気になっていることがあるんです。よかったら、お暇な時に教えてください。 因果応報とは、良い事も悪い事も自分がやった事の結果が出て来るということなのですね。親や祖父祖母、そのまた上のご先祖様の代の因縁を自分が背負うなどということはあるのでしょうか。 借金など明らかなものではなくて、例えば何代も前の先祖の行いが悪くて人を泣かせていたから今度は子孫が泣かされるめぐり合わせになるとかそういうことです。そういうのは何代も前になれば事実関係を確かめられなくなっていきますし、気にしないで自分がしっかりしていれば大丈夫だ!と思うようにしてはいるけれど....でも、いかにも血のつながりで受け継がれていきそうな気がしないでもないんですよね。お坊さんのような人で先祖の因縁の話をする人がいたので、今でも時々ちょっと気になります。 因縁が受け継がれて子孫に因果応報が出て来るということはあるのでしょうか。 追伸 因縁を断ち切るお祓い数十万円とかいきなり言われたらさすがに怪しいと思うのですが、仏教の話もちょこちょこ入ってくるともっともらしく見えたりもするから....人の心って、もう大丈夫だと一度は思ったつもりでも迷ったりする頼りにならないものですね。自分で自分のあやふやさに笑ってしまいました。

有り難し有り難し 116
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