今朝は刺殺したい気持ちになりました。理性でかろうじて押さえています。
これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?
女性週刊誌のカメラマンや、パパラッチのように、人の秘密を暴いてそれをお金にする職業の方は、どのような業をせおっているのですか? それがいいこと、悪いことというのではなく、週刊誌をみる私達がいるからこそ成り立つ、必要な職業なので、別に彼らを非難しているわけではありません。 しかし、彼らのせいで芸能界をおわれたり、社会的な信用を失って仕事をなくしたり、一つの記事が人の人生を破滅させることもあります。 もちろん、元々は隠れて悪いことをしていた人達が一番悪いのであって、彼らはその秘密を世間に暴いただけかもしれません。 だからといって、何をしてもいいというわけではないと私は思うのです。 日本の長い歴史の中でも、密告や告げ口をして金銭をもらっていた人はたくさんいたと思います。 仏教の世界では、そういう彼らはどんな立場にいるのでしょうか。 最近の過熱するワイドショーをみて、色々と考えてしまうのです。
お金について細かい性格です。 どうすれば得するか、どうすれば節約できるかばかり考えています。 節税や、国保を安くする方法などをネットで検索してばかりいます。 お金を使うことに罪悪感を感じています。 常にお金のことを考えて行動しています。 父親がギャンブルで借金をしていました。だから家が貧乏でした。 その影響があると思います。 お金が無いのが怖いのです。 ならば稼げばいいと思われるでしようが。稼ぐ能力がありません。 お金に対する執着心が高過ぎると思います。 無駄使いするよりかは良いことだと思いますが、もう少し執着心を抑えて、お金優先の生活を変える方法はありませんか。 また、お金とは一体なんなのでしようか? お金との良い関係を作る方法があったら教えてください。
父親も酷い人間でした。兄という乳飲み子がいるのにミルク代も保険証も渡さず風邪をひいても病院に行けなかったと聞いています。母方の祖母が心臓が悪いのに夜中に何度も何度も電話をしていたそうです。ですが私も同罪です。7年前に父親は癌で亡くなりましたが。父親や、その親戚がした事を母親が私の耳元で囁く。私は怒って本気ではないけど父親を殴ったり首を絞めた。襖も破れた。父親が病気になり車も乗れなくなり返還する際、整理したとき父親のノートが出てきました。私に暴力を振るわれた、首を絞められた。死にたい、と。私は犯罪者です。ネットにも書いてありました。私のような子ども時代を過ごした者は高い確率で犯罪者になる、と。私はハスの花ではありません。ごめんなさい。私が私を殺さなきゃいけない
前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。
「身体」と「精神」に障害を持つ者です。 昨日の相模原市の障害者施設での殺人事件で動揺しています。 健常者はやはり本音の部分で「障害者なんて死んでしまえばいい」と 思っているのでしょうか。 子供のころから実際に言われているので、「やはりそうなのか。」 と思ってしまいます。 負けずに戦えばいいのでしょうか。聞き流せばいいのでしょうか。
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
昨日、実の姉から、私の旦那が姉の友達と飲みに行ったり、メールのやりとりメールの内容が二人で遊びに行こうなど、肉体関係を求める内容みたいです。 今まで、何回も浮気を疑う行動はありました。 でも、そのたび逆ギレ、怒鳴られ、浮気なんてやってないの一点張りでした。 普段は、旦那は私を馬鹿にしたように、言葉の暴力があります。 結婚した当初は、借金もあり二人で返そうと無我夢中で頑張って、借金も無くなりました。 震災後、独立をして、従業員もいます。 それが天狗になり、借金も旦那一人で返したようなかんじで回りに言ってます。 私はなんだったんでしょうか? 耐えて、頑張ったら、良いことがあると信じてきましたが、今は、生き地獄です。 すべてに、疲れて すべてが嫌になりました。 居ても居なくてもいいなら、 私は生きてる意味などないって思ってしまいます。 楽になりたいが日に日につのっていきます。 助けて下さい。 私の生きてる価値あるのでしょうか?
私は仕事の関係で、中国や韓国の方々と接する機会が時々あります。 中にはあまり友好的ではない方もいます。 彼らが日本の悪口を言う時や、ニュースなどで反日運動を目にする時などは非常に腹が立ちます。 しかし一方、最近ネットなどでよく見かける極右的な意見には賛同できません。 あまりにも極端なコメントを見ると背筋が凍るような悲しい気持ちになります。 教育現場などでも取りざたされているように、健全な愛国心を育てる事は必要なのかもしれません。 しかし私自身も恥ずかしながら愛国心をどのように表現するのが良いのか戸惑うことがあります。 仏教的な観点からは「愛国心」をどのように捉えるべきなのでしょうか? 愛国心をもつことは望ましいことではないのでしょうか? また、中国や韓国の方々の非友好的な態度に接するときは、どのように対応するのが良いのでしょうか? 是非ご意見を拝聴させていただければと思います。
数ヶ月前、不倫相手と駆け落ちをしました。 私は独身で、彼が妻子ある身でした。 仕事も決まり、衣食住も安定してきた先日、彼が元嫁と連絡をとっていたことが判明しました。 元嫁は心身が弱ったと言っているらしく、彼が連絡をとることで、安定してきているとのことでした。私も元嫁、子どもたちには、申し訳ないことをしたと一生償いながら生きていくつもりで、養育費等も支払うつもりでいました。 しかし、彼は一緒に出てきた私とは関係を切り、一人で暮らしていると元嫁に伝えてありました。元嫁の安定のためだと。 元嫁との連絡は毎日、仕事中も家に帰ってきてからもずっと続いています。 それでも彼と一緒にいたい思いから、全てを受け入れました。 ですが、彼がいつ家族のもとに戻るといい出すだろうとか、元嫁が本気で帰ってきて欲しいとすがってきたらとか、不安で不安で仕方なくなってしまいました。 過呼吸や拒食傾向の身体の不調も出てきました。毎朝不安感に襲われ、不安過ぎて何も手がつかなくなってしまい、家事すらまともに出来ていません。 自傷や自殺の方法さえ検索してしまいます。 因果応報というものなのでしょうか? この苦しみからは、逃れられないのでしょうか?
お世話になっております、以前は相談にのっていただきありがとうございました。 しかし、以前質問させて頂いた職場の授かり婚女性から今度は嫌がらせを受けるようになりました。 今度は 意図的に仕事をこちらに回されたりしていて、気づかないふりをしていたら、 職場の業務で使う個人チャットで 個人攻撃をされました。 いつもこの流れで、相手が嫌がらせをしてくる→気にしないようにする→さらに嫌がらせがエスカレートする という流れがどこの職場に行ってもあります。 そもそも以前相談した通り、結婚して数年が経っても不妊でいる私のほうが彼女に嫌がらせをするなら意味がわかりますが、授かり婚女からこちらに嫌がらせをするのはおかしくないですか? と思い、モヤモヤが止まりません。 一応この一件でこの仕事をもう辞めたいと思っているので職場の上司の個人チャットなどで長文で相談してみました。 上司は多分日和見なので何もしてくれないのはわかっていますが、知らないよりはいいかな、と思いました。 しかし、モヤモヤが止まりません。 この現象は一体何ですか??