初めまして、質問させていたただきます。 つい先日、祖母が急逝しました。浴槽で孤独死していた所をデイサービスの方が通報して発見してくださったようです。 祖母は身体は強い方ではなく、生活習慣病等もありましたが、死の当日の数時間前の電話の様子では元気そうだったらしく、午前中には運動に行ったりしていたそうです。 実は、祖母の死の前日に、私は自転車で「ポケモンGO」をやっている最中、原木山妙行寺という日蓮宗の寺の山門の前まで立ち寄り、特に参拝や敬う等もせず、そそくさと帰ってしまったのですが、祖母は浄土宗なので、こちらの寺からお怒りを受け代わりに祖母が巻き込まれて亡くなってしまったのではないかと考えてしまいます。ご意見お願いします。 それともう1つ、実は私の家系は代々、死ぬ間際の行動に特徴があり、亡くなっている祖父も、死の一週間ほど前に久しぶりに故郷に帰り、普段は合わない親戚一同に挨拶をしてから帰り、その後突然死しており、祖母も死亡した日の前日に、久しぶりに祖母の弟と電話で話をした、ということを話していたり、死の数日前から遺産の整理をしようとしていたりといった行動をしていたそうです。 これらの行動は死期を悟っていたという解釈をして良いのでしょうか。また、突然の死でまだ心の整理が付かないのですが、どのような心持ちで葬儀に出れば良いのでしょうか。 質問が多くなってしまい申し訳ございません。よろしくお願いします。
先日、クラスメイトが亡くなりました。 たまに話す程度の仲でしたが、小学校からずっと同じ学校でした。 1ヶ月以上経った今でも、死について考えるのが怖いです。死についてどころか、生について考えるのも怖いです。ニュースの誰が亡くなったという情報にも、過剰反応してしまい、なかなか恐怖が収まりません。友達と人狼ゲーム(敵味方を見分け人を殺していくゲーム)をする時も過剰に怖がり、ゲームに水を差してしまいます。毎晩毎晩寝るのが怖いです。 祖母が認知症になり、死に近づいているのが嫌でも分かります。そうなると自分も死に近づいていると気づいてしまい、何故生きているのかが分からなくなります。 生きることに理由がなくても怖くはありません。始まりと終わりがあるのが怖いのです。 死んで魂がなくなるのも怖いのですが、死んで魂が残る(輪廻転生、霊になる、違う生き物として生まれる)のも怖いです。 動揺していて話にまとまりがなく、すみません。どうか助けてください。
先日喧嘩した友人のことが許せず、怒りが収まりません。 いろいろと準備が必要な約束をしていたのですが、彼氏を優先され前日の夜にドタキャンされました。それに私が怒ったことに対して友人も怒り、喧嘩になりました。 約束というものの重さや人間関係の優先度に差があることは理解していますが、とても楽しみにしていたし、最近仕事で昇進し疲れ切っていたこともあって、どうしても彼女のことが許せませんでした。 なんとか気力を振り絞ってこちらが悲しかったことも伝えようとしましたが、友人は自分は何が悪いのかわからない、あなた(私)の対応がショックだ、と自分のことばかりで、私がその友人を許せない以上、関係は続けられないのだなという結論になりました。 10年以上の付き合いのある親友だったので、約束を軽く扱われたこと、悲しかったことを伝えてもこちらを一方的に責めてくる姿勢、関係性を保つ努力を彼女がしなかったことが悲しく、怒りがおさまりません。 私は価値観の違う人を必要以上に認めないと指摘されました。わかっていて10代の頃から自分を変えようとしてきましたが、いい加減疲れてきました。 親友を許せない自分を責める気持ちも強くありますが、許せるように変わろうとすることにも疲れてしまって心の行き場がありません。 自分も親友も許せない私はどうしたら良いでしょうか。ご回答お待ちしております。
いつも人間関係が上手いかず、隣組、お寺関係、学校関係に参加をしても、話せる話題が全く見当たらず返事だけです。なので、集団の中でぽつんと1人になり周りをみては居心地が悪いまますごします。集まりが終ると達成感はなく、自己嫌悪というか、なんとも言えない、重だるい気分になります。 昔の話ですが、離婚した時に引越しをして新しい環境となりましたが、結局一クラスしかないのに、子供のお母さん達と全く話せず6年間を過ごしました。仲間はずれをされた事もありますが。 逃げてばかりなっています。 どうしたら上手く話せるようになるでしょうか それと、人とのお付き合いを円滑にするコツや自分の心の持ち方など、ご教示いただけると有難いです。 ちなみに仕事関係では大丈夫ですが、話し下手なので上手く伝えられない事があります。
お坊さんの皆さんは、人生を、日々を、どのようなモチベーションで生きていますか? 死ぬことは怖いですか? 私は、思います。世の中や人はとても儚いものだと。その儚さを、どう前向きにとらえればいいよいでしょうか。 命の終わり方は、いろいろあって、 自分もいつかはなくなるんだと。 時々不安になります。私は、リタイアせずにゴールまでいきることができるのか。 私は、シャボン玉くらい心が脆いです。 だから、生と死が隣り合わせのこの世界でこんな自分はこのままやっていけるのだうか。 私の周りの友達のように、生きることに関してあまり重度には考えず、無関心で無意識に生きて、勉強に集中したい。 考え過ぎだよ。 暇なんだね。 悩むことは悪いことじゃない。 みんなそうだよ。 その言葉に私は少なからず傷ついてきました。 私の考えてることは間違ってるのか。悪いことなのか。 事実から論理立てて考えて出した私の考えは、そう簡単には覆せないと心では思ってます。例えば、生まれてこなければよかったとか。(理由を話せば長くなるので)でも、誰か、私を覆す人がいないかなと探してます。めんどくさいですよね、こんな人。 そういう自分が嫌なんです。 このままではさらにエスカレートしていってしまいます。 いつか、悩んで泣いた時間が役に立つときが来ればいいなと思っていますが、それはまだ先の話で、とりあえず今、何かがずっと辛いんです。 生き方、道標を教えてください。
私は動物看護師をしていました。 小さい頃から動物はなんでも大好きで、彼らのためなら何でもしてあげたいと思ってこの職を目指しました。 でも実際勤めたら、人手が足りずにいつも多くの業務に追われ、先輩達はとても怖くていつも行動を見られている気がしてだんだんと心に余裕が無くなってきました。 そしてついに入院してる子達に対して「なんでこんなに苦労ばっかりかけるんだ」という気持ちまで湧いてきてしまいました。 そういう仕事だとは分かっていたのにです。一番苦しんでいるのはその子達とそのご家族なのに、自分が一番みじめで苦しい思いをしていると勘違いしてこんな酷い事を思うほど自分が非情で身勝手な人間だと知って絶望しました。 そんな中で四匹の子が亡くなりました。 一匹は熱中症の小鳥で、私はそうと知らずにセオリー通りに小鳥の籠に蒸しタオルをかけてしまい、それが原因で小鳥は一瞬で息を引き取りました。私が殺しました。 もう一匹は私が手術の麻酔管理についた小鳥で、術後は元気そうだったのに飼い主さんのお迎えを待たずいつの間にか亡くなっていました。なぜもっときちんと見てあげなかったのかと後悔しました。 もう一匹はウズラで、来院する前に電話をかけてきて私が電話応対したのですが情報の引き継ぎがうまくできていなかったようでした。後で先輩に私が必要な事を先生に伝えておかなかったからこうなったんだと言われました。 もう一匹は犬で、点滴チューブが首に絡まって亡くなってしまいました。昼休みから最初に上がった人が入院の子の世話と掃除などの雑務をすることになっていましたが、私は全員をきちんと診ていたら雑務も時間内に終わらない、先輩に怒られると思い軽く様子を見ただけで流してしまいました。きっと私が様子をみた頃にはすでに点滴チューブは首に絡まっていたと思います。私の保身と怠慢のためにこの子は死にました。 私は非情で自分勝手な人間です。動物を助けたいと思ったのに、最終的に彼らを憎みそして死なせてしまいました。これだけは弁解しますが殺意も悪意も全くなく、故意でもありませんでした。それでも彼らの死に関わったという事実は変わりません。 これからずっと似たような過ちを犯し続けるでしょう。これ以上誰かを不幸にする前に今死んでしまいたいのです。最期に我儘を言うなら、罪を清めて極楽に往生したいと思います。仏様は救ってくださるでしょうか。
いつも、お返事ありがとうございます。 毎回、お坊さま方々の優しいお言葉に励まされ、何とか生きています。 我が家には、お仏壇があります。 朝晩にお茶、お水、ご飯をお供えし、出掛けてる時には行って来ます!帰った時にはただいま!と声をかけています。 最近なんですが…。朝の挨拶で「いつもありがとうございます。今日も一日頑張りますので宜しくお願いします」と呟やきながら、義父母の遺影を見ていると、「○○、今日も頑張って!大丈夫!大丈夫だからね!」と言う言葉が、胸の中にスーッと入って来たのです。 きっと、自分の勝手な思い込みなのかも知れませんが。 挫けて涙が溢れて。生きていく事に疲れて。もうダメだ。もうダメだ。って思う事も沢山ありますが。 お仏壇?義父母?からの大丈夫!大丈夫!と言う言葉に救われてもいます。 娘の遺影も優しく笑いかけてきます。 私は、弱くて頼りなくてダメな人間で、死にたいと言う想いもいつも頭の片隅にありますが。 何だか、まだ大丈夫!死ぬにはまだ早い!大丈夫!きっと幸せになれるって励まされている様な気持ちになります。 ホントに勝手な思い込みでしょうが、お仏壇に手を合わせることで、何となく私は救われていると思います。 纏まりのない話しで申し訳ありません。 亡くなった人達と心と心で繋がっているって思ってもいいのでしょうか。
もうすぐお盆です。 母が亡くなって二度目のお盆です。 初盆は亡くなった方が家に帰ってくると聞きますがその後のお盆はどうなんでしょうか? 何故人は亡くなってしまうのでしょう。。 母が亡くなり色々考えます。 亡くなったらどうなるのでしょうか? また母に会えるのでしょうか? 母に会いたくて会いたくて仕方がありません。 前向きに頑張ろうと思っても母の事を思うと哀しみが溢れでてきます。 亡くなった母のためになにかできる事はないのでしょうか? またこの先大切な家族が亡くなってしまうと思うと哀しくなります。
たまに生きていることが虚しく感じます。 生きていて感動することも、出会えてよかったと感じることも沢山ありました。しかし何故かいつも、どうせいつか死ぬという考え頭を過ります。 私は医療従事者です。しかし、こういう考えが頭を浮かんでしまう自分に対し、自分は命を尊く思っていないのではないか、と不信感が消えません。 命を尊く、生きることは儚く素敵な事だと心の底から思いながら生きていたいです。
私は幼稚園の時からただ漠然と死にたいと願っています。今までは本当にただ漠然とした願いでしたが最近になり、うたた寝をするような穏やかな死を望むようになってきました。 ただこんな願いは家族には到底打ち明けることはできませんし、万が一打ち明けたとしても怒られるだけです。怒られないにしろ、まだろくに人生歩んでないからそんなことが言えるんだといわれて終わることでしょう。 私は死というもの事態避けようのない終着点であり、そこまで悲観するものではないと思っているため、余計にそう願っているのでしょうが、皆様方は死についてどのように思われていますか?
私は学生なのですが、小さい頃から、親が共働きで、祖父母の家で過ごす時間が多くなりました。しかし中学に入ってから、自分の家で過ごすようになり、祖父母と関わることは少なくなりました。祖父母は小さい頃から面倒を見てもらい、大好きな人たちです。ですが人間いつかは死にます。私は、もし祖父母が死んでしまったら立ち直れる自身もないし、どのような心境になるかもわかりません。最近そのようなことを、考えるようになりました。もし祖父母が死んでしまった場合、どのような立ち直りをしたら良いでしょうか?
お世話になります。2年半ほど前にコロナ禍で生きがいを失い、悩み相談させて頂きました。その時に頂いたご助言のおかげもありなんとか生きながらえています。 しかしながら、タイトルにもある通り以下のようなことから希死念慮が絶えず付き纏っています。 まず仕事面については今年色々と行き詰まりがあり数ヶ月の休職をしてしまいました。今は復帰していますがリハビリと言うこともあり給料に見合わない(不当に高く払われすぎだろうと思われるような)単純作業をする日々です。周りの同世代や下の世代がどんどん仕事を覚えてキャリアを進める中で自分1人が無様な状況。転職しようにもこんな奴が箸にも棒にもかかるとは思えず。30になるので第二新卒もない。情けない状況です。 次にプライベート。当方男ですが、周りの同世代は上記の仕事面だけでなく恋人がいたり結婚したり子供を授かったりとプライベートにおいても充実させてます。それに比べて自分は未だ一人で仕事は上記のざまで、趣味も1人でライブやスポーツ観戦をするもコロナ規制や同じ場所にカップルで来てる人を指を咥えて眺め悶々とする日々。 そしてコロナ禍に対する不満。前回質問時もお話ししましたが、日本だけが一向にコロナ規制が終わらず、ライブやスポーツ観戦も思ったように楽しめない日々。まして今はカタールW杯でマスクなしの声出し応援をしてる風景を見て余計に悶々とします。「うちはうちよそはよそ」と言われても現状を正当化したいだけの屁理屈にしか聞こえません。 上記の通り仕事やプライベートで一向に思ったような改善や向上が見られない、そしてその原因は自分にある。 どんなに嘆いても社会や世の中は変わってはくれません。分かってます。どんなにコロナ規制の不満を嘆いても変わらない。だったら自分が良くなるように変わるしかない。でもそれも出来てない。なら自殺以外に選択肢がないですよね。弱者男性という言葉がネットで流行ってますがまさに私のことです。ネット曰く私のような人間は安楽死で淘汰されるべきだそうで是非そうしてもらいたいです(笑) ならさっさと死ねよに対して返す言葉もありません。慰めが欲しくて書いてるのでもないです。死にたいなら死ねも大歓迎です。最後は取り止めもなく気持ちを書かせて頂きました。 要は死ぬ勇気と生きる希望のどちらかが欲しいと言う悩みです。申し訳ありません。
先日、95歳の祖父が自殺してしまいました。 3ヶ月前に祖母が亡くなってしまってからすっかり気落ちしてしまい 痴呆症もひどくなってしまいました。 お父さん、お母さんと一緒に住んでいましたが仕事で昼間はいませんでした。ちょうどグループホームの入所を決めて帰ってきたら 祖父が首を吊って亡くなってしまいました。 みんな大変ショックを受けてしまいました。 おそらく、祖母に会いたかったのだと思います。、早く祖母の所に行きたいと言っていました。 よっぽど会いたかったのでしょう。 それか、祖母が会いたかったのかもしれません。 亡くなってしまったから しょうがないのですが、 気がかりなのは きちんと成仏出来たかどうかと、祖母に会えたかどうかです。 自ら命を絶つと成仏出来ないって 聞いたことがあります。 亡くなってからもなお 苦しんでいたらと思うと 悲しいです。 どうか、祖母と安らかに眠って欲しいと願っております。
カテゴリがわからなかったのでカテゴリ違いでしたらすみません。 人は必ず老いて死ぬというのが仏教の基本にあると思うのですが、そしたら、子供を産むということは、子供を殺すということですか? 人は生まれた瞬間から死を背負うことになると思います。死を背負わせるということは、殺すというのと同じことですか? 純粋な疑問です。誰かを不快にさせてしまったらすみません。
生きる事が辛いし、怖いです。金もないです。仕事も辛いですし、人も怖いです。自分自身も欠点だらけ。心の支えなんていうのもありません。なんだか常に疲れてるんです。原動力みたいなのも湧いてこないんです。 特に母が自死してから尚更です。 自死をしようと思っても中々、苦痛が苦しくて怖くてできません。 でも勇気を持って自死すべきなのでしょうか? その勇気を頂ければ幸いです。
父が自死して、1年。自死という事情と、コロナもあり、一周忌はやらないことになりました。 私の気持ちは沈み、普通の死じゃなかったから、、と言ったら、じゃなに?普通の死ってなに?事故は普通の死じゃないの?自死も? その考えおかしくない?と言われました。 わたしは、父の事思い出す度、つらくて、踏ん張ってきました。 ダンナが怒るのは正当ですか?
このサイトに出会い、死のことを考える(死の恐怖を考える)のを少しずつですがやめることができた者です。 お坊さんのありがたいお言葉をいただき、今を全力で生きることに集中しています。 ただ、一つもやもやしたものがあります。 子供を産むことです。(男なので産むは適当ではないかもしれませんが便宜上) 近い将来、結婚する予定であり、これまでは漠然と子供も欲しいなあなんて思っていました。 ただ、改めて死のことなどを考えた時、自分の子供にその恐怖や苦しみを与えることになるのだと気づき、子供を産むことは酷いことではないかと思い始めました。 仮に子供が死というものを考えず、前向きに人生を過ごしてくれたとしても、最後は辛く悲しい死という結末を迎えます。 いつか死ぬ存在を自らが産み出すのは、恐ろしいことではないか、そう感じて仕方がありません。 極論、人類繁栄の放棄につながるので危険な考えだとは思うのですが、やはり個人という存在に目を向けた時、上記の考えが捨てられません。何かよい発想の転換はないでしょうか。
いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
私自身精神疾患により、希死念慮に悩まされています。 ただ、幼少期に母親を病気で亡くしているので自傷、または自分から死へ向かうことは母に申し訳なくてできません。 (錯乱状態になったりした場合はわかりませんが。まずそうはならない疾患です) 長患いの中で、とても澄んだ心を持つ友達ができました。 彼女は自分だけを責めて、病気のせいなのに「こんなこともできない自分はダメだ」との思いを抱えて自ら旅立ちました。 私個人の考えでは彼女は自殺というより「病死」だと考えています。 身体的疾患での死は仕方ないととらえられますがやはり自死というのは公にするには憚れることもあるようで私が彼女の死を知ったのは旅立ってから3か月ほど後のことで、もちろんお葬式にもいっておりませんし、ご両親が特殊な宗教をなさっている関係からお墓参りもさせてもらえません。 「霊能者」というような人は「自殺した霊魂は救いがない」とか「ずっと真っ暗闇をさまようだけ」などと言う人が多いようです。 そんなのひどすぎる。あんなに苦しんだ挙句、誰も責めず自分だけを責めて、精神疾患による考え方の歪み・・あまりこの言葉使いたくありませんが・・もあっていってしまいました、あんなに苦しんだのにまだ苦しまねばならないなんて・・・ 自らいのちを絶つということをよしとしているわけではないのです。 ただ、精神疾患(心の病気≠精神疾患)によりこのような結果になった方々にも救いはないのでしょうか。 もう一度申し上げますが、彼女が生きていた頃を知っている私は 彼女のことは今でも「病死」ととらえています。
どうして安楽死はあまり認められないのですか? そりゃ生きれるに越した事はありませんが、死を選ぶ人はもうどうしようもなく生きるのが辛い‥疲れた人だと思います。 無理に生かして、その人が犯罪に走ったりするよりかはよっぽど良いと思います。安楽死施設みたいなのが出来たら良いと考えています。 お金さえ積めば、誰でも自由に生涯にピリオドをうつことができる素晴らしいものになると考えています。反対する人って、どういった理由で反対するのでしょうか? 高齢者も変に長く行き過ぎて認知症とかになる恐怖もなく、自由に安らかな終わりを迎える事が出来て良いとは思うのですが…。 幸せな人は、自由に生きれば良いし、そうじゃない人は自由に死ぬ事ができるなんて、とても素晴らしい事だと思います。 お坊さんはどう思いますか?