旦那との関係性もあまりよくありません。 不妊治療もうまくいきません。 昔は幸せな恋をしていたし、幸せな人生を歩んでいたと思います。 年をとるにつれて将来が不安になるばかりで希望が持てません。 若い頃は不安なことやうまくいかないこともあったけど、いいなと思うこともたくさんありました。 今はいいこともあるけれど不安がたくさんです。 人間は不幸と幸福のバランスがあるのですか? 不幸なところがあるから片方がうまくいくのでしょうか? 逆に、うまく行ってる部分があるとそれ以外は不幸になるのでしょうか? 自殺をしたらその後も苦しむのでしょうか? もし不幸と幸運のバランスがあるのだとしたら、うまくいく部分があるのは嬉しいけど不幸な部分はそのまま。 不幸な部分がうまく行ったら今ある幸福な部分はなくなる。 そんな人生なんてひどいと思います。 希望が持てなくて、不安ばかりで、人が羨ましくて、自分がどんどん嫌いになりそうで、人生失敗したのかとおもいます。 これから先に希望が持てないのに、生きていくのは辛いです。 自殺したらその後も苦しむのだとしたら、殺されたり病気になるのは別なのでしょうか? その気はないのに死ぬという状況にならないと、だめなのでしょうか? どうして、こんなに苦しむのでしょうか。 前世で悪いことをたくさんしたのでしょうか。 それとも、若いとき幸せな時期があったツケなのでしょうか。 生まれて生きていくのは、本当に幸せなことなのでしょうか。
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
私は幼少時代から笑い者にされたり、怒られたりしてきました。 褒められたり評価された経験が何一つない為、何をするのも怖いのです。 その為か何事も中途半端に投げ出して逃げてしまう悪い癖がつきました。 中学時代はその事でいじめられ、高校はなんとか卒業するもアルバイトでいつも失敗し、働く事に恐怖を感じてしまい就職できませんでした。 今はたまに思い出したようにアルバイトをしていますがやはり長続きしません。 どうしても怒られる、笑われるといった事が怖くてたまらないのです。 (容姿や物覚えの悪さも拍車をかけていると感じています) もう若くもない歳に近づいてきています。なんとか現状を打開する強いメンタルを持ちたいのですが…。
私の父は僧侶をしていました。 真宗の小さなお寺で、職業とは別で兼業していました。 でも、父は酔うと人に暴言を吐いたり、よそで女の人つくったり、言えないくらい、家族に迷惑ばかりかけていました。 私は母と家を出て、今は嫁いで家庭を持っています。 そんな父が急に亡くなりました。 僧をしていたので、父は「仕事」としてお経はあげていました。 悪人正機というのは、悪人であることを自分で認めた凡夫だからこそ救われると聞きました。 悪人であることを最後まで認めなかった父も、救われて仏さまになっているのでしょうか。 でも『地獄と極楽』という絵本を小さい頃読みました。 あの絵本では、生前ひどい人は地獄で苦しんでいました。 もう一つ、仏さまになったとして、その後どのように生活?するのでしょうか。 よく、私たちを見守って導いてくださる、と言いますが、この世でのつながりが深かった人のところに行き導くのでしょうか。 もし私が往生したら、父と同じ世界に行き、また娘としてくらすことになるのでしょうか。 とりとめなくすみません。 父の死も、生前の行いも、もう昔のこととして受け入れていますが、仏教の教えでは、このあとどのように生きているのか気になりました。 よろしくお願いいたします。
尊敬していた方が亡くなり、お通夜に行ってきました。 地域にとっても貢献したお爺ちゃん医師で亡くなるまで現役でやってた方でした。 お通夜の際、下世話な話になってしまいしますが、とっても大きな葬儀で、お坊さんも3人で拝んでました。 一般的に一人のお坊さんが拝むのと、3人のお坊さんがお坊さんが拝むのは、どぅ違うのでしょうか。 例えば、3人のお坊さんが拝んだ方が、故人が成仏しやすいとか、三途の川を楽に渡れるとか、、、
数か月前、TVで池田小児童殺傷事件の被害児童(女児)の母上にインタビューする報道番組を視ました。事件から15年が経過し、加害者の刑も執行された現在でも、事件当時の状況を知ると改めて「赦せねぇ」と腹の底からムラムラこみあげる怒りを覚えます。 僧侶の皆様にも、まだ小さいお子様のおられる方がいらっしゃると思います。上記のお母さまの立場にたたれて考えてなお、死刑は廃止されるべきと、言える方はいらしゃいますか? 私が、被害者遺族の立場で考えた時、とても「生きて、償ってほしい」とは考えられないと思います。 一番望ましいのは、加害者が犯した罪を心から悔い改め、被害者とその遺族に心からの懺悔と謝罪を示したうえで、潔く刑に服してくれることではないかと思います。また、それが加害者自身も唯一救われる道ではないかと考えます。 さらに、死刑について論じる時、「どんな理由があっても人が人を殺めるのはいけない」と言われる方がいらっしゃいますが、法治国家において執行される死刑は、人でなく法が行っているといえるのではないでしょうか? 僧侶の皆様のご意見をお聞かせください。
大変浅はかな知識で申し訳ないのですが、好奇心もあり皆様方にお聞きしたいことがあります。 仏さま、神様について、神仏習合や仏教流派の経緯があると思います。 由来を辿ると、七福神の中にも、日本古来の神は少ないようです。 また、仏様においても、流派によりますが大日如来は、インド神族やペルシャ宗教との繋がりもあると聞いています。 もちろん仏の教えの意味する所は、それとは別に明確にあるものと思っております。 異なった文化や歴史、土地ごとでも何らかの神仏の繋がりがあることについて、皆様方がどう考えていらっしゃるものか、差し支えなければ是非お教え下さい。 もし失礼に当たるものでしたら私の質問は御放念くださるようお願いいたします。
こんにちは。 お釈迦様は阿弥陀様が先輩で、地球に生まれてきてくれて、私たちにこんな約束をしてくれた先輩がいるんだよと教えてくれたっぽいのですが、アミダ様は私達の約束(信じてくれたら必ず救う)を守る代わりに、何かほかの仏様から罰を受けたりはしてないんですか?私たちの代わりにリスクを負ってないんですか?大丈夫なんですか? また、お釈迦様は、本当は阿弥陀様なんていないけど、いるという嘘を自分1人が担って私たちのために背負って行かれたという訳では無いのですか?
先日私の具体性に欠ける、奥歯にものが詰まったような愚痴のような質問に応えて下さり、ずっと回答を考察してました。 その時々の私の見たてがどうであれ、自分目線で世界を見ていては、環境にフラつきいつまでたっても頼りにならない自分の世界で苦しむ ことになりますよと、言われたように思います。 自分を苦しめているのはあらゆる煩悩で「自我」(自己中)だとココhasunohaでも僧侶の方が口酸っぱく何度も言っておられ、私も何度も自我を手放す手立てを見聞きしてます。 しかし無我や手放すと言うと、主体性を放棄しているように思えてならなかったのですが、自分と言うのは条件次第で左右され頼りにならないから例えば「縁起」や「空」、この世界は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にある。 みんな繋がってるから、自分もみんなも尊い存在、軽んじちゃダメ!ピラミッドの頂点に人が(自分が)立ってるんじゃなくて網の目の一つで、人知を超えた自然の働きも誰かに想われてることも誰かに想われてることに気づけなくても繋がってる。 と言ったことついて言葉の上では理解しても、自分が騒がしいのは、禅の方(ザックリですみません)が座禅をして余計(自我)なものを手放すと言う事と、歎異抄の中で親鸞聖人が「何が善で何が悪なのかそのどちらも私はまったく知らない…」と言っておられるのは自分から見たら許せない又は自分が裁きたいと言う想いを手放して、「…この世はむなしくいつわりで真実と言えるものは何一つない、ただ念仏だけが真実(確かなもの)である」とおっしゃり、自己のはからいを捨て念仏し阿弥陀様にお任せすると言う事と同じで、だから座禅する、だから念仏すると言うことでしょうか? だから思考が暴れても身体(振舞い)を整えることができる修行(座禅や念仏)や信仰が必要と言うことでしょうか? いつも長くてすみません。
いつもお世話になっております。 また少し疑問に感じたことがありますので質問をさせていただきます。よろしくお願いいたします。 浄土真宗では、人はお浄土からこの世に生まれてきて、そして命が終わったらまたお浄土に帰っていく、そしてまたいつの日か、人びとを救う為にこの世に生まれてくる と説かれているかと思うのですが、 それでは人はもう、六道輪廻、輪廻転生を繰り返すことは今後はないということなのでしょうか? 人の死後の転生や、お浄土とこの世との関係について、皆様のご回答を頂けたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。
私は、神仏の存在が信じられません。 遺伝性の疾患も抱えており、仕事をすることもままならず、結婚・出産と言ったこともすっかり諦めています。 人生のターニングポイントでの決断はことごとく失敗。 ついてないとしか考えられません。 ですので、人生に対して幸せや感謝と言った感情も抱くことができません。 先祖に対しても、素直に受け入れることができないばかりか、ある種の憎しみに近い感情を抱いてしまっています。 親子の仲も良好とは言えない状況です。 本当に神仏が存在しているのであれば、もっと他人と平等な生活を送れるようにしてくれても良いのではないかと思ってしまい、 どうしても受け入れることができません。 他人からは、神仏を信じない、先祖を大切にしないから、不運が続くのだと言われます。 どのように神仏と向き合うべきなのでしょうか。 ご教授いただけましたら、幸いです。 よろしくお願いいたします。
私は小学生の頃、大阪のUSJ近くのホテルで恐らく心霊体験をしました。 それ以来、私は今でも霊の存在を信じているのですが私個人としては、どちらも科学で証明できると考えています。 よく霊や死後の世界は非科学的と世間でも科学の世界でも言われていますが、その多くはしっかりと調べもしないで根拠も無いものばかりです。 そもそも非科学という言葉が非科学的ではないのかと私は思ってしまいます。 死後の世界や転生に関しては近年、量子物理学の学者が科学的に存在する可能性を真剣に研究しています。 私は霊や死後の世界などが今まで立証できなかったのは科学が未熟だったからではないかと考えているのです。 ですので、将来、立証できる日が来るのではないかと私的には思います。 そこで質問です。 お坊さんは、霊や死後の世界をどの様な存在だとお考えなのでしょうか? また、もし、今後この分野に科学のメスが入る場合、お坊さんとしては、どの様に思われますか?
私は「とても真面目で冗談が通じない」とよく言われました。 私には、生まれて間もない弟がいました。 当時小学5年生だった私は、弟をあやしたり、おむつを替えたり、 時には夜泣きに気づいて親を起こしたりと、子供ながらではありますが一生懸命育児(?)に協力していました。 ところが、4ヶ月になった頃に、原因不明のまま亡くなりました。 とても悲かったのですが、それと同時に怒りが こみ上げてきてました。 「なぜ生まれて間もない弟が死ななければならなかったのか 神や仏がいるのならば、なぜ弟を選んだのか。 弟を殺したのは神や仏だ、私は絶対に信じない」 それから神や仏・宗教を一切信じなくなりました。 学生時代は性格が仇となって友だちもできず、 いじめの対象になることもありました。 社会人になる頃にはだいぶ和らいで、それなりにコミュニケーションを取れるようになりましたがうつ病を発症。心療内科に通いながらも 「この世界はとても生きにくい」 「死んだほうが楽になれる」 「生まれてきた意味が分からない」 と常に考えながら生きてきました。 しばらくしてから、某動画サイトで般若心経を 聞く機会がありました。 最初はネタ動画として見ていたのですが、 現代語訳がコメントされていました 「超すげぇ楽になれる方法を知りたいか?」 「生き方は何も変わらねぇ、ただ受け止め方が変わるのさ」 それらを何気なく見ていると、涙が止まらなくなりました。 物事が良くも悪くも転んだ時は、それが運命だと 半ば諦めながら生きてきました。 今まで思ってきた宗教観は間違いではないのか?今まで否定してきたけど、こんな私でも信じていいのか・・・? 神や仏を崇めるだけが宗教ではなく、もっと身近なところに「答え」みたいなものがあったのではないか?と考えるようになりました。 しかし、神や仏・宗教を信じないと思い二十数年経ちます。 今更考えを改めるのは、侮辱することになるのではないかと思い 申し訳ない気持ちで一杯でいます。 この世に神や仏がいるのかは分かりません。 しかし、般若心経を聞く(読む)と少しだけ見えるような 気がしました。 知恵も知識もない私ですが、少しだけ信じても 良いのでしょうか? わかりにくい長文になりましたが、 説教していただければ心がとても救われるような気がします。 何卒よろしくお願い致します。
http://toyokeizai.net/articles/-/79273 東洋経済で、お寺は全国に7万7千あって、そのうちの2万は住職がいないというビックリなことが書いてあったのですが、みなさんも兼業されているのですか? お寺はこの先どうなっていくのでしょうか?
こんにちは。 半年前から趣味として座禅を朝晩40分ずつやっています。 最近はお寺さんでも座禅をするのですが、悩みがありご相談させて頂きました。 1.座禅中に時間を気にしてしまう自分がいる事。 半跏趺坐で両足の痺れが出るのが開始後30-35分ほどなのですが、ここ最近は上手く座れてないのか、2個目の質問である足を組み直すのと並行して時間を気にする自分がいます。その時の感情面が、足が限界、まだもうちょっと大丈夫、あと何分やろ?できれば足を組み直さないで一炷終わらせたい、いつになったら慣れるんやろ。 2. 50分間の座禅中に足を組み直さないと両膝、左肩が痛くて仕方ないのですが、我慢してたら慣れるものなのか。共に座禅をしている方達は静かに座れているのに何故自分だけは我慢できないのかと自己嫌悪してしまいます。 3. 趣味として座禅を行っていた時は苦痛だとは思わなかったが、一つの修行だと考え座禅を行うようになってからは苦行、座禅が嫌いとまでは言わないが辛いと思ってしまうようになった。心の持ち様or考え方で変わるのだろうと思うが、何が正しいのか分からない雁字搦めの状態になっています。 座禅というものを真面目に捉えてちゃんとやらないとと思ってるから苦痛と思うのか、もっと気楽に座ればいいのか、考え方やコツなどありましたら教えて頂きたいです。 よろしくお願い致します。
40後半の知り合いの曹洞宗の坊さんが赤い袈裟着てました、お寺は室町時代からあるそうです。袈裟の色は坊さんの階級と聞きました、どの位でしょうか?
私は、「がんばって」と言われるとうれいし、がんばろうと思います。 しかし、人によってはそう言われる時点ですごくがんばっていて、そう言われるとよけいに負担に感じてしまう人もいるのではないかと思います。 相手の人を応援したい気持ちがあっても、「がんばって」以外のことばが見つからず、何も言えないことがあります。 そういう時、どんなことばをかけたらよいのでしょうか?
仏教について調べていると、葬式とその後の供養が最重要トピックの用に扱われているのが不思議です。 親や先祖の供養ってそこまで大事なのですか? 血縁ってそこまで重要なのかしら? 先祖供養は儒教ではないのかしら? いえ、私も木の股から生まれたわけではないので、縁なり因果なり何かしらあるのだろうとは理解はしていますが。 この世に産み落としてくれたことは有り難いのですが。 血のつながりばかり大事にしなくてもそこかしこに縁はあると思うのです。 個人的に家族の縁が薄いこともあり、 親や先祖のことはよく知らず供養もしていません。 私の死後供養してくれるものもおりません。 しかしそんな私が死んだ時も 仏さまなら何とかお慈悲をくださるのではなかろうか というのが信仰を持ちたいと思った動機なのです。 「私と仏さま」の話ならわかる気もするのですが「私と先祖と仏さま」の話がよくわかりません。 先祖供養が必須なら、親のない人間は仏さまに救っていただけないのでしょうか。 そもそも私の理解が間違ってるのかもしれませんが、 苦しみの多い輪廻の輪から解脱するため修行をしよう、また大乗仏教においてはいろいろな仏さまの力を借りたりおすがりして解脱にいたろう、 というように仏教的な死生観を解釈しています。 修行が足りず仏さまとの縁も結べなければ輪廻の次の段階に進むでしょうし、 宗派によっては生前から成仏しているわけですし 浄土系の宗派では阿弥陀さまのお慈悲によって極楽往生できるでしょうし…。 死後、死者の行く末に関して、生者はどれだけの干渉ができるのだろうか、というのが疑問です。 それは死者本人と仏さまの間の話ではないのかと思います。 そうすると供養とは何のためにするのでしょうか。 お教えをいただければ幸いです。
私は人は魂を磨くためにこの世に生まれ、生きているのだと思っています。 ただふと、 ・なぜ、なんのために魂を磨くのだろう と思ってしまい、 考えていると、魂を磨くために生きているということがいつの間にか出来上がった空論のようにも思え、 なんのために日々生きているのかわからなくなってきました。 考えるきっかけになった出来事があるため、あわせて書かせていただきます。 私には付き合って3ヶ月になる彼氏がいるのですが、 ここ2,3週間ほど話す度に口うるさく話し方(論理的でないなど)や性格の面など色々と注意され、 私のために言ってくれていることだからと思い、うるさいなどとは言わず直そうと心がけてきたのですが、 最近、会話していたらまた何か言われるのではと怖くなり、彼氏と話すことからも、注意されたことからもただただ逃げたく、向き合えずにいます。 なんのために、人は成長していかなくてはいけないのでしょう。 ご意見を伺いたいです。 よろしくお願いします。