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検索結果: 1493件

「死にたくない」と思わないのは、おかしいことですか

こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。

有り難し有り難し 111
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2021/07/02

妻と離婚したくてもできない

妻はもともとヒステリーなところが少しありましたが、子供が産まれてから人が変わったようにひどくなり、半年ほどでこちらが鬱になってしまい1ヵ月ほどの別居でこちらの体調が改善したのでまた元の生活に戻りました。 それ以降も関係は良くなく、今も些細な事で週に1回から2回ぐらいのペースで怒鳴りあいの喧嘩が絶えずあります。 ほぼ毎回喧嘩の時に離婚したいと伝えますが、妻が少し冷静になってくるとさっきまで激怒していたのが急に人が変わったように号泣しながら、怒ってごめん、私が悪かった、離婚はしたくないと謝ってくるので結局こちらが折れてしまうのを繰り返しています。 毎日が本当に窮屈で、とにかく妻の機嫌に振り回され、自分のための自分の人生では無くなってしまったようで、生きているのは辛いです。 綺麗事に聞こえると思いますが、些細な事でキレてくる妻を許せずに激怒し返してしまう自分が嫌いで自己嫌悪しかありません。自分が自分で無くなってしまったように感じます。 絶対に離婚した方が幸せになれると思いますが、号泣しながら謝られると結局それ以上は何も言えなくなってしまい、普段は妻も普通の人なので子供が可愛いし、離れたくないのでこのままでもう少し頑張ってみようと思ってしまいます。 それなりに今まで幸せで楽しい人生でしたが、現在は本当に楽しくない辛い人生だなと感じています。 このまま頑張って夫婦生活を続けていくしか無いのでしょうか?

有り難し有り難し 54
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8日後、私は自殺します。もう良いです

タイトルの通り、私は8日後に自殺します。 私は過去の行いにも懲りず、今でさえ色々な人に害悪を振りまいています。 もうこんな私には早いとこ天罰や仏罰として、雷でも落ちてくれないかと思いますが、死なせてもらえません。 実はこの3ヶ月の間に自殺未遂を何度かして失敗しております。 ODも途中で吐いたことで失敗し、風呂場での首吊りも物干し竿のフックが取れたことで失敗してしまい、道路への飛び込みも車がギリギリで避けたことで失敗してしまいました。 とにかく何故か、本気で死のうとするほど死ねないのです。 しかし私は確実に死ねる方法をインターネットより見つけ出し、その準備もだいたい整いました。 何故私が自殺を決定したかといえば、自分が好きな人から愛されず、幸せになることを許されず、害悪まで人に与える存在であることに気づいたからです。 本当に好きで、たくさん尽くしてきた人に振られてしまい。その悲しみから、好きでもない人と付き合い始めてしまい、自分の気持ちが満たされないばかりか、結果的にその人に深い傷を負わせてしまいました。 そして他にも、いろんな人を傷つけました。 そして私の周りにはろくな人が居ません。私にたかるような人ばかり。 しかしこれらは全て私が引き寄せてしまったものであり、こうなったのも自分の責任です。 これ以上私が生きていることは、自分不幸などころか、周囲にも悪い影響を与えてしまうと思い、本当に自殺を決意しました。 まだ生きる希望がかすかに残っている間は、色々と足掻いて見ました。 酒で忘れようともしてみました。 とにかく寝てみました。 いのちの電話や仏教系列のホットラインも電話してみました。繋がりませんでした。 話も聞いてもらえません。 でも、もう諦めました。 今は自分の持っている大事な物や高価な物を友人などに譲っています。そして手持ちのクレジットカードやサラ金の枠を全て現金化して、家族や友人に渡す準備をしています。 そのカードでhasunoha様にも寄付をする予定です。 お坊様の方々への、私の最期のお願いとしては、今から8日後の12/6(金) 20:30以降に、私の魂が浄土へ旅立つことができるように祈りを捧げて頂くことです。 祈ってくれる人が居ると思えれば、私は思い残すことなく生涯を閉じれると思います。 どうかよろしくお願いします。

有り難し有り難し 382
回答数回答 7

人生の目的

“いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。” 太宰治の人間失格の行です。 太宰治と言えば、ネガティブなイメージで捉えられるケースが多く、この行も自死を決断した際の言葉だとも言われています。 でも、僕にはこれが『悟りの境地』なのではないかと思えてしまいます。 最近、『死』を意識するようになりました。 決して自死願望などではなく、自分の人生が良かったか悪かったかを判断するのは、死の瞬間に走馬灯のように自分を振り返る時に、自分自身で判断するものだと思うようになったのです。 だから、今を精一杯生きようと... ただ、それが空回りしたのか、ベクトルを間違えたのか、自分の理想ばかりが鮮明になってしまい、現実が非常につまらないもの・美しくないものに見えてしまい、虚無感に苛まれておりました。 先般の質問に対してご回答を賜り、理想と現実のギャップについて学びを得させていただきました。 ありのままにすべてを受け入れることは、簡単なことではありませんし、それを理想にしてしまえば、また堂々巡りのように自分中心の思考に嵌まってしまう... ここで、改めて質問をさせて下さい。 輪廻転生がないものだと仮定すれば、人は生まれてきて死ぬまでに、どんな意味を持つのでしょうか? 煩悩を捨て、ニュートラルな思考で生きることが最善であるならば、そこには何の喜びがあるのでしょうか? 輪廻転生があるのだとすれば話は別だと思いますが、それを記憶出来ない以上は、敢えて現世の人生の中での部分に絞ってお伺い致します。

有り難し有り難し 63
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