初めまして。私は最近、某仏教のテレビ番組にハマっています。 「輪廻転生」のことを知りましたが、疑問に思っていることがあるので、教えてください。 「輪廻転生」には六道があり、魂は6つの世界を旅しているとのこと。 人は死んだら、天界や極楽に行くと聞きました。 でも、生まれた時に今まで魂が旅してきた六道(地獄も含む)の記憶は一切ありません。また、よく「人は死んだら“無(生まれる前の状態)”になる」と聞きます。 地獄や天国というのは、本当に存在するんですか?誰も見たことがないからわからないんじゃないの?と思うんです。 本当にあるなら生まれる時に何らかの地獄の記憶(熱い・痛いなど)があるはずだし、お浄土に行くにも三途の川を渡る際の感覚や閻魔様に出会った時の恐怖、彼岸に渡った記憶や皮膚の感覚というものがあるのかなって。魂になっても、痛みや恐怖を感じるんでしょうか。 私は、できればそういうのがなくて、「死んだら本当にただ無になるだけだよ」って言ってもらう方が安心するんです。 だって、死んでから「生前悪い事をしたから地獄で苦しむ」って思ったら死ぬのが怖いじゃないですか。 天国と地獄の教えというのは、「悪いことをしたら地獄に行くよ。だから、生きている時に悪いことをするなよ。」という解釈と思うのは、どうなんでしょう?
すいません。後から気づいたのですが2回同じ質問してしまってました。 こっちが本当です。 私の学校は仏教の学校です。 学校でのお坊さんの教えでは生きてるうちに良い行いをすれば極楽浄土へ行けるといったものでした。 私はそれを信じて今までちょっとした発言や行いで人を傷つけてしまったことを悔いてそのことを今一度悔いて謝ろうとも思っていましたし、少しでも人のためになるような良い行いをしていこうと心がけどのようにすれば良い人間になれるのだろうや一度罪を犯してしまうとその人は救われないのかなどいろいろ調べていると、たまたま見た記事に日本人はみな地獄行きというのがあり怖くなりついつい見てしまったのです。 するとそこには虫などを殺すと地獄行き、お酒を飲めばもっと怖い地獄行きなど他にも地獄レベルが書いてあるのがありました。 それはお坊さんが知ってることなどが書かれていたのです 私は、最近では虫を殺すのは悪いことだと思い今では蚊すら殺してなかったのですが今までは殺してしまったりしてました。 私達は、今までは罪を悔いて良い行いをしていれば人に好かれる人間にもなれるし極楽浄土へ行けると信じてきましたし地獄は殺人や人を傷つけても平然と後悔することなく生きている人間が反省するための場所と思っていました。 なのにそんな事実をつきつけられ私は、どうすればよいのでしょう。 1日1日を良いことをしても、どうあがいても逃れられない地獄へ行く恐怖をもちながら生きていかねばならないのでしょうか? 今まで学校で教わった教えはなんだったのでしょうか? すぐ泣いてしまう私なのにショックと信じられないという思いですぎて涙もでません
老人が死ぬほど嫌いです。 タイトルのとおりです。老人が死ぬほど嫌いなのですが、おかしいでしょうか? 医療従事者ですが、老人が嫌いです。なんで嫌いなのに医療従事者になったの?とよく言われますが、就職氷河期で手に職をつけたかったからという理由しかありません。というよりも、働き出してたら老人が嫌いになりました。 あいつら、なんであんなにエラそうなのでしょうか?長く生きていることがそんなにエラいのですか? 「糖尿病で目が見えんのじゃ」とか「足が痛いから介助してくれ」と言ってくる老人もいます。これまでの不摂生が祟ったのじゃないですか?自業自得なんじゃないですか?と言ってやりたくなります。 なんで生産性のない奴らを生かすために多額の税金が投入されているのか、怒りを覚えます。 「あなたもいずれ老人になるのだから」と言われますが、人様の世話にならないよう、健康や食事には気をつけています。それでも自分ひとりの力ではどうにもならなくなった時は、もうそれまでかなと考えています。 こんな考えはおかしいのでしょうか?
結婚して1ヶ月も経たない新婚です。 夫とは2年間,遠距離恋愛をし,同棲期間がないまま入籍をしました。 夫は家事を協力してくれたり、私を気遣ってくれたりと,とても優しいです。 ですが最近は結婚した事をとても後悔しています。 義母・義父から頂いたご祝儀を勝手に使っていた事や,自身の貯金残高を偽っていた事(付き合っていた当時は数百万あると言っていた貯金が,現在では数千円しかありません)喧嘩をすると人のせいにする又は人の揚げ足をとる…など,付き合っていた時には見えなかった,嫌な部分が多く目につくようになりました。 喧嘩をする度に精神的に疲れ,一緒にいるのがとても辛くなります。 付き合ってるころは大好きでしたが、今はそのような感情を抱く事はなくなりました。 優しい夫をそんな風に思っている私は最低ですし,夫は私と離婚して別な人と結婚した方が幸せなのでは?とも思うように。 喧嘩をして夫が落ち込んでるのを見ると胸が痛くなる時もあります。 それでもやはり結婚した事を後悔してしまいます。 結婚は我慢と忍耐といいますが,もう精神的に辛くて辛くて消えてしまいたいです。
自分の預かり知らぬところで、生きていいいのちと奪っていいいのちの選別が行われる。少し不快になったら「死ね」と言う人々が多い小中高時代でした。故に、生きる権利は簡単に奪われるものであるもののように思います。 実際に「不快だから殺す」が個人レベルではなく国家レベルで行われる可能性があり、それがもうすぐそこまで来ていること、発射ボタンひとつで何の心構えもできないまま全てが終わることを感じた今朝、不安と恐怖に耐え切れず、書き込ませて頂きます。 物理的要因で人間は簡単に終わらされます。凄惨な死は避けられず、成す術もない。自分はあまりに無力で、何をしたって意味がないと自暴自棄になりそうです。楽観はあてになりません。苦しみと凄惨な死があるだけです。何かを信じるのも怖いです。 自分について上手くいくイメージができないことと社会的な問題が解決する見込みが得られないことで、人生に希望を持てずにいます。意欲は薄れ、渦巻く感情を持て余し、生きていけないのに生きていようとします。 物理的問題は高潔な精神でどうにかできるものではないのです。「全てが自分の思い通りになるなら何がしたい」と考えた結論は、「存在していたくない、あらゆる感覚を捨て、物理的世界から完全に解放されたい」でした。 「みんな辛いのに頑張って生きている、辛いことを我慢して適応しなければ生きていけない」 ただ吐き出したいだけ、甘えたいだけなのだと思います。本当は他人の言葉を聞き入れる余裕もなく、それだけで死にたい、死ななければならないような気になります。 駄目でした。やはり生きることが難しいです。
仏教の世界観を教えてください 生きていくにはなにか自分には足りないものがあるような気がします 常識だったり行動力だったり 自分の力で生きてくには 精神的な弱さと 頭のよさなど 心の持ちようなど 仏教徒 になりたいです。 精神的な強さを持ちたいです。 よろしくお願いします。
毎日びくびくしてます。テロに遭遇するのが怖いのです。 良寛のような心境になるには、 修行をしなければいけないのでしょうか? 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。 死ぬる時節には死ぬがよく候。 これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
なぜ人間は存在するんでしょうか。 過去に忘れたいほど嫌な記憶があったり、嫌な日があったらなんで地球はでき、人間がいるんだろうと考えます。 人間が存在しなければこんな辛い思いしなかったのでは?ってついつい考えてしまいます。 毎日なんだかんだ言って学校に通っていますが、学校でもよく考えています。 最近そのことばかり考えて授業にあまり集中できてないので、教えて欲しいです。 そして、とても仲の良い友達がコソコソ話してる時があるととても気になります。 何を話しているんかな~って思い、もし自分の悪口だったらどうしようと思うのです。 友達関係は良好で信頼をとてもしています。 そういうのはつきものなのでしょうか? 私には忘れたい過去があります。 できることならやり直したいと。 心に残った傷は全く治りません。 すこしづつでもいいから、傷が治ることはできないのでしょうか? 私はいま生きてることがわけんからず、なぜ存在しているのか全くわかりません。 どうか教えて欲しいです。
嬉しいはずの新築を建てますが世帯主が43歳で今からローンを定年以後も払い続ける事を考えると心にゆとりがありません。 人間なので前向きに考えるときもあれば、気持ちが沈む日もあります。 気分転換すればいいのでしょうに。と思われるかもしれませんが気分転換する気にもなれません。 どうしたら良いでしょうか?
こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。
日本弁護士連合会(日弁連)が6日、福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムで、”瀬戸内さんは「人間が人間の罪を決めることは難しい。 日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」と指摘。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と述べた。”とあります。 しかし、一番野蛮な行為をした犯人が、軽い刑で済むのはどうかと思います。 また、”目には目を歯には歯をは”いけないのはわかりますが、刑期を終えて出所して社会に復帰すると恐ろしいです。 これでは被害者サイドは泣き寝入りかと存じます。 どう思われますか?ご意見を何卒よろしくお願い申し上げます。
最近、人を間接的に殺しているかどうかが不安になります。道路に落ちている大きい石を危ないと思い植え込みに投げたとき、その石が植え込みから出て人がそれで転んで亡くなってしまったらどうしようとか考えてしまいます。これはおかしいことなのでしょうか?人殺しになってしまわないか心配です。また、その石を探し出して捨てた方がいいのでしょうか?
はじめまして。花坂 埖(はなさか ごみ)と申します。 どうぞよろしくお願いいたします。 わたしは現在、とあるWEBメディアでライターとして活動しています。hasunohaの存在も、そのメディアの編集者から聞き、はじめて知りました。 そんなわたしが今回お悩み相談したいことは、 「大好きだった言葉とうまく向き合えなくなった」です。 わたしは幼少期、全く友達がいませんでした。 そんな中で友達の代わりになってくれたのが、本の存在でした。本を読んでいると、自分が寂しいことを忘れ、自由になれた気がしました。 いつしか本だけでは飽き足らず、インターネットの誰かが書いたブログ、週刊誌の記事……とさまざまな言葉を読むことが好きになりました。 またわたし自身も手紙を書いたり、作文を書いたり、言葉を書くことがかけがえのないことになりました。一番好きなことではなかったけれど、一番得意なことだったからです。 わたしにとって言葉を読んだり書いたりすることは、世界とうまくつながることでした。 だけどある日、突然言葉を読むことができなくなりました。急に自分は最低な人間で、言葉を読んだり書いたりする価値がない人間のように思えたからです。 あんなに楽しいほどにするすると言葉を読んだり書いたりできていたのに、それがとても苦痛な行為になりました。言葉を読んだり書いたりすることができないわたしには、存在価値などないと思いました。一時期は、言葉を通して世界とつながるのは諦めようと思いました。 だけど、わたしはやっぱり言葉が好きです。今でも言葉を読んだり書いたりすることにしがみついています。たぶんそれしか打開する方法がないからです。 それでもやっぱり、言葉を読んだり書いたりすることがとても苦しく、辛く、そして言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分がとても、悲しいです。 お坊さんは、好きなことができなくなったことはありますか?そして、言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分はこれからもできないままなのでしょうか?そして、大好き なことができなくなったWebメディアの読者の方へもメッセージをいただけると幸いです。 長々と失礼いたしました。どうぞ、ご回答いただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。 花坂 埖
座禅は無限の功徳であるとか、それ自体が仏であるとか、色んなお坊さんから十人十色のお言葉を頂きました。悟りを開く手段の一つに座禅があるときき始めたはいいのですが、ふと、タイトルにあるような疑問が浮かびました。悟りへの執着は煩悩だとしたら、修行とは何なのでしょう? 自分で考えでも頭の中がグルグルして答えが見つかりません。仏教の極道であるお坊さんからのお言葉を頂戴したく、投稿させて頂きました。沢山のお坊さんからの回答お待ちしております。宜しくお願いします。
こんにちは。 私は30代で夫とは結婚8年目です。 子どもが二人います。 夫は以前から、喧嘩したり機嫌が悪かったりすると無視をします。 年々私への態度は酷くなり、私の事は雑に扱って良いと思っているようです。 ですが機嫌の良い時は優しく、家事や育児を手伝ってくれる人です。 そうすると私も、前は穏やかでいられましたが、最近では常に心が晴れずに悲しい気持ちが続いてます。 私への雑な言動を思い出し、涙がずっと出ています。憂鬱になり子どもに笑顔も作れず、家事も億劫です。自分なんて価値がないんだ、死ねばいいんだといつも思うようになりました。 ご相談したい事は、「夫に期待せず、雑に扱われても気にせず、振り回されずに笑顔で元気に生きるにはどうすれば良いか?」という事です。 ここまでご覧頂きありがとうございます。 厳しいお言葉で構いません、コメント頂けたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。
タイトルの通り、私は8日後に自殺します。 私は過去の行いにも懲りず、今でさえ色々な人に害悪を振りまいています。 もうこんな私には早いとこ天罰や仏罰として、雷でも落ちてくれないかと思いますが、死なせてもらえません。 実はこの3ヶ月の間に自殺未遂を何度かして失敗しております。 ODも途中で吐いたことで失敗し、風呂場での首吊りも物干し竿のフックが取れたことで失敗してしまい、道路への飛び込みも車がギリギリで避けたことで失敗してしまいました。 とにかく何故か、本気で死のうとするほど死ねないのです。 しかし私は確実に死ねる方法をインターネットより見つけ出し、その準備もだいたい整いました。 何故私が自殺を決定したかといえば、自分が好きな人から愛されず、幸せになることを許されず、害悪まで人に与える存在であることに気づいたからです。 本当に好きで、たくさん尽くしてきた人に振られてしまい。その悲しみから、好きでもない人と付き合い始めてしまい、自分の気持ちが満たされないばかりか、結果的にその人に深い傷を負わせてしまいました。 そして他にも、いろんな人を傷つけました。 そして私の周りにはろくな人が居ません。私にたかるような人ばかり。 しかしこれらは全て私が引き寄せてしまったものであり、こうなったのも自分の責任です。 これ以上私が生きていることは、自分不幸などころか、周囲にも悪い影響を与えてしまうと思い、本当に自殺を決意しました。 まだ生きる希望がかすかに残っている間は、色々と足掻いて見ました。 酒で忘れようともしてみました。 とにかく寝てみました。 いのちの電話や仏教系列のホットラインも電話してみました。繋がりませんでした。 話も聞いてもらえません。 でも、もう諦めました。 今は自分の持っている大事な物や高価な物を友人などに譲っています。そして手持ちのクレジットカードやサラ金の枠を全て現金化して、家族や友人に渡す準備をしています。 そのカードでhasunoha様にも寄付をする予定です。 お坊様の方々への、私の最期のお願いとしては、今から8日後の12/6(金) 20:30以降に、私の魂が浄土へ旅立つことができるように祈りを捧げて頂くことです。 祈ってくれる人が居ると思えれば、私は思い残すことなく生涯を閉じれると思います。 どうかよろしくお願いします。
いつも多くのお知恵をありがとうございます。 今日は仏教のことで疑問に思う点があり、質問を失礼します。 仏教と一口に言っても、多くの宗派があるのですが、 死後すぐに仏となり極楽へ。 という宗派や、閻魔様の裁きを受ける。とする宗派もあります。 生まれてから死ぬまで、ずっと一つの宗派で、一族皆が同じ宗派であれば良いのでしょうが、 親戚であったり、知人であると宗派はどうしても変わってきてしまいます。 その際考えるのが、 私の死後に行く世界は、 相手の方のいく世界とは異なっており、 あの世で再会することは叶わないのではないか。 一方は四十九日と言わず極楽へ行かれ、一方は裁きを待ち、地獄へといくかもしれない。 などといった具合です。 実際にあった事例としては、法要の時に「今彼女は輪廻のためにあの世で修行をし、乗り越えているところです」というような説法を受けたのですが、別の宗派ではそうではないのだろうな。と、思ったような事です。 実際には死んでみないと分からないことなので、考えても仕様のないことだとは思うのですが。 お坊さまの皆さまは、こういった宗派による教えの違いにから生じる、死後の世界の違い(四十九日の捉え方、三途の川を渡る渡らない)など、どうお考えになられているのだろう。と、質問を失礼しました。
潮干狩りとか釣りとか、それを生業にしてる人が殺生をするのは当然ですが、自分が遊びでやる事への罪悪感があります。 生命の維持のために他の命を奪う事は世の理です。しかし、第一次産業に携わる方々が、自分達消費者の代わりに殺生をしてくれているのに、その仕組みを超えて、わざわざ自分が快楽を得るために殺生を行うのは、単なるエゴであり、それは捕まえた生命に対し非常に失礼なのでは?と常々感じます。 実際、潮干狩りとか釣りをしている間は楽しいのが、その考えを裏付けるようで辛いです。 しかし、捕まえてしまった以上は、なるべく苦しまないように殺して、美味しく食べようと思います。それが、無駄な殺生をしてしまった自分が出来るせめてもの償いなのではないかと思います。 やはり、潮干狩りや釣りは悪いことなのでしょうか?
大切な友達(A)がいます。 一緒にいると大爆笑できて、悩みも聞いてくれるし、彼女がいたからこそ楽しい青春時代を送ることができました。 でも、私の好きな人がAのことを好きになりました。 その後、私の元彼氏もAのことを好きになりました。 別の元彼氏もAのことをすごく褒めるし、人間的に認めています。 みんな結局、Aを好きになるんだ。私をやめてAにするんだ。 私はAよりとても劣っているんだ。 そんな思いにとりつかれてしまいました。 さらにAも含めた仲良しグループでは、Aをちやほやして、私を三枚目扱いします。Aもそのノリに加担します。それもとても嫌です。 そういうわけで、昔は大好きで、いつでも一緒にいたAのことが、今は嫌いになりかけています。不幸になればいいのに、と思ってしまいます。Facebookの繋がりも勝手に切ってしまいましたし、会う約束をしていたのにどうしても嫌になってドタキャンしたこともあります。 そんな醜い心に支配された自分、Aより魅力的になろうと努力しない自分が本当に嫌いです。死んでしまえと思います。 また昔のように仲良くなるにはどうすればいいのでしょうか。
うちの菩提寺は京都の浄土宗のお寺です。 毎年、彼岸会の葉書に「施餓鬼料金 一霊5000円」と書かれたものが送られて来ます。 霊魂を否定する仏教において「一霊」とは何ですか?