自分の預かり知らぬところで、生きていいいのちと奪っていいいのちの選別が行われる。少し不快になったら「死ね」と言う人々が多い小中高時代でした。故に、生きる権利は簡単に奪われるものであるもののように思います。 実際に「不快だから殺す」が個人レベルではなく国家レベルで行われる可能性があり、それがもうすぐそこまで来ていること、発射ボタンひとつで何の心構えもできないまま全てが終わることを感じた今朝、不安と恐怖に耐え切れず、書き込ませて頂きます。 物理的要因で人間は簡単に終わらされます。凄惨な死は避けられず、成す術もない。自分はあまりに無力で、何をしたって意味がないと自暴自棄になりそうです。楽観はあてになりません。苦しみと凄惨な死があるだけです。何かを信じるのも怖いです。 自分について上手くいくイメージができないことと社会的な問題が解決する見込みが得られないことで、人生に希望を持てずにいます。意欲は薄れ、渦巻く感情を持て余し、生きていけないのに生きていようとします。 物理的問題は高潔な精神でどうにかできるものではないのです。「全てが自分の思い通りになるなら何がしたい」と考えた結論は、「存在していたくない、あらゆる感覚を捨て、物理的世界から完全に解放されたい」でした。 「みんな辛いのに頑張って生きている、辛いことを我慢して適応しなければ生きていけない」 ただ吐き出したいだけ、甘えたいだけなのだと思います。本当は他人の言葉を聞き入れる余裕もなく、それだけで死にたい、死ななければならないような気になります。 駄目でした。やはり生きることが難しいです。
仏教の世界観を教えてください 生きていくにはなにか自分には足りないものがあるような気がします 常識だったり行動力だったり 自分の力で生きてくには 精神的な弱さと 頭のよさなど 心の持ちようなど 仏教徒 になりたいです。 精神的な強さを持ちたいです。 よろしくお願いします。
なぜ人間は存在するんでしょうか。 過去に忘れたいほど嫌な記憶があったり、嫌な日があったらなんで地球はでき、人間がいるんだろうと考えます。 人間が存在しなければこんな辛い思いしなかったのでは?ってついつい考えてしまいます。 毎日なんだかんだ言って学校に通っていますが、学校でもよく考えています。 最近そのことばかり考えて授業にあまり集中できてないので、教えて欲しいです。 そして、とても仲の良い友達がコソコソ話してる時があるととても気になります。 何を話しているんかな~って思い、もし自分の悪口だったらどうしようと思うのです。 友達関係は良好で信頼をとてもしています。 そういうのはつきものなのでしょうか? 私には忘れたい過去があります。 できることならやり直したいと。 心に残った傷は全く治りません。 すこしづつでもいいから、傷が治ることはできないのでしょうか? 私はいま生きてることがわけんからず、なぜ存在しているのか全くわかりません。 どうか教えて欲しいです。
嬉しいはずの新築を建てますが世帯主が43歳で今からローンを定年以後も払い続ける事を考えると心にゆとりがありません。 人間なので前向きに考えるときもあれば、気持ちが沈む日もあります。 気分転換すればいいのでしょうに。と思われるかもしれませんが気分転換する気にもなれません。 どうしたら良いでしょうか?
日本弁護士連合会(日弁連)が6日、福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムで、”瀬戸内さんは「人間が人間の罪を決めることは難しい。 日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」と指摘。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と述べた。”とあります。 しかし、一番野蛮な行為をした犯人が、軽い刑で済むのはどうかと思います。 また、”目には目を歯には歯をは”いけないのはわかりますが、刑期を終えて出所して社会に復帰すると恐ろしいです。 これでは被害者サイドは泣き寝入りかと存じます。 どう思われますか?ご意見を何卒よろしくお願い申し上げます。
タイトルにあるような質問を、自殺志願者の男性に言われて答える事が出来ませんでした。彼は、彼女と一緒に死ぬと言ったまま音信不通になりました。あれから、彼に言われた問いが、私の中に残っています。お坊さんだったら何と答えますか?
こんにちは。 私は30代で夫とは結婚8年目です。 子どもが二人います。 夫は以前から、喧嘩したり機嫌が悪かったりすると無視をします。 年々私への態度は酷くなり、私の事は雑に扱って良いと思っているようです。 ですが機嫌の良い時は優しく、家事や育児を手伝ってくれる人です。 そうすると私も、前は穏やかでいられましたが、最近では常に心が晴れずに悲しい気持ちが続いてます。 私への雑な言動を思い出し、涙がずっと出ています。憂鬱になり子どもに笑顔も作れず、家事も億劫です。自分なんて価値がないんだ、死ねばいいんだといつも思うようになりました。 ご相談したい事は、「夫に期待せず、雑に扱われても気にせず、振り回されずに笑顔で元気に生きるにはどうすれば良いか?」という事です。 ここまでご覧頂きありがとうございます。 厳しいお言葉で構いません、コメント頂けたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。
大切に想い合っている人と、自分自身のことも相手のことも大切に想うが故にお別れしました。 今まではどちらかが好きじゃなくなって別れていたため、自分がもう好きじゃないから前を向ける、又は、相手はもう自分のことが好きではないからと忘れて前を向けました。 ですが、今回は忘れたいとは思っていません。 忘れたくはないけど前は向きたいです。 友人と恋愛について話していても、同じ熱量で想い合って、恋人であり家族のような存在になれる人なんてほんとにいるのかな?そんな人中々いないよね、と話をします。 そんな話になる度に、私にとって彼がどれだけ貴重な存在だったか思い知らされます。 彼と別れたこと自体に後悔はないはずですが、彼を超えるような人と出会えるというポジティブな未来も見えず、大切な過去の思い出を振り返って浸ってしまいます。 いつまでもそんなことをしている暇はないと焦る気持ちと、彼との過去に浸りたい気持ちと矛盾しています。 彼の存在や彼との時間を忘れずに大切にしながらも前を向くためには、どのように考え、行動するといいでしょうか? 連絡してはいけないのに連絡してしまいそうになる瞬間や、私の中にいる彼に話しかけるような時間を減らしたいです。
私は今24歳の会社員ですが、昔から生きづらさと仏教への関心が あり、お坊さんになりたいと思い続けています。 経済的な面、在家という面で、簡単な事ではないという事はわかって いるつもりですが、どうしてもなりたいのです。在家でお坊さんになれるものなのかと、お坊さんになるという事についてどう思われるかご教示下さい。よろしくお願いします。
初投稿失礼いたします。 私にはアプリで出会い、結婚して4年目の夫がおります。喧嘩することもありますが、良好な関係を保てており現在不妊治療中です。 そんな中、1週間ほど前に夫の不貞行為をSNSで見かけました。2人で話していたキーワードをふと検索したところ、記憶にある内容の投稿を見つけたのが経緯です。まだ夫には話していません。 夫はいわゆる裏アカ男子として長く活動しており、女性と肉体関係を持った旨の投稿や、過去に撮影した自身と相手との性行為の動画を投稿していました。結婚前から今まで複数人と関係を持っていたようです。日常的な投稿もあり、見覚えある写真から夫だと特定しました。 今の私の気持ちとしては、動画撮影などの特殊な性癖があることより、不貞を働いていたことに憤りを感じています。そのため、結婚してから関係を持った女性全員に慰謝料を請求し、夫には不貞をやめてもらった上で再構築を望んでいます。 弁護士さんにも相談しましたが、私の希望が叶う可能性は低く、まずは夫と話してどの方針にするかを決定するのがいいとの助言でした。 (相手全員の個人情報が手元にあり、既婚と明かしている前提でないと難しいそうです。) また、私が他の身近な人に相談していないことも指摘いただき、意見も聞いた方がいいとも言われました。 そこでやっと本題なのですが、以下の理由により人への相談や、夫本人との話し合いを躊躇しています。 ご助言をいただけないでしょうか。 ・離婚しか選択肢がないと言われそうで怖い。 ・身近な人たちから夫に対して「そんなことをしていた人間である」という目を向けてほしくない。 ・相談するなら私の友人1人くらいだが、夫に話すのが先か、友人に相談するのが先か、どちらが適切かわからない。 ・まだ夫婦関係は良好なため夫に話した後の反応が全く読めず、話し合いの後に今までの関係が壊れてしてしまうのが怖い。 ・話すならせめて月末の予定を消化してからと思うが、それまで私が1人で抱え切れる自信がない。(弁護士さん曰く、今の情報で十分証拠になるためこれ以上のことはしなくてよいそうです。) また、そもそも皆さんがどう思われるのかご意見を伺いたいです。 夫と話さないと何も始まらないことは承知しているのですが、誰かに聞いていただきたく投稿しました。 どうぞよろしくお願いいたします。
六道のうち人間界が唯一仏教を聞き救われる世界のだと学びましたがチャットGDPに聞くと地獄に堕ちても阿弥陀仏様の救いは届く(地蔵菩薩本願経より)と救済の可能性を示唆する内容を示してました。 浄土真宗の主流となる教えは生きてる内に救われるというものですが救いに違いがあるという事なのでしょうか? 例えば地獄の衆生を救うのはあくまでも地獄から助け出すという意味で輪廻から解脱する事ではない、つまり地獄からは救うけど後の救いは人間として産まれてきたらそのご縁で是非仏教を聞いて救われてくださいって意味なのか?それとも人間界と同じ様に後生で浄土に行くのか?どっちですか? それともそもそも阿弥陀仏様は地獄まで救済に来ないとかですか?
大切な友達(A)がいます。 一緒にいると大爆笑できて、悩みも聞いてくれるし、彼女がいたからこそ楽しい青春時代を送ることができました。 でも、私の好きな人がAのことを好きになりました。 その後、私の元彼氏もAのことを好きになりました。 別の元彼氏もAのことをすごく褒めるし、人間的に認めています。 みんな結局、Aを好きになるんだ。私をやめてAにするんだ。 私はAよりとても劣っているんだ。 そんな思いにとりつかれてしまいました。 さらにAも含めた仲良しグループでは、Aをちやほやして、私を三枚目扱いします。Aもそのノリに加担します。それもとても嫌です。 そういうわけで、昔は大好きで、いつでも一緒にいたAのことが、今は嫌いになりかけています。不幸になればいいのに、と思ってしまいます。Facebookの繋がりも勝手に切ってしまいましたし、会う約束をしていたのにどうしても嫌になってドタキャンしたこともあります。 そんな醜い心に支配された自分、Aより魅力的になろうと努力しない自分が本当に嫌いです。死んでしまえと思います。 また昔のように仲良くなるにはどうすればいいのでしょうか。
本件急ぎませんので、お手すきの折にご確認頂けますと幸いです。 何卒よろしくお願い致します。 ■質問 ①得度前と比べて、八正道の実践が上達している実感はあるか ②八正道の実践における、具体的な行動例とは(心がけ以外) ③八正道を実践する上での「難しさ」と、その対処方法は何か ■仮説(想像です…) ①得度前と比べて、八正道の実践が上達している実感はあるか ・ご実感は「ある」のではないか ・筋トレと同じで、徐々に筋肉つき、サボると落ちるイメージか? ②八正道の実践における、具体的な行動例とは(心がけ以外) 【正見】仏教を勉強する、見分を広め固定観念に気付く、瞑想する等 【正思惟】モノや人間関係や思い込みの断捨離をする、慈悲の瞑想する、感謝日記かく、怒りは深呼吸する等 【正語】うそ、悪口、おべっか、無駄話NG。言葉は大切にする等 【正業】殺さない、盗まない、不倫・浮気しない、人に迷惑かけない、菜食試してみる等 【正命】仕事がんばる、規則正しい生活する等 【正精進】煩悩を誘発するものと距離を置く(スマホ、酒、繁華街etc.)、良い習慣は継続する(笑顔、気持ちいい挨拶、募金etc.)等 【正念】瞑想する(観察型)等 【正定】瞑想する(集中型)等 ③八正道を実践する上での「難しさ」と、その対処方法は何か ・「正しさとは」で迷う⇒経典を参照したり、師匠に相談する 等? ■質問の背景 ・四法印や四諦の理解が少しずつ進み、八正道に興味が出てきた ・しかし具体的に何をすれば良いか、すこし分かり辛い印象がある ・なので、稚拙ですが、いったん具体的な行動例を書き出してみたもの ・その他具体例があれば、是非アドバイス頂きたい(無数にある?) ・実践面での工夫や困難等、お坊様のご助言をぜひ頂きたいと思った ・また、そもそも上達(?)する性質のものか、気になっている 以上です。 いつもご回答頂き、有難うございます。 師走のお忙しいところ、重ねての質問で大変恐縮ですが、お手すきの折に、どうぞよろしくお願い致します。
という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。
妻はもともとヒステリーなところが少しありましたが、子供が産まれてから人が変わったようにひどくなり、半年ほどでこちらが鬱になってしまい1ヵ月ほどの別居でこちらの体調が改善したのでまた元の生活に戻りました。 それ以降も関係は良くなく、今も些細な事で週に1回から2回ぐらいのペースで怒鳴りあいの喧嘩が絶えずあります。 ほぼ毎回喧嘩の時に離婚したいと伝えますが、妻が少し冷静になってくるとさっきまで激怒していたのが急に人が変わったように号泣しながら、怒ってごめん、私が悪かった、離婚はしたくないと謝ってくるので結局こちらが折れてしまうのを繰り返しています。 毎日が本当に窮屈で、とにかく妻の機嫌に振り回され、自分のための自分の人生では無くなってしまったようで、生きているのは辛いです。 綺麗事に聞こえると思いますが、些細な事でキレてくる妻を許せずに激怒し返してしまう自分が嫌いで自己嫌悪しかありません。自分が自分で無くなってしまったように感じます。 絶対に離婚した方が幸せになれると思いますが、号泣しながら謝られると結局それ以上は何も言えなくなってしまい、普段は妻も普通の人なので子供が可愛いし、離れたくないのでこのままでもう少し頑張ってみようと思ってしまいます。 それなりに今まで幸せで楽しい人生でしたが、現在は本当に楽しくない辛い人生だなと感じています。 このまま頑張って夫婦生活を続けていくしか無いのでしょうか?
いつも多くのお知恵をありがとうございます。 今日は仏教のことで疑問に思う点があり、質問を失礼します。 仏教と一口に言っても、多くの宗派があるのですが、 死後すぐに仏となり極楽へ。 という宗派や、閻魔様の裁きを受ける。とする宗派もあります。 生まれてから死ぬまで、ずっと一つの宗派で、一族皆が同じ宗派であれば良いのでしょうが、 親戚であったり、知人であると宗派はどうしても変わってきてしまいます。 その際考えるのが、 私の死後に行く世界は、 相手の方のいく世界とは異なっており、 あの世で再会することは叶わないのではないか。 一方は四十九日と言わず極楽へ行かれ、一方は裁きを待ち、地獄へといくかもしれない。 などといった具合です。 実際にあった事例としては、法要の時に「今彼女は輪廻のためにあの世で修行をし、乗り越えているところです」というような説法を受けたのですが、別の宗派ではそうではないのだろうな。と、思ったような事です。 実際には死んでみないと分からないことなので、考えても仕様のないことだとは思うのですが。 お坊さまの皆さまは、こういった宗派による教えの違いにから生じる、死後の世界の違い(四十九日の捉え方、三途の川を渡る渡らない)など、どうお考えになられているのだろう。と、質問を失礼しました。
潮干狩りとか釣りとか、それを生業にしてる人が殺生をするのは当然ですが、自分が遊びでやる事への罪悪感があります。 生命の維持のために他の命を奪う事は世の理です。しかし、第一次産業に携わる方々が、自分達消費者の代わりに殺生をしてくれているのに、その仕組みを超えて、わざわざ自分が快楽を得るために殺生を行うのは、単なるエゴであり、それは捕まえた生命に対し非常に失礼なのでは?と常々感じます。 実際、潮干狩りとか釣りをしている間は楽しいのが、その考えを裏付けるようで辛いです。 しかし、捕まえてしまった以上は、なるべく苦しまないように殺して、美味しく食べようと思います。それが、無駄な殺生をしてしまった自分が出来るせめてもの償いなのではないかと思います。 やはり、潮干狩りや釣りは悪いことなのでしょうか?
うちの菩提寺は京都の浄土宗のお寺です。 毎年、彼岸会の葉書に「施餓鬼料金 一霊5000円」と書かれたものが送られて来ます。 霊魂を否定する仏教において「一霊」とは何ですか?
日蓮宗のお寺の住職である父親が急死して、まだ高校生である長男がお寺を継ぐ為に修行する事になりましたが、周りの方にいいお坊さんにならなければだめだと言われました。いいお坊さん?どんなお坊さんがいいお坊さんなんだろう?檀家さんなどとうまくコミュニケーションがとれるお坊さん?お経、作法などが完璧でなんでもこなせるお坊さん?人間的に器の大きい優しくどんな時でも冷静な判断ができるお坊さん?色々考えてもわかりません。私は母親ですが、私も的確なアドバイスができませんでした。どんな風に言ってあげたら良いでしょうか? また、もしおわかりになったら教えていただきたいのですが、日蓮宗 清澄寺での度蝶交付式は来年の1月の何日に行われますか?来年の事でなくても今年の1月は何日に行われたかでも結構ですのでお願いします。
“いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。” 太宰治の人間失格の行です。 太宰治と言えば、ネガティブなイメージで捉えられるケースが多く、この行も自死を決断した際の言葉だとも言われています。 でも、僕にはこれが『悟りの境地』なのではないかと思えてしまいます。 最近、『死』を意識するようになりました。 決して自死願望などではなく、自分の人生が良かったか悪かったかを判断するのは、死の瞬間に走馬灯のように自分を振り返る時に、自分自身で判断するものだと思うようになったのです。 だから、今を精一杯生きようと... ただ、それが空回りしたのか、ベクトルを間違えたのか、自分の理想ばかりが鮮明になってしまい、現実が非常につまらないもの・美しくないものに見えてしまい、虚無感に苛まれておりました。 先般の質問に対してご回答を賜り、理想と現実のギャップについて学びを得させていただきました。 ありのままにすべてを受け入れることは、簡単なことではありませんし、それを理想にしてしまえば、また堂々巡りのように自分中心の思考に嵌まってしまう... ここで、改めて質問をさせて下さい。 輪廻転生がないものだと仮定すれば、人は生まれてきて死ぬまでに、どんな意味を持つのでしょうか? 煩悩を捨て、ニュートラルな思考で生きることが最善であるならば、そこには何の喜びがあるのでしょうか? 輪廻転生があるのだとすれば話は別だと思いますが、それを記憶出来ない以上は、敢えて現世の人生の中での部分に絞ってお伺い致します。