初めて質問を書きます。 生き死に について。 私は24歳です。 3年前、大変な仕事で精神的にも肉体的にもボロボロになってしまいました。 心療内科の先生からは抑うつ状態との診断を受けました。 その際、カウンセリングの先生から生き死にに関して問われました。 私は、生きるということに対して貪欲でないことに気が付きました。 生きる未来より死ぬ未来の方が安心していました。 ただただ、生きていたんだと思いました。 いままで大きな病気をしたこともないので、死を目の前に感じ、恐怖したことは有りません。 日本は尊厳死、安楽死の法整備は進んではいません。 自殺という方法でしか死ぬ日が決められないのかなと思いました。 私のような考えはおかしいのでしょうか。 私が生きていていいのでしょうか。 御坊様方、どうかお教えください。
業 というものについて、疑問があるので質問させていただきたいです。 よく業という言葉が使われる場面は、「あの人はあんな事をしたんだから、自業自得だ」といったものかと思います。 ある事をするとある事が返ってくる、というざっくりとした理解をしているのですが、これが倫理観と絡むと難しいと感じます。 先日、以下のような記事を読みました。 「浮気や不倫は人を傷つけることになる。これは業だから、やがて浮気や不倫をした本人達を苦しめる結果になる」 現代の倫理観に照らせば、確かに浮気や不倫などは傷つく人を生みますし、社会的にも良くないとされています。私個人も不誠実で嫌な行為だ、と感じます。 しかし、例えば妾が社会的に許されていた時代には、今よりはるかに愛人さんや不倫があったと思うのです。それが甲斐性だと思われていたこともあったと聞き、では当時であったなら浮気や不倫は今のような業ではないのだろうかと感じました。或いは、業だらけということになってしまうのではないかと感じました。社会的に苦しい立場の人々を保護した一面もあったのでしょうが、慈悲の心だけという訳でもないケースもあったでしょうし、当時でも悲しむ人もいたのではないかと思ってしまうからです。 業とは、時代の変化に合わせて、(人が傷つくものに合わせて?)変化するものなのでしょうか。 それとも、普遍のポイントとなるものがあるのでしょうか。 業というものについての難しさを理解してみたいと思い、質問させていただきました。 理解が大幅にずれていたらすみません。 回答のご検討をよろしくお願いいたします。
憎まれ役。伝えなくてはいけないことは誤解が生じないようハッキリと言う必要があるわけで。とはいえ、やっぱり辛い時もあります。 損な役回り。それほど良いものでもないんだけどなぁ、妬まれ悪く言われればいじけてしまうこともあります人間だもの。 図々しいお願いなんですが、こんな私を励ましてもらえますか。 事情を知る人の言葉は、どうしても理想論で響いてこないんです。 一人で背負い込まなくていい、無理しなくていいと言われても、誰かがやらなくてはいけないわけで。誰も代わりはいないため私が引き受けるほかない。覚悟を決めた以上、投げ出すことはできないから淡々とこなしてはいるけれど。 部外者(例えば友人知人)に話して愚痴る質ではないため、この苦労も努力も知る人は殆どいない。別に理解されたい訳ではなく、落ち込んで孤独に負けそうになることがあるんです今のように。 旦那ちゃんの言葉は、色んな意味で明後日を向いているので笑えてしまって励ましにはならず。 たまーに、ただ純粋に、励ましの言葉が聞きたいなあと思ってしまいます。事情が分からこその純粋な励まし。 質問ではない無理なお願いで申し訳ありません。
明けましておめでとうございます。 昨年は色々とありがとうございました。 新年になり、ふと思い出したことがあるので二つ質問です。 一つ目はある私の大嫌いなパンクな僧侶が、 『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもあり めでたくもなし』 という歌を残して、正月に京の街をシャレコウベを持って『ご用心なさい』と言って練り歩いたという逸話があります。 最初は、死に近づいてるのだから有難がるなよ、髑髏のような死体になるから気を付けなさい、という意味かと思っておりました。 しかし最近は、『寂滅為楽の涅槃に近づいた。めでたいな。でもまだ涅槃への道は遠い、めでたくないな(浮かれてはいられないな)。用心してしっかり行かないと』 と考えるようになりました。皆様の解釈はいかがでしょうか。 (死や死に向かっていく事に対してはめでたいも、めでたくもないのですが) 二つ目は、婆子焼庵という公案です。 内容は以下転載です。 『ある老婆が、一人の修行僧のために草庵を建て、 衣食住の一切を世話をして20年が過ぎた。 そこで「そろそろ いいか」と、娘を世話する ことにした。すると 修行僧は「枯れた木が 寒い岩に立つように、私の心は燃えない」と 言って、娘の誘いをはねのけた。 娘からその報告を聞いた老婆は「20年も世話 してきて、まだ こんな生臭さか!」と怒り、 修行僧を追い出し、庵も焼き払ってしまった。 さて「婆さんの真意はいかに」というもの』 私なら、何故私を気に入ったかを聞いて顔や身体です、とか言われたら返事を翌日まで保留にして、そのまま旅に出ます。 性根や内面が気に入った、とか言われたら、一緒に出家しようと誘います。 片方が顔や身体を気に入って、もう片方の人が内面とか言われたら内面が良いと言ってきた人を出家に誘って、庵を出ていきます。 皆様はどんな解釈や回答になりますか? (作麼生・説破の使い方が違うのはお許しください)
人間って本当に生きているのでしょうか?
相手は、ノロウイルスです。 日常生活に支障を来す程の、強い恐怖心や不安感があります。 何とか仏教の教えをヒントに、克服できないものかと質問しました。 例えば、 (1) 汚物を処理する時の精神的ストレス (2) 激しい症状による肉体的苦痛 (3) 二次感染の不安 これらを過剰に恐れない考え方(捉え方)が見つかれば、気持ちが楽になり、もっと生きやすくなると思います。 適切な対処法は厚生労働省のHPを見て知っています。また、どんなに予防しても対処しても100%じゃない、なるときはなるもの、と分かっています。でも、心が追い付いてこないのです。 3つのうち1つでも構いません。ノロウイルスに対して動じない心を持てるよう、どうか知恵を貸して下さい。 よろしくお願いします。
今日も抜けてる。 髪が抜ける。 めっちゃ抜ける。 はげになる。 どうしよ。 かきむしりたい。 わーってかきむしりたい。 人よりも抜きんでたいのに抜けるのは髪だけ。
聞きかじりの知識なので正確さを大きく欠いている可能性が御座いますがご了承下さい。 仏教においては輪廻転生が唱えられてはおり、目指すべきは解脱であるため、本来仏教に天国や地獄といったあの世観は存在せず、日本内での布教の際に付随したという話を以前聞きました。 しかしいざ調べてみると、仏教にもあの世観(前世、来世での意味でなく、天国や地獄の意味で)は存在しているという記述を見つけました。 実際に仏教ではどのように考えられているのでしょうか? また、仏教の成り立ちや変遷について学べる読み物が御座いましたらお教えください。
例えば、彼氏といつかここに行ってみたいね、という話があった時、「いつ行くか」という事を今決めておかないと不安になったり。 今バンド活動をしているのですが、メンバーの怪我や個人的な事情などで活動できない期間が1か月でもあいてしまったりすると不安になります。 その他にも様々なことがいつも頭の中でせわしなく動いていて、気持ちの休まる暇がありません。 やるべきことが滞っている状態や、トラブルが起きて思い通りに進まないという状態に耐えられないのです。そうしている間に、そのもの自体が消えてどこかに行ってしまう、失ってしまうんじゃないかという不安が襲ってくるんです。 彼氏には、あまり物事を急ぎすぎると周りも疲れてしまうよ、と言われます。私も、もっとゆったりとした気持ちで日々過ごしたいと思ってはいるのですが、どうしたらそうなれるのかがわかりません。アドバイスを戴きたいです。
霊や霊能者は実在すると思まいすか? 現在の科学では あることも証明できない ないことも証明できない と聞いています 私は科学では証明できない能力がある人が存在するとは思っています。 たとえば”雲を消す男”が実在するようです 動画サイトに出ています。 https://www.youtube.com/watch?v=Pd3BfbCFwzU これは私も30年ぐらい前にテレビで見ました 当時はGC技術もそんなにな進歩していなかったと思いますし 心霊現象や超常現象を真っ向から否定する大槻義彦氏が立ち合いをしている中での出来事なので、CGによる編集や番組制作会社の創作ではないと思います。 (創作、捏造なら大槻氏が訴訟を起こすでしょう) また同じころ、別の番組で霊能力者を名乗る外国人が 生放送番組で登場し その年の日本の セリーグ・プロ野球優勝チームを予言して的中させたことがあります。 10年以上優勝から遠ざかり、シーズン前の前評判も高くないチームの優勝を 開幕前に断言。そして半年後に本当に優勝して的中させたのを見ています。 手品や八百長などあり得ない話です。 このようなものを見ると 現在の科学では証明できない 特殊能力を持った人は 実在するのでは?と考えています。 では 実際に 霊が見えたり、霊の声を聴いたりする 霊能者もあってもおかしくないのかな?と思います。 実際のところどうなのでしょうか?
ネットで般若心経や不動明王、真言を唱えると幽霊が寄ってくる、危険、呪いの言葉というの書いてあるサイトを見たのですが、リラックス効果や厄除け効果があると聞いてたまにですが唱えるので デマだと思うのですが気になりまして、モヤモヤしたので質問させていただきました🙇♀️ 回答お願いしたいです。 #般若心経 #不動明王真言
こんにちは。お坊さんの妻帯について質問です。 よく日本のお坊さんの妻帯が「堕落」として批判されることが ありますが、妻帯は堕落と言えるほどの問題なのでしょうか? 日本仏教に限らず韓国やチベット、ネパールにもお坊さんの 妻帯を認める宗派はありますし、 タイでは「男性は一生に一度は出家する」という慣習に従って、 既婚者でも出家することが少なくないそうなので、 「妻帯」=「堕落」としてしまうのは早計ではないかと思います。
仏教の歴史の中で、出家者が妻帯を許されていなかった時代もしくは派閥があると思いますが では、もしその教えによって、万が一、世界中の男性がそれを信仰し、出家し教えをしっかり守り、妻帯せず子供も作らなくなった場合、子孫が繁栄しない状況に陥るのではないでしょうか? 子供が生まれなければ人類は滅びてしまいますが、それはそれで良いという事なのでしょうか? 教えを説いている側は教えが広がる事は悪い事とは思っていないと思いますが、いざ広がりすぎた場合人類が滅びます。そんなに広がらないとタカをくくっているのでしょうか? それとも単に私の知識不足による勘違いでそんな教えはないのでしょうか?。 私なりにいろいろ調べたのですが答えが出ません。 気になって朝も昼も寝られません>_< どうか私めにもわかりやすく教えて頂きたく存じます。m(_ _)m
私は33歳になっても貯金がなくそれどころか借金や月々の支払いで、常に滞納しており督促の電話ばかりで毎日がつらいです。 死んだ方が楽なのかと考えています。 どうしたらお金の呪縛から解放されますか?
よろしくお願いします。 私の実家は浄土宗です。最近、法事があり人生の目的、生きる意味について坊様に質問しましたが、しっくりしませんでした。 そういう訳で、こちらに質問させていただきます。 私は自殺願望はありませんし死にたくはありません。いつかは別れが来るであろう家族とは出来るだけケンカしないように貴重な時間を大事にしています。昔は人生が虚しい感覚がなかったのですが最近は良い意味で感じるようになりました。 もし人生の目標や目的があったり、何故、生まれてきたのか?生きる意味とは?が分かれば、心のモヤが晴れて人生が豊かになると思います。 よく例え話で、もし寿命が一年しかないとすれば、あなたは今何をしますか?それがあなたの生きる目的です。という話がありますが、私の場合は働くことを辞めて好きなことをしたり、関わってきた人たちに御礼参りをします。 普通に生きていた時は当たり前だと感じたことが死ぬ前になると有り難く思う気持ちに気づかされる。だから何気ない日々を感謝の気持ちを持って生きる。それが生きる目的なのでしょうか?その為に生まれてきたのでしょうか?それは生きる手段であって真の目的は、それではないように感じます。 ちなみに周りの人には理解し難い内容なので話せません。私の考え過ぎなのでしょうか?
三面大黒天さまをお祀りしている者です。 ご本尊(阿弥陀さま)、個人的な念持仏のお不動さまと共に、毎日お勤めをしております。 大黒様のお祀りの仕方を読んだ本には書いていなかったのですが、人づてに「天部の神様は怖い」と聞きました。 (聖天さまやダキニ天さまの噂は聞いていたので、遠慮しました。) 大黒様には怖い噂は当初は聞いていなかったので、大丈夫だと思っていたのですが。 しかし何人かの方々から、総じて「天部」の神様は、人間に近く感情をお持ちなので、気をつけなければならないと聞きました。 聞いたところによりますと、 ・粗末に扱う、罰当たりなことをしゃべる ・礼拝をさぼる ・信仰をやめる ・お祀りの作法を間違える ・お坊さんの真似をして、在家が本格的な祈祷をやる これらが要注意だと聞きました。 その後、いろんな人の意見を聞いたのですが、「怖い」、「いや怖くない」と意見はバラバラでした。 いずれも在家の人々です。 (開眼は大きな寺院で集団で行いましたので、そのお寺のお坊さんとは連絡しずらい状況です・・・) そこでお坊さまがたのご意見を伺いたくて、ご質問をした次第です。 よろしくお願い致します。
現実的でなくても構いませんので、お坊さんが考える「この世があるべき究極の状態、仕組み」について、ご意見をお聞かせください。
以前、死と地獄が怖いって事を質問させて頂きました。 私は悪い事をたくさんしてきました。 もちろん反省はしています。後悔もしています。でも、悪い事をたくさんしたので地獄に行くのではと怖いです。 その回答として念仏を唱えると良いと言われました。 それから忘れる時もありますが念仏を唱える事をしています。 ただ疑問に思った事があります。 もちろん反省の気持ちを込めて念仏を唱えてはいます。 もう二度としないという誓いと申し訳ないという反省の気持ちを込めてはいます。 でも、地獄に行きたくないのも本音です。 地獄に行きたくないというやましい気持ちがある中で、反省や誓いを込めて念仏を唱えることは偽善になりますか?
いつも有難い回答の数々を拝見しております、この度初めて質問をさせて頂きます。 半年ほど前、私の祖父が亡くなりました。豊山派の檀信徒であり、幼い私が泣くと仏教の教えを噛み砕いて教えてくれる優しい祖父でした。しかし晩年には認知症を患っていた事もあり、特に祖母には暴力を振るうなどしていたので家族からは次第に疎まれていました…。 そんな祖父でしたが、亡くなった後も祖母は仏壇に毎日お供えをして手を合わせています。しかし「お爺さんは死ぬまで有難うと言ってくれなかった」と少し悔しそうです。 そんな祖母に「お爺ちゃんはお浄土に行って、偉い仏様の教えを聞いて仏様になったよ。今までごめんね有難うって言ってるよ」と諭しましたが、「死んでも皆浄土に行けるなら、生前どれだけ悪い事をしても良い事になる」と不思議そうに言われました。 前置きが長くなってしまいましたが、祖父の生前の行いに罰があって欲しくも、浄土に居て欲しいと願う祖母に私は何と説明すれば良かったのでしょうか…
以前も何回か相談させていただいていますが、今回もよろしくお願いします。 母が亡くなってから、母の供養のためと思い、お経を唱えるようにしています。 何が書かれているのか意味も分からずに読んでいるのですが、これは意味のないことなのでしょうか? 今は少しでも何が書かれているのか理解して行いたいと、関係する書物を読みはじめたばかりですが、理解して行えるようになるまでには、まだまだ暫くかかりそうです。