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検索結果: 1723件

十二因縁(縁起)を例えると…

日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m

有り難し有り難し 109
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父親の死について

初めまして。 父親が亡くなってから、3ヶ月経ちました。 仕事中に亡くなりました。原因は、会社側にあるとのことです。 家族みんな、突然の出来事すぎて、悲しいしさみしいけれど、まだ生きているようにも思います。 父親は"これから"がある年齢で亡くなりました。 孫がたくさんいます。私は、父親に孫との思い出を沢山作らせてあげたいと考えていました。 それなのに、失礼にはあたると思いますが、病死ではなく、仕事中のしかも原因は会社側にある死に方。 受け入れたくても、受け入れきれません。 相談したくて書き込んでいるのか、ただ聞いてほしくて書きこんでいるのかもよく分かりません。 気になることはあります。 ・こういう突然の死は、父親の運命?だったのか。 ・父は、あの世という世界へいけているのか。 この2点が気になります。 お坊さんの経験談?でもいいので答えていただきたいです。 あと、夢に父親が出てきます。亡くなったばかりの頃は、父親から大丈夫と聞かれました。 最近は、夢の中で私は生き返ったと思っているのですが、身内ではなく他人、医療系?の人に死んでるんだからかわいそうだよと言われました。 何か意味はあるのでしょうか。私が考えすぎなのでしょうか。 乱文になってしまいましたが、なにか一言でもいいので、いただけたらと思います。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 12
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人は死んでも見ていてくれるのでしょうか

人は死んだら無になるのでしょうか。仏様になって私たちを見てくれてはいないのでしょうか。 幼い頃から大好きで大切だった祖母が最近、亡くなりました。私の家には仏壇が無いため(親戚の家にあります)、祖母の写真を置き、その前にお供え物をしています。祖母は亡くなるまでの半年間は食べ物や水を一切口にすることができませんでした(病院から飲食を禁じられており、栄養はカテーテルで摂っていました)。しかし本人はずっと「食べたい」「水が飲みたい」と言っていたのにそれが叶うことなく亡くなってしまったため、あまりにも哀れで、せめて天国ではたくさん食べてほしいと思い、お供え物をたくさんしています。けれど、ふと思うんです。こんなことをして、祖母は食べてくれているのだろうかと。人は死んだら仏だのあの世だの霊だのそんなものはなく、完全に無になるだけなのではないかと。だとすれば、毎日あれこれと飲み物や食べ物をお供えしているのは、単なる私の自己満足に過ぎません。それを考えると、虚しくなります。仏もあの世もなく無になっているのなら、お供え物もお墓参りも完全に意味の無い行為と言えます。ネットで色々と検索してみたら、霊感のある人は「ちゃんと食べてくれている」という意見を述べていたのですが、私には霊感がないので何も感じ取ることができません。 それに、祖母は20年以上前に亡くなった祖父のお墓参りをずっとほぼ毎日やってきましたが、祖父が見てくれていたようにも思えないのです。なぜなら、祖母は長年、体の不調に苦しみ続けていましたし、長文になるので割愛しますが最期の時もあまりにも惨めなものでした。よく「故人を思ってお墓などを大切にすると幸せになれる」ということを聞きますが、祖母は最後まで哀れでした。このことを考えると、やっぱり人は死んだら無になるだけで、それ以上は存在しない、つまり私たちを見てくれてはいないのかなと思えてしまいます。 難しい質問かとは思いますが、回答、宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 85
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2022/02/15

この世で生きる苦しみは学びでしょうか

いつもたくさんの相談と回答を読ませていただき、学ぶことや気づくが多くありがく感じています。 今回2度目の相談です。 前回娘が亡くなったあとの心の持ち方についてご教示いただき、それまで苦しみで澱みきっていた心が浄化されました。ありがとうございました。 あれからも娘のことを思わない日はなく、 でもあちらの世で仏様のお導きのもと、生前抱えていた深い苦しみや悲しみがない在り方(過ごすや暮らすという表現は違うと思いこのように表しました)をしているものと考え、娘の肉体はなくなったけれど存在は私にとって永遠のものになったと感じられるようになりました。 いろいろ考える中で思ったのが、人はこちらの世界で様々な煩悩や苦しみを抱えながら生きていますが、それは学びであって、亡くなった後あちらの世界で仏様になり、生きている人たちの心のよりどころ(?)救いとなるための修行のようなものなのではないかということです。つまり、生きることは決して楽ではないけれど、その経験が輪廻転生の中のどこかで人を救う力になるのではないか…そんなことを考えました。 仏教のことは深く学んだことはなく詳しくわかりません。感じたままのことですが、お坊様方のお考えや仏教の正しい教えをお聞かせいたたければ嬉しいです。

有り難し有り難し 13
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感情と感性の違いとは?

先日、知人と議論になりました。 私は、「好き・嫌い・やりたい・やりたくないとかは、関係なく、やるべきことをきっちりとやりたい」って感じなので、どちらかと言えば、「感情排除・感情不要」だと思っています。 知人は、「何ごとも気分良くやりたいから、感情は大切だし、排除できるはずが無い」と言います。 そんな話をした帰り道、「わぁ、この置物、良いね~」「あ、梅が咲いてる」と周囲のいろんなものに反応しているのは私の方でした。 その時に、知人から「そんなにワーキャー言うのが、感情じゃないの?」って言われました。 そこで、質問です。 私のイメージする「感情と感性の違い」は・・・・。 好き嫌いなどの感情で気分が上下していると、落ち込んでいる時は風景を楽しむ余裕も無いだろうし、ウキウキしすぎて周囲が見えないのでは無いのかと思います。 気分が上下するような感情を排除することで、いつでも、同じように冷静に周囲を見渡して、いろんなものを感じることが出来る「感性」があるのではないかと思っています。 感情の波に翻弄されて、大嵐の海のように上下に揺れ動いていては何も見えないように。 穏やかな湖の上であれば、空も鳥も風ものんびりと感じることが出来るように。 感情を排除することで、より豊かな感性を磨くことが出来る。 感情を重視すると、感情だけに囚われてしまい感性を磨く余裕が無くなる。 感情に囚われない方が、いろんなことを楽しめると思うのですが、知人は「感情が大事。嫌なことは言わないで、伝えないで、見せないで、アドバイスなんて余計なお世話」と拒絶されてしまいます・・・。 感情と感性。この違いは何なのでしょうか? 私の考え方は、どうなのでしょうか? よろしくお願いします。

有り難し有り難し 18
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