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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 悟り 」
検索結果: 1805件

誰からも求められていないのに生きる価値はなんですか?

会社員です。真面目で努力家だと思います。出世もしたいです。 上司から見込みがあると気に入られ仕事が山のように降ってきます。 チャンスをいただいたと思い、一生懸命頑張っていますが、あまりに多くて一人でできる量ではありません。 しかし同僚からは気に入られてよいねと言われサポートが受けられません。 上司に相談しても、気合で頑張れというだけで、解決が図られず、休みもなく働いてばかりです。 そのような中、あまりに仕事量が多く、上手く回らなくなった結果、その上司にも見放されつつあります。もはや孤立状態です。誰に相談しても、弱音を吐かず頑張れとしか言われず、もう話す気力さえ失せました。 とはいえ、仕事は仕事。お客様に迷惑をかけないためにも頑張って仕上げるしかないので、粛々とやっています。 ただ上司にも、同僚にも必要とされない、家族も恋人も友人もいない。 お客様にとっても私の代わりはきっといる。 結局、誰からも求められていない、死んでも泣いてくれる人もいない。 そのような中で生きる価値はあるのでしょうか。 私が周囲を大事にできていないのでしょうか。私が悪いのでしょうか。 仕事ばかりの人生に意味はありますか。

有り難し有り難し 68
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お坊さまの言葉

先日は母の四十九日法要でした。 私は檀家等のつながりが無く某密林サイトにてお坊さまを依頼させていただきました。 来られたお坊さまはきちんと経をよんでくださり法要としてはとても満足のいくものでした。 ただ、経が終わり帰り支度をしながら「次は100日の法要を必ず実施してください。でないと故人はお釈迦さまの元へはいけなくて追い返される」みたいなことを言われました。 今後の法要の予定として言われたのだろうとは思いますがその話だけをしてサッと帰られました。 私はこのお坊さまのおっしゃられた事に間違いはないとは思いますが、もし私がお坊さまの立場なら、お金の余裕が無く簡素なお供えではあるけども、故人を思い一生懸命な遺族に対して今日の四十九日法要を無事に実施できたことに対しての労いと、これで故人も安心して旅立てます、だから残されたあなた達は安心してしっかりと生きていきなさいよくらいのことは言ってあげると思います。 死んだ人だけでなく残った遺族に対しての救いになるような言葉かけて道を照らしてあげるのもお坊さまの使命ではないでしょうか。 単に法要の管理だけならCDで流すお経とあまり変わりはないのかな?なんて思いました。

有り難し有り難し 30
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大罪

はじめまして。 私は仏の道に近いところにおります。 そんな環境にありながら、 人道にも仏道にも外れる大罪を犯しました。 10年以上前になります。 内容は、煩悩の欄に記載しました。 大切な人を裏切ってしまいました。 その事を知るのは、 私と、当時その話をした友人二人だけです。 大切な人には話しておりません。 その当時は、とある事から 裏切られた、という思いからの 仕返しの気持ちでやってしまいました。 ただ、裏切られたという思いがあったため 罪とわかりつつも、そこまでの罪の意識はありませんでした。 それがつい、昨年の秋~冬になる頃 とんでもない罪悪感に襲われるようになりました。 罪の大きさ、重さにようやく気付いたのです。 それは、余りにも遅すぎました。 心の底から、本当に申し訳ない思いでいっぱいです。 なぜあんな事をしてしまったのか…。 とても重い罪悪感から、罪を告白しようと 思ったこともあります。 でも、できませんでした。 罪を告白する事によって、相手が深い傷を負うでしょうし、 私は全てを失うでしょう。 大罪を犯した私は、やはり救われる事はないのでしょうか。 また、そんな私が、子どもを叱るときに 嘘をついてはいけない 人を傷つけてはいけない 人を裏切ってはいけない 失敗しても、その失敗を認めて またやり直せばいい 悪いことをした時は、それを反省して 二度とやらなければいい などと言うのは間違っているのでしょうか。 そんな事を子どもに言う資格などないとも思います。 大切な人に、過去に悪い行いがあった時、 反省してもう繰り返さなければそれでいいのだろうか? と問いかけると、それでいいと言ってくれました。 もちろん二度と同じ過ちは絶対に犯しません。 長文になってしまいましたが どうかご指導いただきたいと思います。

有り難し有り難し 107
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越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)が気になります

密教をご存知のお坊様に、質問をさせてください。 3つ質問があります。 「越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)」が非常に気になっております。 密教には、在家の人間がやってはいけないことがあると聞きました。 在家の人間が、阿闍梨の許可なく、勝手に真言を唱えたり、伝授なしに梵字を書いたり手印を結んだりするのはいけないと聞きました。 これを破ると越三摩耶戒罪、越法罪という宗教上の罪になる。 何の功徳も、ご利益もなく、徒労に終わる。 「大叫喚地獄に落ちる」とか「無間地獄に堕ちて出ることができなくなる」という恐ろしげな記述もありました。 1つ目の質問です。 何人かの先輩の信徒(在家)から色々と聞いて、自分なりに考えをまとめました。 ・真言なら唱えても良いし、功徳もご利益もある。 ・手印を結んだり、梵字を書くのはやめたほうが良い。 ・阿字観はお坊さんの指導のもとやること。独学は駄目。 ・本格的な祈祷の真似事をやるのは絶対に駄目。 ・「地獄に堕ちる」は、師僧の指導に従わない・修行のルールを守らない修行僧を戒める方便。でも原則として守らなければならない。 これでよろしいのでしょうか?  2つ目の質問なのですが。 私は信仰を持つ前から、仏教に強い興味がありました。 多くの本を集めて読んでいたのですが、愚かな素人の悲しさ、当時は越三摩耶戒罪のことは知らず、手印や梵字の書き方の本、さらに儀軌や口訣書を含めた専門書もかなりの数、蔵書として所有しております。 また密教美術にも惹かれ、曼荼羅の色紙も購入してしまいました。 しかし阿闍梨の許可なく、曼荼羅を建立したり、儀軌や口訣書などの専門書を読むのも越三摩耶罪に当たると聞きました。 ・小さな仏壇の上に、両界曼荼羅の色紙を額に入れて飾っているのですが、これを気にするのはやはり神経質すぎるでしょうか? ・密教の専門書を読むことを気にするのも、神経質すぎるでしょうか? 3つ目の最後の質問なのですが、先輩の信徒(在家)から、 ・「そもそも貴方は結縁灌頂を受けておらず、正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。しかし灌頂を受けると越三摩耶罪が成立してしまうので、注意しなさい」と聞きました。 この解釈は正しいのでしょうか? 長文かつ生意気な質問で、申し訳ありませんが、ご意見を伺えましたら幸いです。

有り難し有り難し 34
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人間のエゴは許されませんか?

いつもお世話になっております。 最近、人間はどう生きていけば良いものか、 悩んでいます。 まず私は、肉を食べることに罪悪感を覚え、 ヴィーガンになろうかと悩んでいるのですが ヴィーガンになって何になるんだろうというのが分かりません。 ヴィーガンになっても、生きている限りは どこかで間接的にでも他の生物の命を奪わなくては まともに生きていけないでしょう。 そこで、もういっそ死んでしまいたいと 思ってしまいます。 また、先日私たち家族は、話し合ってペットショップから猫を飼いました。 でも後々になって、ひどく恐ろしいことをしてしまったような気分になって… 人生なにが起こるかわかりません。 ある日突然、家族みんな死んでしまうかも… ある日突然貧乏になって、猫を養えなくなってしまうかも… そういうことを考え出したら、 あの時しっかり猫を飼うことに反対していれば、という後悔が止まらなくなりました。 また似たような話で、子供をつくることについてなのですが、 世の中には、「子作りは親のエゴで、子供の同意なく、なにが起こるか分からないこの世に産み出すことは道徳的に良くない」 という主張があります。 子作りが親のエゴだというのは、 私も同意します。 でも、欲しい。…そうなったときに、子供を産んでしまった親は、彼らの言うように、最低な人間なのでしょうか。 許されないのでしょうか。 私は自分のエゴとどうやって付き合っていけば良いのか、もう分かりません。 いっそ死ぬしかないのではと、思ってしまいます。 責任を持つことが大事なのですか? 感謝をすることが大事なのですか? 責任を持つ、なんて、人生なにが起こるか分からないのに、簡単に言えることでは無いような気がしますし 感謝をするのは、私たちに食べられるために殺された動物や植物たちに、許された気分になるためにするだけなのではと、思ってしまって 私は、私が生きていることが、感謝しても済まされないような残酷なことのように思えて仕方ありません。 人間のエゴは、許されませんか。 そもそも、許す許さないの話では無いのですか。

有り難し有り難し 33
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厄年について仏教はどう考えますか?

以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。

有り難し有り難し 29
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