「慢」と「貪瞋痴」が発生した時の鎮め方を教えて下さい。
常日頃死ぬことばかり考えてしまいます。 苦しんでいる要因は確かにありますが、それが解決しても私には自殺することが1番楽しいことであり、幸せになれる方法だと思っています。 しかし自殺することは多くの人に迷惑をかける行為でもあります。 どうか今の私に生きる意味・目的、もしくは気軽に生き続けることができるような助言を頂きたいです。
僕は浄土真宗です。 最近五逆罪や謗法罪は犯すと無間地獄に落ちるというのを知って怖くなりました。 僕はすぐ怒ってしまう性格で親に何か言われた時、ついカッとなって悪口を言ってしまいました。 昔は宗教もあまり信じていませんでした。 他にも虫を殺したり物を盗んだりしました。 今は反省してなるべく悪いことはせずに、善いこともしていこうと心がけています。 家に入ってきた虫も外に逃がしてあげたりしてます。 朝起きたら一生懸命念仏を唱えています。 でもネットで調べてたときにみつけたんですけど、無間地獄に行くのが確定している人は罰がくだらないというのを見つけました。僕はあまり罰がくだってる感じはしないのでもしかしたら無間地獄に落ちるのかなと思いました。 自力の念仏でも地獄は回避出来ますか?
とても悩んでいます、よろしくお願いします。 子供達の保育園で少しお話をするようになったママさんが、急に親しげになり、こちらが距離を取る間もないくらい家に誘われたり、お菓子や野菜を家にまで持ってくるようになりました。 貰わないのも失礼なので「もう要りません」と毎回断りながらも押し付けるように置いていく物を返せないまま貰っていました。 そんな中、そのママさんがまたうちにいらして言ったのです。 「最近疲れてない?私、占いもできるのよ、ハッキリ言うけど、あなた、霊が二人憑いてますよ、私がしてるこのネックレスとてもいいからお勧めしたいわ」と。 私は、霊とかそういうものが憑くなどよくわからないので(みえないので)この人は何を言っているんだろうと絶句してしまい、戸惑いながらもその日はなんとか追い返しました。 その後、“あの人は私がそのネックレスを買うとでも思っているのか”と怒りが湧き上がりました。 と、同時に、もしかして本当に霊が憑いているのでは…?とか、このイライラは、もしかして霊が…などと考えるようにもなってしまったのです…。 ネックレスを売りつけるために近づいたのだとは思います。 だけど、もしかしたら本当に憑いていて教えてくれたのかも… わからなくなってしまって、怖くて怖くて仕方がないです。 お寺で除霊などしていただいた方がいいのでしょうか… そもそも、お寺で除霊などしていただけるのでしょうか? 費用なども気になり、もし可能なら教えていただきたいです。 よろしくお願いします。
私は地方から上京し特にお付き合いのある寺院はありませんので自分の葬式をしたいと思えません。 死体は検体にできないかと考えているところです。 葬儀をしないと教義的に問題がある宗派はありますか? たとえば極楽浄土に行けない。 良い世界に生まれ変われない。 地獄に落ちるなど。 お葬式をやる意味を教義的に知りたいです。 よろしくお願いします<(_ _)>
(質問:ブッダの教えの追記) (https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47023?page=1)より ここに書かれている内容は、本当に正しい事なのですか?
最近、仏教について勉強しています。 座禅の仕方や四法印の意味など、知れば知るほど『なるほど』と、思うことが多く、大変勉強になっています。 私にとって特に影響力があったのが、小池龍之介先生の考えない練習です。 心の扱い方や感覚に意識を向けることなど、試してみたところ集中力ものびたし悩みもずいぶんと減りました。 仏の教えは、心の教育にすごく役立つと思ったのですが、私の個人的な実感としては、今の日本にはあまり広まっていないような気がします。 これは、個人の興味の有無の問題なのですが、仏の教えが伝わりづらい理由は何か別にあるのでしょうか? 先生方の実感としては、どのようなところに伝わりにくさがあると思いますか?
私は地獄に行くのが怖いです。 最近気をつけているのですが、これで地獄行きを回避することができますか? 他にしておいたほうがいいことはあるでしょうか? 私が今までしてきた悪いこと 嘘、悪口、不注意で虫などを殺してしまった 私が気をつけたり、いいことと思っていること 悪い行いを深く反省、人に感謝の気持ちを素直に伝える、人に親切にするよう心がけている、今までした悪いことをもう一度繰り返さないように気をつけてる、食べ物などに感謝し、大切に食べている
なんで人は辛いことがあるのに生きていけるのでしょうか。その先にたとえ楽しいことがあったとしても、辛いことが1つでもあるなら生きたくないです。極度のめんどくさがりなのでしょうか。 さっさと死にたいのですが、私を一人で育ててくれた父が泣く姿を想像すると可哀想だ思います。まあその父の昔のネグレクトがこんな歪んだ性格にさせたのかもしれませんが。 めんどくさいです。夢もないし勉強はめんどくさいし夏は暑いし冬は寒い、それだけで自殺しちゃダメですか? 命は大切だとか与えられたものだとかそういうのも全く心に響かないし、死後の世界を見てみたい。ものすごく楽しい場所かもしれません。 特に悲しいことがあったわけじゃないけど、もうなんか生きられないです。
煩悩と欲求、自我についてお伺いいたします。 生理欲求や安全欲求については理解できるのですが、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求など、これらの欲求と欲望の区別がつきません。 例えば学びたい欲求、修行したい欲求も欲望(煩悩)と考えるべき対象となるものでしょうか。 欲求や欲望(煩悩)の判断についてご教授下さい。 また、座禅などを行うときに「自我をなくすように努めましょう」と伺うことがあります。 そもそも「座禅をしたい」自我がないと座禅ができないので、座禅はしてならないことになるのでしょうか。 欲求、欲望、煩悩、自我、この言葉の意味や判断、体現について、どう考えるべきでしょうか。 併せてご教授いただけますと幸甚です。 よろしくお願い申し上げます。
何のためにみんな生きているんですか?
僧侶になりたいです。さまざまな宗派のことは概論しか知りません。 まず、僧侶になれるチャンスはあるかという事です。 佛教大学があるのは知ってます。 御坊様宜しくご教示してくださいませ。
会社員です。真面目で努力家だと思います。出世もしたいです。 上司から見込みがあると気に入られ仕事が山のように降ってきます。 チャンスをいただいたと思い、一生懸命頑張っていますが、あまりに多くて一人でできる量ではありません。 しかし同僚からは気に入られてよいねと言われサポートが受けられません。 上司に相談しても、気合で頑張れというだけで、解決が図られず、休みもなく働いてばかりです。 そのような中、あまりに仕事量が多く、上手く回らなくなった結果、その上司にも見放されつつあります。もはや孤立状態です。誰に相談しても、弱音を吐かず頑張れとしか言われず、もう話す気力さえ失せました。 とはいえ、仕事は仕事。お客様に迷惑をかけないためにも頑張って仕上げるしかないので、粛々とやっています。 ただ上司にも、同僚にも必要とされない、家族も恋人も友人もいない。 お客様にとっても私の代わりはきっといる。 結局、誰からも求められていない、死んでも泣いてくれる人もいない。 そのような中で生きる価値はあるのでしょうか。 私が周囲を大事にできていないのでしょうか。私が悪いのでしょうか。 仕事ばかりの人生に意味はありますか。
先日は母の四十九日法要でした。 私は檀家等のつながりが無く某密林サイトにてお坊さまを依頼させていただきました。 来られたお坊さまはきちんと経をよんでくださり法要としてはとても満足のいくものでした。 ただ、経が終わり帰り支度をしながら「次は100日の法要を必ず実施してください。でないと故人はお釈迦さまの元へはいけなくて追い返される」みたいなことを言われました。 今後の法要の予定として言われたのだろうとは思いますがその話だけをしてサッと帰られました。 私はこのお坊さまのおっしゃられた事に間違いはないとは思いますが、もし私がお坊さまの立場なら、お金の余裕が無く簡素なお供えではあるけども、故人を思い一生懸命な遺族に対して今日の四十九日法要を無事に実施できたことに対しての労いと、これで故人も安心して旅立てます、だから残されたあなた達は安心してしっかりと生きていきなさいよくらいのことは言ってあげると思います。 死んだ人だけでなく残った遺族に対しての救いになるような言葉かけて道を照らしてあげるのもお坊さまの使命ではないでしょうか。 単に法要の管理だけならCDで流すお経とあまり変わりはないのかな?なんて思いました。
マインドフルネスというものは存在するのでしょうか?または、なにかの比喩なのでしょうか? 見よう見真似で、数十分間呼吸に集中してみて、、、なにか落ち着いたような気にはなれるのですが、ゴールがどこなのかよくわからず。 一般人レベルでは、ちょっと落ち着いた気分になれればそれで良いのでしょうか? きちんとやると、スピリチュアルな境地があるのでしょうか? 坐禅に取り組む際のヒントをいただければありがたいです。
はじめまして。 私は仏の道に近いところにおります。 そんな環境にありながら、 人道にも仏道にも外れる大罪を犯しました。 10年以上前になります。 内容は、煩悩の欄に記載しました。 大切な人を裏切ってしまいました。 その事を知るのは、 私と、当時その話をした友人二人だけです。 大切な人には話しておりません。 その当時は、とある事から 裏切られた、という思いからの 仕返しの気持ちでやってしまいました。 ただ、裏切られたという思いがあったため 罪とわかりつつも、そこまでの罪の意識はありませんでした。 それがつい、昨年の秋~冬になる頃 とんでもない罪悪感に襲われるようになりました。 罪の大きさ、重さにようやく気付いたのです。 それは、余りにも遅すぎました。 心の底から、本当に申し訳ない思いでいっぱいです。 なぜあんな事をしてしまったのか…。 とても重い罪悪感から、罪を告白しようと 思ったこともあります。 でも、できませんでした。 罪を告白する事によって、相手が深い傷を負うでしょうし、 私は全てを失うでしょう。 大罪を犯した私は、やはり救われる事はないのでしょうか。 また、そんな私が、子どもを叱るときに 嘘をついてはいけない 人を傷つけてはいけない 人を裏切ってはいけない 失敗しても、その失敗を認めて またやり直せばいい 悪いことをした時は、それを反省して 二度とやらなければいい などと言うのは間違っているのでしょうか。 そんな事を子どもに言う資格などないとも思います。 大切な人に、過去に悪い行いがあった時、 反省してもう繰り返さなければそれでいいのだろうか? と問いかけると、それでいいと言ってくれました。 もちろん二度と同じ過ちは絶対に犯しません。 長文になってしまいましたが どうかご指導いただきたいと思います。
仏教の教えを学ぶようになり、今を生きる、という大切さを頭では理解できるようになったと思います。 しかし日常生活のふとした瞬間に、忘れようとしている思い出が、フラッシュバックでよみがえり、ふと過去に引きずり込まれてしまいます。 特に読書や映画を見ているときに、全然関係の無いシーンなどでもそれが起こることがあります。 そして過去を後悔しながらそこで思考回路が止まってしまうのです。 毎日何度もこの現象が起きてしまい、大切な時間を無駄にしているような気がします。 頭ではそれらは妄想だとわかっているのです。どうしたらフラッシュバックが起こらないようにできるのでしょうか?
私には兄が1人おります。 昔から仲の良い兄妹であり、20代で父母の病による死を経験したので残された唯一の血の繋がった家族でもあります。 親を亡くして数年経過してから兄の家庭内で生じた金銭的な面で何度かお金を貸して貰えないか?と言われ、余裕は無くとも兄だから。と貸しました。ですが今現在返済がありません。 その後、事情があり多額を貸した時は今迄の信頼性が欠けるので兄とは言え借用書を書いて貰いました。 それでも最初少額だけ返済があったもの、今は全く返済がありません。 自分が今まで貸してしまった事は仕方無いと諦めようとしたいのですが、それ以前に兄に誠意が見受けられず非常に残念で悔しいです。 兄に責め立てた事もあります。 本当なら兄と仲良く付き合って行きたいのですが金銭的な理由があり、今日久しぶりに会っても心底笑顔でいられない自分がいました。 昨年末にこのモヤモヤした気持ちをもう終わりにしたつもりでいましたが、こうやって思い返してしまいます。 この思いはどうにかならない物でしょうか? お金の話でお恥ずかしい限りですが、アドバイスを頂けたら有難く思います。
密教をご存知のお坊様に、質問をさせてください。 3つ質問があります。 「越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)」が非常に気になっております。 密教には、在家の人間がやってはいけないことがあると聞きました。 在家の人間が、阿闍梨の許可なく、勝手に真言を唱えたり、伝授なしに梵字を書いたり手印を結んだりするのはいけないと聞きました。 これを破ると越三摩耶戒罪、越法罪という宗教上の罪になる。 何の功徳も、ご利益もなく、徒労に終わる。 「大叫喚地獄に落ちる」とか「無間地獄に堕ちて出ることができなくなる」という恐ろしげな記述もありました。 1つ目の質問です。 何人かの先輩の信徒(在家)から色々と聞いて、自分なりに考えをまとめました。 ・真言なら唱えても良いし、功徳もご利益もある。 ・手印を結んだり、梵字を書くのはやめたほうが良い。 ・阿字観はお坊さんの指導のもとやること。独学は駄目。 ・本格的な祈祷の真似事をやるのは絶対に駄目。 ・「地獄に堕ちる」は、師僧の指導に従わない・修行のルールを守らない修行僧を戒める方便。でも原則として守らなければならない。 これでよろしいのでしょうか? 2つ目の質問なのですが。 私は信仰を持つ前から、仏教に強い興味がありました。 多くの本を集めて読んでいたのですが、愚かな素人の悲しさ、当時は越三摩耶戒罪のことは知らず、手印や梵字の書き方の本、さらに儀軌や口訣書を含めた専門書もかなりの数、蔵書として所有しております。 また密教美術にも惹かれ、曼荼羅の色紙も購入してしまいました。 しかし阿闍梨の許可なく、曼荼羅を建立したり、儀軌や口訣書などの専門書を読むのも越三摩耶罪に当たると聞きました。 ・小さな仏壇の上に、両界曼荼羅の色紙を額に入れて飾っているのですが、これを気にするのはやはり神経質すぎるでしょうか? ・密教の専門書を読むことを気にするのも、神経質すぎるでしょうか? 3つ目の最後の質問なのですが、先輩の信徒(在家)から、 ・「そもそも貴方は結縁灌頂を受けておらず、正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。しかし灌頂を受けると越三摩耶罪が成立してしまうので、注意しなさい」と聞きました。 この解釈は正しいのでしょうか? 長文かつ生意気な質問で、申し訳ありませんが、ご意見を伺えましたら幸いです。
いつもお世話になっております。 最近、人間はどう生きていけば良いものか、 悩んでいます。 まず私は、肉を食べることに罪悪感を覚え、 ヴィーガンになろうかと悩んでいるのですが ヴィーガンになって何になるんだろうというのが分かりません。 ヴィーガンになっても、生きている限りは どこかで間接的にでも他の生物の命を奪わなくては まともに生きていけないでしょう。 そこで、もういっそ死んでしまいたいと 思ってしまいます。 また、先日私たち家族は、話し合ってペットショップから猫を飼いました。 でも後々になって、ひどく恐ろしいことをしてしまったような気分になって… 人生なにが起こるかわかりません。 ある日突然、家族みんな死んでしまうかも… ある日突然貧乏になって、猫を養えなくなってしまうかも… そういうことを考え出したら、 あの時しっかり猫を飼うことに反対していれば、という後悔が止まらなくなりました。 また似たような話で、子供をつくることについてなのですが、 世の中には、「子作りは親のエゴで、子供の同意なく、なにが起こるか分からないこの世に産み出すことは道徳的に良くない」 という主張があります。 子作りが親のエゴだというのは、 私も同意します。 でも、欲しい。…そうなったときに、子供を産んでしまった親は、彼らの言うように、最低な人間なのでしょうか。 許されないのでしょうか。 私は自分のエゴとどうやって付き合っていけば良いのか、もう分かりません。 いっそ死ぬしかないのではと、思ってしまいます。 責任を持つことが大事なのですか? 感謝をすることが大事なのですか? 責任を持つ、なんて、人生なにが起こるか分からないのに、簡単に言えることでは無いような気がしますし 感謝をするのは、私たちに食べられるために殺された動物や植物たちに、許された気分になるためにするだけなのではと、思ってしまって 私は、私が生きていることが、感謝しても済まされないような残酷なことのように思えて仕方ありません。 人間のエゴは、許されませんか。 そもそも、許す許さないの話では無いのですか。