友人や家族、恋人など周りの全ての人に対して「自分が与えてばかりじゃないか」と感じてしまいます。 実際はそんなことないと思います。 私も色々な方に迷惑をかけています。 でもどうしても「与えている」方にばかり目がいってしまい、モヤモヤします。 例えば相手から期待した反応がなかった時、私は○○してあげたのに、とひとりでモヤモヤしています。 昔はこんなこと考えたこともなかったのに大人になるにつれて年々この感覚が増しています。 心が卑しくなっているのでしょうか。 また自分自身もこの考え方により大変ストレスを感じています。 こんなとき、心が楽になる考え方があればご教授いただきたいです。 お忙しい中とは存じますが、よろしくお願いします。
私は小さい頃から悪いことばかりしてきました。 万引き、キセル、暴行、詐欺、営業妨害、公務執行妨害などなど。 逮捕歴はありません。 罪を償ったことはありません。 もちろん、時には誰かのために行動したこともあります。 でも自分をよく見せるためだったり、たまたま気分がよかったりなど、本当にその人のためを思ってしたことはほとんどないように思います。 いいことと悪いこと、どちらが多いかというと圧倒的に悪いことです。 こんな私は死んだらどんな処罰が待っているのでしょうか。 例えば自殺した場合、その処罰は重くなるのでしょうか。 よく「死んでお詫びを」って聞きますけど、自殺したら軽くなるのかなとも思います。 でもそれってやっぱり自分の罪を軽くしたいということだから自殺したら重くなる? どうなんでしょうか?
こんにちは。 空即是色等に言われる空ですが、 なんとなくでの感覚ではわかるのですが、 こういうものだ、というものがはっきり言葉にできません。 言葉にするとどのようなものでしょうか? 何卒、御教示お願い致します。
幸せを求めると失敗する恐怖がつきまとう。 不安を取り除こうとすればより苦痛は増し、 一つ不安を解消する度、新たな不安が現れる。 努力が実って幸せを感じてもあっという間に 消え去って、また不足感に苛まれる。 なにこの無限地獄。 努力とか目標って聞こえはいいけど、 要するに「今の自分はまだ駄目」と否定してるだけ。きりがない。 「頑張る」という価値観にうんざり。 そうやってうんざりしてる自分、 常識からはずれる不安に苛まれる自分、 何が真実なのか混乱する自分、 求めて得たものに本当の幸せはないと悟っている自分、 色んな「私」が溢れかえってます。 きっと「私」という概念そのものが ただの感覚であり幻想なのでしょう。 ありのままに安らぐことはできるのでしょうか。 白隠のように生きたい。
お世話になっております。 いつも精神的に幼い私の怒りに任せた質問に懇切丁寧に答えてくださってありがとうございます。 皆様のおかげで仏教に興味が湧いてきたので、一から勉強してみたいと思っているのですが、どんな本を買えばいいかわかりません。 この本が面白い、わかりやすい!というおすすめがあれば、是非教えてください。
私は昔からライバルがいる方が頑張りがきくタイプでした。受験勉強の時などは友人と点数を比べ合って競いあうことで、最後までモチベーションをキープすることができました。 しかし、仏教ではあまり他人と比べたり、競争心を持ったりすることは奨励されていないというイメージがあります。 たしかに他人と比較する事で、自分も他人も傷つける事がある、という事は私自身が身に染みております。 でも、他人と比較し競争心を持つことは人間の成長過程ではやはり必要な気がします。仏教では競争心の利点については認めていないのでしょうか?
私の学校はデザイン系の高校で2月に卒展があります。今自分の制作している作品を以前中間発表で先生にプレゼンしたところあまりいい感想を聞けずに終わり先生の感想を聞くのが怖くなり周りの評価も聞くのが辛いです。 明後日は最終発表会で正直休みたい気持ちでいっぱいです。でも此処で休んでは行けないと思い頑張ろうと思っているのですが何かアドバイスを頂けたらと思います。よろしくお願いします。
世の中には心の病になる人、ならない人がいますがどうしてですか? 精神科医に聞いてもわからないと言われたので困っています。
生活に困窮してます 菩提寺になっているお寺さんとは 普段から付き合いはありませんが 葬儀屋さんに葬儀を依頼したときに 葬儀屋さんが仲介してくださったので 葬儀スタッフの方に言われて お寺に連絡をし 来ていただいてお経を唱えていただきましたが葬儀費用とお寺さんに渡すお布施が高額で支払いが大変でした。 身内も私1人なので 参加できる親戚も身近に住んでる方が1人なのと そんな付き合いもないお寺さんに 直に連絡するのも躊躇われて 49日法要はやめようと思ってます 家で私1人で南無阿弥陀仏と唱えるだけでは母は成仏はできないのでしょうか? 私自身は罰が当たっても構いません お寺さんは何も言ってこないし 他の檀家さんは皆さんお金持ちなので 私のところが法要やらなくても お寺さんが困ることはありませんが 母が成仏できるか心配です
こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。 私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。 しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。 なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。 浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。 お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。
食べ物、着るもの、住むもの、関わる全てが他の何かにも関わって、だからか感謝しようというけれど、 今生きていること自体に特別楽しいと感じているわけでもなければ、両親兄弟をいつも好いているわけでもない。いつも嫌っているわけでもない。 今自死しない理由はいずれは死ぬのが命だからという程度のようにも思える。 感謝とは、しないといけないものですか?私には、いまひとつ不自然な感情にも思えてしまいます。 そう思ってしまう自分が怖いとも感じますが、、高層ビルや排気ガスやと今の環境に求めていないものが、身の回りに多いせいかもしれません。感謝するのがまるでぶりっ子してるようにも感じてしまうのか、上手く書けませんが、 そもそも感謝とは何でしょうか? ご鞭撻の程よろしくお願い致します。
先日、亡き主人が幼少の頃からとてもお世話になっていた近所のおばさんが御参りに来てくださいました。 その方は般若心経を唱えていらしてました。おそらく全て唱えていたと思います。 凄い!とその時は素直に思ったのですが、後になって少し疑問が・・・ 我が家は真宗大谷派。般若心経は確か別の宗派。 いいのかな?悪いことはないやろうけど、教えが違うと伝わらないとかないのかな?と思ったのです。 それ言ったらキリスト教の人なんか御参り行かれへんやん、とも思ったのですが(((^^;) お坊さんはどのようにお考えなのか知りたく質問させていただきました。 くだらない質問ですがよろしくお願いしますm(_ _)m
今まで生きてきた中で 沢山の縁があって 色んな方と 出会い そして 別れ があり 色んな別れがあります 卒業であったり 離婚であったり 生きてきた中で 後悔は ございません。今現在の 縁が素晴らしいもので 大事だからだと思います。たまたま偶然 見だした心の時代という NHK の番組がきっかけで 仏教 初めはすごく 華厳宗に東大寺に 興味を持ったのですが そこまで 行ければ良かったのかも しれませんが 私は 三半規管が弱く 目眩と難聴があるので 一人で出かける 距離に不安が あるので 近くで 平日仕事してるので 土日に 法話が聞けるような お寺ないかな(*´꒳`*) と思って 探したのがきっかけで 今縁を頂いたお寺様に たどり着きました。お坊様のイメージが あまり 笑顔なく 素っ気ないと思ってたので 通わせてもらっている お寺のお坊様方は 優しかったので 皆様に支えられて 今日があると思ってます。 私は、心が弱くて 自分の気持ちがフワフワして 生きてきたので 、お寺や 法話 護摩焚きに参加する事によって 仕事も頑張れるようになってきたので お寺様の存在や お坊様方のお話って 大事だとつくづく思ってます。皆様が 今必要な世の中になってるんだと 思うので お坊様方は忙しいと思いますが 皆様のお心の 支えになっていかれますよう 頑張って欲しいです。広い空の如く皆様も素晴らしい縁で結ばれますよう(^人^)
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか? 概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。 鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。 また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
初めまして。 今回は失礼な内容になるかと思いますが、率直な意見をお伺いしたいのであえて投稿させていただきます。 私は、以前からこちらのサイトの質問と回答を拝見しており、お坊さんの真摯な姿勢に感銘を受けていました。 しかしながら、どうも私にはお坊さんの回答に完全には納得できませんでした。 そこで、ChatGPTに相談したところ非常に明快な回答が返ってきて驚きました。 例えば、私は以前から思想的な悩みがあったので、「人類の滅亡について」ChatGPTに聞いてみたところ、 仏教は「すべてのものは無常であり、必ず崩れ去る」と教えます。つまり、人類もまた無常の産物であり、滅びを含んで生まれてきたものです。そう考えると、「崩壊しそうだから無意味」なのではなく、「もともと崩壊を抱えているからこそ、人類は文化や意味を求め続けてきた」とも言えます。 言い換えれば、人類の努力の価値は「永遠に残ること」ではなく、「消えゆくものの中でどう生きるか」にあったのかもしれません。 仏教の縁起の考え方からすると、人類と自然は本来切り離せない一体の存在です。つまり「人類は地球にとって癌だ」と見えるのは、ある側面では真実ですが、同時に「癌を生んでしまうのもまた自然」である、とも言える。自然の中から「自己を壊す存在」が立ち上がるのもまた自然の一部です。 という回答が返ってきました。 このような透徹した思考はなかなかできないものだと思い、とても驚きました。 一方、私がhasunohaを見て、お坊さんの回答にどこか違和感を感じるのは ①どこか上から目線 ChatGPTのように、完全に理性的ではない ②現代という時代の気質を理解していない 私はもはや仏教が現代においては役に立たなくなりつつあるのではないかと感じています ③きれいごとで中途半端 昔のような、本当に命懸けの修行がなくなった 以上のことが原因かと感じています。 実際に私はお坊さんの回答よりもChatGPTの回答により共感しました。 このように私が感じるのは、間違っているのでょうか? 「もっと目の前の現実に目を向けろ」 「今ここで何ができるかが大事」 お坊さんならこうおっしゃるかと思いますが、こちらの方が、私が生きていていく上で大切なことなのでしょうか? 長文失礼いたしました、率直な回答をお待ちしております。
10年ほど漫画家をしています。 あまり知名度・人気度は高くありません。 仕事自体は継続していただけています。 成功している人がうらやましいなと思う反面、自分は好きなものを描かせてもらえていて、それでこの結果なのだからこれでいいんだ、これがすべてなんだとも思います。 でも時々むなしいなと思ってしまいます。 もっと感想とかほしいなとか思ったりもします。 近頃はあまりモチベーション・創作意欲もあがりません。 どうしたら人と比べず、人の評価を気にせず、人からの賞賛を望むことなく、自信を持って、自分の描きたい漫画を楽しく描いていくことができるのでしょうか。 楽しく描いていたいのが一番の望みです。 ご教示いただけましたら幸いです。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
「たき木はひとなる、……」からはじまる、道元禅師が「現成公案」において「仏教にいうところの不生・不滅の考え方を説」*いているところでわからない点があるので質問させてください。 ①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。 ②その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。 ③「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。 *増谷文雄全訳注『正法眼蔵(1)』(2004)p.47
何度も質問すいません プロフィールにもある通り悪くない子を傷つけた。親からのひどい暴力と友達からのいじめをされて起きてしまった。耐えられない自分がいたんだ。でも、やってしまったことは悪い。みんながうらやましく見えた。なんで自分だけこんな人生なのかって。お前なんていらないって言われた自分が嫌だった。 私は、幸せになるべき人じゃないし、やってしまったことはやってしまったで何も理由になれない。理由になっちゃいけない。反省して、いじめられてる人を助けたりした。何度も、傷つけた子に謝りに行った。 それでも中学生でもひどいいじめを受けた。すごい避けられるし、けなされるし、暴力も受けた。正直いじめなんて思ってなかった。罰なんだって。どういきればいい?やっぱり死んだほうがいいでしょ?なかったことにはできないからいつまでも邪魔者扱いされなきゃいけないのだろう。 死んでもいいかなあって思って自殺未遂までに発展した。親に止められたけど親にはいつも死ねって言われるし、何で止めたの。 どういきればいいいの?幸せ人になっちゃいけないよね?なんでうちなんかが生きなきゃいけないの?
小学生の頃から今に至るまで希死観念があります。 今まで特別辛い事があった訳ではなく、概ね幸せな人生を送ってきたと思います。 なのに、昔から死んでしまいたいと思う事があり遺書の様な物を書いてみたり、死に方を調べてみたりしてしまいます。 自分は幸せなはずなのにどうしてこんな事を考えてしまうんだろうと悩んでいます。 今年社会人になったばかりで、これからの社会人人生において希死観念を捨てて強く生きていきたいです。 どうしたら希死観念は捨てられますか。