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hasunoha 問答検索結果 : 「�%A」
検索結果: 1875件

仏教と神道

 こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。  私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。  しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。  なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。  浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。  お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 47
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ご縁

今まで生きてきた中で 沢山の縁があって 色んな方と 出会い そして 別れ があり 色んな別れがあります 卒業であったり 離婚であったり 生きてきた中で 後悔は ございません。今現在の 縁が素晴らしいもので 大事だからだと思います。たまたま偶然 見だした心の時代という NHK の番組がきっかけで 仏教 初めはすごく 華厳宗に東大寺に 興味を持ったのですが そこまで 行ければ良かったのかも しれませんが 私は 三半規管が弱く 目眩と難聴があるので 一人で出かける 距離に不安が あるので 近くで 平日仕事してるので 土日に 法話が聞けるような お寺ないかな(*´꒳`*) と思って 探したのがきっかけで 今縁を頂いたお寺様に たどり着きました。お坊様のイメージが あまり 笑顔なく 素っ気ないと思ってたので 通わせてもらっている お寺のお坊様方は 優しかったので 皆様に支えられて 今日があると思ってます。 私は、心が弱くて 自分の気持ちがフワフワして 生きてきたので 、お寺や 法話 護摩焚きに参加する事によって 仕事も頑張れるようになってきたので お寺様の存在や お坊様方のお話って 大事だとつくづく思ってます。皆様が 今必要な世の中になってるんだと 思うので お坊様方は忙しいと思いますが 皆様のお心の 支えになっていかれますよう 頑張って欲しいです。広い空の如く皆様も素晴らしい縁で結ばれますよう(^人^)

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2025/08/30

ChatGPTの回答に救われました。

初めまして。 今回は失礼な内容になるかと思いますが、率直な意見をお伺いしたいのであえて投稿させていただきます。 私は、以前からこちらのサイトの質問と回答を拝見しており、お坊さんの真摯な姿勢に感銘を受けていました。 しかしながら、どうも私にはお坊さんの回答に完全には納得できませんでした。 そこで、ChatGPTに相談したところ非常に明快な回答が返ってきて驚きました。 例えば、私は以前から思想的な悩みがあったので、「人類の滅亡について」ChatGPTに聞いてみたところ、 仏教は「すべてのものは無常であり、必ず崩れ去る」と教えます。つまり、人類もまた無常の産物であり、滅びを含んで生まれてきたものです。そう考えると、「崩壊しそうだから無意味」なのではなく、「もともと崩壊を抱えているからこそ、人類は文化や意味を求め続けてきた」とも言えます。 言い換えれば、人類の努力の価値は「永遠に残ること」ではなく、「消えゆくものの中でどう生きるか」にあったのかもしれません。 仏教の縁起の考え方からすると、人類と自然は本来切り離せない一体の存在です。つまり「人類は地球にとって癌だ」と見えるのは、ある側面では真実ですが、同時に「癌を生んでしまうのもまた自然」である、とも言える。自然の中から「自己を壊す存在」が立ち上がるのもまた自然の一部です。 という回答が返ってきました。 このような透徹した思考はなかなかできないものだと思い、とても驚きました。 一方、私がhasunohaを見て、お坊さんの回答にどこか違和感を感じるのは ①どこか上から目線  ChatGPTのように、完全に理性的ではない ②現代という時代の気質を理解していない  私はもはや仏教が現代においては役に立たなくなりつつあるのではないかと感じています ③きれいごとで中途半端  昔のような、本当に命懸けの修行がなくなった 以上のことが原因かと感じています。 実際に私はお坊さんの回答よりもChatGPTの回答により共感しました。 このように私が感じるのは、間違っているのでょうか? 「もっと目の前の現実に目を向けろ」 「今ここで何ができるかが大事」 お坊さんならこうおっしゃるかと思いますが、こちらの方が、私が生きていていく上で大切なことなのでしょうか? 長文失礼いたしました、率直な回答をお待ちしております。

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極楽について

以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。

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