こんにちは。 いつもありがとうございます。 お坊さんは、理不尽なことや腹立たしいことがあった時どのように気持ちを切り替えられていますか? 教えて頂ければ幸いです。 宜しくお願い致します。
いろいろ疲れました。 きっと僕は、首を吊って死ぬでしょう。 恋人もできず、このまま孤独である未来も、たとえ伴侶ができたとしても養わなければならない未来も苦痛しか感じません。 仕事も忙しい日々で、趣味の面では自分で決めた目標も達成できず、虚無感、無力感に苛まれます。 人から変なやつと言われ続け、今までは受け入れてくれる人もいましたが、やはりからかわれると屈辱を感じます。 なんというか、そもそも人間は攻撃的で利己的なのに、コミュニティの中でしか生きられないな生き物で、その中でなんだかんだ競争に勝ってきた者の末裔が現代人なのであって、それ故に自殺しようがなんだろうが、負けた結果でありそれはとても自然なことと考えます。 前置きが長くなり、すみません。 質問は、下記です。 不自由で不遇な人生を生き切ることが尊いことなのでしょうか? 偉いことでしょうか? 負け犬が生き延びたところで、なにがメリットとなるのでしょうか? 以上です。 好きな僧侶の言葉に、人は意味の次元に生きていないという言葉があります。 全くもってその通りと考えます。 故に自殺も同じく、等しく無意味な一般的な事象手間あると考えます。
よろしくお願いします。 私の失敗した失敗と同じ状況で同じ失敗を他人がした時、私の方が風当たりが強いです。 私が集合時間に3分遅れた時はものすごく嫌な顔をされます。 しかし、他の仲間が10分遅刻した時はその人に対して誰も何も言いません。 叱られるのは期待されているからだ、という言葉がありますが、このようなケースは絶対に違うと思います。 ただ、粗探しをして攻撃をすることによって優越感に浸りたい人の標的にされているだけではないでしょうか。 他人の不幸は蜜の味、まさにそれです。 私をバカにして良い気になって何が楽しいのでしょうか。 人の不幸は蜜の味?何それ食えんの?そんなに美味しいの? 胸糞悪いです。 穏やかではありません。 不幸の人見て優越感に浸るほど私は偉くありません。そのような人たちはなぜそんなにエライのでしょうか? また、自分と他人が同じような結果を出した時、毎回自分の方が低い評価を受けます。 どうも私はそういうのに標的にされやすいようです。幼稚園に通っていた時くらいから、社会生活続けてきてずっとそんな感じです。 世の中理不尽である、そして自分は搾取される側だと幼いながらも悟っていました。 本当に理不尽極まりないと思います。 そんな世の中生きていくためにはどうすればいいでしょうか。 面白くありません。 かといってこれらのことが解消されたとしても自分はまだ文句ばっかり言うのではないかと思います。 少し話題がそれましたが、そんな性格も直したいです。 アドバイスいただけましたら幸いです。
インターネットで色々調べてみて、僧侶・和尚・住職の違いくらいは理解できたのですが、どのサイトを見ても和尚は「一人前の僧侶」といった記述しか見当たりませんでした。 何をもって一人前なのか、そう言った資格があり取得できると和尚と呼ばれるのか…教えていただけると嬉しいです。
初めまして。 先日、大好きな母を突然くも膜下出血で亡くしました。 まだ50代という若さで母はこの世を去りました。 母は私が小さい頃から本当に苦労をしていました。 苦労の原因は父親です。 父親は昔から仕事は不安定、ギャンブル、借金、うつ病などで母は毎日どんなに仕事の環境が辛くとも頑張っていました。 とても優しく自分の事より家族を1番に考えてくれる本当に良い母でした。 なぜこんな良い母が…っと思う日々です。 世の中には悪い人がいっぱいいるのに何故… 神様はいるのでしょうか? 父親も仕事が落ち着き、私もこれから母に親孝行をしていきたいと思っていた矢先の出来事でした。 私は3年前に結婚をして妊活を始めて1年が経ちますが中々授からず、母に孫の顔を見せてあげる事ができませんでした。 母とこれから楽しい日々を送れると思っていたのに何もできなかった自分を責める日々です。 母は東本願寺の真宗大谷派ですが、三十五日、四十九日まではこの世に魂があるのでしょうか? それまでに母に何かしてあげれる事はありますか? 無事母が成仏して天国で安らかに休んでもらうにはどうすればよいのでしょうか? 突然の死だったので母もこの世に未練があるかと思います。 無事に成仏をして天国で幸せに過ごしてほしいです。 人は死ぬとどこにいくのでしょうか?
43歳男性独身でアルバイト生活しています。 23歳の時にうつ病を発症して30歳手前まで療養して、今は元気ですがずっとアルバイト生活を継続しています。 病気を経験して人生観も変わり、もうあまり頑張りたくないのが本音です。 一度の人生そんなに生き急がなくてもゆっくりで良いではないのかという思いが強くなっています。 極端に言えば世の中の事が色々見えてしまって、冷めて見ている自分もいます。 勿論、生き方にこうでなければならないという決まりはないと思いますが、日々悶々としている自分がいます。 今の目標はこれだ!というものがなく日々過ごしています。 何とか健康体を取り戻せたということでいっぱいで充分だという考えもありますが このような考えで過ごすのはあまり良くないものでしょうか?
私の書き方が悪く勘違いされている方がいらっしゃるのでここに書かせていただきます。 ①義両親は分娩に立ち会いたい訳ではない。 ②私はお見舞い等に来てほしいなど一度足りとも要求していないし、当たり前とも思ってないです。上のこの時は来ませんでした。 私が主役になど思ってません。 ただ、義父がこの時期に旅行へ行き留守番、その期間に出産されたら困る的な事を言われたから嫌がってるんです。 じゃあ逆に義父は自分勝手ではないんですか?嫁が臨月でいつ産まれてもおかしくない人を差し置いて自分の目の事を優先して旅行へ行き、その期間に出産するな!って事は?私からすれば、お義父さんこそ主役になっているように見えますけど。 お産は命がけで安全でもないし、病院からも、いつ産まれてもいいように準備してください。来れるように準備しておいてください。と言われているんですよ。 なのに、そのことは無視してお義父さんの目に合わせろ!見えなくなることの方が危機感がある。とおっしゃいたいのですか? お坊さんなら、諸行無常 生老病死をよくご理解だと思いますし、自分だけが悲劇のヒロインになっていると思います。 一ヶ月くらい行かなかったから、どうこうなるわけでもないし、すぐ病院に迎えず死産や後遺症で障害が出たらお寺ですからみっともないのではないでしょうか?うちの寺なら大問題でお義父さんも大騒ぎで、障害のある子供とはいらん。というでしょうし、私のせいにするでしょう。 私は嫁としてお寺の跡継ぎになる事も視野に男の子を望み、望まれたから二人で努力して授かったんです。 お互いに優先するところは優先する。 譲れるところは譲る。 でいいのでは?と思います。 男の人は妊娠も出産もできません。 今テレビドラマでコウノトリをやってますので見てください。お産はこうゆう事も起きる可能性がないともいえないのです。 参考までに…。
現在高校2年で野球部のマネージャーをしています。 1人の部員がわざわざ私に聞こえるように悪口を言ってきます。 「あいつまじ部活くんなよ」「は?あいつ死ねよ」「〇〇と同じ班とか最悪なんだけど」 などあまり思い出したくないですが沢山のことを言われてきました。 最初は気にしないようにしてたのですが、すれ違ったときに何かしら聞こえてきて結構メンタル的にもしんどいです。 監督にも相談しましたが選手第一な人なのでなにも解決できませんでした。 また何かいわれそうで怖くて最近はあまり部活に行けていません。
変な質問ですが(;゜O゜) お坊さんが『これは仏教的な歌だな』って曲を教えて頂け無いでしょうか? それを聞いてみたいと思ってます。 個人的は、THE ブルーハーツの 「情熱の薔薇」‥‥諸行無常的な 「リンダリンダ」‥‥衆生の命の尊さ ミスチルでは「HANABI」‥‥煩悩の執着心 です(笑)あくまでも個人的な解釈なんで‥‥ 仏教に仕える方々の音楽観を知る事が出来れば、ますます仏教が面白くなると思い質問させて頂いております<(_ _)>
こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。
突然の質問ですが、ご縁とは仏さまが私に与えてくださっているものなのでしょうか? 仕事で営業をしています。 辛いことが8割、感動が2割というところでしょうか。今日はお客さまが私のことを慕ってくださり、あぁこんな私を大切に思ってくださって嬉しい、と感じました。お客さまが幸せでありますように、と心の中で強く強く願いました。 営業はイキナリ叱られたり、怪訝な顔をされたり、辛いことが多い仕事ですが、時々出会うこのご縁に涙が出そうになるくらい嬉しさを感じます。これは偶然かそれともご先祖の導きではないかと不思議な気持ちになったのでご質問させていただきました。 皆様のお考えや仏教としての解釈のようなものがあれば教えていただきたいです。よろしくお願いします。
死んだらどうなるのでしょう? 最近そんなことを考えて怖くなる時があります。 私は仏教が好きなのですが、実際自分が死んだらどうなるのか不安になって怖くなる時があります。 何もしないと死後はどうなるのか? 修行をしたら死後は変わるのか? 死後にお坊さんにお経をよんでもらったらどうなるのか? とても不安です。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
結婚14年目の寺嫁です。 結婚して数ヶ月後に女の子とデート約束のメール発見。飲み屋の子とふざけてのメールと言い訳。 結婚五年目頻繁に会ったり旅行したりの浮気。 こちらは離婚を申し出ましたが 頑張ると言われて今回だけと許しました。 そして今日出張だと思っていたところ 37歳の女の人と旅行中という事が 分かりました。 僧侶としてはお檀家さんからは信頼され 優しくて、何でも出来ると評判。 お寺では義父(住職)と喧嘩ばかり 寺の仕事も中途半端、家庭の事は何もせず、自分中心。 義両親は旦那の事を二重人格だと言っています。 今回の浮気はもう許せず、子供を連れて離婚をしたいのですが いつも私の事を考えて大切にしてくれている義両親は、旦那を追い出して 私にはずっとこのまま ここに居たらいいと言っています。 そんな事が可能なのでしょうか?
数ヶ月前、不倫相手と駆け落ちをしました。 私は独身で、彼が妻子ある身でした。 仕事も決まり、衣食住も安定してきた先日、彼が元嫁と連絡をとっていたことが判明しました。 元嫁は心身が弱ったと言っているらしく、彼が連絡をとることで、安定してきているとのことでした。私も元嫁、子どもたちには、申し訳ないことをしたと一生償いながら生きていくつもりで、養育費等も支払うつもりでいました。 しかし、彼は一緒に出てきた私とは関係を切り、一人で暮らしていると元嫁に伝えてありました。元嫁の安定のためだと。 元嫁との連絡は毎日、仕事中も家に帰ってきてからもずっと続いています。 それでも彼と一緒にいたい思いから、全てを受け入れました。 ですが、彼がいつ家族のもとに戻るといい出すだろうとか、元嫁が本気で帰ってきて欲しいとすがってきたらとか、不安で不安で仕方なくなってしまいました。 過呼吸や拒食傾向の身体の不調も出てきました。毎朝不安感に襲われ、不安過ぎて何も手がつかなくなってしまい、家事すらまともに出来ていません。 自傷や自殺の方法さえ検索してしまいます。 因果応報というものなのでしょうか? この苦しみからは、逃れられないのでしょうか?
不寛容な社会だともがいていたら、自分の中にも差別感があることに気付き、「自他不二」という世界の観方を探究したく仏教に興味を持っている一般人です。 仏教において、「空」や「仏性」ということが大切であることを知りました。それは思考や感情に囚われない普遍的な「全体性」ともいうべきもの(こと?)であり、全てのものは「自性」を持たないということかと思うのですが、そうすると私達の「意識」にも「自性」はなく、「自己選択をしているようで、実は選択していない」ということになるのでしょうか?そして、我々は様々な関係性の中で「刺激」に対する「反応」としてのみ「行動」しており、そこに「自己選択」などというものはないということになるのでしょうか? 教えて頂けると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。
こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?
分別と無分別について詳しく教えて下さい
痛ましい事件が起こってしまいました。 近所の人の話を聞くと、「優しい子だった」ということでした。最近よく聞く、容疑者の人物像です。 容疑者の人物像から、もしかしたら親や学校、同級生から精神的な抑圧がかかっていたのかなと推察しました。仮にそうだとしたら、早い段階で誰かが気づいて、専門的手だてを講じることはできなかったのだろうかと思います。 私は、「人間はもともと善い性質を持っている」と考えています。家庭や学校での学びや経験などを通して、間違った学習をすることによって社会規範から反れていくのだと考えています。色眼鏡をかけていくことにより、間違った見方をしてしまう可能性があります。 人間を含む哺乳類を観察すると、幼児期の母子関係が大事だと感じます。何らかの理由で離れてしまい、その後、周りの人たちからの裏切られる経験が重なると、より良い成長にならないと感じています。 事件が起こったときに、犯罪者本人に反省を促すことが大切だと思います。と同時に、犯罪者に対する治療が必要だと感じます。刑務所の中でも、矯正プログラムはあると思いますが、社会復帰して犯罪者自身が困ったときに相談できる窓口が必要かもしれません。 一方で、社会の方も、これまでの問題点を洗い出す契機になるかと思います。生活習慣の乱れが人間の体の弱いところに現れるように、社会の乱れも弱いところに現れるのだと思います。 環境ストレスや社会ストレス、内的ストレスへの対処法を教え、これらストレスによっておかしくなってしまった人を救うシステムを構築することが、日本国憲法が目指す社会の実現に必要なことだと考えています。 社会で生活していくだけでも精神的な歪みが生じるのに、社会に出る前の教育ですでに歪みを生じさせるが、その歪みを自己矯正する様々な手段を教えない。多くの知見の蓄積があるのに、生かせていないように感じます。 最近のニュースを見ていると、たまにこのような残虐な事件は起きますが、芸能人に関するスキャンダルや一地方の事故が全国ニュースで流れているのを見ると、憲法が求める理想社会に近づいているのかなと思います。 私自身も、「~すべき」という色眼鏡やネガティブに捉える色眼鏡をかけているので、気をつけたいと思います。