こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。
突然の質問ですが、ご縁とは仏さまが私に与えてくださっているものなのでしょうか? 仕事で営業をしています。 辛いことが8割、感動が2割というところでしょうか。今日はお客さまが私のことを慕ってくださり、あぁこんな私を大切に思ってくださって嬉しい、と感じました。お客さまが幸せでありますように、と心の中で強く強く願いました。 営業はイキナリ叱られたり、怪訝な顔をされたり、辛いことが多い仕事ですが、時々出会うこのご縁に涙が出そうになるくらい嬉しさを感じます。これは偶然かそれともご先祖の導きではないかと不思議な気持ちになったのでご質問させていただきました。 皆様のお考えや仏教としての解釈のようなものがあれば教えていただきたいです。よろしくお願いします。
死んだらどうなるのでしょう? 最近そんなことを考えて怖くなる時があります。 私は仏教が好きなのですが、実際自分が死んだらどうなるのか不安になって怖くなる時があります。 何もしないと死後はどうなるのか? 修行をしたら死後は変わるのか? 死後にお坊さんにお経をよんでもらったらどうなるのか? とても不安です。
はじめまして。 私は47歳の主婦です。夫とは去年再婚同士で結婚しました。夫は歯科医で、普段はどうしたらちゃんと診てあげられるか、など家でも話してるような真面目な人です。 ただ、人に対して不信感が強くて特にお酒を飲むと、周りの人間はみんな敵、というようなことを言います。しかも、たくさん飲んだときなどはひどく荒れて大声を出します。そんなときは必ず私に対して悪意むき出しで罵ります。一つ例えですが、夫と実家から帰宅するときカーナビで「自宅へ帰る」とセットした夫に、「いつもセットしてるね」と何気に言ったことがありました。それはもう何か月も前のことです。一昨日、また夫がお酒をたくさん飲んだ時、「何年経ったら道を覚えられるの?」と言って私が夫をバカにした、という話に夫の中で変わっていました。 先日、私が長く飼ってたネコが亡くなったとき夫はまだ短い付き合いだったのにひどく悲しんでくれました。でも、お酒を飲んだら、そのネコと長くいっしょにいた私の悲しみに比べたら自分の悲しみなんて薄っぺらいと思ってるのだろう、と荒れて言いました。 夫は、みんな敵なのに普段は頑張って耐えてる、という意識があまりに強くて酔ったときにそういう気持ちを私に当たるしかないのだと思います。 ひどく私を罵ったら翌日は、ごめん、と言って数日は全くお酒を飲まずに過ごしています。 あまり飲まないで、と言ってたこともありました。素面のときは承諾してくれるけど飲み始めたら、そうお願いした言葉も夫を怒らせる種になったので、とにかく私は「酔ったときに怒りの原因になるような言葉を普段から言わない」と最近は決めています。それでも、本当に何の深い意味もなく発した言葉が夫の中で自分を責める言葉に変化して残っているのです。 夫が周りの人間はみんな敵だと思う考えは変えられないけど、私はそんな夫にどう接したらいいかわかりません。 私が何か意見を言うと、まず否定することから返事が返ってくるのです。 私と居ることで心が楽になる、って思ってもらいたいです。 今はただ、夫がお酒を飲んで気持ちを爆発させる時間がきたら何を言われても黙って聞いてることしかできません。 夫には体を大切にしてほしいのですが、今のままではいつか夫の体も壊れてしまいます。 夫の心が楽になるために、私にできることはあるのでしょうか?
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
結婚14年目の寺嫁です。 結婚して数ヶ月後に女の子とデート約束のメール発見。飲み屋の子とふざけてのメールと言い訳。 結婚五年目頻繁に会ったり旅行したりの浮気。 こちらは離婚を申し出ましたが 頑張ると言われて今回だけと許しました。 そして今日出張だと思っていたところ 37歳の女の人と旅行中という事が 分かりました。 僧侶としてはお檀家さんからは信頼され 優しくて、何でも出来ると評判。 お寺では義父(住職)と喧嘩ばかり 寺の仕事も中途半端、家庭の事は何もせず、自分中心。 義両親は旦那の事を二重人格だと言っています。 今回の浮気はもう許せず、子供を連れて離婚をしたいのですが いつも私の事を考えて大切にしてくれている義両親は、旦那を追い出して 私にはずっとこのまま ここに居たらいいと言っています。 そんな事が可能なのでしょうか?
数ヶ月前、不倫相手と駆け落ちをしました。 私は独身で、彼が妻子ある身でした。 仕事も決まり、衣食住も安定してきた先日、彼が元嫁と連絡をとっていたことが判明しました。 元嫁は心身が弱ったと言っているらしく、彼が連絡をとることで、安定してきているとのことでした。私も元嫁、子どもたちには、申し訳ないことをしたと一生償いながら生きていくつもりで、養育費等も支払うつもりでいました。 しかし、彼は一緒に出てきた私とは関係を切り、一人で暮らしていると元嫁に伝えてありました。元嫁の安定のためだと。 元嫁との連絡は毎日、仕事中も家に帰ってきてからもずっと続いています。 それでも彼と一緒にいたい思いから、全てを受け入れました。 ですが、彼がいつ家族のもとに戻るといい出すだろうとか、元嫁が本気で帰ってきて欲しいとすがってきたらとか、不安で不安で仕方なくなってしまいました。 過呼吸や拒食傾向の身体の不調も出てきました。毎朝不安感に襲われ、不安過ぎて何も手がつかなくなってしまい、家事すらまともに出来ていません。 自傷や自殺の方法さえ検索してしまいます。 因果応報というものなのでしょうか? この苦しみからは、逃れられないのでしょうか?
こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?
分別と無分別について詳しく教えて下さい
はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。
痛ましい事件が起こってしまいました。 近所の人の話を聞くと、「優しい子だった」ということでした。最近よく聞く、容疑者の人物像です。 容疑者の人物像から、もしかしたら親や学校、同級生から精神的な抑圧がかかっていたのかなと推察しました。仮にそうだとしたら、早い段階で誰かが気づいて、専門的手だてを講じることはできなかったのだろうかと思います。 私は、「人間はもともと善い性質を持っている」と考えています。家庭や学校での学びや経験などを通して、間違った学習をすることによって社会規範から反れていくのだと考えています。色眼鏡をかけていくことにより、間違った見方をしてしまう可能性があります。 人間を含む哺乳類を観察すると、幼児期の母子関係が大事だと感じます。何らかの理由で離れてしまい、その後、周りの人たちからの裏切られる経験が重なると、より良い成長にならないと感じています。 事件が起こったときに、犯罪者本人に反省を促すことが大切だと思います。と同時に、犯罪者に対する治療が必要だと感じます。刑務所の中でも、矯正プログラムはあると思いますが、社会復帰して犯罪者自身が困ったときに相談できる窓口が必要かもしれません。 一方で、社会の方も、これまでの問題点を洗い出す契機になるかと思います。生活習慣の乱れが人間の体の弱いところに現れるように、社会の乱れも弱いところに現れるのだと思います。 環境ストレスや社会ストレス、内的ストレスへの対処法を教え、これらストレスによっておかしくなってしまった人を救うシステムを構築することが、日本国憲法が目指す社会の実現に必要なことだと考えています。 社会で生活していくだけでも精神的な歪みが生じるのに、社会に出る前の教育ですでに歪みを生じさせるが、その歪みを自己矯正する様々な手段を教えない。多くの知見の蓄積があるのに、生かせていないように感じます。 最近のニュースを見ていると、たまにこのような残虐な事件は起きますが、芸能人に関するスキャンダルや一地方の事故が全国ニュースで流れているのを見ると、憲法が求める理想社会に近づいているのかなと思います。 私自身も、「~すべき」という色眼鏡やネガティブに捉える色眼鏡をかけているので、気をつけたいと思います。
私は今までなんとなく生きてきました。なんとなく生きてきても何も思いませんでした。 しかし、最近(といっても半年前ですが)こんな人生でいいのかと感じるようになりました。 私は音楽が好きで、聞くのも、演奏するのもすきなのですが、ある日音楽を聴いていると、何か一つでもだれにも負けないものを持っておけ、といったような歌詞がありました。 私は今まで、なんとなく生きてきて、そんな事一つも考えた事がありませんでした。 大学の願書にも自分の特技を書く欄があり、その時は「楽器を演奏すること」、と書きました。しかし、大学に入り、より広い社会に出ると、やはり楽器を演奏することに対し、上には上がいて、どうしても越えられない壁がありました。その度に私は自信をなくし、本当に自分の特技なのか、人より誇れる事なのかと思ってしまうのです。 そう考えてしまうと、どんどん悪い方にばかり考えてしまい、自信がなくなります。 楽器を演奏することを生業としたいわけではないです。ただ、何か特技があっても上には上がいてそれを特技と呼べなくなってしまうのではないかと考えてしまう事にとても悲しくなってしまいます。 他の人にすごい人がいるから自分は必要とされないんだ、と思ってしまいます。 自分らしさってなんでしょうか、それが例えば何か一つ人に誇れるものであったならば、それを見つけるためにはどのようなことに気をつけていけばいいでしょうか?また、どのような考え方をしたら良いのでしょうか?教えてください。
仏教で言えば許し、許す、許されるとはどのような心のあり方ですか?
昨年長男である旦那が正式に墓守に。 去年墓経時に棚経もお願いしても連絡なし棚経も来てもらえず。 今年も盆前墓経時に棚経をお願いしてて、連絡なしで7月末にポストに名刺だけあって夜に連絡をしたら「棚経に行ったけど不在だった」と。 連絡もなく来て不在と言われても共働きで常に家に居るわけじゃないし、日時を指定してもらってその日は電話を切りました。 棚経は午前中との約束だったので、義母も9時前には我が家に。10時過ぎ確認も兼ねてお寺に電話。 「住職が他所回ってるから午前中は無理、午後に行く」と。 11時半過ぎに電話がかかってきて「午後は施餓鬼があるから棚経は無理。お寺来たら一緒に棚経のお経あげてあげてもいいけど?」 去年はお願いしても無視、 今年は連絡もなく勝手に来てその後約束した日時は来れず、上からの物言い。 何のための約束か⁈と旦那も義母もブチ切れ。 実は仏壇開きもやってもらえるまで2年かったという経緯が。 元は旦那の祖母が檀家、義父と曽祖母の位牌を義母が管理をしてました。(祖父は祖母が勝手に集合墓地に遺骨を巻いてしまいこの時は位牌なし) 当時、義母の再婚があり長男である旦那はまだ未成年。墓守は無理で、出来る歳になるまではお寺に位牌を預ける形をとりました。 5年前に祖母が他界。その際叔父が別宗派で葬儀、納骨もしないまま2年。叔父の方から祖母の位牌と遺骨をそっちでどうにかして欲しいと連絡があり、これをきっかけに成人した結婚もしたと旦那も墓守を決意。菩提寺になるお寺で祖母の戒名と祖父の相談、位牌の引取りをお願いしました。 はじめはお寺も対応が早く、 叔父から位牌遺骨引取り→その日のうちにお寺へ行く事ができて、4人の位牌も早くに受け取る事ができたのですが… その後からはぐだぐた。 お寺へ行ったのが秋の終わり。 これから寒くなるから納骨は春先、その時に仏壇開きも、との事。 春になりでも連絡はなく、こちらから連絡。納骨当日はその日別の方の納骨があってそのついで?な扱い。 仏壇開きも仏壇等を揃えた状態でお願いしてましたが、納骨以降仏壇開きの連絡なし。墓前法要の度に直接話しても「また連絡する」の繰り返しで、我が家が引っ越す話をしてやっと返事がもらえて漸く…な流れ。 こんなに適当なら同じ日蓮宗の別のお寺さんに変えた方がいいのか?と思ってしまうのですが…。
久々の質問です。 宿曜経には宿曜占星術が説かれていますが、仏教では占いは禁止ですよね?宿曜占星術は例外的に許容範囲なんでしょうか?
出産は拷問なのに。 子供はいらないのに。 男は身勝手過ぎる! 夫は押し倒したあと、俺も子育て手伝うから一人ぐらい生んでよー、と言ったのです。 ふざけるな、手伝うってなんだ、子育ては男女両方やること。 手伝うということは子育てのメインは私ということになる。 女は子育てマシーンじゃないし、子供を生む機械でもない。 私の仕事のキャリアと命を奪う行為を平気でする夫。 本当に信じられない。 今週末に警察へ相談する予定です。 以前ここで質問したら、子作りを拒否するのは男にとって無い物ねだりだと言われました。 黙って犯されないといけないんですか?
拝読下さりありがとうございます。 私には中絶の過去があります。当時は学生で経済力もなく、相手の男性も頼りにならず、泣く泣く中絶しました。今でも忘れることはありません。当時付き合っていた彼とは中絶が原因で別れています。 悩んでいるのはこの事実を今お付き合いしている彼に話すかどうかです。 付き合って半年ほどになります。とても誠実で優しくて素敵な方で、最近将来の話や結婚について話をすることが増えてきました。ただ、今の彼には中絶の過去を話していないのです。理由は、本心を言いますと、話すことで嫌われたくないという思いが根底にあると思います。でもそれだけではなく、話すことで、彼を悩ませ、傷付けたくないこと。彼に知ってもらった上で私を受け入れてほしいという思いはあるけど、私の過去の事なのだから私1人が胸の内にしまい、墓場まで持っていく必要があるのではないかと考えること。このように考えていたから今までは話しませんでした。 でも、彼が彼のご両親に私のことを話してくれたり、将来の話をしてくれたり、誠実に向き合ってくれればくれるほど、とても嬉しく、幸せな反面、中絶の過去を話していないことが、彼に対して不誠実なようでとても申し訳なくなります。考えたくはないけど、私の過去を知った上で私と別れる選択肢、権利も彼にはあると思ってしまうのです。でも、正直なところ、今彼がいなくなったら耐えられる自信がありません。 また、彼に話す必要があると思ったのにはもう一つ事情があります。私は母とうまくいっておらず、母に中絶の過去を不本意な形で彼に話されてしまう可能性あると考えたからです。そうなった時に、彼を必要以上に傷付けてしまう可能性と、「どうして話してくれなかったのか」となってしまうならば、私からきちんと話す必要があるのかな、と考えたからです。 中絶をした過去は消えるわけではないし、絶対忘れてはいけないことだけど、私1人が胸の内にしまいご供養をしていこうと考えていました。でも今の彼の素敵なところを知れば知るほど、自分への嫌悪感と後悔の念、彼に話していない罪悪感でいっぱいになってしまいます。自業自得なのは承知の上ですが、何かアドバイスを頂けると幸いです。。よろしくお願いします。
大学のある授業の提出物で、最低評価をもらってしまいました。 その提出物の評価を知った関係で、いろんな授業でそのような評価を付けられているのではないかと疑心暗鬼になっています。 例えば、他の授業では講評として『一部手抜きの答案がありましたが、、、」という風に書かれていました。全体の講評なのでそれが自分とは断定されてないものの、違う授業で最低評価をもらってしまったことから私の本気が教授からすれば手抜きに感じられているのかもしれないと危機感を覚えています。 高校ではそのようなことはなかったのでとてもショックで、このままでは単位をいくつも落としてしまうのではないかと考えると辛くて毎日の授業が苦痛です。 また、ほとんどの授業は提出物の採点結果を今の段階では知ることができず、単位がもらえたかどうかは8月に分かります。この疑心暗鬼が8月まで続くと考えるととてもではないですがそのストレスを背負いながら生活していける自信がありません。 どうしたら心も健康でありながら大学の授業をストレスなく受けられるようになるでしょうか。 よろしくお願いします。
死んだはずの紫雲です。 前の相談で大変お世話になりました。 一ヶ月前、死ぬ準備の為に自殺は先送りにしました。 その間に相談事が出来たので来ました。 先日、講師に家庭環境を聞かれ残り5回も会わないので軽い気持ちで話してみたんです。 途中で、誰の為に生きてる?と聞かれました。 その環境で自己形成してきて紫雲さん自身はどこにいるんだろうと心配になった、と。 結構自分の為に生きてると思ってました。 家事して成績取って。毎日与えられた所に通って。友人の誘いを断っても仲良くしてもらって。 でも振り返ると何するにも親の許しを欲してました。昔死にたかった時も聞きました。答えは「良いよ死んでこい」でした。いつも私の意見は大体NGなのに即OKが出てホッとしました。今回も即答でした。 改めて考えると、死以外にも親の機嫌の確認したりしてました。自分の為にした決断って実は親に左右されたものだったんでしょうか。 皆さんの思う、自分の為に生きるってどういうことですか? 私以外の家族が食後に会話する光景を見て私の役目はもう無いなと思いました。昔のピリピリした無言の食事が消えて、嫉妬心も嬉しさもなかったです。 自分だけ過去に取り残されてるみたいです。 深夜に書いたので全然まとまりの無い内容で申し訳ないです。 私がなぜ「死にたい」から10年ほど抜け出せないのかわからず悲しくなりました。