転生などしたくありません。他者に苦痛を与え、自らもそれに悩む毎日です。 仕事をすれば余計な仕事を増やしてしまいますし、会話も成り立たないので失敗や怒らせてばかりです。 記憶も断片的になりがちなので、せっかくの救いの言葉もちゃんと心に残せないのではと不安です。 私の目指す先は命も意識も感覚も一切ない、無です。快楽など本当に必要ありません。 私が恐れるのは、死後も意識があるのではということです。死後のことがよく語られるのなら意識があるのでしょうね。 私が死後、どのような裁きが下りるかはわかりませんが、転生したくないです。本当を言えば抹消させてほしいのです。 そのような願いは邪でしょうか。
こんにちは。昨日は私の質問にご回答頂きまして、誠にありがとうございました。非常に勉強になり、今後の参考にしたいと思いました。 立て続けで申し訳ありませんが、輪廻転生について、あと一点だけ質問したいことがございます。この質問で最後にしますので、ご回答頂ければ幸いです。 日本の仏教関係者の中には、和辻哲郎博士など輪廻転生を否定する説を述べられる方もおられます。その一方で、魚川裕司氏は著書「仏教思想のゼロポイント」で和辻哲郎博士の説を批判し「無我輪廻説」こそがお釈迦様の説かれた教えだ、と主張しております。先の質問で、お坊さまがおっしゃっておられた輪廻の本意はこのことなのかな、と思っております。 そこで、さらに疑問が湧いてしまったのですが、チベットやブータンでは、「輪廻転生による生まれ変わり制度」が存続しています。上記の解釈ですと、生まれ変わりを認めることは難しいように感じるのですが、この制度は民衆を導くための方便ということになるのでしょうか。 このような知識欲自体が煩悩なのかもしれませんが、どうしても知りたいと思ったので質問させていただきました。お暇なときで結構ですので、ご回答頂けるお坊さまがいらっしゃれば幸いです。よろしくお願いします。
幼少期から生きることに苦痛を感じ、死んでしまいたいと思い、「なぜ生きるべきのか?」という疑問を己の中に持ち続け、考え続けてきました。 そして、たくさんの本を読み、哲学を学び、経験し、行きついた先が仏教の教えでした。 仏教の教えをお坊様から学びたいです。本から仏教を学ぶのも良いとは思いますが、恥ずかしながら文字から真意をくみ取る読書は不得手でして、お坊様との対話を通して仏教を学びたいと考えております。 仏教をお坊様から学ぶためには具体的にどうすればよいのですか?また、いろいろな宗派がございますが、どの宗派の仏門を叩けばよいですか? そして、将来的にはお坊さんになりたいと考えております。あまりお坊様について詳しく知らないので、よくわかりませんが、他の仕事(例えば建築士)をしながらお坊さんになることはできますか? 蛇足かもしれませんが、自分は地方都市の大学で専門的な勉強をしており、hasunohaに登録されている真言宗のお寺が、通える距離にあります。
死について質問です。 今の私にとって死とは、必ず行き着く先であるからこそ、明日すら計り知れない今を頑張る源となっているように思います。 小学生の頃はずっと死にたくないと思っていたのに対し、大学時代は死にたいけれど自分から死ぬ勇気はない、そんなことで周りに迷惑もかけたくないと思っていました。 また一度だけどうしようもない気持ちがいっぱいで手で首を締めた時、少しの吐血で非常に驚き、やっぱり自分から積極的に死を選ぶことはできないと実感しました。 そうして死の捉え方が変わっていきながらも、今は明日死んでも、五十年以上後に死ぬことになっても、いつでも悔いなく安らかに眠れるような気がしています。 一方で医療職に就き人の命を救う立場でありながら、このような死の捉え方をしていることには、どこか自分や他人に嘘をついている気がしてしまうこともあります。 お坊さんがたは、お葬式などで死者を弔う役目を果たされながら、死をどのように捉えておられますでしょうか? どうぞお聞かせ頂ければと思います。 宜しくお願い致します。
稚拙な文章で至らない点もあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。 「人の役に立って生きる」ことは正しいと思います。そう思うのは今までの学校や周囲から教えられてきたからです。私は人に親切しようと思って生きてきました。良い人になろうとしてきました。 ですが、今の私はそう生きるのが嫌になりました。誰かの役に立っても私には何もメリットがありません。唯の自己満足でしかないです。良いことをしても誰も見てくれないことが多いです。お礼を言ってくれない人もいます。そんなことがあると何もかもが馬鹿らしいです。優しくしても利用されているだけな気がします。 無償の愛とはくだらないものだと考えてしまいます。家族愛は気持ちが悪いです。気を悪くされたら本当にすみません。だけど私の家族かだ(母しかいませんが)私を育ててきたのは自分の老後の面倒を見てもらいたいからとしか思えなくなりました。 すみません、話がそれました。 中学では仲のいい友達に裏切られました。大学の友達には優しく接してきたつもりでした。ですが、悪口を言われ、嘘の噂を流されました。別の友達にはいつも愚痴に付き合ってあげました。だけど私の愚痴はまともに聞いてくれませんでした。バイトでは良い子でいるようにしました。いつの間にか孤立してしまいました。 私の性格に別の問題があるからかもしれません。 本当に今までの自分が馬鹿らしく思えます。誰かからいっぱい褒められたかったです。自分を好きになってもらいたかった。そのために行動してきたことは子供っぽく感じます。 私はこれからも人の役に立つよう生きていかなければいけないのでしょうか。 他人に親切されたことはあります。だから私も同じようにしていかなければならない、とは思います。色々矛盾していますね。 優しさに損とか特とかを考えてしまった私が一番性格が悪いです。すみません。 文章が乱雑になってしまいましたが、ご回答よろしくお願いいたします。
先日、主人にわたしの職場での出来事について話をしていました。 毎回残業中の人がまばらになったタイミングで、同じ部署内で二人の同僚が悪口合戦を繰り広げます。体制がどうのこうのとか、上司が無能だとか、最後は他の同僚の人格を否定するような(馬鹿だとか仕事できないだとか、いい大学を出てないとか、生理的に嫌い、臭い)話になります。聞くに堪えない話なのでいつも無心になっているのですが、先日は本当に切羽詰まった残業だったので、仕事がしづらくて困った…他の同僚たちも同じ思いを抱えていて、なんだかなぁという話になったんだ…という話です。 そんなに深刻な感じではなく軽い雑談で話をしました。 主人は一言「つまんねぇ奴らだな」と苦笑して、その後一呼吸置いてこう言ったのです。 「…俺ってそういう場面に遭ったことがないんだよね。なんだろう、きっとそういうやつはいるんだろうけれど、俺の視界には入らない。俺の周りにそういう人はいない。不思議だよね。俺の周りだけいなくて、あなたの周りにはいるなんて、そんなことないのにね。」 その後おどけて「まぁ俺が高尚な人間ってことか!」と言っていましたが、なんだかもやもやっとしました。 確かに、主人から職場の人間関係で困っているという話は聞いたことがありません。ほとんど楽しい話です。 一方、わたしは、苦労することが多いです。 年上の女性同僚から理由もわからず無視をされることもあったり、前述のようなイヤな場面に出くわすこともあったり、職場をかき乱すようなトラブルを起こす人がいたり、何かしらあります。 同業種の男女問わず友人知人と、お互い職場の人間関係で悩んでいることを話す機会はあるので、同じように悩んでいる人は他にもいるんだなとは思います。 しかし、主人は、わたしの話を聞くたびに「俺はそんな場面に遭ったことはない」と言います。主人も同業者なので、同じような環境で働いているのですが、職場は桃源郷のようだと言います。 (ちなみにわたしは悩みこそありますが、職場自体に不満はありません。) こうなってくると、本当に主人が高尚な人間なんだろうなと思えてきます。 そうすると、いつもトラブルに巻き込まれたりトラブルを目の当たりにしたりするわたしは、どこか人間性が欠落しているからなのかしら…と落ち込んでしまいます。 主人とわたし、何か決定的な違いがあるのでしょうか?
私は以前から京都が大好きでお寺にたくさんお参りしてきました。 お寺にいると心が落ち着き、本来の自分になれる気がして写真など以外にその思い出を残せるものとして御朱印というものを知りました。 次から頂いていきたいと思うのですが以前の日付も一緒にいれて頂けますか、とお願いするのは失礼にあたるのでしょうか?(>_<) また、そのようなことはしていただけますか?? ご回答お願いします。
周囲から善人と言われている人も、殺される人は殺されるべき因縁があるんですか? [不慮の死]は殺された人に落ち度はないのですか? 恐怖と痛み、苦しみの中で殺されていった人は永遠に苦しみますか?
いつも本当にありがとうございます。 今回も自分のせいで死んでしまった犬ちゃんに関連した質問をさせてください。 今まで何度も質問させていただいておりますが、 私は1年前に大好きな犬ちゃんを自分のせいで病気にさせ、獣医さんに言われていたことを勝手な思い込みから真逆のことをし、病気を進行させ、衰弱させ、死なせてしまう大罪を犯しました。 その後毎日hasunohaを訪れ、他の方の質問のお坊様からの回答や、私自身も質問させてもらい 「全ての命を大切にする」ことを誓いました。 虫などもなるべく殺生せず、食べ物には毎回感謝し頂いています。 しかし結局、わたしのそれは上辺だけです。 命の重さは皆同じ、そう思うようにしても、 大量に飛んでいる小さい虫を車でぶつけてしまってもさほど気にしないのに、もし人を弾いてしまったら法的にも罪になるから、そのほうが大きいことだ…。 そう考える自分も解せないです。 お坊様方はいつから、どのように、命の重さが皆等しいと思えるようになりましたか? 愛犬が気づかせてくれたのに、命を平等だと思い切れない自分が本当に情けないです。
この掲示板に2度目の質問をしに来た者です 本日もよろしくお願いします 最近仏教について色々調べたんですが 仏教にも原始仏教と大乗仏教があるそうですね そしてそれぞれの宗派ではお釈迦様に対する供述が違うようで・・・? どちらを信じればいいかわからないのですが なんとなく原始仏教のお釈迦様について考えることにしました そしてある疑問にぶつかりました お釈迦様は全ての煩悩を絶って涅槃入滅されたんですよね? そして輪廻の輪から出て2度と生まれてくる必要もなくなった それなのになぜ人々を救おうとするのですか? 人々を救おうとする考え自体も煩悩なのではないのですか? 五陰盛苦?を超越して全く煩悩がない白紙の状態になると一切の考えはもはや沸き起こらなくなり 人々を救おうなどとも考えなくなるんじゃないんですかね? たとえ当初のお釈迦様は人々を救いたいために修行してても 涅槃入滅した状態になるともう昔のことなんてどうでもいいやってなるんじゃないですかね? それなのにお釈迦様はまた人間界に戻って人々を救おうとしてるのはなぜですか? お答え出来る方がいらっしゃったらお答えください
僕は浄土真宗です。 最近五逆罪や謗法罪は犯すと無間地獄に落ちるというのを知って怖くなりました。 僕はすぐ怒ってしまう性格で親に何か言われた時、ついカッとなって悪口を言ってしまいました。 昔は宗教もあまり信じていませんでした。 他にも虫を殺したり物を盗んだりしました。 今は反省してなるべく悪いことはせずに、善いこともしていこうと心がけています。 家に入ってきた虫も外に逃がしてあげたりしてます。 朝起きたら一生懸命念仏を唱えています。 でもネットで調べてたときにみつけたんですけど、無間地獄に行くのが確定している人は罰がくだらないというのを見つけました。僕はあまり罰がくだってる感じはしないのでもしかしたら無間地獄に落ちるのかなと思いました。 自力の念仏でも地獄は回避出来ますか?
猫が病院でさいごを迎えました。 このような場合、猫の魂は病院にとどまったままになっているのでしょうか?そうでしたら、病院が嫌いだったので、かわいそうに思います。 それと、猫に会いたいとか、悲しい、落ち込みなど気持ちが大きすぎると、魂が浮かばれないというのは、本当でしょうか?お盆に帰ってきたりしますか? 写真にお水やご飯を置いていますが、普段どのように、いつまでしてあげたら良いでしょうか? それから、猫を見送る時に、いつものくせでマスクを付けたまま見送ってしまいました。ちゃんと見送ることは出来たでしょうか?それに病院に連れて行く時にいつも私はマスクしていたので、猫が病院を思い出していやな気持ちになっていないか心配です。 ご回答よろしくお願いいたします。
以前、被災した義理の両親との同居を解消することに悩み相談させていただいた者せす。同居して2年が経過しようとしています。相談させていただいてからも、主人とは何度も離婚の話をしてきました。お互いこのストレスに疲れてしまっていたのです。そんな不仲の私達のことをみて、義理の両親がなぜか私達のことで結婚後過去最悪の喧嘩したそうです。 そして、この家からは出ていき、シングルマザーで2人の子供を育ててい る義理姉のことをサポートしにいくことときめたようです。 そこで、ご教示いただきたいことがあります。 彼らがこちらに来る時に、代々祀ってきた観音様を我が家敷地内に、被災地から持ってきました。観音様と呼んでおりますが、どうやら昔の誰かのお墓らしいのです。主人のひいおじいさまの夢に、出てきて「掘ってくれ」とお告げがあり、掘ったらでてきたそうです。それから、その観音様は震災でなくなってしまった自宅近くの山に祠を建て祀られており、代々引き継がれていたようです。 こちらに持ってくるという話の時、私は「海を眺める場所にあったものだし、観音様はあの場所が好きだろうから動かすべきではない。」と言い、また、正直、新しい住宅地なので周りも若い家族が多いため気味悪がられたりされるのではないか、という気もして反対してました。 今、観音様は庭にあり、ホームセンターで購入した物置小屋を祠のようにして祀り、義理母が毎日お水をあげています。 これから家を出で岩手県に戻るとのことで、私は上で申し上げた理由2点から、あちらに戻して欲しいと思っています。 しかし、主人も含め、こちらに置いておきたい、といっていますが私は、義理の母ほど、その観音様に愛着が持てず管理ができる自信もありません。主人は週1くらいであればお水とご飯を供えそうですが、今までの仏壇へのお供え状況を見ていると私より頻度が少いので怪しいです。 こんな雑な夫婦のもとに観音様を置いておいて良いのでしょうか。 それで観音様は幸せでしょうか。 昔、観音様のお供え等をサボっていた時期に義理父が仕事で指を切断したそうで色々と怖いです。 今後どのようにしたら観音様は幸せですか? ご教示ください。
初めて質問します。 カテゴリーをどこに当てはめたらいいか迷ったので一応"その他"にしました。 内容はタイトルの通りです。 人間がなぜ、何のために存在するのか、仏教やお坊さんの視点ではどう捉えられているのか知りたいです。 生まれてから今まで色んな人たちと出会い、関わってきましたが、その中で人間の欲深い所、醜い所を嫌と言うほど見てきました。 男も女も年齢も関係ありません、本当に人は救いがないなと感じます。 ニュースでも戦争とか暴力とか犯罪とか、見てるだけで心が痛くなるような残虐な行為を平然とやってる人達にも恐怖を覚えます。 そして私も、醜い所を沢山持っている自覚があるのでそんな自分も恐ろしくて仕方ありません。 もっと綺麗な人(外見ではなく精神的な意味で)でいたかったし、優しい人でいたかったし、強い人でいたかったです。 でも、私もたくさん人を傷つけました。 私も良い人間にはなれませんでした。 まともな人間なんて自分含めて誰ひとりとしていないんだ、人間という生き物そのものが穢れた存在なんだなと思うようになりました。 だからこそ疑問なんです。 どうして人間はこんなにも醜い感情を抱くように作られているのですか。 人間が存在する事で得をする存在がいるのでしょうか。 こんなに醜い存在なら人間なんて別にいなくてもいいのではと思ってしまいます…。 もし人間が存在するちゃんとした理由が仏教の中にあるのなら、それを聞いて自分の中で納得したいです。 拙い文章で分かりにくかったら申し訳ありません。 よろしくお願いします。
人は死んだら無になるのでしょうか。仏様になって私たちを見てくれてはいないのでしょうか。 幼い頃から大好きで大切だった祖母が最近、亡くなりました。私の家には仏壇が無いため(親戚の家にあります)、祖母の写真を置き、その前にお供え物をしています。祖母は亡くなるまでの半年間は食べ物や水を一切口にすることができませんでした(病院から飲食を禁じられており、栄養はカテーテルで摂っていました)。しかし本人はずっと「食べたい」「水が飲みたい」と言っていたのにそれが叶うことなく亡くなってしまったため、あまりにも哀れで、せめて天国ではたくさん食べてほしいと思い、お供え物をたくさんしています。けれど、ふと思うんです。こんなことをして、祖母は食べてくれているのだろうかと。人は死んだら仏だのあの世だの霊だのそんなものはなく、完全に無になるだけなのではないかと。だとすれば、毎日あれこれと飲み物や食べ物をお供えしているのは、単なる私の自己満足に過ぎません。それを考えると、虚しくなります。仏もあの世もなく無になっているのなら、お供え物もお墓参りも完全に意味の無い行為と言えます。ネットで色々と検索してみたら、霊感のある人は「ちゃんと食べてくれている」という意見を述べていたのですが、私には霊感がないので何も感じ取ることができません。 それに、祖母は20年以上前に亡くなった祖父のお墓参りをずっとほぼ毎日やってきましたが、祖父が見てくれていたようにも思えないのです。なぜなら、祖母は長年、体の不調に苦しみ続けていましたし、長文になるので割愛しますが最期の時もあまりにも惨めなものでした。よく「故人を思ってお墓などを大切にすると幸せになれる」ということを聞きますが、祖母は最後まで哀れでした。このことを考えると、やっぱり人は死んだら無になるだけで、それ以上は存在しない、つまり私たちを見てくれてはいないのかなと思えてしまいます。 難しい質問かとは思いますが、回答、宜しくお願い致します。
男性ですが女性用の下着を着用しています。 普段仕事の日は会社の制服を着て仕事をしているのでなかなか着用することは出来ませんが、休日はジーンズやトップスの下に着用しています。一度止めようと思って全て処分したのですが、また少しづつネット通販で集め始めてしまいました。 今はお付き合いしている女性はいませんが、いつかお付き合いする女性ができた時の為に止めないとならないとは思っているのですが、男性の下着には無い程よい締め付け感がクセになってしまいおかしいとは分かっているのですが、止めることが出来ません。 男性が仕事着や普段着の下に女性用の下着を着用するのは止めた方がいいでしょうか?
悩みは妻が葬儀の時に、霊前で焼香の時安らかにお眠り下さいと願ったあと、地獄に落ちろと思ったようです。とてもお父さんが好きだったようでなんでそんなの事思ったのか、ずっと反省と後悔をして不眠症で病院に通っているのですが良くなる気配がないです。本人は生き地獄の末、死んでからも地獄に落ちると仏教の教えにあると、言っています。どうすれば抜け出せるでしょうか?一度、お坊さんと話をしようと連れて行ったのですが、怖くて行かないと言うので。回答をお願いします
数年前に犯した罪について、どのような気持ちをもって向き合っていけばよいか悩み続けています。 私の犯した罪はともすれば刑事事件となってもおかしくなかったような事で、私はたまたま法的な裁きを受けることなく済みました。しかし、自分の罪責から逃れるために、卑怯な立ち回りをしたことも事実です。 私のしたことで、人に怪我を負わせたり、金品を奪ったというようなことはありません。しかし、相手方に大きな精神的苦痛を与えたことは間違いありません。 この数年間、私は、自分のせいで人を大いに傷つけたこと、その責から逃れるために卑怯な立ち回りをしたこと、自分がなんの代償も払っていないこと、苦痛を与えた相手に対してもはや具体的な償いができないこと、自分がまだ相手から恨まれ続けているのではないかということ、に悩み、苦しみ続けています。 先日読んだある本の中に、「許すか許さないかは、自分ではなく相手の責任である」と書かれているのを見つけました。当初は救われたような気持ちがしましたが、しかし、自分は自分のしたことについて責任を負っていない、だから罪は厳として自分の側にあり、そもそも許すか許さないかを相手に委ねる段階にさえ達していない、という思いが募るようになりました。 あれから、自分は脛に傷持つ人間なのだから、そのことを自覚して、謙虚に、親切に生きなければならない、と決心して生きてきましたが、罪の意識は消えません。また矛盾しているようですが、すっかり罪悪感が消え去ってしまうのも、自分が性根の悪い自己中心的な人間であることを突きつけられるようで、恐ろしく、逃げ場のない気持ちになります。そうなれば反省したことも忘れて、また同じようなことをするのではないかという怖れもあります。 そもそも、このような場で質問させていただくのですから、当時の私がしたことの具体的な経緯や状況を明らかにすべきなのですが、私にはどうしても書くことができませんでした。そのこともまた、自分の卑怯さを思い知らされるようで、耐え難い気持ちになります。 大変曖昧な文章になってしまいまして失礼なのですが、これから私は自分の罪についてどう向き合っていけばよいのか、どのような心持ちで生きていけばよいのか、ご助言をいただければと思います。
これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?
お久しぶりです。 この1ヶ月、身体面では不調なことはありますが、精神面では安定しています。講演会などに参加し、いろいろな方の話を聞いて学んでいます。 仕事で人間を相手にしていますので、どうしても「人間とは?」と考えてしまいます。 以前、hasunohaへの問答で、性善説の立場であると述べさせていただきました。しかし、人間は「悪」の要素が強く、性悪説の立場になりました。 他の生き物は、個体維持や種族維持以外には、他を侵害したり、欲を持ったりしません。生存が約束されている限り、他の動物も人間と同じように優しい心を持っています。 人間が、他の生き物と違うのは「欲」を持っていることです。 「人民を支配したい」、「美味しいものをたくさん食べたい」、「快適なところに住みたい」、「大きなところに住みたい」。「~たい」ばかりだと気づきました。その点において、他の生物とは違うのだと思います。 性悪説の立場に立ってから、自分に対しても、他人に対しても期待をしなくなりました。それで、精神的に安定しているのかなと思います。 交渉をすることもありますが、ダメもとで構えているので、拒否されても「そうだよね」って心構えでいられますし、いい結果になれば感謝の気持ちが生まれます。 いろいろな事件や情勢を見ても、あらゆる可能性を想定することができるので、あまり怒りの感情を持たなくなりました。 差別が生じるのは、「自分達の生存や生活が脅かされる可能性があるから」だと思います。精神障害者などの差別も、突き詰めれば患者の心理状況が理解できなかったり、自分の生活に悪影響があると思っていたりするからでしょう。私だって、訳のわからないものはまず距離を取って様子を見ます。そういうことを考えると、差別が生まれるのも仕方ないと思います。 「悪を憎む心」と「寛容な心」は両立しないのではないかと思うようになりました。 行いは罰しなければなりません。しかし、その先の原因を解消しなければ、罰しても意味がないのではと思います。 人間について考えると難しく、その人間を教育するのは難しいなと思います。自分はそんなに人を導く立場にないと思います。 まとまりがなく申し訳ありません。 人間とは何なのでしょうか?