いつもお世話になっております。 死について、最近良く考えます。 中学の頃から病みやすかったのですが、最近は 死に方まで考えてしまいます。 なんだか近くに感じます。 何かあると深く考えすぎてしまうことが多くて、やめたいです。 そのような感情に飲み込まれてしまったとき、どうやって乗り越えればいいのでしょうか。 こんな私でも生きていてもいいんでしょうか。 こんな質問してすみません。
初めまして。 離婚歴のある彼と結婚したく、両親にどのように紹介しようか悩んでいます。 私は学生時代、彼氏(現在の彼とは別です)が出来たことを両親に伝えたところ、母親がヒステリックになってしまいました。父には特に何も言われませんでした。 その後、母に彼氏の話を少しでも出そうものなら「そんな話聞いてない」「どうでもいい」と言われ、一切そういった話をしなくなりました。 それから10年程お付き合いし、プロポーズをされ再度私の両親に話しました。母はやはりヒステリックになり、「彼の話なんか一度もされたことがないのに、いきなり結婚なんかありえない」と言われ、挙げ句の果てに、私が昔失敗してきたこと(受験や就活など)を一つ一つ取り上げられて、なじられました。一番悲しかったことは、「○◯(私の勤務先名です)に就職したこと、おめでとうって一度も思ったことない」と言われてしまったことです…。入社一年目、初の帰省時に両親に行きたがっていた懐石料理をご馳走し、喜んでくれたように思ったのですが…偽りの喜びだったようです。 結局その彼は母の態度に引いてしまい、破局しました。 月日は流れ、現在交際している彼がいます。離婚歴があり、子供がいます(元奥様が親権を持っています)。また、私より20歳ほど年上です。 別居期間中に彼と出会い、複数人のグループで飲み会をしたりBBQをする仲でした。 お互いの趣味も合い、交際を始めました。優しくチャーミングな所もある彼で、古くから彼を知っている方々も、お付き合いに賛成してくれています。 年齢的にも結婚をお互い意識していますが、離婚してまだ1年も経っていません。 その内、私の両親に紹介する予定ではあるのですが、切り出すタイミングや内容を考えただけで体調が悪くなってしまいます。 ここを自分の力でどうにか乗り越えなければ!…と思ってはいるのですが…。 いっそのこと、結婚して事後報告の方が良いのかとも思ってしまいます。 また、私には歳の離れた兄と姉がいるのですが、二人とも独身で実家暮らしです。身近に結婚している人がいない為、色々と前例がなく分からないことだらけです。 とりとめのない文章で申し訳ありません。 どうか私に喝をお願い致します。
お世話になっております。14年前に親を病気で亡くしたのですが、生前親は善人で悪い事は何ひとつしませんでした。しかし人生は不幸の連続で60代後半から突然難病にかかり、最後まで苦しみながら亡くなりました。不幸な人生だったから死ぬ時くらいは安らかに死ぬのではないかという私の甘い死生観はここで砕けました。この件についてはいずれ質問させていただきますが、問題はそれから私自身、死ぬという事を激しく意識するようなり死ぬ間際の苦痛がどんな恐ろしい苦痛が来るのかと思い、恐ろしくなりました。50代になり2回倒れましたがその時もかなりの苦痛だったのに、本格的に死ぬ時になると耐えきれない苦痛が来ると思うと怖いです。何かご意見を聞かせてください。
高齢の親が死ぬのが怖いです。 私は実家で両親と生活をしています。プロフィールに書いたような持病があり、家事をこなす体力も、金銭をうまく稼ぐ要領もないため、その方面ではたくさん支えてもらっています。 親にはとても感謝してます。両親との仲が悪かったり、実家に住んでいなかったら、失業による金銭苦で闇バイトに手を出したり、ヘタをすると自殺をしていたかもしれないことが何度かありました。いま、人間としてまともな生活をできているのは、両親のおかげなのです。 また、両親、特に母と趣味が合うため、月に一回は気になった美術展や博物館に一緒に見に行ってお茶したり、楽しい時間をすごすことが心の支えになっています。 そんな自分の大きな部分を親に支えられている今の私が、親亡き後、うまく生きられる気がしないことが苦しいです。 今現在、市の支援センターなどに少しずつ生活について聞いていたり、家事の習得したり、無理なくお金を稼ぐ方法の模索をしています。 なにより、花見など一緒に出かけたり、散歩しながら会話したりして、もし何かあっても、後悔しないように過ごしています。 それでも、両親が老いるスピードに、自分の準備が追いつかない気がしていて、ふさぎこんでしまいます。 いつか来るお別れの後、両親とのことを心残りなくすごせるようにするためには、どうすればいいでしょうか。 また、金銭や生活面でどんな準備をすればいいでしょうか。 死は避けられませんが、それでも残りの時間はみんなで楽しく過ごしていきたいなと思っています。
私は、今年厄年にあたります。年初め 厄払いはしたものの 今年の6月頃から 辛い事ばかりです。 当たり屋もどきのような人に車をぶつけられいまだに、解決しません。 主人からは散々責められ追い込まれ精神的に 壊れてしまいそうに。 主人は、ヘルニアに尿管結石 尿管結石では、義父に栄養管理と健康管理が悪いからだ!と嫌味を言わ れ、自分なりにしっかり考えてやってきた事を 全否定されたようで、ショックでした。 さらに、下の子供が腕をケガし全治一ヶ月 治った所を 遊んでいて、また同じ箇所をケガ 新車納車 次の日に、青信号を通過した所を 信号無視して突っ込んできた車に 当たりそうに 危機一髪で事故は避けられましたが、 相手は、進行方向とは逆に走ってきた車でした。 厄年は、ここまで運気が無いものなのでしょうか? それとも、何らかの試練なのでしょうか?
あの手この手で人を陥れよう騙そうとする罠が張り巡らされているこの世の中、気を付けてはいてもいつの間にか絡めとられていた、ということはまぁありますね。 利用されることが解っていても敢えて、なんてことも。 気持ちの整理としては「利用された」と自分が解釈しないのであれば、されていないのと同じとよく言われます。 とはいえ、利用する側がこの解釈を更に利用し平然としている混濁ぶりがなんともまた。 前置きが長くなりましたが、お釈迦さまは悪意により利用されたことがあったのかなと気になりました。 仏教ではこのように餌食になることをどのように説くのでしょうか。 よろしくお願いします。
こんにちは。少しメンタルが弱めなので、お手柔らかにお願いします。。 近頃、たくさんの悲惨なニュースがありますよね、戦争とか、人を殺したり、誰かが叩かれたり、自殺したり。。 そしてそこには大抵、被害者と加害者がいて、善人と悪人がいて…第三者も含めて加害者を責める構造が出来上がります。 でも、少し考えると、善人と悪人との違いは唯々、生まれた場所や環境や境遇や、タイミング…だけだと思うのです。 それは誹謗中傷をしている人間さえも事情があることを意味します。つまり…みんな辛い思いをしたくてしてるわけないし、人の性格だって容姿だって思想だって遺伝子と環境が由来する。要するに不可抗力であることが多い…気がします。 だからどれだけ最低な行動をとっても、人間にほんとうの意味での悪者はいないのでは…と考えたいのですが(誰かを許せないような社会の風潮が怖くて…)、お坊さんの貴慮をお伺いしたくなりました。ぼくの考えはやっぱり誤ってますか?回答お待ちしております。
先が見えると、現実が安定してると、前向きになり、停滞していると過去の悩みを引きずり出し悩みまくりずっと先のよくない妄想をしては動けなくなって寝込んでしまいます。 いつも過去の悩みを引きずり出しています。 どうしたら前向きにずっとなれるのでしょうか?
ドアノブごと取れたから今生きています。お恥ずかしい限りです。 そこに至るまで何があったのかは省略します。 ただ自殺の原因になった人は元気にご飯食べて生きてるんだなと思います。 人権があるらしいですから。 大切なものがたくさんあったはずなのに、二度と生まれたくないというのが今回の人生の感想です。 生まれたくなかった。生まれたくなかった。これまで生きてきた時間が無駄でした。
家族や友人に政治的な批判を頻繁にする人がおり、その人との関わり方に悩んでいます。 前提としてですが、私は現行の政治や政権、国に対して特に良くも悪くも思っておらず、問題や改善点はあるものの概ね上手く回っているのではないかと思っています。 しかし、親族や友人の中には事あるごとに「政治家の○○はおかしい」「税金の使い方が良くない」「天皇制はやめるべき」「外国は良いが日本はダメだ」などと攻撃的で反体制的な主張をしてくる人がいます。 私には彼らの言葉が建設的な指摘や議論・意見には聞こえず、ただ体制やお上の人間を自分のストレスのはけ口にしているだけのように思えてなりません。反抗期の子供を見ている気分です。 もちろん政治や国の運営には絶対の答えはなく、常に完ぺきではない為、国民全員の不満が無くなることはあり得ないでしょう。 しかし、そんなに怒りを向ける必要があるほど実生活で被害を被っている様にも見えませんし、何か行動を起こしているわけでもないのに、何故わざわざ物事の悪い面を見て不平不満をぶちまけるのでしょうか? 「大して害を受けている訳でもないのに、文句を言うのはやめたらどうか」「そこまで興味があるなら、もう少し調べてみたらどうか」「そうやって毒を吐くのはみっともない」「もう少し建設的な意見を述べてみたらどうか」などと言えば、相手は逆上して手が付けられなくなります。 こういった人間とはどう接すれば良いのでしょうか?常日頃は普通の人間である分、突然このような批判的発言が飛び出てくるとうんざりしてしまい、何より悲しくなってしまいます。
こんにちは。今3冊の仏教本を少しずつ読んでいて、今日は「ブッダ いのちの言葉(永岡書店)」の和顔愛語についてお訊きしたいと思います。災害のため今は特に深刻な相談が増えていると思うので、その後でお暇な時にお手すきの先生が教えてくださるとありがたいです。 愛語は慈悲を種子とする愛の心から起こるということですが、その逆 - 最初に慈悲の種子がなくても笑顔(和顔)と優しい言葉(愛語)で人に接していればいつかは愛の心が生まれる - はあるでしょうか。 和顔愛語の実践で心が行動に近づいていくかもしれないと思って、実践しています。優しい言葉を使うので表向きは環境が和やかになるのですが、実際に愛の心があるかというと、だめです....いまだに何も感じられません。 それでも優しくふるまって周りとうまくいってそれでよしならいいのだけど、実は、最近適性検査というテストを受けてある部分に極端に悪い結果が出てしまいました。内面がちゃんとわかってしまう場ではごまかしは効かなくて、愛の心(思いやり?)は学んで身に着けるものではないのかもしれません。私はないものを生まれさせようとしているのかな、と限界を感じます。
最近人間関係に疲れます。 家族ではなく、他人との人間関係です。 子供の成長に合わせてその時その時親しいママ友がいますが、子供が離れれば親同士も会わなくなってしまう程度の関係です。 PTAの役員なども経験して他人の裏側を見たこともあり、表面仲良く振る舞っていても実際どう思っているのか分からないと感じてしまいます。 長女は比較的器用なタイプで賞状をもらったり、習い事のダンスでセンターをつとめたりしています。 器用なタイプとはいえ評価してもらえるものはそれなりに努力をしています。 それなのに、妬んでからんでくる子がいます。 長男は努力家なわりに中々結果に繋がらないタイプで、勉強は真ん中よりは上だけど、運動は平均よりも出来ません。 「本人は自分なりに頑張っているから」と気にしていないようですが、男の子で運動が苦手だと馬鹿にしてくる子がいます。 私は結婚してから10年以上専業主婦です。 専業主婦であることを妬んで「楽している」と思うような人もいます。 恵まれていれば妬まれ、劣っていれば馬鹿にされ、それでも表面上はニコニコと付き合っていくことに疲れてしまいます。 学生の頃のように心から信頼出来る友達がほしいと思います。 おそらく自分と近い環境の人となら親しくなれると思いますが、中々そういう人がいません。 学生の頃の友達はそれぞれ家庭を持ち、年に1〜2回しか会えません。 主人は優しく、家族に恵まれているにも関わらず孤独感を感じることがあります。 長女はお友達関係が複雑になってきた年頃で、よく話を聞いてアドバイスをしてきましたが、自分がこんな風に感じると自分の人間関係の築き方が正しかったのか不安になり、アドバイスしながら自信が持てなくなる時もあります。 長々書いてしまい、申し訳ありません。 結局割り切ることしかない、と思ってはいるものの孤独感を感じると自信がなくなってしまいます。 どういう心持ちでいるべきか、ご教授下さい。
婚約者が亡くなってから2ヶ月が過ぎました。 毎日毎日彼のことを考え、泣いて、ぼーっとする日々です。 外に出るようにしましたが逆にしんどくなり今は再び引きこもりに。 友達からは悪気なく言われた言葉に傷つくことが多く、今はほとんどの子と距離を置いていて連絡も取っていません。 孤独と寂しさを痛感し、彼に会いたい気持ちしかありません。 毎日親の姿を見て、後を追うことを踏みとどまれています。 彼と同じように練炭で死のうか、それとも薬で死のうか…そんなことを考える時もあります。 自死の原因にもなった事情がトラウマということもあり、新しい人を見つけてお付き合いするなど考えられません。 本当に毎日が真っ暗です。 夜も未だに寝れません。 それでも自分がこうやって生かされているのもよく分かりません。 これからどうやって生きていくべきでしょうか?もういろんな苦しみから解放されたいです。
例え何かを為そうとしても、何か努力をしようとしても、自分の人生を生きようとしても、いずれ戦争ですべて奪われます。だから、何を感じるのも苦しい。ずっと泣きながら生きています。 そして、死んでもまたこの世界に生まれてしまいます。自我とは物質的肉体に付随するものでしかありませんし、極楽浄土なんてフィクションの産物にしかすぎません。確かなものは死と絶望と残酷な営みだけです。もしも極楽浄土が本当に存在するならば、この世界中で起こっているありとあらゆる残酷な環境の中に生み出される命に説明がつきません。どうして、戦地や過酷な独裁国家の中に、まだ人は生まれ続けるのでしょう。いつかの自分がファーストペンギンとしてシャチに食い殺される可能性は、この世界が終わるまで永遠に付きまとい続けます。 だから、この人生も、今の平和も、「人類」という営みも、何もかも束の間の嘘でしかありません。この世界の本質は、破壊と暴力と残酷な営みだけです。私達は死んだ後、更に過酷な環境の中に産み落とされる覚悟をしなければなりません。そして、強制的にもたらされる死はもう目前にまで迫っています。 存在しているのが辛い。物質的存在から逃れられない自我が辛い。脳科学的に言えば極楽浄土なんて信じるのも難しい。なぜなら、超常的上位存在なんて本当は居ないからです。あるのは残酷な物質的営みだけ。 ・物質的世界や自我や人類の営みなどといったものは、全てが偶然の産物でしかない ・必然性や何かの意図が介入していないということは、どこまでも無秩序で残酷になるということ ・それでいながら、結局は物質世界から逃れることなどできない。死んでもまた他の生き物の感覚器官が「自分」になるだけ だから、ありとあらゆる平和や慈悲やぬくもりが嘘のように感じられ、「どうしてこんな世界じゃないんだ」と苦しくなります。愚かにも、嘘っぱちな温かいものを望み、「これらが尊ばれる世界であるべき」などと思ってしまいます。その度に、残酷な真実との落差に苦しくなります。何を為すのも、希望を持つのも苦しい。死ぬことで物質的世界から「本当に」解放されるなら、安心して生きられるのに。 どうして極楽浄土を信じられるのですか。こんな残酷な世界で。私は悪くない。世界が悪い。だってこの世界は本当に残酷だから。慈悲や幸福よりも破壊や暴力や不幸の方がずっと大きくて強い世界。
首を吊ることしか考えられない。 エアコンで体調悪くなるから、公共交通機関に乗れないし、エアコンが寒過ぎて辛くて空調の効いた室内での仕事はできない。 体調治すためにこの3年、検査したり、食事改善したり、いろいろやったけど、体質なのかどうしても治らない。 そうすると清掃の仕事しかできないけど、会社はタダ働きを良しとする社風で、本当にそれがストレス。毎回1時間はタダ働きをしてる。時給は最低賃金なのに馬鹿みたい。でもタダ働きで成り立つ会社。みんなの無償労働で支えてる…。 好きでやってる仕事なら、まだ納得できるけど、全然好きじゃない。 お金が無いから不幸なんだと思ってたけど、たぶんお金の事でこんなに苦しんでるのは私だけ。みんなとっくの昔に自立して家庭を築いている。 気がつけば30半ばでまだ実家に居候してる。この歳で自立できてないなら、この先も無理じゃないだろうか。 人の形をして生まれたけど、中身は空っぽのポンコツ。 親はなんの助けにもならない。 早く首吊って終わりにしたい。
私は現在33歳子持ち既婚女性です。 私は独身時代、結婚するまで処女にしようとしました。4年付きあった彼ともせず、3週間付き合った彼ともせず、結婚するまで処女と言うと両思いっぽい人からも去られました。 また周りの男性から結婚するまで処女は浮気されるなど言われ、ひどく気に病んでしまい、25歳の時に付き合ってた男性としました。最後は別れてしまいましたが、結婚を意識してた彼なので全く後悔してません。だけど、結婚するまで処女なんかにしなければあんなに苦しまなくて良かった。何で一度でも結婚するまで処女にしたんだろうと、悔やんでしまいます。両思いっぽかった彼と付き合えなかったことが今でも引っかかります。親にも結婚するまで処女でいろとか言われてました。親にも文句言いたくなります。
僧侶の皆様お世話になります。いつも感謝しております。 私の職業は占い師です。 占いが仏教の主義に反するものであることは重々承知の上ですが、修行を積み重ねられた僧侶の皆様のご意見をどうしても頂戴したく記しております。 私の仕事の形式は対面占い(お客様と1対1で会う)ではございません。 その為ご依頼くださったお客様には「ありがとうございました」と後日メールを送ることになっております。 そのメールなのですが、本当に苦しみの只中におられる方に対してどう書けばいいのか悩んでおります。 人は誰しも苦しみや悩みを抱えています。ですが、それがあまりにも大き過ぎて「消えたい」気持ちにまで追い詰められている方には何をお伝えすればいいか…私が書いたものが余計にお客様を傷付けないかと思うと不安な気持ちになります。 こちらが言葉を選んでも、それでお客様が元気を出すとは限りません。 人に本当に勇気や希望を与えられるのは神様や仏様だけだとは常日頃思ってはおります。 しかし私は仕事柄、いかにお客様に希望を持って頂くかを考えなくてはなりません。 どのように言葉を選んだら良いのでしょうか? 失礼な質問になり本当に申し訳ございませんが、回答をお願い申し上げます。漠然とした質問をお許しください。
どうして皆様は仏の存在を信じられるのですか? 年に数回決まったお寺で参拝しているし もちろん有難いとは思っていますが どこか伝説の話というか、心の底から信じられていない自分もいます。 仏陀なんていない。極楽浄土なんてあるはずない。死んだら灰になっておしまい。お墓で亡くなったおばあちゃんに思いを伝えても、死んだのだから意味はない。という思いが何処かにあります。 どうしてお坊さんは仏の存在を心から信じられるのですか? 私もできることなら心の底から信じてもっとありがたさを感じたいです。
この大晦日に父が急死しました。 両親は、認知症がありました。 子どもである私と兄は他県に住んでおり、実家の両親は認知症同士でなんとか生活が成り立っている感じでした。 大晦日の日、私が実家に帰省すると、父はコタツの中で虫の息状態で、母はその隣で、何事もなかったかのようにミカンをむいておりました。慌てて救急車を呼びましたが、父は病院に着くまでに息を引き取りました。 母は、死にかけている父のことをまともに認識できないほど、認知症がひどくなっていたのかとすごくショックを受けました。 葬儀は、家族とごく近い親戚のみでとりおこないました。 母は、父が死んだことをすぐ忘れてしまうので、葬儀の間もずっと父を探しておりました。 父の死があまりに急だったため、認知症の母を一人実家に置いておくことはできないので、母は急きょ、施設に入ることとなりました。 施設入所は、母の本位ではなかったため、母はかなり不安定となり、父の四十九日の法要には、精神状態を考慮し、施設の方の助言で参列させませんでした。 4月に父の納骨をしましたが、それにも母は、参加しておりません。 生前、父は、母がいないと何もできない人で、母に頼り切って生活をしておりましたので、二人はいつも一緒でした。 上にあげたような事情で、母が、父の法要や、お墓参りに行っていないことがすごく気になっております。父はあの世で、母が来るのを待っているのではないか…。 ただ、最近、少しずつ新しい生活に慣れて、落ち着いてきている母の精神状態を乱すのでは…と、あえて父の死にふれておりません。 ちなみに、父は、仕事が船員だったため、仕事に出ると何か月も家を空けていたので、家族、施設の方も母が「お父さんはどこ?」と聞かれると「お父さんは、船に乗っているよ…。」といってなだめている状態です。 父が亡くなったと母に話しても、その瞬間は、取り乱して、悲しむと思いますが、次の瞬間には忘れてしまうので、母のためを思うと今のまま、父は仕事に行っていることにしたほうがいいとは思います。 ただ、亡くなった父のことを考えると、最愛の母のことを待っているような気がして不憫です。 父は、あの世から、今の母の置かれている状況を見守っていて、現状を理解してくれいるのでしょうか? このまま、法要、お墓参りをさせなくても良いものかアドバイスたまわりたく思います。
私は幼少期に母親から虐待を受けて育ちました。 具体的には、ご飯を与えられない、フライパンで頭を殴られる、季節関係なく裸足で外に締め出される、「お前は出来損ないだ、産まなきゃ良かった」などの暴言 数えればきりがないほどです。 その当時は今ほど虐待という言葉が世間に広まっていなかったため、私も躾の1つなんだと捉えていました。 ですが、大人になり離婚していた父の死がきっかけで父が毎月私の為にと母に振り込んでいた養育費を母が自分の嗜好品に使い込んでいたことが分かりました。 虐待のこともあり、もうこの母親には関わってはいけないと思い、戸籍も分籍し完全に縁を切りました。 今は私も結婚し新しい家族、親族と良好な関係を築いていますが、最近、虐待されていた頃の夢を頻繁に見てしまうのです。 夢に見るたびうなされ、嫌な気分で朝を迎えたり、ひどい時にはしばらく起き上がれずグッタリとしていたり、1日嫌な気分に支配されてしまいます。 きっとトラウマになっているのだと思います。 過去は変えられないと言いますが、私はこのつらい記憶をこれからも背負って生きていかなければならないのでしょうか。 できればこのつらい過去、記憶を手放し、今の生活に一生懸命になりたいです。