例え何かを為そうとしても、何か努力をしようとしても、自分の人生を生きようとしても、いずれ戦争ですべて奪われます。だから、何を感じるのも苦しい。ずっと泣きながら生きています。 そして、死んでもまたこの世界に生まれてしまいます。自我とは物質的肉体に付随するものでしかありませんし、極楽浄土なんてフィクションの産物にしかすぎません。確かなものは死と絶望と残酷な営みだけです。もしも極楽浄土が本当に存在するならば、この世界中で起こっているありとあらゆる残酷な環境の中に生み出される命に説明がつきません。どうして、戦地や過酷な独裁国家の中に、まだ人は生まれ続けるのでしょう。いつかの自分がファーストペンギンとしてシャチに食い殺される可能性は、この世界が終わるまで永遠に付きまとい続けます。 だから、この人生も、今の平和も、「人類」という営みも、何もかも束の間の嘘でしかありません。この世界の本質は、破壊と暴力と残酷な営みだけです。私達は死んだ後、更に過酷な環境の中に産み落とされる覚悟をしなければなりません。そして、強制的にもたらされる死はもう目前にまで迫っています。 存在しているのが辛い。物質的存在から逃れられない自我が辛い。脳科学的に言えば極楽浄土なんて信じるのも難しい。なぜなら、超常的上位存在なんて本当は居ないからです。あるのは残酷な物質的営みだけ。 ・物質的世界や自我や人類の営みなどといったものは、全てが偶然の産物でしかない ・必然性や何かの意図が介入していないということは、どこまでも無秩序で残酷になるということ ・それでいながら、結局は物質世界から逃れることなどできない。死んでもまた他の生き物の感覚器官が「自分」になるだけ だから、ありとあらゆる平和や慈悲やぬくもりが嘘のように感じられ、「どうしてこんな世界じゃないんだ」と苦しくなります。愚かにも、嘘っぱちな温かいものを望み、「これらが尊ばれる世界であるべき」などと思ってしまいます。その度に、残酷な真実との落差に苦しくなります。何を為すのも、希望を持つのも苦しい。死ぬことで物質的世界から「本当に」解放されるなら、安心して生きられるのに。 どうして極楽浄土を信じられるのですか。こんな残酷な世界で。私は悪くない。世界が悪い。だってこの世界は本当に残酷だから。慈悲や幸福よりも破壊や暴力や不幸の方がずっと大きくて強い世界。
恩師の跡を継ぎ借金を抱えて事業立て直しをしています。職場では私だけ業務過多で明らかに時間と体が足りません。家では大黒柱です。でも、最低限の報酬に設定しているので帰宅してから副業のパソコン作業で稼いでいます。帰宅してから休みの日も、副業をするか事業所に行くかどちらかしないと全てが間に合わず毎日分刻みで動いています。夫は専業主婦ですが頼りなく、だらしない部分があります。今後はご近所付き合いやママ友付き合いも夫に任すことになり、話し合って決めたので安心して任せていました。しかし、言葉遣いや礼儀がなっておらず私がこれまで丁重に接してきたことが全て無駄になりました。子供のためにも失礼のないように接してきたのに、夫のだらしなさや稚拙な言葉使いでパーです。悪気はないけど根本的に浅はかで無知です。優しくて人当たりも良いので私が少し愚痴るとみんなが夫を庇います。こんなにいい人はいないよと。職場でも、私はできる人なんです。職場も家も私はできる人なので、できない人のカバーをして、できる人が全て動けばいいというアドバイスを貰います。でも私はできる人ではありません。能力も高くないです。自信を持ってと言われますが、謙遜でもなく嫌味でもなく必死でこなしているだけです。すんなりできるほど器用じゃない。なのに、いつのまにか私はできる人として扱われ、できない人のカバーばかり。私からすれば努力不足なんです。言葉使いや仕事の効率は頭を使って考えたらいいし、わからないことは調べて知識をつければいい。これをしないくせに、相手任せにするのはなんですか。夫に感謝はしていますが、私も限界です。今の自分の立場や状況に精一杯で副業もしたくないし休みたい。体もおかしくなってきて体重も減りました。でも稼がないといけないし事業を守らないといけない。でも私だって限界、辛いです。なのに私の周りの人は自分の辛さや無能さをアピールしてきて私をできると評価する。私は快く引き受けてなんとかカバーしようと早出をし、休日出勤をしてこなしていますが限界です。でも、私が限界と言ってしまうと会社が潰れます。家のお金もなくなります。社員や夫みたいに弱音を吐いたり途中で止めることはできません。私が弱音を吐けばみんなが自信を無くす。私には頼る人もないしホッと荷物を下ろせる場所もない。周りのサポートや夫の愛情はありがたいけど私には頼る人がいないんです。
今の職場で32年勤務しています。 同じ部署でも何部門かに分かれて、それぞれに役付きがいます。 10年前に同じ部門の女性が課長になりましたが、全く部署をまとめる事も出来ず何もできない人だったので、周りの主に男性ですが職員からブーイングが出て、泣く泣く退職しました。 その女性の夫が職場の事務長だっため、退職した後からが、私の部署にとって大変なめにあうことになりました。 奥さんの怨みをはらすために、私の部署に無理難題を突きつけてきて…私達の部署は人間関係もメチャクチャになりました。 みんなチカラを合わせて行ければよかったのに、誰かを落としいれようと思う人も居たりで、最終的に女性の課長と近くで仕事をしてた私達2人がのけ者みたいに扱われ、この2年間に今まで年功序列だった人事が何故か私よりもかなり年下の人が役付きに‼️ どうして、私の部門には役付きがいないのか! 私なりに、仕事だけじゃなく家事育児頑張ってきたのに、ヒラのまま退職するのは、凄く残念です。 自分が頑張ってきたことが認めてもらえた‼️と感じたいのは、自分のエゴですか? 事務長、同じ部署からの疎外感!頑張ってもどうせ認めてもらえない空しさで、やる気もなくなりつつあります。 私の上司なんか、ボーっとしてるのに何で長でいられるのか? 世の中の矛盾を感じます。 この問題を抱えたまま退職するのは、嫌です。が、事務長、部署の上司の感じからして役付きになるのは考えてはいけないことなのかな?と諦めの気持ちもあります。 私はどのような思いで仕事につけばいいのでしょうか? よろしくお願いします。
過去に同じような質問がありましたら申し訳ありません。 (その場合は、過去の質問タイトルを教えていただけるとありがたいです) 私(一般人)ですが、仏教が好きで、お経を唱える事に関心があります。 誰が(1)、何に(2) お経を唱える(あげる)のかによって、なぜ、どうなるのか知りたいです。 (1)お坊さん か 一般の人 かで次の2ア~カの対象にお経をあげて違いはありますか? (2)ア.お寺で貰ったお札、イ.家で特に祀っている仏画や仏像、ウ.仏壇の仏画や仏像、エ.仏壇の位牌、オ.お墓、カ.お寺の本堂の仏画や仏像 「日蓮宗の南無妙法蓮華経は、誰があげても同じだよ」と聞いたことがありますが、それならお坊さんの意味が無いような? そうかと思えば、真言宗のお寺で聞いたのは「お坊さんは仏様との橋渡しだよ」とも。では、一般の人が唱えても意味がないのでは? 「仏画や仏像にお唱えすると、誰がお唱えしても仏様は喜ぶので、それが功徳になる」とも、聞いたことがあります。 誰が 何に お経を唱えると、なぜ、どのような効果があり、どうなるのかを知りたいです。 出来れば、密教(真言宗か天台宗)の方のお話と、日蓮宗の方のお話が聞けると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
小さい市(町)だと、すぐに噂が広がります。良い噂も悪い噂も…。 今は、とにかくコロナウイルスが心配で仕方ありません。感染してしまったら、周りから言われ、職場からも言われ。 家庭に入ってしまったら、もう諦めるしかないと思っています。 自分のワクチン接種の番より、先に罹患してしまうのでは?とそればかり考えています。
数年間同業種でコツコツと働き続け、経験を積んできました。そして現在、良い会社に恵まれ、人間関係も業務内容も給料も何不自由なく働かせてもらっています。 優しい友人がいてくれて、家族との仲も良好で、出会う人がみんないい人で、いい人生です。本当にありがたいです。 ただ時々、今の仕事をなにもかも辞めて、もう誰も自分のことなんか知らないところに急に消えたくなる衝動に駆られます。名前も顔も変えて、日本の端っこで風俗嬢などの女性的な面で金銭を稼ぐような職業になってその日暮らしの退廃的な日々を過ごしたいという妄想をしてしまいます。 落ち着くと「いやいや、今とっても恵まれてるんだから、毎日をありがたく享受しようよ!」と思い直すんですが、どうも良いことがあったり仕事で成果を出すたびにそういった気持ちが強く浮かび上がってきます。 今も書いていて不思議なんですが、この衝動はいったいなぜ起こるのでしょうか??そして、どうしたら心から今の人生を本当に肯定できるのでしょうか。 実力主義の仕事をしており、男性や女性があまり関係のない環境で結果を出し、順調にステップアップをしてきました。男女平等の実現が叫ばれ続けるこの日本で、ものすごく恵まれていることです。 それ故、もしかして女性として見られることへの憧れを感じているんでしょうか。単純に知らない世界への興味なのでしょうか。こういった心の動きになにか名前はあるのでしょうか。 支離滅裂になってしまって申し訳ないのですが、なぜこんな気持ちになってしまうのか、ご回答いただけたらと思います。
くだらないのですが、 相談乗ってください。 よろしくお願いします。 世の中 機械とか、ロボットとか 何もかも便利ですよね。 すごくグットな面もありますが、 それ以上に 自分は生き残れるのか不安になります。 わたしはやっとの思いで車の免許を取りました。 でも、 いまは 自動でパパッと運転してくれる車があるらしいですね。 自分ができることはある程度 コンピュータや機械やロボットでできてしまいます。 自分は何か特別じゃないと 生き残れない気がして すごく不安です。 自分の代わりは 当たり前ですがたくさんいます。 自分は何ができるのか、 毎日焦って空回りです。 これ以上 身勝手ですが、 置いてかないでほしいとすごく不安になります。 どうしたらいいでしょうか、 どうにもできませんよね 怒りや悲しみ、苦しみ憎しみがあります。
以前までよく人からなめられる事に悩んでいました。 たまたまかもしれませんが、自分が年齢よりも幼い、大人しく見える格好をしているのが原因な気がして、ずっとコンプレックスでした。 そこで大人っぽくサッパリした感じにイメチェンしてみました。 イメチェンしてからなんだか生きやすくなった気がします。 あまり質問らしくないかもしれませんが、 人は格好でなめたりするものなんでしょうか? 自分が生きやすい格好をするのが一番ですよね? 今まで本当に辛かったんです。 何か嫌なことがあるとよく格好のせいだと思ってきました… これから嫌なこと減りますかね?
自業自得とはいえ、仕事に就けない。 もうつらいよ、死にたいよ。この世に僕がなんとか働ける居場所は無いよ。みんなの記憶から消えた上で、肉体も光に包まれながら無痛で消えるのが今の目標だ。これから大変なことだらけなんだろ?死ぬほどつらい思いしてまで生きる理由なんてないよ。そうでしょ?
最近自殺願望が出てきてしまいました。 いい歳をして仕事をやめて2、3カ月引きこもっています。 何をしても上手く行かないし、勇気を持って新しい仕事にチャレンジするのも恐くて何もできずにいます。 両親と暮らしているのですが、最近少し疎まれている気がして何処にも居場所がない気がしてきて、とても苦しいです。 自殺するのは恐いのですが、それしかないのかなぁと思ってしまっています。 とても苦しいです、助けてください
脳の障害の為に人間関係が築けなくて、常に孤独だし、それを覆えるだけの才能も無いし、生きてるのが申し訳ないです。 生きるからには、他の生命体を殺して食事をするし、水も電気も使うし、でも地球規模で見れば、エネルギーは限られてます。 私のように生産性のない人間を養える程、地球は豊かではないと思います。被害妄想とかでは無く、合理的に考えて、自分が生きていることに違和感を覚えます。 頭痛薬も胃薬も抗鬱薬も私には必須なものが、たくさんの動物実験の上に成り立ってます。 他の生命体の犠牲があって、自分は生きています。 私も自分の生命を犠牲にして他の動物の役に立つのが自然だと思いますが、日本国内で、何かいい案はありませんか? チベットの鳥葬の文化が素晴らしいと思います。ハゲワシに遺体を食べてもらう事で、他の小動物の命を助けてるからです。(読んで気分を害された方、ごめんなさい、でもまだ続きます) 命を消費してばかりの私が、他の命の役に立ちたいのに、チベットは遠過ぎるし、飛行機は乗れないし。 どこかの熊エリアで首を吊って食べてもらうぐらいしかないでしょうか。 でも、人間の味を知った熊を自治体は駆除すると思います。 ギロチンを復活して殺してもらい、鷲や鷹に食べてもらいたいです。人命尊重と同時に動物の命も尊重しないと、バランスが悪い気がします。人間も犠牲にならなくてはいけない気がします。 戦争の兵隊になるのでは無くて、動物の命の役に立つ為に。 生きながら食べられて死ぬ勇気がないので、悩んでます。 鳥葬の文化が素晴らしいなんて、ハスノハでは言ってはいけないでしょうか。
私は、今年厄年にあたります。年初め 厄払いはしたものの 今年の6月頃から 辛い事ばかりです。 当たり屋もどきのような人に車をぶつけられいまだに、解決しません。 主人からは散々責められ追い込まれ精神的に 壊れてしまいそうに。 主人は、ヘルニアに尿管結石 尿管結石では、義父に栄養管理と健康管理が悪いからだ!と嫌味を言わ れ、自分なりにしっかり考えてやってきた事を 全否定されたようで、ショックでした。 さらに、下の子供が腕をケガし全治一ヶ月 治った所を 遊んでいて、また同じ箇所をケガ 新車納車 次の日に、青信号を通過した所を 信号無視して突っ込んできた車に 当たりそうに 危機一髪で事故は避けられましたが、 相手は、進行方向とは逆に走ってきた車でした。 厄年は、ここまで運気が無いものなのでしょうか? それとも、何らかの試練なのでしょうか?
私もそうなのですが hasunohaでは「亡くなった人に会いたい」と言う相談も多数あるようです。 たとえば 忠臣蔵 (ここでは史実はどうかより 歌舞伎に基づいた話をします) 浅野内匠頭が吉良上野介に苛められてた結果、松の廊下で斬りかかって 内匠頭は切腹、浅野家取り潰し、上野介はお咎めなし そして城代家老、大石内蔵助を始めとする遺臣(赤穂義士)たちが吉良上野介を討ち果たし 泉岳寺の墓前に吉良の首を添えて感泣する。江戸の町民は拍手喝采。そして最後は義士達も切腹。 切腹の時に 大石内蔵助は言います「一足先に殿のもとに参る。あちらで皆を待っておるぞ」 これは、霊魂が存在し、内匠頭の霊魂の思いがどこにあるか明確になってこそ成立する話で この前提なければ虚しい話になります。 「ばかみたい。喜んでくれる人もいないのに妄想に凝り固まったあげくに多くのもの(命も家族も)を喪っただけじゃねーか」 ともなりかねません。 松の廊下の事件直後も紆余曲折があり 赤穂城では すぐ上野介を討てと言う者、弟を擁立した浅野家再興の活動を主張する者、幕府に抗議して城で皆で切腹を主張する者、籠城抗戦を主張する者、おとなしく開城して新たな生活を考える者 いろいろ割れました 割れた原因は内匠頭の霊魂と対話できる人が誰もいなかったから。 もし本物の霊能者が存在して 内匠頭の霊と対話できていれば赤穂藩家臣で新たな対立や憎しみを生むことはなかったはず。 たとえば 今でこそフグ料理はある程度確立されており調理には特別な免許が必要で飲食店で死亡事故は聞きませんが 昔の試行錯誤をしていた時代に「おいしいフグ料理を作るぞ」と意欲を燃やして毒にあたって死んだ料理人がいて遺言も何も残さなかったとします。 もしあの世や霊魂があるならばその人は子や弟子に遺志を継いでほしいと思っているのか、危ないからやめろと思っているのか? 親 又は師匠の意向に沿いたいと思っているならば、霊魂やあの世の存在を知りたいと思うことは当然だと思います。 人によって動機はいろいろだと思います 能力もないのに金をだまし取るニセ霊能者・詐欺師だらけなのも分かっているつもりです。 そのため なかなか行動に移せないのですが 自分の生き方を探すために 慎重に、本物の霊能者を探してみたいというのはおかしな発想でしょうか?
高専の吹奏楽部でサックスを担当しているのですが、あるときから楽器を持つと息が苦しくなり、目の前が真っ暗になるような感覚に襲われ、演奏ができなくなってしまいました。 それでも、部活そのものがとても好きでやめたくはないと部長に希望し、今は演奏ではなくマネージャーとして活動に関わらせてもらっています。ただ、演奏できないのに部活にい続けることに対して、本当に価値があるんだろうか、いつまでこのままなんだろう、もしかしてずっとなのかな、などと悩んでいます。 また、マネージャーという立場を選んだのは、吹けなくなったことから目を背けたかった気持ちもあり、まだ自分ときちんと向き合えていないままです。 普段話を聞いてもらっているカウンセラーさんがいるのですが、このことをどうしても話したくなくて、最近はカウンセリングへ行けていません。 自分と向き合っていかないといけないことはわかっています。ただ、どう向き合っていけばいいのか分かりません。こんな聞き方で申し訳ありませんが、私はどうしていくのがいいのでしょうか。
避妊に失敗し妊娠してしまいました。 相手は独立を夢みてフリーター生活をしている方です。 私も彼の夢を応援していました。 二人で中絶を決めましたが、ごめんと数回言った後は、その話をしている時もずっと彼はいつも通り淡々としていて、私には他人事に思われているように感じられてとても悲しいです。もっとちゃんとお腹の子と向き合ってこれから先も二人でこの子の事を想って生きていきたいです。 手術の日が決まっても特に心配したり体調を気遣ってくれることもありません。 自分の体には何の変化もない男の人にとっては悪気がなくてもピンと来ないものなのでしょうか? 手術の後、私はこれからどのように彼と付き合って行くべきかまた別れるべきなのか...悩んでおります。 情けない私にどうかアドバイスをお願いいたします。
我が家の菩提寺のお坊さんのことについて相談したと思います。 尼さんで、嫁ぎ先の普通の家庭(サラリーマン家庭)に住んでいらっしゃいます。 お勤めの時にお寺へいらっしゃるようです。(お寺は先代がお一人で住まわれていらっしゃいます) 年齢(70歳前後)を理由に2~3年前よりお彼岸廻りもお盆廻りもされなくなりました。 私は昨年、息子と義父を見送りました。 枕勤めもお通夜も、遺族でと言われ、葬儀のみ来ていただきました。 葬儀の後、初七日含め49日までのお勤めをまとめてして頂きました。 息子は49日と初盆をまとめてしました。 まとめて、と言うのはお坊さんから言われてのことです。 義父は今年が初盆になりますので、日取りのお電話をしたところ「初盆されますか?」と言われ「出来ればしてあげたい」と伝えたところ「どうしても、と言われればやらない事も無い」と言うような反応でしたので無理なお願いするのも、と引き下がってしまいました。 最近は簡単にまとめて、とか、省略される方もいらっしゃると言うことは聞いたことがあります。しかしながら、お仏壇のある家庭に生まれ育ち、嫁いだ今の家庭もお仏壇があり、ずっとお世話させていただいてきました。熱心な信者とは言えませんがそれなりに信仰心はあるつもりでいます。 また、遺族が簡単に済ませたいと思うことの否定の気持ちはありませんが、遺族がきちんとしたいと思っているのにお寺さんの方から簡単に済ませる事への不満が少なからず沸いてしまいます。 息子のことは、出来ればひっそりと、と言う思いもあり私達が供養してあげればいいとも思っています。ただ、義父は「お葬式は派手にしてくれ」と生前言っていたこともあり、お寺への寄付なども他の檀家さんよりも多くしてきたりと言う人でしたのできちんとすることを望んでいるように思っています。 これからもお付き合いしていかなくてはなりませんし、不信感など持ちたくはありません。浄土真宗はお盆のお迎え(?)などはいらないとも聞いたことはありますが、その辺りのことも含めてご教授いただければ幸いです。
私は33歳既婚女性です。 私は昔から独占欲が強い人に寄られることが多いです。 例えば小学校、中学校では私を取り合って女友達が喧嘩したり、あの子と仲良くしないで私とだけ仲良くしてや、私が席を外すとパニックになって追いかけて来たり。私の行動全てを把握しようとしたり。別の友達に私は私だけのものよと言ったり。じゃあ、そんなに私を好きなら大事にしてくれるかというとそんなことはなく、勉強運動出来ないことを馬鹿にされたり、命令されたり、言うことを聞けと言われたり。いじめられます。母が言うにはそういう人は病気なんだよと言うのですが、そうなんでしょうか。男性でも言うことを聞かせたい系に寄られることが多かったです。なんなんでしょうか。
夫に離婚を切り出され、辛く虚しい毎日を過ごしています。 以前、アドバイスをいただき、子どものためといいながら、自分が離婚をしてやっていく自信がなく、別れたくないと一人頑張っているのだと思いました。 そんな状態で、前に進もうとしている中、タイトルのように「別れるにしても、ケンカ別れはしたくない。以前のように仲良くなってから別れたい。」と言われました。 私は、離婚したくないと伝えてきているのにと思うと、意味がわからず、余計に悲しくなりました。 円満離婚と世の中では言っている人もいますが、私にはわかりません。 夫は何を考えているのでしょうか? 私が幼稚でわがままなのでしょうか? もう自分の中がぐちゃぐちゃです。 客観的に見たアドバイスがほしいです。
外出すると見知らぬ人から嫌なことを言われたりされたりします。通りすがりに見知らぬ外国人の男に「ブス!」と言われたり見知らぬお婆さんに「汚い顔して」と言われたり見知らぬおじさんに「このメガネ!」と言われたり私より年上の見知らぬ人に「おばさんのくせに」と言われたり、見知らぬ人に自転車に乗ってる時に蹴られて怪我をさせられたり、飛行機に乗ってる時に隣のおばさんに蹴られたり、電車に乗ればスーツケースを倒され怪我をしたり、工事現場で電線を落とされたり、背の高い若い男に左胸を凄い勢いで突かれたりゴミ収集車に汚水をかけられ凄く臭くて油も入っていて気持ちが悪くなりワンピースも捨てることになったり。私は他の人に上記のことをしたことがないのに、私は見知らぬ人にされます。何故何でしょうか?誰かに聞いてもそんな変な経験したことない、作り話でしょ?と言われた取り合ってもらえません。もういっそトラックに轢かれて骨折でもして入院ぐらいした方がマシです。それぐらいの警察を呼ぶくらいの規模でないと誰にもそんなことぐらいで、とわかって貰えないのです。私は気をつけて人に怪我をさせないようにしています。人の嫌がることは言わないようにしています。それなのに私ばかりやられるのですか?怪我をさせられても相手は謝りません。平然としています。昔からこんなことばかりで、人にもわかって貰えなくて、もう疲れた、死にたい、死ねばこんな目には遭わないのに、と思います。今まで付き合った男性にも相談しても誰も慰めもしてくれず、私には見方がいないと感じ、一生を共にする気にもなれません。私のような目に遭っても庇ってくれる男性にも出会えず、独りです。優しそうな旦那さんがいる人が羨ましいです。親が死んだら、死にたい、という思いが消えません。
消えてしまいたい、消えてしまったほうがいいんじゃないかと思ってしまいます。 私が生きててもなんにもならないような気がしてなりません。 どこにいても、この思いが渦巻いて苦しくなります。自傷も再発してしまい、気づくと手や手首を切っています。でも、これは自分への罰としてなんだとわかっています。こんなことを思ってしまう自分への罰なんです。 本当に消えてしまいたいと思っても、死ぬ勇気なんてありません。 充実した生活を送ったり、楽しんでいる友人たちを見てると、自分がみじめに思います。どんどん置いていかれるような、一人になっていくような思いもします。そう思うとやはり消えてしまいたいと思ってしまいます。苦しいです。