度々いろんなお坊様のいろんなご意見を読んでは参考にさせていただいています。 一つ最初に私はあまり信心深くなく、こんな時だけお坊様や仏様の慈悲にすがる浅ましさをお許しください。 かれこれ15年、「死ぬのが怖い」発作に苦しんでいます。 きっかけは祖母の死でした。 当時中学生になりたての絶賛反抗期で、親ともうまくいかず、勉強もうまくできず、何をやってもむなしい、いいことも何もないし死にたいと思っている最中の出来事でした。 自分がいかに死を簡単に考えていたかを身に沁みて理解しました。 悲しみよりもずっと大きく、死んだらどうなるのかという恐怖と、自分が自分でなくなり消えていく恐怖が襲いました。 悲しみよりも我が身の可愛さが先に来た自分が情けなく思いましたが、その恐怖は今もなお私を苦しめます。 必死にその恐怖を押し込めて、忘れ去ろうとすることしかできません。 親には相談できませんでした。 当時の憔悴しきった様子から、自分が何か心配をかけるような真似はできないと思いました。反抗する回数も少し減ったと思います。 その時に適切に恐怖心を処理しなかった代償か、今もふとした瞬間に目の前が真っ暗になり、足元からさーっと冷気が這い上がるような恐怖で吐き気がすることがあります。 お風呂に入っているときが一番その発作が起こりやすく、全くお風呂が安らげる場ではなくなってしまいました。 かといって人間皆いずれは死ぬのに、怖がっていることが恥ずかしく、心療内科の先生(以前適応障害を患い通っていました)にもカウンセリングの先生にもうまく伝えることができませんでした。 とにかく自分が自分でなくなり、何もわからない世界に行ってしまうことが怖くてたまりません。 そして私がいなくなった後も永遠に時間が続き、地球が滅び、宇宙が滅んでいくと考えると、手足の先が氷のように冷たくなって正気を保てなくなります。 お坊様達のご意見が聞きたいです。 お坊様達の世界の捉え方、仏様の世界を知れば、この恐怖から解放され、無事に死んでいけるのでしょうか。 親(二人とも60前後でまだ元気ですが、)が死ぬことも最近は毎日のように頭をよぎり、人間が物言わぬモノになっていくことが悲しく苦しくてたまりません。 身勝手な相談で申し訳ありませんが、どうか少しでも死ぬまでに心やすらかに人生を送れるようなヒントを頂けますと幸いです。
近年世間では、優しさの押し売りという言葉が流行しています。感謝する文化から優しさを否定する文化へと日本人の思想が変化したのは何故だと思いますか? 確かに迷惑なものもありますが、人命や趣味に対しても最近では使われ始めてきました。 御朱印やお守りなどでお寺参りする人が増えた一方で、仏教そのものの考え方は廃れている気がします。今、お寺に求められていることは何だと思いますか? 自分が正しいと思ったことを行動して、何が悪いのでしょうか?他人が自分のお節介をどう捉えようと、自己欲求を満たす為だから気にしないようにはしていますが、やはり生きづらいです。
はじめまして。 私は仏の道に近いところにおります。 そんな環境にありながら、 人道にも仏道にも外れる大罪を犯しました。 10年以上前になります。 内容は、煩悩の欄に記載しました。 大切な人を裏切ってしまいました。 その事を知るのは、 私と、当時その話をした友人二人だけです。 大切な人には話しておりません。 その当時は、とある事から 裏切られた、という思いからの 仕返しの気持ちでやってしまいました。 ただ、裏切られたという思いがあったため 罪とわかりつつも、そこまでの罪の意識はありませんでした。 それがつい、昨年の秋~冬になる頃 とんでもない罪悪感に襲われるようになりました。 罪の大きさ、重さにようやく気付いたのです。 それは、余りにも遅すぎました。 心の底から、本当に申し訳ない思いでいっぱいです。 なぜあんな事をしてしまったのか…。 とても重い罪悪感から、罪を告白しようと 思ったこともあります。 でも、できませんでした。 罪を告白する事によって、相手が深い傷を負うでしょうし、 私は全てを失うでしょう。 大罪を犯した私は、やはり救われる事はないのでしょうか。 また、そんな私が、子どもを叱るときに 嘘をついてはいけない 人を傷つけてはいけない 人を裏切ってはいけない 失敗しても、その失敗を認めて またやり直せばいい 悪いことをした時は、それを反省して 二度とやらなければいい などと言うのは間違っているのでしょうか。 そんな事を子どもに言う資格などないとも思います。 大切な人に、過去に悪い行いがあった時、 反省してもう繰り返さなければそれでいいのだろうか? と問いかけると、それでいいと言ってくれました。 もちろん二度と同じ過ちは絶対に犯しません。 長文になってしまいましたが どうかご指導いただきたいと思います。
過去を振り返ると過ちや失敗ばかり思い返されます。 あの時ああすれば良かった、あの時こう言えば良かった、あの時の判断は間違えていた‥等、最近とても苦しみます。 いかに自分が未熟で無知でバカな判断しかできなかった事を悔いてしまいます。 昔の自分は流動的で人やその場の状況に感情的に流されてしまう所が多く、振り返ると勢いで様々な失敗を自ら選択してしまったと自覚してます。 過去のことはお釈迦様も悔やんだりし過ぎてはダメだと説法されたと本などで拝見し、私も頭ではそのように理解してるつもりですが、気づくと自分を責めすぎてしまいます。 そんな時は頭の中で自問自答を繰り返してばかりで、気づくと後悔の念にとらわれて、食欲も減ったりしてしまいます。 大きな過ちから小さな失敗まで数えたらキリがありません。 友人等と比べても私の過去の過ちは愚かな事が多いです。 私は家庭環境が複雑だったのでどこかでいつも孤独感を抱えていた事や人に裏切られた事などで、自暴自棄になりやすかったと思います。 しかし今になればどのような環境であれ、自分を守ったり大切にできなかった事や間違った選択ばかりだった事が悔やまれます。 何度、反省し懺悔してもまだ過去の過ちや失敗にとらわれてしまいます。 どのようにしたらこの苦しみから楽になれるでしょうか? 僧侶の方のアドレスを頂きたいです。
息子は小学四年生です。 夫と前妻との子で、私は結婚、同居して半年ほどです。 息子の生活態度が気になって、その度に注意しますが、本人は直す気もないようです。 たとえば、食事のときに左手を出さないで食べていたり、食事中に寝転がったりします。 今までも当たり前だったのでしょう。 誰も注意しません。 食事の内容も、好きなものしか食べなかったり、1度お箸をつけたものを簡単に残します。残すこと、ご飯を捨てることに罪悪感がないんだと思います。 こういうことは、今のうちから家族が教えないと、まず本人のためにならないと思い、何度も何度もその度に注意していますが、たまに虚しくなります。 夫は私が厳しすぎると言います。 今まで母親がいなかったんだから、そのうえそんなに厳しくしたら可哀想だろと言われました。 私は、それとこれとは別の問題で、愛情をかけるのと甘やかしは違うと思っています。 自分が悪者になったとしても、人として当たり前のことは教えてあげないといけないと思います。 夫は、いまだに息子に、あーんして食べさせていることがあります。外食の時もです。 見てられず、自分のチカラで食べなさいと言っても、夫がさえぎり、この子はいいんだと言います。 私は今妊娠中で、自分の子供がそういう風になるのは、はっきり言ってイヤです。 自分のことは自分で出来る子になって欲しいし、最低限のマナーは教えてあげたいです。 この家族のなかにいると、私が厳しすぎてひとりでこだわってるように感じます。 でも投げ出したくありません。 どうしたら、どのような考え方で、この先がんばればいいのでしょうか。
ここ4,5年で問題になった子宮頸がんワクチン副反応は、完治すると思いますか? 国が費用を負担して「入学お祝いワクチン」というキャッチフレーズで同年代の女の子はほとんどが打ったワクチンがあります。 ワクチンはもちろん薬ですので副作用があります。 そのワクチンのせいで、私は高校1年生から今日まで車椅子の生活を強いられています。 人によって症状は様々ですが、私は右半身の脱力痛みしびれが主で、右足の付け根から下が自力で動かせない状態です。 どうにか高校は新学期に変わる1日前に卒業することができましたが、今は進学もできず、就職もできず、無気力な日々を送っています。 元々は薬剤師になりたいという夢がありました。 でも薬のせいで車椅子になり、自分が処方した薬で誰かが同じことになったらと思うと怖くなり、夢ではなくなりました。 国はワクチンとの関連を認めておらず、お医者様には関係はあると思われるが科学的根拠がまだ見つかっていないといわれました。 誰を恨めばいいのか、今後どう生活したらいいのか、今後完治するのか。 悩みが尽きません。 お忙しい中で恐縮ですが、助言をお願い致します。
付き合って4年目を迎える彼氏がいます。 なぜ彼は浮気をするのか、そして別れたいのか付き合い続けたいのか自分の気持ちも分からなくなり、ここに質問しました。 浮気は、3回とも彼の携帯の通知で分かりました。 見つかったのが3回だけで、何度も繰り返していたと思います。 他人の携帯を見ることは、プライバシーに踏み込むことであり、私がしたことも重い罪で人としてしてはいけないことだと、重々承知しております。 深く反省しており、不安になったり見たくなる時はありますが、3回目が発覚した時から1度見ていません。 浮気がバレるなら私のことが好きではない、別れるべきだ と伝えましたが、別れたくないの一点張りでした。 また、私には「浮気をしないで。」というようなことをたまに言います。 結局別れずに付き合い続けているので、好きだから別れたくない というのが私の今の気持ちだと思います。 しかし、彼の気持ちが全く分かりません。 やはり浮気をするということは、恋人を本気に思っていないからなのでしょうか? 誰もが浮ついた心を持っていると思います。 私もこの4年間の中で、全く他の男性に興味を持ったわけではありません。 当たり前ですが、自分がされたら嫌なことは絶対にしないことを座右の銘と言えるくらい決めており、1度も浮気をしたことはありません。 彼と同じレベルになりたくない気持ちもあります。 好きで居続けてもらえるよう、付き合ってから今まで、ずっと自分磨きを怠らなかったつもりです。 当たり前の存在になると忘れてしまう、「ありがとう」や「ごめんなさい」も人としてしっかり伝えてきました。 しかし、浮気をされたことが結果だと考えております。これ以上頑張る意味が分からず、疲れました。 行為に及んでしまうのは、これから先も治らず続ける人 ということでしょうか? 話が一転二転し、拙い文章で申し訳ありません。 誰かに気持ちを聞いてもらい、意見が欲しいです。 よろしくお願いいたします。
友達は常に霊がみえるそうです。彼に霊がいるのなら電気をつけさせて と言ったら電気が一瞬つきました。また僕の寿命が82歳、ということも言われました。また、彼自身は26歳で亡くなるそうです。もしも彼が26歳で亡くなったらどうしようという気持ちや自分の寿命を知ってしまっ たという恐怖が離れません。寿命は決まっているものなんですか?
仏教の教えを学ぶようになり、今を生きる、という大切さを頭では理解できるようになったと思います。 しかし日常生活のふとした瞬間に、忘れようとしている思い出が、フラッシュバックでよみがえり、ふと過去に引きずり込まれてしまいます。 特に読書や映画を見ているときに、全然関係の無いシーンなどでもそれが起こることがあります。 そして過去を後悔しながらそこで思考回路が止まってしまうのです。 毎日何度もこの現象が起きてしまい、大切な時間を無駄にしているような気がします。 頭ではそれらは妄想だとわかっているのです。どうしたらフラッシュバックが起こらないようにできるのでしょうか?
わたしは今年の3月死産を経験しました。7ヶ月に入ったばかりで男の子でした。とても二人目が欲しくて欲しくてやっとできた子でした。 しかしあるとき息子は生きるのをやめました。毎日が真っ暗で生きるのがやっとです。自死も考えました。 時がたち、仕事を始めました。主人と娘に支えられなんとか過ごしてます。 一番苦しいのはほかの妊婦をみるのが辛く憎しみまで湧いてきます。みんな死産すればいい、不幸になれ!って思うのです。なんで他の人はちゃんと産めてわたしは死産したの?なぜ息子はしんでしまったの?と毎日思い、答えが見つかりません。 いつまで暗闇の地面を這いつくばり、他人を憎み、他人の不幸をほくそ笑む私でいるのでしょうか。 家族以外の人を信用できないし、関わりたくないです。 けど、わたしはこんな自分が本当に嫌いです。本当のわたしとは違う。 毎日毎日涙を流し息子のことを考えます。 わたしはこれからどう生きていけばいいのでしょうか。 わかり辛い文ですみません。ご回答をお願いします。
毎日毎日生きて行くのって本当に大変なことだと思っています。社会人になってから毎日思い知らされています。 現状を維持するのがこんなに大変なことだと。ちょっとでも油断したり立ち止まったり後ろ向きになると、崖から転落する気持ちです。世間とは恐ろしいものです。ちょっとでも気を抜くと世間は許してはくれない。 何も考えず、無心で、生きていることを忘れてでもしない限り人間の営みはとても難しいです。 毎日同じ時間に起き、会社に行き、他人とのトラブルを避けるために綱渡りをし、常に結果を出してそれでやっと生きるためのお金をもらって、日々生きることができる。 生きるためにこうして日々気張って苦労をし、苦労をした結果やっと人並みに生きることができる。これを死ぬまで繰り返す。苦しくても苦しいなどと言えない。 本当に、毎日生きて行くって大変なことだと思い知らされています。生きるってこんな感じなのでしょうか? みんなこうしてこんなに大変な思いをして、それこそ死ぬる思いで生きているのでしょうか。
浄土真宗以外のお寺様以外は結婚できないと聞きました。 しかし、結婚されてるご住職がたくさんおられます。 教えが変わるということは考えにくいのですが 結婚されているお寺様の考えや意見などを 具体的に教えていただけないでしょうか?
死んだらどうなるのでしょうか。 地獄や天国に行くのでしょうか。 それとも、輪廻転生して、人間や、動物に生まれ変わるのでしょうか。 仏教的にはどうなんでしょうか。
数年前に犯した罪について、どのような気持ちをもって向き合っていけばよいか悩み続けています。 私の犯した罪はともすれば刑事事件となってもおかしくなかったような事で、私はたまたま法的な裁きを受けることなく済みました。しかし、自分の罪責から逃れるために、卑怯な立ち回りをしたことも事実です。 私のしたことで、人に怪我を負わせたり、金品を奪ったというようなことはありません。しかし、相手方に大きな精神的苦痛を与えたことは間違いありません。 この数年間、私は、自分のせいで人を大いに傷つけたこと、その責から逃れるために卑怯な立ち回りをしたこと、自分がなんの代償も払っていないこと、苦痛を与えた相手に対してもはや具体的な償いができないこと、自分がまだ相手から恨まれ続けているのではないかということ、に悩み、苦しみ続けています。 先日読んだある本の中に、「許すか許さないかは、自分ではなく相手の責任である」と書かれているのを見つけました。当初は救われたような気持ちがしましたが、しかし、自分は自分のしたことについて責任を負っていない、だから罪は厳として自分の側にあり、そもそも許すか許さないかを相手に委ねる段階にさえ達していない、という思いが募るようになりました。 あれから、自分は脛に傷持つ人間なのだから、そのことを自覚して、謙虚に、親切に生きなければならない、と決心して生きてきましたが、罪の意識は消えません。また矛盾しているようですが、すっかり罪悪感が消え去ってしまうのも、自分が性根の悪い自己中心的な人間であることを突きつけられるようで、恐ろしく、逃げ場のない気持ちになります。そうなれば反省したことも忘れて、また同じようなことをするのではないかという怖れもあります。 そもそも、このような場で質問させていただくのですから、当時の私がしたことの具体的な経緯や状況を明らかにすべきなのですが、私にはどうしても書くことができませんでした。そのこともまた、自分の卑怯さを思い知らされるようで、耐え難い気持ちになります。 大変曖昧な文章になってしまいまして失礼なのですが、これから私は自分の罪についてどう向き合っていけばよいのか、どのような心持ちで生きていけばよいのか、ご助言をいただければと思います。
仏教は、決定論を支持しているのですか? それと、お坊さん達は他宗教徒の方々についてどう思っているのですか?
質問したばかりなのに、またすぐに質問してしまい申し訳ありません。 現在、就職活動中であり、先日第一志望の病院を受験し、また不採用となってしまいました。 友人も受けており、友人は内定を頂いていました。この友人は大学に入り、最も仲良くなった友人で、就活や将来の事などお互いによく相談し合っていました。一緒に遊びにもよく行きます。 私は7月から就活を始めましたが、友人は今回の病院からやっと就活を始めたという状態でした。自分は7月からずっと色々な所へ病院見学に行ったり、試験対策をしたり必死にやってきたのに、就活始めてすぐに内定を貰った友人を見て、悔しさや嫉妬の気持ちが生まれました。 友人は、就活の対策をほとんどしておらず、勉強なども頑張るタイプではありませんでした。しかし、要領が非常によく何事も上手くこなしていく人でした。要領が良い友人を羨ましいと思っていました。 長い時間をかけたから良いというものではないとわかってはいますが、今まで頑張ってきた自分は何なのだろうと思ってしまいました。努力が報われない悔しさに涙が止まりません。辛いです。 自分のが努力してきたはずだから、友人よりはできるであろうという思いもあったのだと思います。この気持ちが余計悔しさを増幅させました。友人の事を見下してるような自分もどうなんだとも思いました。 努力したことが必ずしも報われないというのは今まで生きてきて、痛いほど感じています。 でも、この報われない悔しさは何度経験しても慣れません。引きずってしまうこともあります。今は、それでも頑張り続けなきゃいけないのが辛いです。要領よくなれたら、どんなに楽だろうかとも思ってしまいます。 私は将来への不安から焦り過ぎて、頑張りが空回ってしまっているんだと思います。今まで頑張って来たことは無駄なのかと考えてしまいます。 頑張りはいつか報われますか。無駄にはなりませんか。 愚痴のような質問をしてしまい申し訳ありません。ご回答頂けると幸いです。よろしくお願いします。
想いが通じて、付き合うことになった人がいます。 まだ日にちは浅いのですが、こうなることをずっと夢見ていた私は、毎日幸せな気持ちでいっぱいです。 その反面、と言うべきか、だからこそ、と言うべきか、 いつか別れる日が来てしまうことが怖いです。 親が離婚していること、そして自分自身の経験から、『永遠の愛』なんてものを全く信じられないのです。 もちろん、今ある幸せは、全力を尽くして大切にします。 それでも、相手の気持ちが離れていくことが怖い。この気持ちを忘れることが怖い。 やっとつかんだこの幸せが、いつかこぼれてゆくことに怯えてしまうのです。 どうか、彼と少しでも長く一緒にいるにはどうするのが最善か、教えて下さい。
私は、約12年前からうつ病や不安障害などのために治療を受けております。 約1年8ヵ月前に父がガンのために他界いたしました。 私は元々寂しがりな性格であることもあり、また、私の発病後は友人との接点が全くなくなり、とても寂しい気持ちで毎日を過ごしておりましたので、父が他界してからは、物凄い悲しみや寂しさが続いております。 悲しみや寂しさの強さや、落涙する頻度は、時期によって多少の強弱があります。 主治医にこのようなことを相談したこと もあるのですが、「普通の人は、家族とか仕事などがあるから、そんなことばかり考えていられないんだ。」というようなことを言われてしまいました。 (私は無職で独身なので、このようなことを言われたのだと思います。) 前述のとおり、友人と呼べる人もいなく、誰とも話をしないことが日常ですので、悲しくて、寂しくて、困り果てております。 いい年をした中年男が涙を流す日が続いております。 こんな私に何かアドバイスをいただけませんでしょうか。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m
こんにちは。私の実家は江戸時代より続く寺です。小さい頃より家を継ぐのが楽しみで、僧侶になることに今は迷いはありません。現在は大学生活を楽しんでいますが、卒業後は家を継ぐ予定です。僧侶になったからには人の為に生き、悩み苦しむ人の為に身を削る覚悟でいます。その為には辛苦をいとわないつもりです。 ただ、その様な僧侶となるためには今何をすべきか、勉強をしておくべきか、最近の寺に求められていることは何なのかといったことが自分の中で不明確になりつつあります。 現役の僧侶の皆様、人の為に生きる僧侶となるために今何をし、勉強しておくべきか。そして、今の寺(僧侶)に求められていることは何かご教示頂けないでしょうか。よろしくお願い致します。