何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。
母の初盆を迎えます。 葬儀屋さんの紹介のお寺のお坊様に四十九日もお経をあげていただき、そしてお盆のお参りのお知らせというハガキが来ました。日と時間が指定されてきました。実は十数年前に父が他界した時と同じ ご住職で、葬式以来、7日ごとに来ていただいていましたが、ある日、二日酔いで来られ、お経をはしょって読んだり 明らかに二日酔い状態でした。 母がもうこんなんなら、お断りしようということで、それ以来、家族で般若心経をお盆や命日にあげるくらいでした。やはり素人が唱えるのと、お坊様にあげて頂くのは違うとは思いますが、そのお坊様に来て頂く方が良いのでしょうか? 実は私の仕事の関係の方と同級生らしく、仏教や仏様の話は一切なさらず、その方の話をされ帰られます。お墓は香川県にあり、こちらは兵庫県なので、香川県から来て頂くこともできず、父の場合は初盆もお坊様には来て頂きませんでした。それでもやはり初盆で、そのお坊様にお経をあげていただいたほうがよろしいですか?
お坊さんでもお経を間違うことはあるのですか? プロの歌手でも歌詞を間違えることがあると思いますが、お経を間違ったり、噛んだりして変なふうによんでしまったことはありますか? そういうときはどう取り繕いますか?
おはようございます。二度目の相談です。 お寺の雰囲気が好きです。 以前一人でお堂の中で、写仏体験をさせて頂きとても心が安らぎました。 そういう感じで、仏様の前でじっと向き合う時間が欲しいです。 写仏や写経などの体験の時ではないと、ゆったり上げて頂くことは出来ないのでしょうか? 何時間もいたいとかではなく、15分でも30分でも座らせて頂くことを許してくださるお寺さんはありますか? 休日も気軽に行けるお寺は、大抵観光に特化したお寺なので 仏様にお会いするというよりは、通りすがりに見学する感じでした。 スターを見るかのごとくワイワイガヤガヤしてるのも時には良いですが、 静かに仏様に語り掛けたいときもあります。 同じような目的で拝観される方とであれば、複数でも良いのですが お寺では、一般人に静かな時間を提供してくださるものでしょうか? そのような希望の電話をかけると、びっくりされるのでは…と思い問合せはしていません。
私が仏教に関心を持つようになったのは最近の事です。 あまりにも辛い出来事があり、うつ病になりかけた時に、偶然テレビで般若心経を解説するプログラムを見て、心がすっと軽くなった、というのがきっかけでした。 ところで、わが家は浄土真宗なのですが、浄土真宗では般若心経を唱えるべきではない、と聞き拍子抜けしてしまいました。般若心経の教えに救われた私としては、何だかスッキリしません…。 実際に浄土真宗のお坊さまたちは、般若心経についてどのようにお考えなのか、お聞きしたいです。
お盆やお葬式でお坊さんがお経をあげますが、そこで読まれるものは全部同じものだと思っていました。 この前ある仏教の本を読んでいて、宗派によって読むお経が違うことを知りました。 それぞれどういうお経がメジャーなのですか?お盆のときはこのお経とか使い分けとかあるのでしょうか?
ここで一度お世話になり、仏門に興味が湧き 元々、下手なりにも書道を趣味としていたのもあって 写経を始めてみようかと思っていました そうした話を友人、知人に話していたら タイトル名のようなことを言われました 知人によると、お経と言うものは修行を積み 徳を重ねた人が唱えることに意味があるのであって 素人がむやみやたらと、お坊さんの真似をするのはやめた方がいい まして写経なんて、なにかおかしなことがあってもおかしく無い程の やってはいけない行為だと言われました 書店では、初めての写経と書かれた本もたくさん見かけます 宗派によって考え方が違うのでしょうか 私の家は曹洞宗のようですが 自分自身、仏教徒ではあると思います。 と言うより、それしか知りません キリスト様より、お地蔵さんの方が気軽に挨拶できます 写経って、やはり辞めておいたほうが良いことでしょうか
お経は漢字ばかりで見ても聞いても難しくて何のことかわかりません。 たぶんすごくいいことが詰まっているのでずっと読まれていると思うので、何を言ってるのか現代の言葉でわかりやすく口語訳して欲しいです。長ければ一部でもいいです。
こんにちは。いつもhasunohaを読ませて頂いております。 質問です。先日知人の親族の葬儀がいくつな重なりお通夜に参列してふと思いました。 宗派問わず統一されたお経ってありますか? 元々はお釈迦様が仏教を広めたのでしょうから仏教経みたいな… よろしくお願いします
古代人は、漢語が分かったので、あえて日本語に訳す必要がなかったそうですが、現代人にとっては、難しいと思います。本来、仏教は生きている人への教えなはずです。みんなに教えを分かりやすく伝えることが大切ではないでしょうか。お坊さまの中には意訳を取り入れている方もいらっしゃると聞いています。もっと、意訳勤行が広まればいいのに・・・と思います。 当方は、真宗大谷派の門徒です。
よろしくお願いします。 朝、日連宗のお経をあげております。 主たるお経本は、10年程前に身延山で購入したものを使っております。 ちゃんとした仏壇はありませんが、毎年身延山で戴いたお札と、自分でこさえた過去帳を置いて、簡単な仏壇代わりの場所を設けて、お参りをしております。 色々訳ありまして、自分で出来る事としてお参りをしております。 そこで教えて頂きたいのですが、御彼岸の時に読んだら良いというお経はありますか? 例えば、お盆だとしたら、盂蘭盆に曰わくというところがあったので、そこを読んでみたりするのですが、御彼岸はどうなのかといつもおもいます。 素人が何を言っているのかと、思われるかもしれませんが、親を思いご先祖様を思い、お経をあげております。 お答え頂けるものでしたら、よろしくお願いいたします。 お忙しいところ、このような質問をして申し訳ございません。 よろしくお願いいたします。
離婚を機に 落ち込んでいたり 将来の不安になっていたんですが、朝の説法という番組で救われて 仏教に興味を持ち出しまして一年 坐禅やったり 護摩滝行やったり 読経したり 写経したり と毎週 どこかの寺院にいっては色々とやっているんです。ただ ここで少し疑問におもったんですが、滝や護摩は真言宗 坐禅は曹洞宗 臨済宗と 宗派も違えば お寺も7つぐらいを グルグルまわっているんです。(私の地元の青梅は古い寺院がとっても多いんです) 多分 私は仏教が好きでお寺が好き 尚且つ好奇心旺盛で一つに決められないんです。ただこの一年 振り返ってみて荒行やったり色々とあったが 果たして私は どこと深く付き合ってきたんだろうか?どの宗派の教えが自分のあったものか?などなど 色々と自分自身に疑問をもちました。みなさん宗派を決めたりした理由はなんでしょうか?私はミーハーなんで 空海って映画 禅って映画で この二つの宗派を特に力いれてます。あとこんなにあっちこっち行きまくっている人を住職はよくおもわないですよね?なにもいってこないんですけど
今年に入ってから、毎日、写経をています。もうすぐ一年分になりますが、どのように扱えばよいのかわかりません。 初詣の際に、お焚き上げをしても良いのでしょうか? ご助言をお願いいたします。
般若心経の意味と般若心経を仏壇等に対して唱える意味を教えて下さい。
般若心経に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とありますが、 生じることもなく、滅することもなく、汚くもきれいなものでもない、減りも増えもしないものとは、具体的に何のことを言っているのですか? 教えて下さい。宜しくお願いいたします。
初めましてこんにちは。 大般若経600巻のお経 後にも先にも一度だけよみたいのですが 経本を購入するのは難しいのでそれ以外では可能でしょうか? 理由は時間があるなど自分のためです。 どうぞよろしくお願いいたします。
天台宗では念仏は唱えられるようですが、浄土系の経典、浄土三部経「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」は唱えられるのでしょうか。 また、大悲心陀羅尼は唱えられるのでしょうか。 また、教義上唱えられない場合は、唱えても良いものでしょうか。
空とはなんですか? 私たちは存在しないと書いてある本もありました。確かに昨日今日では変わりはわからないと思います。それが10年なら変化もわかるし、もしかしたらこの世にいないかもしれません。 でも、諸行無常と言うように毎日移ろい変わっているんですよね。同じように見えて同じ毎日はないんですよね。だから一日一日を大切にしなければならないのに、その有り難みがなかなか解らないんですよね。
お経が短くなりました。檀家です。奥様(お母さん)は、とても人当たりがよくよい人です。新宿区の曹洞宗です。 前の住職、代理(若住職、修行中)住職のときは、お経が40分以上とお説教があり、ありがたいと感じた。今の若住職、お経5分から10分でお説教なし、戒名のいわれもいえない。 墓参りに来ている方々の口にでている。他の寺から言ってもらえばいいつけたことになるし、他の檀家さんは若いからと。菩提寺をかわろうかと。悪者になりたくない自分がいることに腹がたつが、やはり言いつけたくない。
うちの宗派は浄土宗だと思うのですが、お今日の中で南無阿弥陀仏を10回となえています。 10回唱えると極楽に行けるというような話を聞いたのですが、 その唱え方で、8回目まで「なむあみだぶ」で9回目が「なむあみだぶつ」、そして10回目がまた「なむあみだぶ」なのですが、 なぜ9回目だけ「つ」というのでしょうか? 何か意味があるのでしょうか?
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