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「お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

住職と檀家

はじめまして、翔太郎と申します。お恥ずかしながら、48歳のここに至るまで、菩提寺が真言宗豊山派だということを深く考えずに生きてきました。 しかし、父親が亡くなったら寿命が尽きるまで、わたしが菩提を弔わなければなりません。 となれば、わたしは豊山派の檀家として、それ相応の作法を身に付けたいと思いました。 残念ながら、13年前に亡くなった母親は、ひどい精神疾患でした。兄にもわたしにも、その血は流れているようで、わたし自身、精神障害者手帳3級です。父親は精神疾患というものを本当には理解できないようで、今の状態のわたしにひどい言葉を言うこともあります。それでも晩年の母親に随分と暴言を吐かれながらも看病し、時に惨めな思いをしたこともある姿を近くで見ていた実の息子としては、亡くなった時、菩提寺で手厚く葬ってやりたいと思い。きちんとした檀家の作法を身に付けたいと思いました。 まずは、真言宗の開祖であるお大師様の時代からの仏教の歴史を調べ、なぜ、高野山から別れる形で豊山派ができたのか調べ、母親の戒名が飾られてから、線香をあげなくなった仏壇に線香をあげるようにしました。 次に檀家は正式には、毎日、仏壇の前でどのようなお経を唱えるべきか、菩提寺のご住職に電話で尋ねようとしたのですが、ここから流れが少しずつおかしくなって行きます。 たまにご住職が電話に出ても、これから外出するところで、話をしている余裕がない。キャッチホンが鳴ったので、またかけてもらえますかの繰り返しです。忙しいのは事実のようで、息も荒く疲れ切ってるのが伝わってきます。後日、父親から茨城県で三人しか選ばれない議員に選ばれたと伝聞で聞き、どういう事情でそこまで忙しいのか、今度こそ聞こうと思い、電話をかけたところ、今度は息子さんが出ました。副住職をされているそうです。初耳でした。ご住職が忙しいなら、電話を取った時、息子が副住職をしているので、そちらに聞いてもらえないかと言って欲しかったのですが、それは言ってもらえず、息子さんに檀家の作法をお聞きしました。ちなみに宗会議員になると、檀家の相手をする必要がないくらい忙しいものですか?僧階は2級の権野大僧正だそうですが、それくらい偉くなると、檀家の話などまともに聞く必要もなくなるものですか。わたしが傲慢な考えを持っているようでしたら、分かりやすく注意していただけると助かります。

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「苦」によって仏道を志すのでしょうか

いつもお世話になっています。 日々のご回答に感謝いたします。 質問者の方々が励まされ心情に変化をもたらし心が好転していることが伺えます。仏道を志す者としても嬉しい限りです。 在家ですが、日々坐禅を行って心の清浄に努めています。 多くの質問者は、他人の質問を読むことでも勉強になっていると思います。 「苦」を観察しました。  我々は見るものであると同時に見られるものです。我々は現象を観察するものであると同時に観察される現象そのものです。  いつも主体と客体という目線でしか観察できていませんでしたが、己を客体として観察すると、己は他人(=現象を見ている主体)から見れば「客体」であって、見られる現象そのものです。  現象は諸行無常であり縁によって起こっています。この世は、全てが縁によって起こっているので恒常不変の「我」など無いので無我であり管理や制御のできない世界に生きています。  現象は常に未知であり無常であり無我であるゆえに実体のない蜃気楼か幻想のような実体のない「空・無」です。この身体や五感も現象であって、無常です。この世は、一時的な現れの現象が連続で展開されているだけでしかありません。  己に視点を移すと、我々は未知なる一瞬一瞬の刹那を体験してるだけです。この幻想の「世界」では掴むことのできない「空・無」を一生懸命につかもうとしています。しかし、己の頭の中では「現実」として展開されていて掴めるものと思い込んでいます。できもしないのになんとか掴み取ろうともがき苦しんでいます。しかし、叶わないので「苦」となっていると思います。  存在していない仮想の「わたし=無我」を使って、掴むことのできない世界で掴もうとする「渇愛」がありつづけます。「渇愛」を消すこともできずに「苦」のままに生かされています。  我々は、楽で「苦」をカバーしきれなくなり、「苦」に耐えきれなくなるようです。やり場のない怒りや憤りが募り、仏道に拠り所を求めるようになっているのでしょうか。「苦」を認識することによって仏道に入っていくなら、「苦」は避けるものではなく直視しなければなりません。「苦」は消滅できると証明されたのがお釈迦さまでありその道が仏道であると日々感じています。  お坊さんのますますの活躍をお願いいたします。

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師匠との関係

お上人方にご相談です 私自身は、寺の長男一人っ子として生まれで父が実父であり師匠となっています 父は、都会の檀家1000件の大きなお寺の三男として生まれ、修行はどこへも行っていません。人の紹介があって、今のお寺(地方寺院、檀家200件)に婿にきて私が生まれました。 先代(私の祖父)はもう20年前に亡くなり、父が新住職として主導しております。 私は、幼い頃から父とは親子仲はよくなく、高校卒業と共に大本山の小僧として入り、その後、父から「うちにはお前の給与はだせないから、他で勤めなさい」と言われ、昨年末まで都会のお寺で勤めさせて頂きながら、そこのご老僧に配慮を頂き宗門の修行はすべていくことができました。(費用は寺から出なく自費で出だしてきました) 昨年末、勤め先のお寺もご老僧から若上人へ代が変わり私も仕事が無くなり、言わば退職となり、自分の年と両親の年など考え、正月から実家の寺に戻りました。 僧侶となってはじめて、師匠と一つ屋根の下で暮らし始め、いろいろ気づくことが増えてきました。 1、お寺のお金をおよそお寺の活動とはほど遠い趣味の分野としてお金を使っていること 2、お経を法事葬儀以外朝夕のお経などを一切あげない、本堂にすらはいらないこと 3、風俗へ通っていること 4、母への暴言 5、私には仕事はさせないこと(することもないので、自費でゴミ袋と箒を買って掃除をします。それも嫌な顔をされます) 6、給与は月に50000円頂いています(食事は三食寺で頂き、寝るところは幼少の時の部屋があります) お寺には貯蓄はなく、借入金もあるそうです。(総代さん曰く) 親子とは言え、出家した時点で親子でなく子弟であり、僧侶として師匠と弟子との関係は絶対であるという認識でいます。しかし、上記の理由など疑問に思うことが多くここのところ悩んでいます。 師匠の僧侶としてのあり方に異を唱えることは果たしていいことなのか? それとも、黙って反面教師としてでも仕えるということが進みべき道なのか葛藤しています。 ことあるごとに、「だれがここを継いでもいい」と後継はお前で無くともということをちらつかせています。今まで一度も反論したことはありません。 恥ずかしい話し、仲間にも顔を合わせて聞けずにいます。 どうすべきなのでしょうか?

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自死を選んでしまったお寺生まれの先輩

こんにちは。かなり答えにくい質問ですし、センシティブな内容ですが聞かせていただきます。 数年前、私が大学生だった頃に、大学院生の先輩であったお寺生まれの方が自死を選びました。 私とその方とは特段仲が良かったとかではなく、ただ一回きりの講義でデュルケムの論文を訳すことがあり、その時のペアになっただけでした。 私の日本語にもなっていないような滅茶苦茶な訳を、もっとこうした方がいい、この単語はこういう解釈ができると、的確に、淡々とアドバイスしてくださりました。 講義の時のデュルケムの解釈もしっかり練られていて、とても真面目な方、いい人だと思いました。 その半年後くらいに、その方は自死を選びました。 私たちにはただ、「大学のことではなく、家(お寺)関係の継ぐかどうかで悩んでいた」と教授からアナウンスがありました。 ここでも私は何度か自死について質問し、迷います。 自死はいけない。私は今そう思えています。 しかし、あの方のことが頭を時たまよぎります。 彼の選択が間違いだった、彼が…、彼の周りが…と彼を否定したくないです。 もし、たとえ、「間違いだった」と全員に言われても、「あんまりじゃないか!」と泣きたくなります。 どうにもこうにも心の整理はつきません。 彼との関係はその講義一度きりだったので、なに宗の方だったかも今はわかりません。 難しいことですし、私に直接関係あるかと言われればないのですが、お答えいただくとありがたいです。

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