お世話になります。何度も難病に悩まされながらも、仕事をしてきましたが、数年前に大きな持病を抱え、仕事も辞めないといけないかもしれません。心臓の不具合も出てきたので検査します。何年元気でいられるか分かりませんが、障がいある子どもを抱えて生きた母たちや亡くなった方々のために祈りを捧げて、出家しようかという考えがよぎります。結婚もしたかったのですが、障害者の家は駄目だと言われることも多く、心が折れてしまいました。 そうこうしているうちに子どもも望めない年齢になり、家庭に憧れていたので、とうとう作れなかったことに辛くて仕方がありません。同年代の友達は、ごく普通に家庭を持ち、悩みながらも幸せのようです。精一杯やってきました。弟の世話も、母の愚痴にも。家族間の争いにも。血の繋がらない叔母には、あんたみたいな子、結婚なんかできへんわと祖母のご遺体の前で嗤われました。母は実家をかばって、私を庇わなかった。耐えました。なのに報われなかった。愛されなかった。だから私は幸せとは縁遠いんだと。その虚しさを仕方ない、それが人生だと思えません。悩みに対し、返信していただけたらありがたいです。 追伸ですが、実は退会しようとして見直したら、一度も相談していないことに気づき、文面を整理して書きました。皆様の問答を読むことで少しずつ対応しようとしてきたからです。自明灯という言葉がよぎります。完璧には癒されないと思いつつ、最後に質問いたします。
私は統合失調症という精神病を患っています。毎日病院のお薬が手放せません。そのお陰で他の人が当り前にできることも、私にはできなかったりするのです。 昨日だったか、出家したいということを書いた覚えがありますが、実は半分夢物語だと思っています。症状で集中力がなく、情緒不安定、薬の副作用でいつも眠いし、今の仕事(作業所)もきつくて一時間くらいで帰宅しているのです。 この病気で二回、入院した経験もあります。 この病気にかかってから、私は二回宗教を変えました。深く考えたつもりが情緒不安定になりすぐ不安が沸き上がって、自分の進む道に自信が持てないのです。しかし以前慎重だったのが、症状により衝動的に行動するようにもなっています。深く考えたつもりで衝動的に行動→不安→自信をなくすの繰り返し。 私、前はキリスト教のシスターや牧師になりたいと思ってたんですよ。仏教もすぐ離れてしまうかもしれません(イスラームやキリスト教にいたときも、すぐ宗派を変えたりしていました) 真言宗→浄土真宗→曹洞宗を行ったりきたりしてます…(笑) 病気と本来の自分の性格の区別ももはやつかない。 なんで私はこんなんなんでょう?前世の因縁ですか? なんかよくわからなくなりましたがなんかメッセージをください。
詳細は過去の質問を読んでいただきたいのですが、 愚かな行為であり、全くの自業自得ながら、ずっと抱えている苦しみです。 こちらで温かく有難いお言葉もいただきました。 こちらに質問したのは、何とかして救われたいという気持ちでした。 事実を認めたくなく、縋りたかったのだと思います。 いろいろ調べてみましたが、やはり私の行為は害だったようです。 複合的な部分はあるかもしれませんが、確実に害でした。 救われたい、などとあまりに虫が良すぎる、と思い至りました。 これ以上は心が耐えられそうもないので、 家族的責任を果たしたら、命を以って詫びたいという気持ちです。 家族の縁が非常に薄いので、家族的責任と言ってもそう長くかかるものではなく、 それが済めば私の死を悲しむような人はいません。 (今となってはそれでむしろよかったと思います) 命を以って詫びよう、という思いに至った時、 ふいに荷を降ろしたような気持ちになり、何でもない景色が美しく見え、 何とも形容しがたい不思議な感覚でした。 チュンダはその後苦しみながら生き抜いたのか、 後悔と自責の余り生きられなかったか… 出家したという記述もないようなので、 きっと後者なのだと私としては今は思っています。 善意の行為ゆえに痛ましいですが、結果はあまりに重大なものでした。 私の今の考えも逃避でしょうか? 決行を少し先に延ばすことで現在の苦しみから逃げようとしているだけかも、 という気もしています。 この苦しみを抱えながら、 生き地獄に生きるというのが報いでそれが償いになるのでしょうか? どこにもチュンダのその後の記述はありませんが、 お坊様方はチュンダはどのように生きた(あるいは死んだ)と思われますか? 何も書かれていない以上、それぞれのお考えがあるかと思いますが、 お聞かせいただければ幸いです。
相談を開いていただき、ありがとうございます。 初めて質問させて頂く者です。 私は真言宗の僧侶になりたいと考えていますが、すでに年齢も40歳を超えています。 背景は、地方におり、経済的に豊かではなく、働かずに4年大学に入学し直すのは難しい状態です。 信仰は、親族の友人から親が紹介を受け、師僧について幼い頃から滝行や読経を行ってきましたが、出家を決意した時に師が僧侶ではなく拝み屋さんであることがわかり、師僧を探し直す必要が生じました。 師が生活のために行っていたことを鑑みると、仮に僧侶になれた後、中途からお仕事はあるのでしょうか。 また、真言宗の信仰でいつも人間関係に悩んでいました。 具体的には、幼い頃から信仰のために寺や札所に行く機会が多々ありましたが、常に師の周りにいる弟子や信者の女性に所謂ヤンキー風の方が多く、また非常に上から目線でいかに自分の霊感が強いか自慢され、静かにお参りし穏やかに帰れたことがないのです。 行に参加し、心清らかに静かに内観する中で、修行より女性のアルバイトや見習いから受けるからかい、いじめが辛いと思いました。 強く申し上げておきますが、あくまで尼僧の方を除いての話だと思ってください。 なぜ真言宗の僧侶以外の女性の方々に、所謂ヤンキー風で霊感自慢をする方が多いのでしょうか。 私は静かなため常に絡まれやすく、大変悩みであります。 不思議に感じて質問させて頂きました。
私は歌(民謡)を生業にしておりました。母も民謡歌手で、母のようになりたいと保育園の時から思っており、ただいま民謡のみならず好きなアーティストのカバーをYouTubeに上げたり、ライブをしております。 民謡は大会によく出ており、成績も恐れながら優勝を多く頂いております。 しかし、最近になって様々な媒体にて歌を辞めろと言う声をよく貰うようになってしまいました。 下手、辞めろ、なんでやってるの?など基本は匿名ですが、本名で書いている方もいます。 私は歌しかやってきておりません。専門学校などに行っているという訳ではなく、師匠について3歳より歌ってきました。 それを今になって全否定されているのです。 私はプロフィールに書いている通りの処遇でございます。 あまりに辛く、もう何もかもが嫌になってしまいました。 最近になって様々なことが重なっており、心の置き場所などもう何もかもわかりません。 重なっていることといいますと例えば、好きな人に今のあなたには会いたくないと言われたり、冒頭にもあげたいわゆる「アンチ」が増えたり、です。 私が何をしても、否定されてしまうのであればもう何もしない方がいいのでは?と思い始めてきております。 友人もおらず、家族仲もそれほど良くなく、なんとか主治医にほんの少しだけ話せる程度です。 もう抱えこみすぎて辛いです。 死をも考える時間が増えてしまっています。 私は、どうしたら良いですか。 正直にいうと、死なないために出家をしたり禅の道に進んだりしたいとも思い始めました。 どうか助けて頂きたい。 私は、生きる道を見つけたいです。 よろしくお願い致します。
1、これまで出会ったデキル人達は、在家も出家も 男性も女性も 総じてプライドの煩悩も強かった気がします。他を見下している人も多かったです。攻撃的な性格の人も多かったです。 有能、優秀で、実績もあり、容姿も優れ、尚且つプライドの煩悩もない、もしくは平均よりだいぶ少ない人物を ご存知のかたいましたら、ぜひ教えてほしいです。こっそり尊敬してお手本にします。 2、読み物を読む限りは、お釈迦様はプライドが高いように感じられるのですが、皆さんはいかがお感じですか? 実際にはお釈迦様は無上の悟りを得ておられるということは、プライドの煩悩も皆無ですよね? プライドが高いかのように描かれているのは書き手の技量不足によるものですか? 3、プライドの煩悩を弱め、最終的には消すための具体的方法をご存知のかた居ましたら、教えてほしいです。 また、実際にプライドを弱めることに成功した体験者のかたいましたら、ぜひ体験談や修行方法を教わりたいです。私も修行に励みたいです。毎日の八正道の実践は正直難しいなぁと感じていますが、難しいなりに心がけてはいます。私は怠け者なので、正精進するだけでも、プラスの効果を感じております。アドバイスくださったお坊さん、有り難うございました。
挑発的なタイトルで申し訳ありません。もっとマイルドにしたかったのですが、字数の関係でできませんでした。決してお坊さんを馬鹿にしてやろうとか、悪口を言ってやろうとかいう気持ちはありません。むしろ日々尊敬しております。なのでそこの所をご理解いただけたら幸いです。 本題に入ります。 まことに、大変失礼な質問だとは思いましたが、心の中にふと思い浮かんでしまいました。 仏教書を読んでいたら、「仏教の出家者は一切の生産活動を放棄して修行に専念しなければならないので、一般の人たちからお布施をもらわないと食べていけません。」とありました。 その部分を読んだ時に浮かんだことは、「お布施をすることによって、お布施をした人にはなんのリターンがない。これでは乞食に施しをするのと同じでないか?」ということです。 もちろん、お布施をすることによって功徳が積める、物惜しみに打ち勝つことができるというのは分かっているのですが、現代人にそんなことを言ってもそれが何だよ?と鼻で笑われるでしょう。もし私が誰かに「坊主と乞食って何が違うの?笑」と聞かれたら私はなんと答えればいいのでしょうか? ちなみに身近なお坊様(そこそこ名のある立派な人です)にこの質問をしたら「違わないんじゃね?」とのことでした。ハスノハのお坊様方はどうお答えになりますか? 大変罰当たりな質問だと思います。このことで私の身に不幸が起こったら甘んじて受けるつもりです。しかし、後学のためになんとかお答えしていただければ幸いです。
武士道というのは日本古来から伝わる日本人としての非常に優れた道徳や倫理と考えます。何故なら、神道、儒学そして、仏教の大きく分けて3つの日本の道徳の集大成とも思えるからです。 僕はこの生き方を目指して来ましたが、中なか上手く行かないのです。 でも、漢詩文の教養を高めたり、古文に親しむ、朝に走るようにするなどのある程度の曲がりなりにも規律や精神修養には励んできました。 とは言ってもいくつかのことが上手く行かないのです。恥ずかしくもまた、お坊さんのような品格の高い方に申すのは大変はばかられるのですが… 一番は性欲です。これが非常に長続きしません。人を堕落させるようなものを見て快楽を得てしまうのです。これが一日に一回以上あって他の修養にも非常に大きな妨げとなってしまいます。いかに対処すべきでしょうか。自分は出家するくらいの気持ちでこの道に進まんと思っているのですが、もしそうだとすると仏道に於いても不邪婬戒に反してしまいます。街中を、歩いていても学生という一番辛い時期ですが女性に油断すると目を泳がせてしまいます。出来るだけ武士たるもの、晒すことなくただ、向かっている方向を見るべきだとは思ったりもしているのですが… 2つ目はけじめをつけられぬ所です。気づいたら何時になっていて講座にぎりぎりだ!ということも有り、1日の規律が守れず悔しい気持ちになってしまいます。 そして他にもすぐいらいらしてしまい親に強くいうなどあります。儒教的に許されません。 ぼくをお助けください
与えて頂いた命ですが、限界です。 この世間から離れ、仏門を目指す事は出来ますか。
タイトルの通り日本の社会が狂っていると感じます。 過労死、自殺、いじめ等この日本の社会で生きていて異常だと 感じる事が沢山あります。 何だかこの社会に追いつめられてる感じて、胸が苦しくなる時もあります。 しかし、この事を他の人に伝えても理解をしてくれません。 「みんな苦しいのは一緒だ」と言われ こんな事を言う自分は他人から「甘い人」と思われています。 私はどうやってこの社会で生きていけばいいのでしょうか?
とある人に現在色々と言われているのですが納得できないことの一つに 『他人と比較して人より更に頑張るというのが努力だしそうしないと成長できない。他人と比較せず自分なりにやってるというのは努力していない頑張っていないのと一緒、成長もしない。』 という言葉がありました。努力って必ず他人と比較して頑張るものでしたか?自分としては自分なりの努力というものも努力だと思うのですが、僧侶の方々も修行される際は『他人より更に!』と思って修行されていますか?また一般的には言われていることの方が正しいのでしょうか?
私は親の反対を押しきって 念願の一人暮らしをはじめました。 親に申し訳ないという気持ちもかなりありましたし、心が痛みながらも自分の自立と自由の為に応援してもらえるようになりました。 ですが、いざ一人になると、自由と孤独は同じなんだと気づきました。 家族がそばにいてくれる幸せや温かさに、未熟な私は今さら気づいたのです。 一人でいることは気が楽で、親の顔色をうかがわないでいい気楽さもあります。 でも、私は給料もすべて生活費に使ってしまうこの生活を家族との時間を犠牲にして手に入れたのかなぁと、心が複雑で、ふと道を歩いているときに涙がでてきます。 未熟な私に、どうか生きる上でのアドバイスをください。 よろしくお願いいたします。
よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。
ここで質問させて頂いたのはもう私には頼れる人がいないからです。プロフィールを読んでいただいた通り私は医学部を目指しています。 本来ならば私がブラックジャックにならないといけないのですが、恥ずかしいことに自分の心の病気すら治すことができません。 なのでここでブラックジャックに会えることを期待して悩みを聞いていただきたいと思います。 私は顔がキモいです。頭も悪いです。容姿も最悪です。しかも、ニートになりかけです。もう自分でも何してるんやと思いますが行動に移すことができません。想像ではいい事ばかり考えています。例えば医学部に受かって水泳部に入ってキャプテンになって、サークルで小児科の子供達を喜ばせる企画をして…淡々としすぎてますが妄想ばかりして現実と理想がどんどん離れていきます。 イケメンにもなりたいし頭も良くなりたい。海外のいろんなところを旅してみたい。いろんな経験をして、自分の視野を広げていきたい。でも、そのために努力は何もしない。もし、目の前にこんな人間がいたら殴りたくなりますよね。ボコボコにしてやりたい… もう自分が嫌で嫌で仕方ないんです。最近は朝の6時に寝て14時に起きて何もせずにまた6時に寝る。こんな生活が続いています。今書いてるだけでも笑けてきます。医学部に行くにはもう勉強しないといけないのに、本当に何やってるんだろう。 そう考えても何のやる気もでません。変わりたい のに変われない。 私にはやりたい事がたくさんあります。 理想の人物像だってある。特に日本史の勉強してる時はこんなに素晴らしい人がいるんだと思う人がたくさんいます。 この日本を良くしようと精一杯全身全霊をかけてきた人。自分の事より、周りの人を第一に考えてきた人。そんな人がこの世にいるんだと思いました。そんな人たちが今の自分を見たらどう思うのでしょうか( ; ; ) もうこの腐ってしまった心を自分ではどうする事もできません。 周りに悩みを言える人なんていないし、このままだと本当にダメ人間になってしまいます。そんな一生は嫌です。人生1回しかないのに、こんなんで終わるなんて嫌だ。 めちゃくちゃな文で申し訳ないです。最後まで拝読して頂きありがとうございました。アドバイスお願いします。
何物にも成れませんでした。なんでこんな大人になっちゃったかな 社会不適合者です、眠れません。眠れないと延々と思考止まりません やりたいこと、全部私は実現できないものばかりで自信がないです もう28歳になります この年まで恋愛も勉強も何もしてません 生きてるのが恥ずかしいです 学生見ると羨ましくて死にたくなります しにたいです
私は若白髪がたくさん生えているのですが、彼が気になって仕方が無いのか、全部抜く!と言って聞きません。 ついこの間も髪を染めてみたのですが、白髪の部分だけ金髪になってしまい、それを抜くと言ってブチブチと抜かれてしまいました。 とても痛いのです。 どうしたら、彼は私の白髪を抜かなくなるでしょうか?
タイトル通りです。 【悟り】を極めるには 孤独必須ですか?
私はお坊さんになりたいと思っている中学生です。 駒澤大学高校に行こうと思っています。 私の家はお寺とかじゃなくて、普通の家なので、お経を教えてもらったり作法を教えてもらったりしていません。 これでもお坊さんになれるのでしょうかまた、駒澤大学高校の仏教専修科で教えてもらえるのでしょうか。
こんにちは。 いつもお世話になっております。 先日、約2週間ほどタイとマレーシアに行ってきました。人生初の海外旅行です。渡航前にトラブルもありましたが、無事に体調も崩すことがなく日本に帰国することが出来ました。 タイに行った際、いろんな有名な寺院や博物館などに行き、お釈迦様の人生を学んだり、出家や悟りについて勉強したりしました。ある有名な寺院に行き、エメラルドグリーンに広がる屋根を見ながら坐禅を組んで眺めていました。すると、不思議と心のモヤモヤや悩みが一気に吸い込まれているようで、気づけばずっとボーッとしていました。 悩みとかがなぜかちっぽけに思えて、健康がどれだけ素晴らしいものか過去のことを思い出しました。昨年大怪我をしてしまい、毎日辛く、後悔と健康体ではない自分の体に苛立ちを感じました。でもまだ跡はあるけれど少しずつ治ってきた自分の体を見て、治る力があるということ、辛くても乗り越えることができたこと、この力があるっていうことは、怪我は健康状態でなくても、あるいみ私自身の体や心は健康だったのではないかと、坐禅を組みながら感じました。こんな気持ちになったのも初めてで、正直タイに行って、仏教に触れる度、不思議な気持ちになるというか、変な言い方になりますが、お釈迦様はいらっしゃるんだな、仏様は本当にいらっしゃるんだなと強く感じる場面が多くありました。その度にパワーをいただいたというか、僧侶の方にもご祈祷していただき、それ以来、気持ちが変わったといいますか、長旅で心も体も疲れているはずだけど、生きる力がたくさん漲った感じがします。この瞬間が本当に幸せに思え、旅行中何度も思いました。人生、様々なことがあるけれど、この旅行先での最高の幸せに出会うための備えって、健康であることなんだなと何度も感じました。 日本に帰国したあと、待っていたのは人間関係の悩み。生きる力は未だにたくさん漲り、むしろ挑戦したいことばかりでうずうずしています。だけど、友達に気を使うことが辛くて、朝も辛いなと呟きながら出発しました。 明日も会わなきゃ、大丈夫かな、何かあったのかな、ちゃんと話の輪に入れてるかな、常にある友達といると思います。 1人になると、なんでこんなこと思わなきゃいけないんだと我に返ってしんどいな、辛いなと嘆くばかりです。 こういうとき、どのような心構えで過ごしていけば良いのかと思います。
私は回転寿司に頻繁にご飯を食べに行きます。 大体、週に1日くらい行ってます。 そこで気が付いたことに対しての質問です。 回転寿司ではほぼ毎回、お皿22枚(44貫)と青さの味噌汁1杯食べたところでお腹がはちきれんばかりになります。 今日はお皿18枚(36貫)と青さの味噌汁1杯でお腹がはちきれんばかりになり帰ってきました。 ここで普段30皿(60貫)と青さの味噌汁2杯食べる人が、 『その程度の食事で諦めるな(放棄するな)。もっと記録を目指せ』 と言ってきたとします。 自分の中では満足しており別に上を目指す気もない場合は、『諦めている(放棄している)』とはみなしていないです。 また、自分の心の声で、 『普段はもっと食べているんだから諦めず(放棄せず)に普段の記録まで持っていけ』 とあったとしても、今はお腹いっぱいなのでやっぱり『諦めている(放棄している)』とはみなしていないと思っています。 それどころか、満腹でお腹が苦しいという事は、食べ過ぎており、諦めていない(明らかに見ていない=邪見)であるから、次回からはよく心を観察して、今回より減らして食べよう、そしてそれが苦しまずに足りているか確認し、多いようならまたその次は減らそう。 ただし、明らかに少ない皿数(1皿2貫or青さの味噌汁1杯)だけを食べて帰るという真似は足りてないからやめよう、と考えております。 前置きが長くまり申し訳ありません。 ここで質問です。 1.出家者にしろ在家者にしろ、明らかに見た(諦めた)結果の小欲知足は、人によって基準が違うのでは。だからやり方は教えれるけど答えは人によって違うのではないか。 2.ブッディズムでいうところの『気付き』は、特別な場所や時だけのものではなく、いつでもどこにでも転がってお普段から注意深く観察しておれば、誰でもできる『行』となるのではないか。 3.なぜ自分は毎回食べる前からわかっているのに、苦しくなるまで食べ過ぎて苦しんでしまうのか、、それはあれもこれも食べなければ(しなければ)ならないという思い込み、つまり正思惟の逆のことをやっているからでしょうか。 最後は、それでも毎回やめないのは、今現在苦しくても時間がたてば苦しみも治まる(諸行無常である)。それどころか生きてる実感があると高をくくっているところがありますが。 アドバイスをお願い致します。