先週に大好きな祖母が旅立ちました。 8月末に入院してから食べることも飲むこともできない中、本当に頑張ってくれました...。 コロナ禍で面会もできず、病院へ手紙や写真を届けることしかできなかったので、何とか生きてるうちに会いたいと思いながら覚悟しつつ、涙が止まらない毎日でした。 結婚するまでは同居していたので、何をしていても祖母を思い出してしまい悲しくて悲しくて仕方ありません。 実家へも、いつも居た場所にいないと思うとまだとても帰ることができません...。 本当に優しくて可愛いくてお話が上手で、感謝の気持ちを忘れない誰からも愛される祖母でした。来世でも祖母の孫として生まれたいです。 今はただ悲しい気持ちでいっぱいですが、私が泣いてる姿は祖母も望んでいないのもわかっています。。見守ってくれていると信じて、私も自身の人生を全うしたいと思います。 人は旅立ったら終わりではないのでしょうか? またいつか会えるのでしょうか...? 死後の世界が知りたいです。 どうかご意見をいただけましたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
現在勤めている職場では 道端で倒れ脳障害を患い健在の頃の一切を忘れ、名前さえも行政がつけた仮の名前。家族から見放され亡くなった後もお迎えもない方、まだ50、60代と若い年齢にもかかわらず回復が見込めず寝たきりでただ死を待つ方など そういった境遇の方々を日々お世話させて頂いています。 私は無宗教で霊感やスピリチュアル的な事には無頓着ですが 10年程前から夢枕?で不思議な事が度々あり(例えば仏壇の前に4人のお婆さんがいて物凄く怒られて゛妙゛の文字を見せてくる。横綱がつける化粧回しをした寿老人みたいな方が私の手に石を積むなど)最近では 「洞穴光明」といった言葉が眼前をチラチラ。後で調べると何かと仏教へと繋がっていきます。 今まで挫折の連続の人生でしたので自分自身に叱咤激励されてる感覚で捉えていました。しかしながら、今後 中長期的な目標や計画がなく 職業柄 将来の自分の姿が目に浮かび早めに゛他界゛したいと考えいて自制する日々です。 家庭を持てば 心境の変化があるかもしれませんが、悲観した未来を持ったまま 恋愛、婚活などをしようともおもいません。 ただ、まだやり残してる事があるような感覚、それがあるのは事実。 生き続ける上で普段からの心構え、意識の持ちようなどアドバイス頂けたら幸いです。よろしくお願いいたします。
私は仏教徒ではありません。しかし、1つの生きる智慧としての仏教に興味をもち、色々と小さな脳ミソを使い調べてきました。 それで思ったのが、仏教は私に「生きることは思い通りにならないことばっかだけど、残念ながら諦めるしかないよ」と言ってるのではないか?ということです。 私のような若造でもこれは理解できます。うまくいくことよりもうまくいかないことの方が圧倒的に多いですし、楽しいことより辛いことの方がたくさんあります。 そこで私の中に「ならば、生まれさえしなければいいのでは?」「辛いと分かってるのになぜ子どもを産むのか?」という疑問が生まれました。 言うなれば、辛い世界に「送り込んだ」親は加害者、「勝手に送り込まれた」子供は被害者という構図です。 そこで質問なのですが ・この考えは正しいのか間違っているのか ・間違っているなら、どう違ってるか ・正しいなら、なぜ人間は子どもを産むのか 教えていただきたいと思います。
娘が、娘夫のw不倫が原因で5年前に離婚しました。 一連のゴタゴタの中、元娘夫の両親も、元娘夫を絶縁するような状況で、10:0で元娘夫が悪いと言って良いと思います(その結果。双方から慰謝料などは取れました)。 娘は、慰謝料問題の過程で、元夫の不倫相手に酷いことを言われたりし、一時自殺未遂を起こすなどかなり憔悴しましたが、少しずつ立ち直り仕事も再開しました。 しかし、こんなに酷い目にあわされているのに、今も自分に至らないところがあったのではと自分を責めたり、元夫の現状(離婚が仕事上ダメージとなったようです)を心配したりしています。 元娘夫の不倫相手は、過去にも不倫をしていたこともあるらしく、自分が悪いという意識はなく、結婚生活を壊した魅力ある自分と、誇らしげに元気に生きているそうです。 この世に神や仏がいるなら、善人が酷い目にあう状況を許しているのか、まったく理解できません。娘に酷いことをした人達を呪いたいと思ってしまいます。
先日子供を中絶しました。 夫も支えてくれもちろん産むつもりでしたが、生活状況が変わり諦めざるを得なくなりました。 1ヶ月しか一緒にいれなかったのですが、大事に大事に想ってました。夫も毎日お腹に話しかけてくれました。 2人でよく話し合って中絶を決めましたが、夫がとても子供を楽しみにしていたのもあり悲しみようがすごく、逆に私は手術前も後も泣けませんでした。夫が変わりに泣いてくれました。 ですが、落ち着いた今、涙がとまらないです。子供に会いたい。会いたかった。 まだ性別もわからない頃でしたが、紗智(さち)と名付けていました。 親の身勝手で紗智の命を諦めてしまいました。苦しい思いをさせてしまいました。 転勤が多く、決まったお寺さんに供養を頼めていません。また今後は家で手を合わせることになりそうです。 それでも、紗智は幸せになれるでしょうか。もう二度と苦しい思いをせずに、安らかに幸せでいてほしいのです。 できることなら、この子が許してくれるなら、会いたいです。
駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。
年に数回は熊やイノシシなどの動物が村や市街等に出没したいうニュースを見ます。 それらは遭遇したら危険な場合が多く、人間を襲い大けがを負ったり最悪の場合、死んでしまうというケースも少なくありません。 また、動物園の動物が暴走し人間を殺してしまうという大変悲しいニュースも見かけます。 たいていの場合、そういった動物達は地元の猟師や警察等に殺されてしまいます。 被害にあった関係者へは大変失礼な話かもしれませんが、だからといってそういった動物達を殺すというのが理解できません。 野生の動物たちは日々生きるのに必死で本能に従って食料を求めているはずです。自分たちの住処で得られなくなった食料を求めて探し回っているはずです。 人間を食べるために襲っているというわけではなく恐怖を感じたり、自らの命を守るため自衛手段として襲ってくるのだと思います。 趣味で山へ登山したり、森等で山菜採りやキノコ狩りなどする人達は動物達の住処に無断で土足で入り込んでいるのと同義だと思います。 見ず知らずの他人が自分の土地へ入り込んだら警戒するのは当然のことです。 動物園の檻に入れられた動物達は保護されたものもいるかもしれませんが、人間の利益・私利私欲のため無理矢理檻に入れられ、育てられ、見世物にされています。 別の話ですが保健所では捨て犬や捨て猫たちがどこかで毎日のように殺処分されています。無責任な人間たちのおかげで命が無駄に失われ続けています。 地球は人間だけのものではないはずです。動物には動物達の命があります。 なのにむやみやたらと食べるため以外の無駄な理由でなぜやたらと殺すのでしょうか? 殺せばそれで終わりで簡単ですが、傲慢すぎやしませんか?もう少し尊重できないのでしょうか? 自分や、自分の大事な人達が襲われたらどうするんだ?等と怒る人達も出てくるはずですが、 そういう話をしたいのでなく大きい命であろうが小さい命であろうができるだけ大事に考えたいという事です。 きちんと棲み分けできればそれでいいのですが、それも難しく人間と動物達がよりよく共存できる道がないのかと日々考えされられます。 人間たちが地球に住まわせてもらってるという感謝の気持ちが失われていると思います。 あまりに好き勝手ばかりしていると動物達と人間の立場が逆転しても文句は言えないのでは?と思うのです。
「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。
先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。 中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。 先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。 ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか? そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。 先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
はじめまして。 この夏に父が永眠しました。 実家に仏壇はあるものの、自分の家でも父を供養したいと思い、写真と蝋燭、お線香、お花、おりんをおいて毎日拝んでいます。 ただ、これは自己満足であり父の供養になっているのかと考えるようになりました。自分の中で、父にもっと親孝行したかったという気持ちがあり、その気持ちを整理するためだけではないかと。 供養とは誰の為のものなのか、なぜ供養が必要なのか、正しい供養の方法はどうすることなのか、教えていただけると幸いです。 よろしくお願いいたします。
(他の相談サイトでも似たような質問を しましたが、からかい目的の回答ばかりでしたので、確実にお導きをいただけるこちらに相談させていただきます。) 私は年齢的には高2ですが、去年家庭の事情で学校をやめて、今年から通信制の1年生です 同級生より1年遅れていることに猛烈な劣等感を抱いています 制服着てる高校生を見ると自分にはああいう青春はもうできないんだなぁと心が沈んでしまいます それ以外にも勉強ができない、女性と接するのが苦手、家の経済事情など色々なコンプレックスに悩まされています でも以前は劣等感に悩まされたことなんてなく、もっと楽観的な性格でした 学校で友達に囲まれていた環境から、学校をやめて急に1人になったことで、無意識のうちにあったコンプレックスが心の中に表面化したように思います 人も比べるクセがついてしまい、自分の劣っているところを見つけては落ち込む日々です 前より無気力になり、やるべきことも目標もあるのに何もやる気が起きません 僕はどうしたら前を向けるでしょうか?
現代物理学には「ホログラフィック仮説」というものがあります。 これは、「私たちが実際に存在していると思っている宇宙も、実は宇宙の“境界(例えば宇宙の外縁)”にある二次元的な情報の投影である」というものです。 この仮説から、我々の物質世界は実はアカシックレコードにある情報が物質化されたものだと考えることができます。 また、過去から未来に流れる直線的な時間というのも実際には存在しておらず、情報が物質化されることによって、まるで時間軸に沿って物事が成立しているように感じられるのだと思います。 哲学者のベルクソンは、時間を「過去が現在に溶け込みながら未来を生み出す連続的生成」と考えました。 そして、世界の本体は「イマージュ」であり、それが外側に展開したものが「物質」、内側に沈潜したものが「記憶」であると考えました。 また、我々の「脳」は、思考を作り出しているのではなく、「純粋記憶=情報」の中から我々の行動に役立つものを選び取っていると考えました。 これらの議論から、私は肉体的な輪廻転生はないと思います。 アカシックレコードにある「純粋記憶=情報」が物質化されたのが我々の生きる世界であり、輪廻転生とは「純粋記憶が物質世界に現れること」を言うのだと思っています。 三島由紀夫は「未来からの輪廻転生も考えなければならない」と言いましたが、これは以上の議論を踏まえたことだと思われます。 また、私は仏教の無我の思想は正しいと思いますが、一方で人間の「魂」の存在も信じたいと思っています。 古代中国には「魂魄」という概念がありました。 「魂」は精神を支える陽の気で、死ぬと天に昇るとされました。 「魄」は肉体を支える陰の気で、死ぬと地に帰るとされました。 私の考えでは、「魂=宇宙」であり、アカシックレコードの情報から脳が選び取ったものを「魂」と考えれば、仏教の無我の思想と矛盾しないと思います。 (魄についてはよく分かりません。) さらに、「生命」についてはシュレディンガーが言ったように「負のエントロピーを食べる存在」であり、暗黒流体という負のエネルギーによって成り立っていると考えています。 これらは全て、執行草舟氏の思想をもとに考えました。 私が言いたいのは「古典的な仏教の世界観だけでは、宇宙や世界を説明するのに不十分ではないか」ということです。 ご回答よろしくお願いします。
最近、旦那に600万程の借金があることがわかりました。結婚して3年、2人の子供がいます。普段は子育てに協力的な夫、離婚は考えていません。ただ、この事を知っているのは私だけ。せめて旦那の両親には話したいところなのですが、旦那は嫌がります。他に相談できる人もいないので、1人でモヤモヤしてしまいます。旦那の両親に話すべきでしょうか。
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
こんばんは。私は過去(小学生の頃のころ)沢山の人を傷つけてきました。 陰口や悪口を言ったり暴言を吐いたりなどです。私自身も沢山悪口を言われてきました。その時の悲しみを私は分かっていた筈なのにです。 そしてその悪口や陰口が原因で友人達は離れていきました。その際にやっと自分がとんでもないことをしたのだと気づき、それからは自身の言動に気をつけ思いやりを忘れず生活してきましたが、ふと昔のことを思い出すと罪悪感で潰されそうになります。 「みな試行錯誤であり、それは良い経験であった」「もし昔のことを思い出したら心の中で謝り、今出会っている人たちやこれから出会う人たちを大切にしてあげてください」「神仏やご先祖様に向かって罪の告白、相手への謝罪、今後あのようなな事はしないといった誓いなど懺悔することを日課にする」といったアドバイスをいただいたり他の方向けのご回答を拝見したりして少しでも考え方を改めようと思いましたが、それでも罪悪感で息苦しくなってしまいます。過去が消える訳でもありません。もし今仲良くしてくれている友人達が昔の自分のことを知ったら?昔の自分を知っている人と今の友人が出会って自分の過去のことを知られたら? そのような想像をしてしまい不安で仕方ありません。今でこそ多くの人に「優しいね」と言ってもらえることが多いのですが、昔の自分を思い出し、「本当はそんなことない」と素直に受け止めることができません。 「死」を選ぶことは逃げであり結局は自己満足でしかないことは分かっています。それでも罪悪感でいっぱいになり生きていくのが辛いです。 もう「死」が一番の贖罪ではないかと考えてしまいます。
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか? 概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。 鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。 また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
出産は拷問なのに。 子供はいらないのに。 男は身勝手過ぎる! 夫は押し倒したあと、俺も子育て手伝うから一人ぐらい生んでよー、と言ったのです。 ふざけるな、手伝うってなんだ、子育ては男女両方やること。 手伝うということは子育てのメインは私ということになる。 女は子育てマシーンじゃないし、子供を生む機械でもない。 私の仕事のキャリアと命を奪う行為を平気でする夫。 本当に信じられない。 今週末に警察へ相談する予定です。 以前ここで質問したら、子作りを拒否するのは男にとって無い物ねだりだと言われました。 黙って犯されないといけないんですか?
私が仏教に興味を持ったのは、ある落語家兼尼さんの著書で仏教と法華経の解説を読んだからです。 私はそれまで大乗非仏説を支持していたのですが、この方の著書を読んで考えが180度変わりました。 ところが、私は不思議とお題目を唱える気にはなりませんでした。天台宗で法華経が顕教だけではなく、密教の経典としても扱われていることを知り、すぐにご真言に興味を持ちました。 ある時、法華経に「一称南無仏 皆已成仏道」と書いてあるのを知り、私はこれをお念仏の教えと解釈し、今度はお念仏に興味を持ちました。 大無量寿経を読むと、お釈迦様が「私が死んでも阿弥陀如来に関する教えがなくなることはない」というようなことをおっしゃっていて、お釈迦様の最後の教えである法華経とも矛盾しておらず、何だか嬉しくなりました。 しかも私は統合失調症という精神病を、軽くですが患っておりまして、「厳しい修行やなんやかんやは無理やけど、阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えるだけでいいなんて、なんと大きなお慈悲なんだろう!」ととても感激いたしました。 更に、法華経で「法華経の説く清浄な意根を持っていれば、他の宗教や信条を信じていてもお釈迦様の教えに通じている」と説かれていることから、大乗仏教の裾野の広さ、寛容さを実感し、「みんなで幸せになれる!」とまたまた嬉しくなりました。 長くなりましたが、これって「阿弥陀さまに仏縁をいただいた」と認識しても問題ないですかね? 法華経の解釈とかあくまで自分の解釈なので、勝手な思いあがりかと思い少し心配になりました。
人間は、生まれて死にます。それが子孫を残すことでずーっと何年も続いています。この先もいつまでかは分からないけど、続くんだろうなと思います。 でも人間って、何のためにそれを繰り返してるんですか?みんな当たり前のようにそうやって、生まれて生きて、子孫を残して死んで、をただ繰り返してるけど、これって何のためにやってるんですか? 私が知りたいのは、ひとりの人が何のために生きるかということではなくて、人類全体として、何のために、どこに向かうのかということです。 ずっとこのサイクルを繰り返して、いろんなものが発展して進化する、何か目的があるんですか?目的があるとしたら、何でしょうか。 無いとしたら、何のために存在するんですか。ゴールはなんですか?あるんですか? お坊さんの考えを教えてください。 生きることが嫌になったとかそういうのではなくて、単純に知りたいんです。あと、いま私は19歳なんですが、小学生の頃からずっと考えてます。人にこの話をすると、考えたこと無いし興味無い。言ってる意味がわからない、別に知りたいと思わない、とか言われます。なんで人はみんな、自分もこのサイクルに参加してるのに、このことを疑問に思わないんですか?不思議です。私がおかしいんですか…
浄土三部経が偽経や非仏説と言われている事についてどう向き合えばいいでしょうか。 自分はこれで阿弥陀様の信心を失ってしまいました。 事実としてお釈迦様が直接説いたわけではないことは、「歴史的」には分かっているそうですし、それでもお釈迦様以外の仏様が説いたので仏説と言われていたりと、結局どれが真実なのか分からなくなってきました。 浄土宗や浄土真宗のお坊様はこの事についてどう思っているのですか? そしてどうやって信じているのでしょうか。 自分はこの事で信心をもらえそうにないです。 回答お願いいたします。 この前までは単純に阿弥陀様を信じられていませんでしたが今度は大乗非仏説で信じられなくなっしまいました。