私はゲイです。 最近、LGBTの存在が広く知られるようになったおかげで、楽しいことも増えましたが、同時に酷い差別も目だってきました。 もとい、差別は昔からありましたが、ネットの発達によって、いわゆるヘイトスピーチを目にする機会が増えてしまいました。 私もパートナー制度の実現を喜んだりしただけで、虹色のイベントへの参加報告をブログに書いただけで、見も知らぬ人から心ない言葉をぶつけられます。 またゲイとの交流が深まるにつれて、差別で辛い思いをしている人々の話しを沢山聞き、自分と同じ性指向だけに他人事のように考えることは出来なくなりました。 「差別」は他人様がされているのを見るだけでも非常に不愉快ですが、自分が差別されると、その不愉快さは何百倍もします。 だから少なくとも自分は、他の少数派や弱者の方々を差別しないように気をつけていますし、「ヘイトにヘイトで返してはいけない」と自重しています。 でもやはり内心では、はらわたが煮えくりかえります。 いわゆるヘイトをする人には、これを娯楽半分で面白がっている人が少なからずいます。こちらは切実な問題なのに・・・ でも「怒り」は煩悩ですよね。 私は自分を差別してくる人間に対し、菩薩のように接するのは無理です。 私がお不動さんに惹かれるのは、これも理由かもしれません(お不動さんの慈悲の怒りとはほど遠いですが)。 そこで質問なのですが、 仏教でも差別に対しては、「右の頬を打たれたなら、左の頬を向けてやる」べきなのでしょうか? それとも、非暴力、例えば言論等での抵抗はゆるされるのでしょうか? 差別に対する怒りも煩悩であり、消さなければならないのでしょうか? よろしくお願い致します。
先日父が亡くなり、通夜と葬儀を葬儀社からの紹介である導師にお願いしました。 葬儀の直前、葬儀社の方からの連絡で導師の控え室に参りました時少しお話しさせて頂きました。導師からは供養の仕方やお寺の合同葬のパンフ等頂いたのですが、私がネガティブな言葉で導師の言葉を遮ったり話の腰を折ったとの事で導師から不愉快だと言われ、そのお言葉に総早々に退散致しました。 時間になり導師が控え室から出て来られ皆が着席し、導師は開口一番長女の方と言い合いになりましたと仰ったのです。私は耳を疑いました。導師と言い合いなんてする訳もないです。導師に不愉快と言われたので、それではと席を立ったのです。 家族や親戚には何も話していなかったので、誰も理解できず反応もなかったからでしょうか、導師はそれ以上は何も言わず読経をされました。 でも、終わってから家族にあの意味は何だと聞かれました。私は大切な父の葬儀の時に導師を不愉快にさせてしまったこと、読経の前に導師に言われてしまったことで葬儀を台無しにしてしまい亡き父にも本当に申し訳ない思いで一杯で悲しくて涙が止まりませんでした。 葬儀もせめてもの親孝行だと、金額は張りましたが大手の葬儀会社に手配を依頼して抜かりなく、気持ち良くと思っていたのに情けないです。 葬儀社とお寺の住職の奥様から、導師に何でもご相談下さいとのお言葉に甘えてしまい、結局は導師を不愉快にさせてしまった自分自身が情けなく、葬儀も気持ち良く満足にあげられなかったと後悔の日々です。 ご相談したいのは、戒名を頂いたお寺の導師だから当然四十九日も同じ導師にお願いするべきとの意見が家族にあります。一方、親族に非があっても、導師が葬儀の時に持ち出す言葉ではなかったのではないかとの意見もあります。 私にしても導師が何も仰らなければ水に流して四十九日もお願いするつもりでおりましたが、葬儀をぶち壊しにされたような思いは残りますし、不愉快と仰られたので四十九日に出席する勇気はないです。 今後は亡父の出身の地方のお寺に納骨する予定です。そのお寺に問い合わせましたら四十九日法要、開眼供養、納骨供養など引き受けてもらえるとのことです。 同じ導師にお願いして私は欠席するべきか、或いは納骨して頂く地方のお寺に四十九日法要をお願いするべきか、悩んでおります。よろしくお願い致します。
こちらでは何度もお世話になっております。 長年大事にしてきた恋愛もあっけなく失い、ものすごい喪失感です。 おかげで職場でのパワハラにも耐えられなくなり、ついに鬱の診断を受け、仕事も先月辞めてしまいました。 しかしながら、哲学の本を読みいろいろと考え直し、病は気からのように体調は一ヶ月も静養すると戻りました。今は、数年前に働いていた企業にお世話になり、再就職をして働いています。 今ある恵みに感謝して、無いものにこだわらず、何を目指すでもなく、ただその幸せを継続して生きていきたいとは思うのですが、どうしても罪悪感と逃げたい気持ちに襲われて正気でいられない時があります。
仏教と宗教はどう違うのですか? 宜しくお願い致します。
祖父が現在危篤状態で、医師から伝えられた余命を過ぎても、奇跡的に生きている状態です。 祖父は昔ながらの仕立て職人で、孫の私に多くのことを残してくれています。 愛する祖父に院号をつけてやりたくて、ご相談です。 祖父が墓を建てたのですが、院号や大姉が多く、墓を建てた祖父に院号がついてないのはやはり気になってしまいます。 祖父が事前に申し込んだ葬儀のセットには、院号の料金は含まれておらず追加の支払いが必要です。 ①いつお坊さんに院号をつけて欲しいとお伝えすべきでしょうか? お坊さんにあってすぐにお願いすべきなのか、戒名をつける前なのか、戒名をつけた後なのかがわからなくて。 ②自分で自分の戒名をつける講習会などや、修行があると聞きました。 意識のない祖父に変わって、孫の私が代わりに参加することで、祖父に院号をつけることはできないのでしょうか? 祖父自身は、負担をかけたくないから院号はいらない!といっていました。 ホームページなどを見ると50万-100万ほどで院号をつけていただけると書いてありました。 学費のために貯めたお金を充てればなんとか工面してやれます。 私の進学を応援していてくれた祖父なので、自分のために貯金を切り崩すとなると、祖父への負担になるのではないかと心配しています。 そのため、なにか別の手が打てないかと考えています。 自分勝手な質問であると思いますが、お知恵をお貸しください。
どうしても意味・ユーモア感覚が分からないので、ここでお坊さんに直接質問をさせて頂きます。 いま私は、とある掛け軸について研究をしています。ですが、私は仏教の世界を深く知るようになったのは、つい最近になってからであり、そのせいで仏教世界のユーモアが分かりません。 研究している掛け軸には、掛け軸の下の方に、『十六羅漢のうち十人が水が足首らへんまでしか来ていない海(若しくは川)の浅瀬を渡って、上の方を見上げている』描写があり、左上の方に、『龍頭観音と思われる龍が一匹と、龍の口らへんに、モワモワした煙と共に、お花のような(?)ものを手に持っている着物を着た女性が一人立っている』描写があります。更に、この空の方へ登っている龍には、十六羅漢のうち六人が乗っており、そのうちの一人が釣り糸みたいなもので蛸を海から釣っています。 十六羅漢が川ではなく、海を渡っているのは、蛸が海にしか生息していないからという理由で、海だと推測しました。 この絵には漢詩が付いているのですが、以下のようなものです: 是秋釈子袿第響 無転十六蛸入道 為老先生博祭無事居楽 遊印には→星洲晩漁 と書いてあるはずなのですが(あまりきちんと読めませんでした)、漢詩の意味は全て分かりませんが、ここには蛸入道としっかり書いてあります。 以上のことから、私は、蛸とお坊さんの頭を掛け合わせて、笑いを取るような絵だと見受けました。 が、私の感性では、釈迦の弟子たちで笑いを取るという感覚が全く分からないのですが、ひと昔の日本では(明治・大正あたり)、このようなことはよく起こり得たのでしょうか?またこのような、ブラックユーモア的な掛け軸は、よくあったのですか? ちなみに、私の推測はあっていますでしょうか?(蛸とお坊さんの頭を掛け合わせることで、笑いをとるという感覚) 若しくは、他に何か意味があるのでしょうか? 漢詩の意味も分かりませんが、このセンスが本当に意味が分からなくて、大変困っております。どなたか詳しく説明して頂けますと幸いです。 掛け軸の絵を写真で添付できないので、絵そのもののイメージがし辛いと思いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ちなみに、この掛け軸は、近代に描かれました。
麻酔科医の主な仕事は、「体の痛み」を取り除くこと。 お坊さまの主な仕事は、「心の痛み」を取り除くこと。 患者様に寄り添う仕事。 救いを求める人たちに寄り添う仕事。 ほぼ同じようなもの。 もし互いに協力し合えれば、もっとたくさんの人たちを救うことが出来るのではないでしょうか? でも、何だか今、非常に高い「壁」を感じています。 「どちらかだけの世界」として存在しているように感じています。 私は、そんな「偏った世界」や「無意味な壁」を取り除きたい。 「誰でもいらっしゃい!」と人を招いておきながら、互いの中に「分け隔てる壁」を持ってしまっているのではないでしょうか? 窮屈です。 息苦しいです。 全然、開放的ではない。 閉鎖的です。 この「壁」は、これからもずっとずーっと無くならないものなのでしょうか? それだと、せっかくの「ビハーラ活動」もなかなか広まらないのではないでしょうか? こっちはこっち、あっちはあっち。 そんな状態、良いとは思えません。 これは「喜怒哀楽」で言うならば、私にとって「怒」ではなく「哀」です。 このままだと、ここに私のいる意味など無くなってしまいそうです。 助け合いの精神とは…? 「助けたい」 これも「欲」の「煩悩」なのでしょうか? ここhasunohaに来て1か月が経ちました。 去るべきかどうか迷っています。 hasunohaは、とても心地よく素晴らしい場所です。 しかし、何だか… うまく言葉に出来ませんが… 迷っています… 消えた方がラクなのでしょうか…
こんにちは。 迷った時にいつでもこのサイトに訪れています。 私は少し前に般若心経の現代語訳に触れ、そこから仏教が大好きになりました。 今までも嫌いだった訳ではなかったのですが、宗教自体が自分とはあまり関係の無いものだと思っていました。 さて、そんな私もいろいろ調べていくうちに、他の今苦しんでいる誰かにも、仏教の事を話してみたくなったのです。 ですが実際話してみると、そんな事が出来てたら苦労しないよ、とか、そんな事で納得出来るほど私は素直になれないわ!とか、受け入れてもらえない意見もちらほらありました。 (もちろん、仏教の素晴らしさを理解してもらえた方も多かったのですが。) 全ての人を納得させたかった訳ではありませんが、やはり私が話すからには私的見解が入る為か、思っていたより上手く伝わらないのだと知りました。 そこで質問です! お坊さん方は、普段説法や法話をされる時に、より沢山の方に理解してもらう為に、どんな事を心掛けておられますか? 厳しいアドバイス、面白い実体験など、回答いただけると嬉しいです。 お忙しい事とは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか お釈迦様が怪しくないですか? 自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 最終的には無記なんですもん わかんないですもん ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね
私の家の宗派は浄土宗で、私はよく、祈る時や心が苦しい時等に念仏(南無阿弥陀仏)を唱えます。しかし、最近不安に思う事が有ります。 それは、念仏の唱え方と、阿弥陀様についてです。 私は、念仏を唱える際には、御仏を念じ、御仏の名を口にする事を心掛けています。ですが、それが本当に正しい唱え方(観想念仏、称名念仏)と言えるのか、御仏に失礼ではないか、と思ってしまうのです。 そしてもう一つ、阿弥陀様は、御釈迦様とは、どの様な関係が有るのでしょうか。私は、以前にネットに“阿弥陀様は御釈迦様の先生である”と書かれてあるのを見た事が有るのですが、果たしてそれが事実なのか、それを鵜呑みにするのを躊躇してしまいます。もしかしたら、私は阿弥陀様の事を勘違いしているのではないか。阿弥陀様の事も知らずに、御仏を信仰し、念仏を唱えてしまっているのではないかと思うと、不安で仕方無いので御座います。 これを御覧になって下さっているお坊様、正しい念仏の唱え方と、阿弥陀様の事について教えて下さい。どうか、宜しくお願い致します。
こんにちは。 先日結活パーティに参加し、お坊さんとカップルになりました。 なかなか雰囲気の良い方で、番号を交換しましてこれから何度か個人的にお会いしたいなと思うのですが、お寺に嫁ぐのは大変と聞きました。 お会いしたばかりなので詳しい話を聞いてはおりませんが、今はお父様が住職をなさっており、ゆくゆくは彼がお寺を継ぐようです。 アラサーなので結婚を視野に入れたおつきあいをしたいと思うのですが、そのお話を聞いて少し迷っています。 お坊さんと結婚するとここが良い、ここが良いなどの具体的なお話があればお聞かせ頂けると幸いです。
小さい頃から、命が有限であることをネガティブにとらえ、生きることに執着してしまいます。 仏教の教えに従うことで、こうした心が安定するのを感じます。 しかし、一方で、「死を受け入れるしかないなんて虚しい」とも思ってしまいます。 心が安定する→虚しくなる→心が安定する→虚しくなる、この繰り返しです。 このまま死ぬまでこのループから抜け出せないのではないかと不安な気持ちでいっぱいです。 最終的に、死に対してどのように向き合えるようになれればゴールなのか教えていただきです。
一人娘です。両親は数年前に自宅を手放し、私の近くに引っ越してきていました。 先日父が亡くなったのですが、親戚は遠方でかつ高齢でもあるため、葬儀は母と私の家族のみで行いました。おつきあいのあるお寺さんはなく、葬儀屋さんと相談しながら、最終的に、ご縁のないお坊さんに葬儀を主導していただくことに違和感を感じたこと、また母の体調面から葬儀は負担のない方法が良いと考え、直葬で行いました。ただ、改めて思いめぐらせているうちに、先に亡くなっている父の両親や兄弟姉妹たちと同じように、父も仏式で供養する方がいいのではないかと感じるようになり、今後の供養については仏式で行いたいと考えています。ただ私はすでに嫁いでおり、子どもも娘なので、お墓や仏壇は継承しないでよい方法を検討しています。 夫の両親はすでになく、仏壇は長男のところにあるのですが、私たち夫婦にとっては、仏壇よりもお墓の方に両親の魂があるような感覚があり、今回の私の父についても、お墓は建てたいと考えていて、永代供養つきのお墓ならよいのではないかと考えています。ただ仏壇については、夫の両親のものがないのに私の実家のものを置くことに抵抗感があり、仏壇を置かなくてもよい形で、仏式で供養していけないかと考えています。 葬儀屋さんから、墓石に故人の魂を込めることもできると聞いていて、霊園の見学などでも、回忌法要についてはお墓の前であったり、霊園の施設などでも行えることは伺っています。ただ、葬儀を無宗教で行ったため、位牌は用意しておらず、戒名もつけていただいていません。できれば、今後の供養は決まったお寺さんにお願いできればと思っていますが、それは可能であるのか、どのようにすることが、父にとってよい供養になるのか、教えを賜りたくよろしくお願いいたします。 なお、父方は真言宗でしたが、菩提寺とのおつきあいはありません。母方はクリスチャンでしたが、母は洗礼は受けておらず、将来は父と同じお墓に入ることを希望しています。
こんばんは。 今度はおばあちゃんについてです。おばあちゃんは認知症です。 元々千葉県に住んでいました。浦安市です。ディズニーの街です。 中2になると同時に、姉・母・私で、おばあちゃんの介護の為に、お父さんを千葉に残し、広島県廿日市市に引越しました。宮島の街です。 中学校が変わり、パートを始めた母に代わり、私がご飯を作ったり、出したりしていました。 中3で塾に行き始めましたが、おばあちゃんに晩御飯を出してから、塾に通っていました。 私は今、岐阜の大学に通っていて下宿をしています。 一人暮らしをして、友達を沢山呼んで・・・という夢は諦め、大学寮に住むことに決めました。 家賃は4300円。光熱費は5000円弱。 ですが、安いですが、抜群に汚く、私は気管を痛めてしまいました。 それでも、デイサービスに行くおばあちゃんの為に自分にかけるお金は、減らして欲しいと思い、大学寮は出ませんでした。 今では、排便や食事もままならず、施設に入っています。 成人式で帰った時に、おばあちゃんに 「俺誰かわかる?」 と聞いたら 「はー、誰じゃったかいねー?」 と言われてしまい、後頭部を強く殴られたかのようなショックを受けました。 「ユーリだよ。」 「大きくなったねー」 どうやら、私は、早稲田大学に通っているらしく・・・ 今年7月に半年ぶりに帰り、施設を訪ねて、同じ質問をしました。 「俺誰かわかる?」 少し考え・・・ 「ユーリ君!!」 私は、驚きました。半年前に忘れていた人間を認知症の彼女が、思い出せるでしょうか? 施設の人曰く、 「いい子にしてたら、家に連れて帰ってもらえるって、思ってるんじゃないかな?」 私は、その場で大号泣してしまいました。 今の私があるのも、彼女がいたからです。 親は、「大変だろうから帰ってこんでええ。交通費もあるし。」と言います。 ですが、2年間のバイトでそれなりに貯金しました。 私は、野球部に所属していて、長期休暇はほとんど練習です。 さらに、勉強。自分磨き。 実際、最近、前述のことを言い訳にしてお婆ちゃんの老いていく姿を、見ないようにしている自分がいるような気がします。 やはり、時間を無理矢理絞り出してでも、会いに行くべきですよね? そして、どう声をかけたらよいでしょうか・・・?
こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。
短気な性格を直したくて読んだ自己啓発本に書いてあった無我(人や物事に対する興味、自分自身の気持ちを無くせばイラつくことも無くなるということらしいです)というものを数年前から自分なりに頑張って実践していたのですが、効果が出てくる頃には人と会話が続かないようになってしまいました。 会話している相手や話している内容(流行などにもかなり疎いせい)に全く興味がわかないので向こうが話かけてくれても一言二言生返事で返してしまいすぐに途切れてしまいます。 頑張って繋げようにも面接というか質疑応答のように無機質な感じになってしまい、華が咲かずただ無意味な問答で相手を困惑させているような気がします。 自分自身、気まずいという感覚が麻痺してきているのか感情という面で困ることは無いのですが、やはり不和の原因となっている部分もあるのでこのまま社会に出るのは危ない気もします。 元から私的な場面では人とあまり関わりたくない性分ですのでパブリックな部分は徹底してドライに割り切りたいのですが、感情的な人には斜に構えた嫌味な奴に思われてしまうのかも知れません。 「嫌われようがどうでもいい」という今までのスタンスを崩し、多少無理にでも嫌われない様にと努めるとまた昔のように小さいことでイライラする自分が垣間見えるのでどうすればいいかわかりません。 本家本元である仏教での無我というものはどういう教えなのでしょうか。
うつ病を患って2年半、あまりの苦しさに自殺を考えたことは何度もあります。心療内科に通っていますが、投薬だけでは症状の改善がなく、食生活の改善や運動、整体などのアプローチも試し始め、気分の良い日も増えました。ただ身体的な改善は出来ても心的な改善は出来ていません。うつの原因は会社でほぼ社内失業常態で、将来への絶望、不安感などです。耐え難い状況を受け入れ、心安らかに過ごす仏教的なアプローチがございましたら、ご教授くださいませ。どうぞ、よろしくお願い致します。
私は普段自分で言うのもなんですが、割と真面目な方だと思っています。妻と子がいますが、家族のため必死に働いています。しかもより豊かな生活をおくれるように収入を上げるために勉強もしています。実家が近いのですが、両親も高齢なので、なるべく顔を出すようにしています。妻の実家が地方にあるので、そこにも年に数回は行くようにしています。ですが、私には自分でも制御できない自分が存在しています。特にアルコールが入った時なのですが、性的な面で不道徳な行いをためらいなくしてしまう自分がいます。自分でもこの自分が嫌いなのですが、一度スイッチが入ると中々止めるのが難しいです。ただこれを本当の自分とは思いたくありません。普段の私を本当の自分と思いたいです。ですが、抑えようとするほど、年に数回、出てきてしまいます。 一体どうすればよいのでしょうか。 漠然としていて恐縮ですが、よろしくお願い致します。
最近離婚したばかりのシングルマザーです、2歳1歳の2人の子供がいます。 最近、2歳のお姉ちゃんが『パパとママとあそびたい、パパにあいたい』と言います。まだ離婚したばかりでパパのことを覚えているからだろうと思います。 離婚前に色々あり、揉めに揉め精神的に私が参ってしまい、元夫に『もう関わりたくないので養育費もいりません、子供にも会わせたくない』とメールして離婚したため、正直会わせたくないし会いたくないのですが、子供のためを思うと会わせてあげたい気持ちでもいます。元夫は子供にはとても優しく良い関係でした。1歳の弟は4ヶ月位の時に別居したので父親のことはわからないと思います 娘がこれからも会いたいと言ってくるのかはわかりませんが、娘の様子をみて判断したらいいのか、会わせてあげたほうがいいのか、どんな判断が良いか悩んでいます
私は、ここ数ヶ月、とある壁にぶつかって必死に祈ってきました。 しかし全く事態が好転することはありませんでした。 ですが、悩んで悩んで数ヶ月、お祈りとは関係のないある人に言われたことを心の中で反芻しているうちに、ようやく道筋が見えてきました。 さて、ここで敬虔な人なら「ずっと祈ってきたことを叶えてくださってありがとうございます」とお祈りできるのでしょう。 しかし私はそんな風には思えません。 祈って示された道でもなし、お祈りとは関係のない人に言われたこと、言われたことを反芻したのは祈りの最中ではない、こんな状況で感謝なんてできません。 それどころか、この数ヶ月どれだけしんどかったと思っているんだ!もっと早く道を示せ!!と怒りたいくらいです。 私はどのように気持ちを持っていけばよいのでしょうか。