何度も質問すいません。 地獄の種類など書かれてるのがありますよね。 くわしくこれをしたらこういう地獄でこういうことされるみたいな… すごく苦しそうな罰が書かれていました。 前の質問の虫を殺すなどではありません。 しないようにとそれらをいろいろ見てたのですが1つ2つこれもうしてしまったんじゃ…といった内容のことで堕ちる地獄が書かれていたのです。 お釈迦様は知らず知らずやってしまった罪のほうが重いなどとおっしゃられたらしいですよね。 てことはもうどれだけ良い行いをしたとしてもすでに許されるすべはないってことですか? 残りの人生私はこの地獄に行ってこういう罰をうけるんだ…と思いながら希望すらなく生きていくしかないのでしょうか? 過去は変えられないことぐらいわかってます。許される方法など存在しないのでしょうか?罪が許されるのであれば出来る限りはなんでもしたいです。 お釈迦様は一度罪を犯した人間がどれだけ悔いてもけして許してはくるないのでしょうか?
3年前に結婚が破談になってから卑屈な自分となりうつ病を患ったりと安定しない日々を送ってきました。今はうつ病の薬もやめて体調も安定したのですか、卑屈な自分が前面に出ているのか声が出しにくく対人スキルがかなり落ちました。 もともとは人見知りもなく明るくて、よく話し積極的で前向きな性格だったのでこんな数年で自分の変わりように悲しくなります。お酒を飲むと明るい話せる昔の自分に近づくのですが。このままだとさらに独身だろうなと自分で分かりまたしょげてしまいます。どうしたらいいのか分かりません
私は恐がりの癖に暇な時間怪談話などの朗読動画をよく聞いていました。 ある日聴いた内容が目が見えない霊なのでその霊知ってる人間だけを探し殺しにくると言った内容でした。 その朗読を載せた人は次は自分のばんだと思い少しでも生存率をあげるためにのせたと言っていていつその霊が私の前に来るのかと思うと怖くて怖くてたまらないのです。 成人までに髪伸ばしたら?と親に言われたのですが、その霊は後ろ髪をのばしてると掴まれるといったことで女なので剃ることはできないのでショートカットです。 聴かなければよかったと後悔しても遅いしどうすればよいのでしょうか。 本当に、霊が殺しにくるなどのことはあるのでしょうか? ここ毎日そのことが怖くて怖くてずっと考えてしまいます。
29歳女子。結婚歴3年半です。 今妊娠7週目です。 妊娠発覚直後に夫が不倫をし「もう愛してないから離婚してくれ」と突然言われてしまいました。 夫は、慰謝料・養育費を払うとは言うものの、嘘を平気で言える人なので養育費も貰えるとは思っておりません。 私の両親は出産に反対で堕ろせと会う度に言ってきます。 (もし産むなら実家に帰ってもいいとは言われてますが、子育てのサポートは一切しないと言われています) でも、実際に子供を産んだら死ぬ気で働いて1人でも育てていくのだろうと思います。幸い正社員で年収も平均よりは貰っています。 自分の身を粉にして働くならば、子供は1人でも育てられると思いますが、私は医学部受験をして医者になりたいと妊娠前はずっと考えていたので、その夢が実現できなくなるのではないかと思うと、今は堕ろして自分の人生に集中すべきなのか?と堂々巡りをしてしまいます。 子供は産みたいですが、それが本当に今なのか。この環境で産むのか。 答えが出ません。 今堕ろして将来子供が産めない体になったり、縁がなかったら、私は一生後悔するのかもしれない。もし今産んで医学部の挑戦ができなければ一生後悔するのかもしれない。 どちらも選びたいが、現実的に1つしか選べない気がしているので決めなくてはならないと思っています。 どうしたら良いのでしょうか。
きっかけ 私は仏教のおしえにひかれているのと、お坊さんという職業に 漠然とあこがれを抱いています。 皆さんはどのような縁でおぼうさんになられたのでしょうか? 参考までに教えていただけると幸いです。
私はあるお寺の長男で、跡を継ぐ立場にありますが、ここ最近進路について真剣に考えていると、どうしても自分が跡を継いでいいのかという疑問を抱いています。それはタイトルにもあります通り、私に信心というものがほとんど無いからです。 家柄上、仏教・宗教とどう向き合うかということをよく考えるのですが、そのとき仏教はこれこれこういうものであると認識することはできても、それを信じることはできません。読経や修行も必要ないのではと考えてしまいます。そのような者が僧侶となってお寺を継ぐということは適当でしょうか。私は適当で無いと考えます。 私自身はお寺を継いでも構いません。職が決まっているというのも有り難いことだと考えています。しかし原理を大事に考えてしまうので、真面目に活動している僧侶の皆様を見ると、咎める心があるのです。 私はお寺を継ぐべきなのでしょうか。そして、もし継ぐにしても、信心が無いのは問題でしょうか。周りにこのことを相談できる人がおりませんのでこの場で質問させていただきます。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。