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hasunoha 問答検索結果 : 「私 お経 」
検索結果: 2725件

母親を憎んでしまいます

21歳です。 2歳と0歳の子どもの母親をしています 私はシングルマザーの家庭で育ちました父親の記憶はありません 母は暴力的な所があり高校生になるまでずっと日常的な虐待がありました毎日死にたくてたまりませんでした小学生の時に首をつってみたり高校生になってからはリストカットが日常的になりましたそんな生活に終わりがきたのは高校に入って学校側から児相に通報がいき緊急保護という形で保護され施設で生活する事になりました 母は施設に入るなら縁を切ると激怒していましたが私は施設に行くことを決めました ですが施設に行ってからも母が祖母に迎えにいったら死ねとか帰れとか言われたと言ったらしく祖母から激怒の電話がきたり祖母は母の味方なのでこっちの話は一切聞かずもちろん母は迎えになんて来てないしそんな言葉いってもないです… 施設を出た後もSNSのメッセージ等で文句を言われたりもしてましたが今の旦那と出会い結婚して自分の家庭を持ち子どもにも囲まれて幸せですでもいつかこれも母に壊されてしまうのではないかと不安でたまらないですで母と離れてからはPTSDに悩まされ悪夢にうなされたり摂食障害に悩まされたりしています。 母と離れて肉体的苦痛はなくなったものの今度は精神的苦痛に悩まさせれ母が憎くて憎くてたまりません した方はあとには何も残らないのになんでこんなに私が苦しまなきゃいけないのか悔しくてたまらないです 正直母が生きている限りずっと苦しんで憎んでしまうと思いますだけどふとしたときにこのまま会わずに祖母や母がいつか死んでしまったら後悔すると言う矛盾な気持ちも産まれますがこんなふうに思うことすらなくなってしまえばいいのにと思います 恨んでも仕方ないとか過去を振り返っても仕方ないとよく言われますがそんなの綺麗事にしか思えません何も経験してない人にそんなこと言われたくないと思ってしまいます 憎む気持ちすらなくなって母に対しての気持ちが全てなくなってしまえばいいのにとまで思います 私はこれからどんな気持ちで母に対する気持ちをもって生きていけばいいのかわからないです… どうしていけばいいのでしょうか

有り難し有り難し 80
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永代供養か共同墓地か

祖父のお骨について相談させて下さい。 私は現在結婚をして家を出ています。 実家とは折り合いが悪くほぼ、連絡を取っていません。 先日義実家の用で納骨堂に行った際に、私の祖父が入っていた納骨堂が建て直しされた事が分かりました。 2年前に建て直しをするから遺骨を一旦引き取る旨を実家は知っていましたが引き取らず、そのままにしていた様です。 現在は本堂の隅に置かれている状況ですが、今年中に引き取らないと処分されてしまうそうです。 その為実家に連絡を取ってみたのですが、あいまいな返事しか返ってこず、多分そのままにするつもりの様です。 私と祖父は血が繋がっていませんし、結婚をして家を出ているので私側でお墓を買ったり納骨堂を新たに買ったりする事は金銭的にも厳しいです。 実家も散財ばかりしているので新たに納骨堂を買ったりする事ができないと思っています。 永代供養か共同墓地を考えていますが、直ぐにはお金を出せない状況なので、一旦遺骨を家に保管しお金が貯まったら永代供養、あるいは共同墓地…と考えています。 しかし、実家では遺骨を引き取りたくないの一点張りです。 もう、どうしたら良いのか分からず困っています。 どうが、ご助言頂けないでしょうか…

有り難し有り難し 26
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葬祭業者として働く

はじめまして!いつもハスノハでの相談をありがたく拝見しております。 私は現在大学4年で、葬祭業者として内定を1ついただいております。 しかし、転職のしにくさや、忌みに触れる仕事であることから、親や学校のキャリアセンターから葬祭業での就職に反対され、不安になる気持ちを抱えております。 もともと苦しんでいる人不安を抱えている人を助けたいと言う思いで就職活動をしており、葬祭業は私が大好きな祖父をなくしたときにきちんとお見送りできてよかったなぁと思ったことから志しました。ただ、親の期待に応えたい、もう少しお給料を良くしたいなどの思いもあり、同じ志を生かせる職業として病院での事務などを目指して就職活動を続けておりますが今回のコロナ禍の情勢もあり、なかなか他の内定が出ない状況にあります。 ハスノハのお坊様たちは実際に葬祭に深く関わるお仕事をなさっていると思います。その際周りに反対などされなかったか、不安はなかったか、葬祭に関するお仕事を日々どんなお気持ちでなさっているのか、また、必死に努力をしてもなかなか結果に結びつかない状況にどのように対処されているかなど伺いたいと思っています。 色々と質問して申し訳ありません。ぜひお答えをいただければありがたいと思います。

有り難し有り難し 45
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対人関係における気分のムラをなくすには

人への気持ちがコロコロ気分が変わる時があり、とても疲れてしまいます。 例えば、自分がAさんは意地悪だから嫌い!と思っていたとします。Aさんが欲しいものがありました。それはAさんにとってはなかなか手に入りませんが自分は容易に手に入れられるものでした。当然、そのことは黙っておこうと思っています。しかしある日突然そのAさんに対して見返りもなく(すごいと思ってもらいたいわけでも、感謝されたいわけでもなく)急に「そんなに欲しいなら…」という気分になり、「うちの近くで手に入るから買っておくよ」と手助けをします。その数日後、なんで私はこんなに嫌いなAさんに手を差し伸べたのだろうか!?という気持ちが突然押し寄せて、嫌な気持ちになります。Aさんが「あの時はほんとにありがとう!またよろしくね」と言ってくると、余計に「あんなにいつも意地悪されてるのにどうして私は助けたんだろう。せっかくこれまで上手に距離を置いていたのに!」と自己嫌悪に陥ります。 こんな感じで、ちょっと例が微妙なのですが、基本的には「嫌だから距離を置こう」と思っていてその方針でやっていこう!と決めていたものが、何かの拍子に「いいじゃないか、受け入れよう」と心の中でガラリと変わります。そしてまた「嫌だから離れよう」に戻り、受け入れたことを大後悔するのです。小さなことから大きなことまでよくあります。 この気持ちの浮き沈み(主に対人関係に対して。)はどうコントロールしたらいいのでしょうか。嫌なことをされてもその相手を適当に受け流し、時に受け入れることができれば心が楽になり生きやすいと思います。そんな考え方になりたい。ただ、そのような気持ちには一瞬しかなれず、その時の行動を後々後悔するのに疲れてしまいました。どうやったらこの気分のムラをなくせますか。

有り難し有り難し 17
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信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 38
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福祉業界に未来はありますか

福祉現場で10年ほど働いています。 この職を選んだ理由は単純に自分が昔からおばあちゃん子で、母親より祖母と過ごした時間の方が長く、年配の方と接するのが好きだったからです。 高齢者の残された時間、家にいる時のように一人一人が自分らしく過ごせる環境を作るための支援をしたい。 大抵の施設(老人ホーム)ではこういった経営理念を掲げています。 私自身も当初はこの気持ちでいました。 しかし現実は深刻な人手不足。 時間に縛られ、まるで工場のライン作業のように進んでいきます。 しかしロボットのように働いたとしても相手は人ですから、必ずイレギュラーなことは起こります。 結局時間内に終わらず、残業代も出ません。 そうやって業務を淡々とこなしていくうち、最初の理想はどこかへ消え、今となっては “低賃金・重労働で先の短い老人達の世話。一体なんの意味があるんだろう。この業界に未来はあるんだろうか” などと最低な考えすら浮かんできてしまいます。 金儲けばかり考えてる政治家連中と年金目当てで延命治療させる家族。 何がその人らしい生活、最期なのかもうわからなくなりました。 無理矢理生かされるくらいなら安楽死制度を早く導入してほしいと切に願います。 もう終わりです。この国の福祉政策は。 すみません。なかば愚痴になってしまいました…。 夢や理想だけではこの業界では生きていけないということは身をもって分かっているのですが それでも何とか私がやらねば誰がやる精神で頑張ってきました。 それがここ最近自分はなぜこの仕事をしてるんだろう。なにも自分が大変な思いをしてまでやらなくてもいいのではないか…と我に返ったような感じです。 誰もやりたがらないことを安月給でやる意味。 しかし新卒で福祉しかやってこなかった私に今更他の職種が勤まる自信もないのでとりあえずは続けますが 私のような人材は辞めた方がいいのでしょうか。 延命治療をしてまで人は生きる意味はありますか。 こんなことばかり考えていて、国家資格まで取得したのに、プロ失格ですね。

有り難し有り難し 20
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亡くなった人が成仏するということ(難しいです....)

おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。

有り難し有り難し 160
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何故戒名をもらったら仏教徒になるという認識は誤りなのですか?

お世話になっております。 柴田秋です。 以前、こちらで葬式をあげてほしくないという質問をいたしました。 戒名をもらった時点で仏教徒になるのが嫌という理由を上げましたが、それは誤りとの指摘がありました。 戒名とは法号のことであり授戒の証、すなわち仏門に入ることのはずですが、何故、戒名をもらうことが仏教徒になるということではないのですか? 少し長いですが、それでも、詳しい経緯をお知りになりたい方は下記をご参照下さい。 http://hasunoha.jp/questions/5942 予想される答えとしては「私はすでに仏教徒である」ということと思います。 一度も同意したことはありませんが… 私が嫌いなのは仏教だけではなく、宗教全般なので、特別仏教がどうのこうのというわけではないので、ご理解ください。 ただ、ガウタマ・シッダールタや、イエスや、ムハンマドなど、一人の人間の言葉の元に集まった集団が起源なのが特に嫌という感じはあります。 神道に言及しているのは、少なくとも私は宗教ではなく、神話扱いしているという理由です。 ギリシャ神話、ローマ神話、ゾロアスター教、それから、特に好きというわけではありませんが、エジプト神話あたりは、私に対して「無害」なので、別に嫌いというわけではありません。

有り難し有り難し 40
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死ぬのが怖いです

高校生です 私は中学生の頃からずっと死ぬのが怖いです 私はこれまでの短い人生の中でも色々と悪いことをしてきました。嘘もつきましたし、人を傷つけたこともあります また、幼い頃(幼稚園生頃)にお店で量り売りとして売っていたチョコレートを一粒こっそり食べてしまったことがあります。あの事をずっと後悔しています 沢山悪いことをしてきたと思います 私はきっと、死んだら地獄に落ちてしまうことでしょう。祖母は「絶対天国に行けるからね」と言ってくれますが、それでも確証がありません いえ、地獄に落ちるかもしれない、それ以上に怖いことがあります それは、死んだら“私”が無くなってしまうのではないかということです 私は、私がこれまで積み上げてきた物を失うことが、自我が無くなってしまうことが怖いです 今、こうして悩み、悲しみ、笑い、怒り。そんな感情を抱いている私が消滅するかもしれないということが、本当に怖くてたまりません この恐怖は一年に五回程度湧き上がってきては私を悩ませます。怖くて怖くて、死後のことを思うと私は涙が止まらなくなります ですが、周りの大人は私のこの悩みを「くだらない」「大人になればそんな悩み薄れる」と言ってまともに取り合ってくれません。私は“今”の対策が知りたいのです。大人になってから、なんて待てません 死ぬのが怖いと言いながら、不老不死になりたいかと聞かれると困ります。永遠の命なんて寂しいですから この悩みの解決策がわからないままです 今も苦しみを堪えながらこの文をうっています 誰か、私を助けてください カテゴリー等、間違えていたら申し訳ありません

有り難し有り難し 31
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義両親の自己中について

旦那の実家はお寺です。 やはり旦那も言う通り意見が合わず別々に暮らしています。 それはお互いのためにいいのですが、自分の都合の良いルールで旦那を縛り付けます。 お寺は休みがないから旦那はほとんど休みはありません。ないに等しいです。 なのに義両親は毎月北海道へ2泊3日で行きます。お寺を開けられないので私達家族が泊まりに行きます。 という事は両親は休みはないと言いながら休んでますよね。そのことを旦那が指摘すると60歳以上はいいの!と言い。 旦那には休みは与えず、がんじがらめにします。毎月だと家族がお寺に泊まる用意に片付けがはっきりいってめんどうですし、泊まるにしてもいつ干したか洗濯したか解らない色あせて寝汗が染み込んだ布団です。 留守番をしてもらってる。って気持ちが無く、させてやってるだと思います。 しかも、檀家さんには旅行へ行ったとは言うなお寺は開けられないんだから。病院やお寺の同士の集まりにでも行ったとでも言っとけ。と命令口調です。帰ってきてもお礼の言葉すらありません。 ですから、私達の負担ばかりでなんにも得にもならないし、自分たちが3日休んだから旦那にも休みをやろうとはおもってません。 それも旦那が指摘すると、逆ギレしろくに仕事もしないで生意気!給料やらないぞ!と言う始末。 畑作業も庭の手入れも草むしりも旦那は毎日日焼けと汗を書きながらやってますし、お寺の仕事もしています。義父はほとんど何もせず必要以外は部屋にこもり寝ているか、テレビを見ています。 もー旦那が可哀想だし、もし旦那が過労死や過労で入院でもしたらどうしようと思います。 私が口出しすることでもありませんし、首を突っ込む話でもありませんが妻としては何もしてあげられません。一度話してみたら?くらいしか言えません。 言っても、理屈にもならない自分たちに有利な屁理屈をこねてくるだけです。 旦那も旦那です。一度は両親に話しても、次の日には旅行の手配も日程表も作ってあげるのですから、全く意味がありません。 こうやって書くといろいろ言われそうですが、我々がそこまで自己中な義両親に従わなければならないのでしょうか?従わなければならない理由もわかりません。 留守番を頼む割に裏では悪口を他の兄弟や檀家さんに言いまくるんです。 ことごとく我慢の限界です。

有り難し有り難し 14
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僧侶との過去に苦しんでいます

精神的苦痛から、婚約していた僧侶と別れ、今も行き場の無い憤りに苦しんでいます。 深い傷に苦しんでいた私を救ってくれたのが出会いのきっかけです。出会った頃の彼は本当に優しく、仏様のような人だと思いました。在家の私は寺へ嫁ぐ不安もありましたが、そんな彼だからこそ迷いもなく、親も説得して決心を固めました。 その後、彼はまるで別人のように変わりました。変わったのではなく「ただ本質が露わになっただけ」と、彼自身言っていました。 プロポーズ時に彼が綴った誓いの言葉の数々は即放棄され、弱音も愚痴も全て求める雛形どおり受け止め労うことを強要し、強烈な人格否定されたり、過去を執拗に責め続けられたり、結婚という大きな決断も、二度も無かったことにされたり…。とにかく「俺のものさし」に合わせろと、私に変化を求め続けました。 でも彼にとっては、傷つけられて辛いのは自分、間違っているのも悪いのも常に私です。彼のものさしで見ることの出来ない私が、傲慢で狭量な人間。別れた後も「私に傷つけられた」と周囲に話していると知りました。 常に阿弥陀様を背にしていると言いながら、目の前の彼は自己愛と正当性の塊でした。 ですが僧侶の彼は僧侶的で、様々な活動をしているためメディアに出ることも多く、世間的評判も高く、人々から称賛されます。皆、彼の纏う誠実そうな雰囲気と容姿に、人格者に違いないと思うそうです。今も彼は何事も無かったかのように僧侶をして…。私が精神的な病と戦っていることは何も知りません。 一度は苦しみから救われたはずの信頼していた人に深く傷つけられ、もう何を信じればよいのかわかりません。これまで、毎日苦悩し、自分自身と向き合い、ありのままの彼を受け止め、彼の求める阿弥陀様のような人間に近づけるよう、私なりに必死で努力をしてきました。深い愛情があったから。彼には全く満たされなかったとしても。見えない努力も愛情も何一つ意味をなさなかったことが、ただ虚しくてやるせない。 今は、彼へのご恩や感謝の念が憎しみに変わってしまうことが怖いです。 僧侶も人間だというのは理解できますが、僧侶の時と本質に大きな乖離があっても、何の呵責も無いのでしょうか? 僧侶って何なのですか? 人を深く傷つけても、阿弥陀様はなんでも許してくれるのでしょうか?… 同じ僧侶の方はどう感じられるのかをお聞きしたいです。

有り難し有り難し 113
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