都合、浄土真宗の皆様にお願いできましたら。 先日とても仲良くしていた彼女がある日突然身体の不全で亡くなってしまいました。いつも2人でいたので、もうこの世の現実に会えないんだという悲しみが深く襲ってきて、心が張り裂けそうです。こんな事があっていいのかという怒りや虚無感も一杯です。私にとってその存在は何ものにも変えられない、すべてを捧げることの出来る、そんなすごく大切な彼女でした。現実にもう一度会いたい、話したい、触りたい、、。 現世の役割を終え仏様になったのか。 それにしても辛すぎます。 どうしたら、どう考えれば彼女の供養になりますか?また同様に自分の悲しみや虚無感を取り除けますか? 心から大切な人が居なくなり、辛いです。
学生時代にお世話になった友人達に残したい遺言は、どのように記せば良いでしょうか? 今までありがとうという言葉と、過去に私の精神的未熟さが原因でさんざん迷惑をかけてしまって申し訳ないという二点を伝えたいです。 しかし既に嫌われている可能性も十分あるので、もしかしたら受け取ってもらえないかもしれません。その場合、手紙ではなくメールやラインなどで伝える方が物として残らず良いのでしょうか? ただ、自死を止めてほしいのではなく、単純に今までの謝罪をしたいだけなので、万が一大事になってしまっても…と思い、上手い文章が思い付きません。 皆様どのようにされていますか?よろしくお願いいたします。そもそも遺言なんて遺そうとする方が頭がおかしいのでしょうか?
最近夕食がとても辛いです。弟、父、私でテーブルを囲んで食事をするのですが会話が何もありません。弟はテレビを見ながら、父はスマホを見ながら食べてました。その状況が耐えられず2人が食器を片付けるまで待ち、2人が自分の部屋に戻ったあと食べかけのご飯を食べてました。食べてたら高校で友達と昼食を食べて笑って話してたことなど思い出して涙が出ました。寂しい、高校の頃に戻って友達とまた昼食が食べたい気持ちが止まりません。誰かに撫でてもらいたい褒めて欲しい。一人暮らしが出来るまで我慢しようと思うのですがこの寂しい気持ちを抑える方法はありますでしょうか?よろしくお願いします。
久しぶりに質問させて頂きます。 先日 長女が結婚式の日取りを決めたと報告が有りました。 我が家は神道ですが、折には日柄?大安とか仏滅を気にしております。 長女が決めて来た日は先勝ですが、日めくりに結婚など悪日と書いてありました。 気にしなければ良いのですが、やっぱり親として気になります。 そう言う日は避けた方が良いのでしょうか? 12月19日ですが、挙げたい式場が年内はその日しか空いてなかったそうです。 しかも時間は午後3時からです。 今さら日取りを変えなさいとも言いにくいですしどうしたら良いでしょうか? アドバイスを頂けたら有りがたいです。 よろしくお願いします。
我が家の檀家のお寺は(お墓は別の所)大阪府内にあります。しかしお盆、お彼岸などお坊さんの忙しい時に同じ大阪府内に同じ宗教のお寺があるのにいつも滋賀県や和歌山県など遠くからお坊さんが来てくれます。どうしてこんなに遠くのお寺から来てくれるのでしょうか? どうしてうちの決まったお寺のお坊さんは来ないのでしょうか? 遠くから来てくれるお坊さんにも自分のお寺の檀家さんがあるのでそちらで忙しいと思うのですが・・。 どうしてですか? それに時によって一人で来たり二人で来たり、家に来るまでわからないので(最低二人分用意しておいて)お坊さんが来てから人数分お茶やお菓子を用意します。 どうして毎回来るお坊さんの人数が違うのでしょうか? うちの実家に来るお坊さんはいつも一人なのに。 こんなときお布施はその時に来たお坊さんに入るんですよね。 うちに来たお坊さんがうちの決まったお寺さんに渡すんですか? 高速で遠くから来たお坊さんには御車代は少し多くした方がいいのでしょうか?
本当の意味で仏教に出会う人はとても少なく、出会わない方のほうが多いのはなぜですか? 又、仮に出会えたとしても 「魚の子は多けれども、魚となるは少し」という言葉のように、 本当に信心を持って仏教に触れ合うことができる方は極めて少ないのはなぜですか? 仏教が必要でない人たちばかりだということですか?
中学生の娘が自ら命を絶ちました。 シングルマザーで一人娘でした。 遺書もなく発見が遅れた為 葬儀の後数日で四十九日で仏壇も間に合いませんでした。 自殺は極楽浄土には行けないと言うのは本当ですか? 亡くなった場所にずっと留まるんですか? 生きてる間にとてもイジメに苦しんだのに 更に苦しまなければいけないのですか? それとも私が前世で極悪人だから子供を奪われてしまったんですか? 死にたい訳じゃありません。 でもどうしても娘に会いたい。 声が聞きたい。 私を1人こちらに置いていってしまったのは 私の事嫌いなのかな?と毎日悩んでいます。 もっと一緒に居たかったし 色々な所に行きたかった。 でも一番は会いたいしもし独りでまだ寂しい想いをしているなら、一緒に居てあげたいのです。 毎日夢じゃ無かった事に絶望しています。 誰か娘の声を聞かせて下さい。
厚かましく、非宗教説を続けます。 釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。 先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。 仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。 これは中国の仏教を模倣したのでしょう。 釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。 次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。 元々葬儀には無関係だったようです。 確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。 釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか? 仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。 蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。 これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。 参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。 本堂は娑婆から切り離された死の世界です。 本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。 「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。 仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。 従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。 現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。 像は本堂を向くべきだと思います。 さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。
才能がある人がずるく思ってしまいます。 皆、同じように生まれたはずなのにどこで差がついてしまったのでしょうか?神のような絶対的な上位の存在に愛されているのか。 才能がある人を見ると尊敬もしますが羨ましくも思い、またなぜ自分には何の才能も能力も無いのかという劣等感などで涙が出そうになります。学術的に遺伝子などの要因もあるのかもしれませんがどうしてこんなに差があるのか疑問です。 自分は自分、他人は他人といった考え方もあるとは思いますが、競争社会においてこの差は無視できずなぜ同じように生まれたのに自分にはなくてその人には才能があるのか、ずるいじゃないかと妬んでしまいます。 こんな醜い自分はどうすれば良いのでしょうか?
今から20年前に人に言えない過ちを犯してしまいました、反省して生きてます!これは彼女ができても、言えることじゃありません。今現在の生き方は、募金活動したり、善良ある行動して生きてます!仕事も正社員として働かせてもらって感謝してます、良い懺悔の方法を教えてください、警察に行き今から、警務所暮らして反省するしかないのですか?謝りたい人がいるのですが、この人は自ら死んでしまいました、良い懺悔教えてください、もう一度だけ僕にも人生生きるチャンスくれませんでしょうか⁉教えていただけませんでしょうか、お願い致します!
以前ネットで性犯罪のニュース記事に被害者に非があるから性犯罪に遭うのだと言う人たちがいたので、それはセカンドレ○プにあたるのではないかと書き込んだら猛反論を食らったことがありました。 「このフェミニストめ」「お前の方がセカンドレ○プだ」「傷付いた、訴えてやる」「謝れ」「女は感情論でしかものが言えないのか」等々 色々言われました。 自分は今まで性犯罪に限らずですが、ネットやリアル社会の様々な場所で女性を責める男性と、そういった考えに賛同して女性を責める女性をたくさん見てきました。 しかし思うのです。 彼等は何と戦っているのだろうかと。 この人たちのやっていることと、昨今の極端な発言を繰り返すフェミニストたちと何が違うのだろうかと。 自分にはコンプレックスを刺激された男たちと、その後ろ楯に肖ろうとする女たちが、権力者たちに都合の悪いことから目を反らさせるために踊らされている様にしか見えません。 ジェンダーという敏感でナイーブな、誰もが素通り出来ない問題だからこそ利用されていると感じます。 でも渦中の人々にはそれはわからないのです。 お坊様たちはこのことをどの様に考えておられますか?
いつもお世話になっております。 今日仕事でミスをしてしまいました。 個人的には大きな失敗だと思います。 折角評価をされて仕事も少しは覚えて来た所に・・・ ショックで立ち直れず逃げたしたい気持ちです。 でも逃げれば気持ちは楽になれるかも知れませんが・・・ 自分自身が許せなくて許せなくて・・・ どんなに人生経験を積んでも失敗はするんでしょうか? その失敗した時にどうやって心の傷を癒してますか? スミマセン教えて下さい。 宜しくお願い致します。
改宗について教えてください。 改宗すると、改宗以前の先祖も改宗されたことになるのでしょうか? それとも、戒名の付け方が宗派で異なるので、戒名を受けた時点の宗派はずっと変わらないと考えるのでしょうか? お墓は個人管理地の個人墓です。
宮沢賢治の詩「アメニモマケズ」の最後の一節「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」のように 両親を助け、他人と調和持って過ごし、困っている人を助けられ、でも自分の命も大切にし、よく仕事をこなす笑顔のデクノボーになるために、日常で行える正しい努力、もしくはデクノボーは別としても、現在お坊様方が毎日の生活で一番気をつけていること等ありましたら、教えていただけますでしょうか? そしてこの質問で頂いた言葉を胸に、日々をしっかりと過ごすためにhasunohaを卒業したいと思っております。 聞きたいことも学びたいことも山ほどあるのですが、その気持ちも一旦脇に置いて。 今一度、助言をいただけましたら幸いです。 もしも目に留まりましたら、よろしくお願い致します。
現在、父の会社で働かせてもらってます。 祖父が創業した小さな会社ですが、後継者不在という事から、近い将来会社をたたむという事も視野に入れておかなくてはいけないと思います。 父は70代ですが、今のところ全くその事を考えている様子はなく、この先どうするかさえも考えていないようです。 自分が死んだ時に会社をたたんで欲しい…そんな印象が今のところあります。 本当はそれでは困るのですが… もし会社が無くなったら、仏様に仕えたいという道を選びたいと思っているのですが、40代からのスタートは無謀でしょうか? お寺運営の保育園に通ったり、お寺に貢献していた祖父に連れられ、行事参加や墓参り・法要にも頻繁に参加していましたので、幼い頃から仏教には親しみがあり、仏様への関わりは歳を重ねてからも多少あります。 ただ、仏教関係の学校は出ていないため、専門的な知識や資格は一切持っていません。 昨年、死ぬまでに必ず訪れたいお寺を訪れた際、安堵感と共に、心がグッと引きこまれるものがあって… 何と言いますか、言葉に表せない思いで涙が出ました。 これが仏様に仕えたいという思いを強くさせたのだと思います。 僧になるまでは大変困難な道を歩まなければいけない事は存じております。 やはりお寺関係者や若いうちから経験を積まないと僧になる事は厳しいのでしょうか? 甘い考えとお叱りを受けそうですが、ご回答いただけるとありがたいです。 どうぞよろしくお願いいたします。
こんにちは小学五年生のこうです。 僕は最近鬼が怖いです。あと、鬼の悪口もつい思ってしまいます。 きもいとか、怖いとか、うざいとか、死ねとか、意地悪そうなど沢山おもってしまいました。 あとダジャレのおにのおにいさんは、やめた方がいいですか?このダジャレは結構気に入っています。 そもそも鬼って皆んな怖いのですか? このことを仏様や鬼は許してくれますか? 鬼は意地悪かもしれないので許してくれないかもしれませんどうすればいいですか?
タイトル通りです。
男性にフラれ、悔しさと嫉妬のあまり、彼の相手の女性に全てをバラし、傷つけてしまいました。 彼への未練というより、自分のしてしまった事へ後悔と未練があります。 謝りたくて、電話をかけてもメールをしても彼は取り次いでくれなくなりました。 自分のしてしまったこの未熟な誤ちを、日々後悔し落ち込んでしまいます。 楽になりたいなんて、勝手なお話ですが、少しでも救われるにはどうしたらよいでしょうか
坐禅会をやっているところをしりませんか?インターネットで検索するとかなりあるんですが、毎週土曜日 2時~4時ぐらいに始まるところが無いか?探してます。朝 晩は 親の面倒があり 家事があり平日は仕事してまして・・・なかなか通い続けられる場所がないんですよね。お金はあるので 参加費は気にしてないのですが(すごい高額なら話は別です)読経とかあったらもっとありがたいです。
はじめまして。よろしくお願いいたします。 今週末、義父が近所の親戚(遠い親戚)の法事に出席します。三回忌です。人と会うことをなるべく避けようというこの時期に、神経を疑います。 去年一周忌をしたんだから、無理にする必要ないのでは?もしくは、出席する必要ないのでは? と、意見したら、そんなもんじゃない!と一喝です。そんなもんじゃないという根拠、何も説明せず、そんなわけにはいかない、そんなもんじゃないの一点張りです。 法事を中止、もしくは延期しない親戚の神経も疑います。 先月のはじめも別の親戚の法事に出席していました。今回、緊急事態宣言された対象の地域からも家族が来ていました。 法事とは生きている人間を危険にさらしてまでしなきゃいけないことなのか、先祖を敬うことは大切でしょうが、生きている人間より大切なことなのか、理解できません。 法事って、そんなに大切ですか?