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検索結果: 2653件

ご先祖様について

初めて質問させて頂きます。 先日、知り合いの葬儀に参列して、お坊さんのお話を聞かせて頂きました。心にしみる良いお話だなと感動したのですが、ふと一つの疑問が生まれました。そのお坊さんは「49日まで生まれ変わりを繰り返し、そしてご先祖様として私達を見守ってくれる存在になります。ご供養をかかさないようにしましょう。」とおっしゃっていました。『ご先祖様』という存在は今まで何の疑問もなく受け入れてきましたが、興味本位で色々な仏教書を読んでおりますと「人は生前の行いにより、亡くなった後何に生まれ変わるか決まる」といった輪廻という考えがある事を知りました。 もし生まれ変わり、新たな命としてこの世に存在するのならば、ご先祖様は存在しなくなるのでは?という疑問が生じて、先祖供養やお墓参りの時に誰に手を合わせているのだろう??と考えてしまいます。 「ご先祖様」はその姿形で私達の近くにいて、守ってくれているという存在だと思っていましたが、生まれ変わるのならば、何か姿形を変えて違う生命として私達の近くにいるという事なのでしょうか? 長々とまとまらない文章で質問させて頂き恐縮ですが、よろしくお願いします。

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修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

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納得のいかない法話

質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。

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二回のご回答も何にもならず・・・

自分の考え方や生き方をそうしろと言われたからと言って、なかなか変えられるものではありません。 お答えを聞いて、じゃあやってみようと思ってそれを実行しても自分には何の実りにもなりませんでした。 私の家の近くに、ちょうど念仏を唱えて下さるお坊様がいたので、お話を聞きに行きました。 11時に予約をとって行ったのですが、お話されていることがどう聴いてもご自身がやってきたこと、やっていることの話ばかりで、こちらの話を聞いていただけませんでした。何のためにここまで来たのかよくわからなくなりました。 自分はこれだけのことを知っている、これだけのことを今やっていること、私も昔はこんな人間だったと、苦労話、説法とはなんだろうと、何だったのだろうと考えさせられましたが、答えは出ませんでした。ちなみに15時に解放されました。 結局は誰かに救いを求めても誰も助けてはくれないということ、死にたいと思う心は変えられないということはよくわかりました。 死にたいと思ったらその場で刃物で心臓を突き刺す勇気をください。 走行中の車から飛び降りようとしたことも何度もあります。 私はもう人間ではないんでしょうか・・・ 死しか考えられない。、早く死にたいです。

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友だちのともないかた教えてください。

大切な友だちが、1週間前に亡くなりました。生前、わたしは彼女と、毎日毎日メールやLINEで連絡をとり合ってました。電話も週に1〜4回は、話していました。 急に連絡がなくなり、わたしの夢の中に、初めて彼女が現れたりして、わたしは益々心配になっていました。音信不通になって4日後、娘さんから連絡をもらいました。彼女は亡くなっていました。 彼女は、友人たちとお酒を飲みに行き、帰宅後に家族とトラブルがあったようです。深夜に帰宅してきた娘さんが発見したようです。すでに息は無く、彼女はひとりぼっちで亡くなったようです。 その悲報を聞き、すぐに御線香と御水をお供えしていますが、今は彼女の写真や、短時間ですが好きな食べものもお供えしています。親族では無い場合、ここまでの供養はいけない事と母から注意を受けたのですが、やはりいけない事でしょうか? わたしは彼女の死が、うまく理解できず、1日に何度も泣いてしまいます。こんなに心の整理が出来ない事は、初めてです。 生前も、彼女はわたしに、「血は繋がっていないけど、きょうだいとか姉妹だよ。」って言ってくれて、わたしもそう思っていました。でも、こんな事になる事は、防げなくてすごく悔しいです。 お互い遠く離れている土地に住んでいて、わたしはまだ出産して2カ月半で、身動きできないので会いにも行けていません。本当は、彼女とまた電話したい会いたいと、そう思っています。 それでは、彼女の成仏の妨げになりますか??

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お寺とお坊さんについて教えて下さい

お寺での生活や、僧侶として従事する方の日頃の暮らし、なぜ仏門に入られたのかきっかけ等に興味があり、件名の通りの質問をさせていただきます。 不躾な質問でしたら申し訳ございません。 お寺や宗派によってもまた違うかと思いますが、できるだけいろんな方の回答を伺えたら幸いです。 質問数が多くなってしまい大変申し訳ありませんが、差し支えのない範囲でご教示いただけますと幸いです。 何卒よろしくお願い申し上げます。 ①一般的に、住宅街にあるような比較的小規模な寺院には、住職以外のお坊さんは大体何名ほどいらっしゃるのでしょうか? ②お坊さんが一通りの修行を終えたとされるのはどのような段階ででしょうか? ③修行を終えたのち、学校職員など他の職業と兼任しながら、お寺に住み込みで役僧や僧職員として住職のお手伝いをして暮らす言うことはあるのでしょうか? ④お寺に住み込みで働く場合、住職にご家族がいらっしゃる場合、同じ場所で暮らすのでしょうか?別棟などが用意されてるのでしょうか。 ⑤実家がお寺で家業を継ぐ以外で、お坊さんになられた方がいらっしゃいましたら、なぜ仏門を目指されたのかお話を伺えますと幸いです。 以上です。 もし失礼なことを伺っていたら申し訳ありません。

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高学歴の人達は就職に有利でしょうか?

私は思うのですが高学歴(大学、大学院等卒業)の人間は就職に有利で採用もその人間を優先されるかと疑問だらけです。東大や京大など一流大学に卒業したら誰でも有名企業(正社員)に就職するかと不信感を覚えたままです。私のいとこも大学院卒業で県庁職員として働いて家庭も持っていますが私はそのいとこと比べたり嫉妬したり気に入らなくなることも様々です。私は中卒の人間ですが今年の1月より地元の作業所で働いています。作業所は負け組の人が行くのだと思う一方で私は当初現在の作業所に嫌気差しました。私は感情コントロールが出来ずに過去の一般就労の職場で人間関係や仕事などの様々ないら立ちを覚えて自己退職し続けました。だから今回の一般就労は不可能で仕方なしに作業所行ってるわけです。私は作業所で働きたいとはこれっぽっちも思わなかったし本当に現在が真っ暗の状態です。私は今年44歳ですが作業所でぼやぼやしていると一般就労を逃してしまうリスクが高そうです。私はついついいとこなり別の優れている人と比べて私は負け犬なんだと悲観してしまうのです。私は高学歴の人間がうらやましいと思えて一般企業の正社員で働けて結婚して家庭持つ人も多い模様です。現在も学歴社会だと思い込んで大学や大学院に卒業した人間は優先的に採用されるのではないかと危惧しています。私は中学校時代いじめに合って学校持って休んでいたので高校にも行けませんでした。私のような中卒の人間は世間から冷たい目でさらされて後ろ指指されるのかと不安だらけです。私は本当に悔しい思いばかりしてついつい他人と比べる習慣が付いてきたのです。私は心の中で高学歴はちやほやされるとか結婚して家庭持って幸せな生活をしていい思いばかりしてるだろうと嫉妬しています。私は本当に黒歴史だらけの人間で過去に一般就労を何度もして続けられた会社は最高で10年です。だから現在の作業所も私の黒歴史です。どうせ作業所行っても1ヶ月まともに働いても20000~30000円の給料にしかなりません。だから私は屈辱的ですし人生もみな平等な訳がないとネガティブにとらえてしまいます。その考えにとらわれずにポジティブな人生送れるのか分かりません。私は結婚してませんし一生独身でしょう。私はいつまでも優れた他人を比較して私自身負けを認めてしまうとだんだん人生もしんどいです。高学歴の人間は就職に有利なのかどうか教えて下さい。

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悲しみについて

一昨年前に実母が亡くなり、以来、こちらでお世話になっております。 お寺のことや、供養、お墓等のことで質問させて頂き、ご丁寧な回答を頂き、ありがとうございました。 毎日のお勤め、花やお供え、茶水を絶やさず供養させて頂いています。 長らく二人暮らしでした。 病を抱えながらも私のために家事をしてくれていました。 私は幼い頃から病弱で心配ばかりかけ、苦労させました。 ある日、突然調子が悪くなり救急車で病院へ、そして次の日から意識が無くなり、一週間後に息を引き取りました。 私はその瞬間にも立ち合うことができませんでした。 生前は、私は仕事なので一人きり。最期も一人で逝かせてしまいました。 延命処置も断ったのは私です。 今年、三回忌となりますが、未だにあの時こうしてあげれば良かった、なぜあんなこといってしまったのだろう、最期にありがとうも言えず、後悔と悲しみの毎日です。 他人からすると、ただのマザコンなのかもしれません。 毎日、成仏し、父やご先祖様と幸せに過ごしてくださいと祈ることしか出来ません。 ただただ毎日冥福を祈り、悲しみが癒える日が来るのを待つしかないのでしょうか?それともいつまでもクヨクヨ引きずっている私の精神が弱いだけなのでしょうか?

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どうして幸せになれないのか

姉と同じ進学校の高校へ通いたかったが、受験に失敗し、行きたくない私立高校へ通うことで仲良しの友達ができず、つらい高校時代を過ごす。親にも迷惑をかける。大学は専門職の資格をとれる大学へ進学し、勉強とバイトと1人暮らしを頑張り、友達もたくさんできるが、4年のときに精神科病棟の実習で急性ストレス障害になり、抗うつ薬や安定剤を服用するようになる。何とか死ぬ思いで実習を終え、国家試験にも一発で合格するが、新卒で就職した病院で、すでに限界だった体調と精神が崩壊し、わずか5ヶ月で退職。専門職の資格があるのに、その後は非正規で手取り12万と少しのわずかな給料で働く毎日に負い目を感じる。周りの正社員と同じ資格を持ち、仕事も同じ量をこなしているのに、私は非正規社員。頑張っているのに上手くいかない、そんな自分の人生と向き合い、受け止めるのがもう苦しくて、自己嫌悪と自己否定の毎日。親にもこの歳で迷惑をかけていることが苦しい。姉は医療系の資格者で新卒で就職した病院でずっとバリバリと働き、キャリアもある。今は結婚もして現在子育て中。すぐ仕事復帰する予定であり、まさに親孝行の姉。子供の頃から、できる姉とできない私に自分で比較してコンプレックスを持っていた。そして私は彼氏ができたこともなく、ここ2年婚活を頑張り、30人以上の人とデートするも毎回上手くいかず、そんなとき初めて好きになれる人と出会うが、セフレとして扱われ、半年間我慢して毎日体を許すだけ過ごすが、相手には若い彼女がいるので、毎日辛くて限界になり、関係をはっきりさせようとしたら、キレられ、もう会うこともできない。彼氏ができたことがないのに、処女ではないという、汚くて醜い女。 私って何なんだろう。頑張っても頑張っても報われない。姉と比較して落ち込み、姉と同じように頑張ると、体や心が悲鳴をあげて挫折してしまう。私にもたくさんいいところがあるのに、人生に役立てることができない。誰からも愛されず、必要とされず、両親にはこの歳で経済的に援助を受けて、自立もできていない。好きな人には都合のいい関係に扱われ、人間としても否定された気がして、もう何を希望に生きればいいのか分からない。朝起きると絶望感でいっぱいになり、夜は眠れず安定剤が手放せない。私に幸せは訪れますか?苦しい、辛い、もう頑張って人や自分に裏切られるのが怖いです。

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毒もみのすきな署長さん

という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。

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お坊さんを蛸と掛け合わせて、笑いを取るような掛け軸について

どうしても意味・ユーモア感覚が分からないので、ここでお坊さんに直接質問をさせて頂きます。 いま私は、とある掛け軸について研究をしています。ですが、私は仏教の世界を深く知るようになったのは、つい最近になってからであり、そのせいで仏教世界のユーモアが分かりません。 研究している掛け軸には、掛け軸の下の方に、『十六羅漢のうち十人が水が足首らへんまでしか来ていない海(若しくは川)の浅瀬を渡って、上の方を見上げている』描写があり、左上の方に、『龍頭観音と思われる龍が一匹と、龍の口らへんに、モワモワした煙と共に、お花のような(?)ものを手に持っている着物を着た女性が一人立っている』描写があります。更に、この空の方へ登っている龍には、十六羅漢のうち六人が乗っており、そのうちの一人が釣り糸みたいなもので蛸を海から釣っています。 十六羅漢が川ではなく、海を渡っているのは、蛸が海にしか生息していないからという理由で、海だと推測しました。 この絵には漢詩が付いているのですが、以下のようなものです: 是秋釈子袿第響 無転十六蛸入道 為老先生博祭無事居楽 遊印には→星洲晩漁 と書いてあるはずなのですが(あまりきちんと読めませんでした)、漢詩の意味は全て分かりませんが、ここには蛸入道としっかり書いてあります。 以上のことから、私は、蛸とお坊さんの頭を掛け合わせて、笑いを取るような絵だと見受けました。 が、私の感性では、釈迦の弟子たちで笑いを取るという感覚が全く分からないのですが、ひと昔の日本では(明治・大正あたり)、このようなことはよく起こり得たのでしょうか?またこのような、ブラックユーモア的な掛け軸は、よくあったのですか? ちなみに、私の推測はあっていますでしょうか?(蛸とお坊さんの頭を掛け合わせることで、笑いをとるという感覚) 若しくは、他に何か意味があるのでしょうか? 漢詩の意味も分かりませんが、このセンスが本当に意味が分からなくて、大変困っております。どなたか詳しく説明して頂けますと幸いです。 掛け軸の絵を写真で添付できないので、絵そのもののイメージがし辛いと思いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ちなみに、この掛け軸は、近代に描かれました。

有り難し有り難し 38
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