5月の25日に、娘が亡くなりました。 7月に四十九日を行います。 日蓮宗のお墓に入ります。 私は、娘のお骨の一部を手元に置こうか悩んでいます。 彼女の死は受け入れています、しかしさみしく思い、分骨を考え ています。 しかしそれが、彼女にとって良いのか解りません。 私の思いは、彼女に早く生まれ変わってほしいと願っています。 どのような形でもいいのでもう一度逢いたいです。 そもそも人は亡くなったら、どのような道を進むのでしょうか。 この年になってお聞きするのはお恥ずかしいのですが、どうかお答えください。
初めて御相談させていただきます。 3ヶ月前に中学生の一人息子を 不慮の事故で亡くしました。 自宅マンションからの転落で 誰も目撃者がいないので、 本当のことは息子しか知りえ ないことですが、警察の捜査 や聞き込みの結果、遺書や証拠 もなく、悩んでる様子も学校 でも見られなく、100%自殺 とは断言できない、半々、との結果でした。 家族も長年の友人達も先生達も 皆信じてました。 私にはよくこれからのことを 話してました。 来年の文化祭は~、とか、 高校生になったら~、など、 今コロナで出来ない分これから やりたいことが沢山ありました。 何もそのような前兆はありませんでした。 毎日手を合わせて 「今日も楽しく遊べたかな?」 と、自由に楽しく笑顔で過ごして くれてることを願ってます。 だけど、もう私自身は大事な 息子がいないなら何のために 生きなくちゃならないんだろう…… 生きていたってしょうがない…… この苦しみはいつまで続くんだろう…… 私がこの先どうなってしまうのか怖いです。 同じようにお子様を亡くされた 方々の相談を拝見しまして、 5年経っても10年経っても苦しみ 続けることを知り、 私は耐えられるのか… 耐えられる自信がありません。 息子は涙もろくて優しくて 面白い子でした。 私が死んだら、私と同じ思いを 息子にさせちゃうと思うと、 生き続けても死んでも苦しい思い をしちゃうんだなと、 仕事を辞めて何もしない毎日ですが、 ずっと疲れてる感じです。 しんどいです。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
私は、数年前に仕事でのストレスから鬱病を患ってしまい、その仕事も辞めて暫くは家で休養しておりました。 その際、仕事を辞めてしまったので勿論収入も無く貯めたいたお金も携帯料金等で使用したため無くなってしまいました。 其処で、今回私が後悔して仕方ないのが… 鬱病を患って休養していると言っても、収入が無くなってしまい、携帯料金等の支払いが出来ない時に…私は黙って祖母や母親の貴金属を売ってしまい、其で携帯料金等を支払ってしまいました。 その事を話せず仕舞いになってしまって、祖母は亡くなってしまいました。 未だに、祖母や母親にこの事を話せていない事に後悔してばかりです。。 私は、この先…どうしたら良いでしょうか?
タイトルの通り日本の社会が狂っていると感じます。 過労死、自殺、いじめ等この日本の社会で生きていて異常だと 感じる事が沢山あります。 何だかこの社会に追いつめられてる感じて、胸が苦しくなる時もあります。 しかし、この事を他の人に伝えても理解をしてくれません。 「みんな苦しいのは一緒だ」と言われ こんな事を言う自分は他人から「甘い人」と思われています。 私はどうやってこの社会で生きていけばいいのでしょうか?
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
こんにちは。お世話になってます。 このサイトで色々な悩める人達のご相談に乗っているのをお見かけします。 心優しいお坊様方の親身な助言により明るく前向きに生きていこうとする人も沢山いるでしょう。 ですが世の中どうにもならない事があることが現状かとは思います。 熱意をもって真心をこめた言葉が届かないことは本当に悲しく残念なことだと思います。。 皆さんはこういった事が続いたらどのようにして気持ちを切り替え活動を再開するのでしょうか。 もし私がその立場なら自分には向いていないのか、と考えてしまいしばらくサイトに来なくなってしまうと思いますが…;
日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。
こんにちは。 私の悩みは自分が次に進むべきこと(積むべき経験)がわからなくなっていることです。 仕事に関してはある役職に就かせていただいていて後輩の指導などを 通して自分自身も成長することができ、慕ってもらっているな と思います。 ただ、後輩たちが育ってきて役職の椅子の数が限られている中で 自分はいつまでもここに居座っていていいのかなと 気持ちの面で立ち止まっています。 私が頑張ってこれたのは頑張るしかない状況(相次ぐ先輩の退職、 人間関係の問題解決など)だったので自分がこのままであることで 後輩のやる気を削いでしまっているのではと思います。 実際に最近退職者が相次ぎ、先が見えないからという理由だったそうです。 自分自身も会社で色々なアイデアを提案してみたり 色々動いていはいますが虚無感に襲われることがあるのです。 プライベートでは趣味も続けていて最近運動も始めたり ボランティアもして自分を高めるように頑張っているつもりです。 自分自身の人間性を磨くにはまだまだ別の経験が必要だと思うのですが それが何かわからず宙を見つめる日々です。 何かを大きく変える必要があるのでしょうか。 アドバイスお願いします。
現在、京都の佛教大学に通ってます。浄土宗の教義を勉強しております。家の仏壇や大学の礼拝堂で、半年間ほど開経偈から真身観文までの助行と本願念仏を唱えてきました。 しかしながら、阿弥陀仏の浄土の存在と死後浄土へ往生できそうだという手応えを一度も感じることができず、今は念仏をやめてしまいました。 例えば、自転車に乗る練習を何回かすれば乗れる手応え感じるはずです。 しかし、念仏に関してはそれが無いのです。 善導大師や遊蓮坊園照は証覚を得たと言います。私も手応えを得れば、今後の人生を明るく有意義に暮らせるとおもいます。 念仏をされてるお坊さんで、浄土の存在と死後往生できそうだという手応えを得てる方はおられますか?それともやはり、極楽浄土は絵空事のフィクョンなのでしょうか? よろしくお願いします。
この世についてどう思いますか。解釈ではなく本当のところリアルなお坊さんなりの真実をぶっちゃけていただきたいです。怒りですか。呆れですか。虚栄ですか。私利私欲ですか。 この前にふたつ質問しているのでそれにも答えていただきたいです。
こんにちは。浄土真宗を学んでいる者です。僕はこれまで阿頼耶識というのは無意識のことだと理解していましたが、どうやら無意識は「意識」のカテゴリーに入るみたいですね。では魂なのかと考えましたが、魂は我の絶対化なので諸法無我という考えに反しています。そこで、ある本を見つけ阿頼耶識というものは「業を保管する意識だ」という記述を見つけました。しかも、業というのは永遠不滅だということですが、一体どういうことなんでしょう?魂と何が違うのか分かりません。永遠不滅というのも、諸法無我の法則に反してはいないのでしょうか?どなたかとても分かりやすく解説お願い致します。
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
お世話になります。 株で借金を作った主人への不満の相談を過去にさせていただきました。 私は自営業で、主人が自身の事業に過去失敗、株に失敗した後、私は主人を見捨てられず、自分の会社で主人にお給料を支払い、働いてもらっています。(コンピューターワーク) 自営業なので時間に縛りはとくにありません。 主人は、私が働きやすいように、子供の学校の送り迎えや、習い事の付き添い(週5日)、 また、私は月に1〜2回、7日程の出張に出て帰宅できないため、その間は主人一人で子供の世話を全て行います。 しかし、私はこうしたことに感謝ができません。 年齢は主人が私よりだいぶ上で離れていることもあり、私はつくづく ・事業や株で失敗して私の会社で主人が働いているのか。 ・年上なのに私がお給料を渡して雇っているのか。 という考えが頭から消えず、いつからか主人を男として見れなくなりました。 毎日のキスも私からやめたため、本人にも伝え、その理由も知っています。 周りの友人やママ友は、旦那さんが有名な医者だったり、スポーツ選手だったり、ご主人の稼ぎだけで遊んで暮らしているように見え、羨ましいというよりも、私が主人まで養っていることにプライドが傷つけられ恥ずかしくなります。 私の子供の時、母も父も共働きでした。母もそれなりに稼いで家族を養っていましたし、そんな両親のおかげで貧しい思いは一度もしませんでした。 主人は、裕福な家庭で育ち、主人の母はお嬢様ということもあり、ずっと専業主婦をされていました。 彼は、専業主婦だったお母さんへの感謝ができていると思いますが、私はお金を稼ぐこと以外への感謝ができません。 したがって、主人が子供の面倒を見てくれていることへの感謝ができません。 私が稼いでいるお金は主人のサポートがあってこそ。ということは頭ではわかっています。 しかし、どうしたら、そこに感謝ができるのでしょうか。 主人は私のことを愛してくれていて尊敬してくれていますが、私は同じように愛したり、尊敬できなくなりました。 仲が悪いわけではなく、毎日散歩にいったりしますし、喧嘩も滅多にしません。 ただ、主人を男としては見れません。 もう一人子供がいるような感じです。 私が主人に感謝することで、主人への愛が少しでも戻ったらと思っています。 こんな私にアドバイスをいただけないでしょうか。
私は係長というポストで、大きなプロジェクトのリーダーを任されています。 今年から部長が人事異動で交代となり、とても自己主張の強い方がやってきました。 部下の意見を採用することがなく、自分の意向どおりに仕事を仕上げるような指示ばかりを出してきます。さらには、部下が時間を工面して作成した資料を自分が作ったものと言って、手柄を自分のものにしてしまうのです。 私もプロジェクトのことで部長にプレゼンをするのですが、そのたびに方向性が変更されます。そして、スケジュールが遅れ、その責任を責められます。 私とともに業務に取り組んでいるプロジェクトメンバーも、部長に嫌悪感を抱いていいます。直属の課長はメンバーの現状を相談しても、特にフォローしてくれません。むしろ、部長の太鼓持ちです。 はじめは上司の指示に従うのが組織人としての基本と思っていましたが。さすがに自分の考えを押し通し、部下の功績を自分の手柄としてしまう部長にはついていけません。 いまの体制はしばらく変わりそうにありません。今後、どのように部長と接し、どのように仲間のやる気を引き出していけばよろしいでしょうか。ご教示いただけると幸甚です。 合掌
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
はじめまして、こんにちは。 私は最近、六道とは今生きている私たちの心の状態だと思うようになりました。 今までの私は嘘つきで本当にずるい人間でした。 友人や家族にも償えきれないようなことばかりしてきたように思えます。 これは餓鬼や畜生、修羅などに心が落ちていたのではないのかと今では思います。 そして今までの自分の愚かさを悩み、反省しどうしようもない後悔ばかり押し寄せてくるこの状態が地獄なのだと考えています。 しかし輪廻転生を考えるとこのことは因果応報で来世に伝わるというのが説ですよね。 では私はこれからこの罪をもって転生するのでしょうか。 あまり仏教に詳しくないためよくわかりませんが、 私の考え方は間違っているのでしょうか。 よろしくお願いします。
こんにちは。初めまして。 早速ですが質問させてください。 先日祖母が亡くなり、お葬式は普通のお葬式会社で行い、以前からずっとお世話になっている菩薩寺のお坊さんに戒名やお葬式を頼みました。祖父は早くに亡くなっていたため、戒名のランクが居子だったので祖母は大姉にすることにしました。すると、その菩薩寺のお坊さんからその位なら100万円は普通みんな払うと言われました。恥ずかしながら、我が家には全く貯金がなく100万円も一気に用意できません…と伝えたところ、分割でもいいから払えと言われたみたいです。父は借金してでも払うしかないか…と思っていたみたいですが、生命保険が降りることがわかり、ギリギリ借金をしなくてすみそうです。この話を熱心な同じ宗派の方に聞いてみたところ、分割にしてまで払えというのはおかしい!初めて聞いた!と言われました。それを知って、煩悩にまみれてるお坊さんに不信感が募っており離檀を考えています。離檀する際も、かなり高額な金銭を要求してきそうですが、子孫が困るとかわいそうなので必ず離檀してみせます。ここで質問なのですが、戒名代やお坊さん代は分割にしてまで払うものなのでしょうか?他のお坊さんの場合の相場を知りたいです。ちなみに宗派は曹同宗です。下世話な話ですがよろしくお願いします。
私の姉のことで相談させてください。 姉は2人の息子を連れて20年前に離婚しました。その後専業主婦だった姉は一生懸命働き幸せを求めて頑張りましたが、思い通りに収入を得れず10年前に2人の息子を元夫の下に戻しました。現在子供達は元夫の戸籍に入っています。上の子供はその父と生活できましたが、下の子は父との対立から間もなく施設で生活する事になったそうです。息子を手放して毎日泣いて暮らしていた姉はこのことを知り元夫と公的機関に何度も息子との再会を頼みましたが許可されませんでした。姉は酒もギャンブルもしません。気弱なだけです。私もずっと2人の幸せを祈っていました。昨年末やっと息子達と連絡がついたそうで姉はホッとしていました。やっと生きた心地になれたのだと思います。再会は出来ませんでしたが手紙や電話で連絡が取れたらしいです。これから改善に向かうと願っていた矢先、先週下の息子の訃報が届きました。姉は再び絶望です。姉の下に今亡骸を預かっています。その事情から戒名もまだのようです。このような場合どのようにすれば子供は成仏できますか?何処に相談するのか教えてください。
では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて 涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか