私はいま修行僧の彼とお付き合いしています 彼は今、伝宗伝戒道場に行っていますが、もうすぐ成満して帰ってきます その時にお迎えに行くことになったのですが、彼のご両親と行くことになり、当日どうしたらいいか分からずにいます 1.どのような服装で行くべきか 2.彼のご両親に会った時になんていえば良いのか 「本日はおめでとうございます」とか言った方がいいのだろうか、、 3.彼に会ったらすぐに帰るべきか 修行をしてきた彼の体も大変だろうし、せっかくの家族水入らずの時間なので、、 その他もろもろ、気になること、アドバイス等ありましたら是非教えていただきたいです。 こんな時になって母の教えを無下にしていた自分を後悔してます、、ちゃんと社会人としてのマナーも身につけておくべきだったのですが、なんせ何も知らなすぎるので、厳しいご意見もぜひ言っていただきたいです。よろしくお願いします。
2012年に結婚し、女の子二人を育てています。 副住職の嫁というのもあり、男の子を産めなかったのが気がかりです しかし、当方もともと子供が好きでないので 今後出産の予定はありません。 やはり 跡継ぎは男の子でないと いけませんか? 女の子に頭を丸めろとは 言えません・・わがままは承知ですが 何かお言葉をいただけたらと思います。 ちなみに 周りは少子高齢化のため よそのお寺さんから養子をもらうなどは不可です
キリスト教であれば、プロテスタント、カトリック、どの宗派にしても教会に行くと毎週、聖書講座はあり、また信者、洗礼を受けていない私には分かりにくいですが、ミサや礼拝に参加し、教えて貰うことはできます。 仏教を学びたい場合は、どのように門戸を開いたらいいのでしょうか。
いつも回答ありがとうございます。 うまく文章にまとめる自信がないのですが、聞いてください。 もともと私は、自分の意見を持つこと、気持ちを言葉にすること、それを他人に伝えることが好きだと感じていました。友達の相談に乗ったり、ネットに文章を載せたりしていました。周りからの評価は、『(正しいかはさておき)意志を持って行動できる人物』です。これは仕事で昇進するにあたって上司や顧客から頂いた評価です。 自分の意見を発信することで、存在を認めてもらいたい、という気持ちが根底にあるのかもしれません。ある時、私は「自分のことが好き」なだけであって「相手の気持ちへの配慮が欠けている」のではないか、と気が付きました。例えば、友人の相談に乗っている時です。相手の気持ちに寄り添うことは大事と分かっていながらも、自分が感じた意見と指摘をズバッと言ってしまいます。 意識しなければ、相手への配慮より自分の気持ちが先に出てしまうのです。ここまでの文章でも、「自分」という単語がたくさん出てきてしまっています。 ここからが悩みの本題です。 上記の問題に気が付いて以降、会話や文章を書く場面で、“我”の存在を感じて辛くなることが多くなりました。誰かと話していても、あぁ、私は今、近況報告と題して自慢を言ってしまった。と感じるし、ネットに投稿するにも、私は今、すごいねって感じてもらいたがってるんだ。だからこの内容を書こうとしてるんだ、と辛くなり消してしまいます。誰かへのアドバイスも、偉そうに言う権利なんて自分にはないのではないかと感じます。 また、下手の横好きなりにネット小説を書くのが数年前から一番没頭できる趣味だったのですが、登場人物を通して自己の主張を映そうとしている自分に気付き、執筆もできなくなりました。本当は書きたいのに。 ある程度は、他人の目線なんて気にしないほうが生きやすいだろうと思います。しかし元来の性格上、他人への意識を持たなければ私は自己主張が強くなるでしょう。 二つの折り合いをつけられず、今はただ“我”の存在が辛いです。そして根本的原因である、自分を認めてもらいたい欲求との付き合い方について、アドバイス頂けると嬉しいです。
徳積みが大切だと言われますが、徳とは一体何で、徳を積むとはどういうことを指すのでしょうか?徳積みとは徳を積むことすら意識することなく自然に見返りなく相手のためにすることだと思うのですが、私はどうしても欲が出て、人に認められたい、見返りがほしいと思ってしまうときもあり自己嫌悪に陥ることもあります。
死んだ両親は典型的な毒親でした。悔しい事に母に関しては死後2年経ち毒親だったことに気付きました。死人に鞭打つなとか聞いたことがありますが、生前の極悪非道、人の親としての義務を放棄した(ネグレクト)、その他様々な罪は消えません。私の心の中にしっかりと生き続け、恐らく毎日毎日死ぬまで私を苦しめるでしょう。両親が犯した罪はきちんと裁かれ、私同様の苦痛を味わうべきです。そうでなければ神も仏もありませんし、存在価値は皆無です。両親の位牌は私の激しい怨み憎しみ怒りが抑えきれす、金槌で叩き壊しました。その後は少し気分が安らぎました。両親の悪霊を退散させるために、護符を数枚購入し、毎日2回ご真言を唱え、香を焚いています。私の人生を台無しにし利用するだけして捨てた両親を生前のうちに仕返し出来なかったことが悔しくて堪りません。ポジティブシンキング、今後は自分のために生きよ、趣味や友人を作ろうといった、ありきたりの回答ならば必要ありません。
3年前の夫の葬儀の際のお坊さんについて疑問に思ったことがあります 先日、家族で当時のことを話していた時に、「葬儀にきたお坊さんは自分で袈裟も着れず、通夜の際はギリギリにきて葬儀社の人とほとんど打ち合わせができなかったらしいよ。」と言われました。そして、母からは「まだ列席のかたの焼香が続いてるのにお経を止めて退席したお坊さんをはじめて見たし、あんなにひどいのは初めてだった。葬儀社の人もいってたよ。」と言われました。 地元とは離れたところでの葬儀だったため当初は葬儀社の方が手配していただく予定でしたが、夫側の家族が自分のお寺にゆかりのあるところにお願いしたそうです。(とはいえ、来ていただいたお坊さんとは初対面です) 私は仏教徒ではなく、また他の葬儀に参列したことがないのでいくつかお伺いしたいのですが、 1.お坊さんは自分で袈裟を着れないものですか(私の印象としては袈裟は お坊さんの制服のようなものと認識していますが) 2.通常、焼香が続いている間はお経はつづけられるのでしょうか (参列者がそんなに多かったわけでもありません) 3.ゆかりのあるお寺のお坊さんに葬儀をしてもらうのと、そうでないので は 何か違いはありますか(本人は自分の宗派もわからないぐらいお寺とは疎 遠な関係です。夫側家族の自己満足ではないですか) 当時は私自身に余裕がなくこのような話を家族でしたことはなかったのですが、夫の最後の別れをこんないい加減な葬儀だったのなら家族と友人でお別れ会という形で宗教にこだわらずに送ってあげたたかったなと思ってしまいます。 ちなみに、宗派は浄土真宗です。
いつもお世話になっております。 私の通う病院の近くに、日蓮宗の寺院が あります。気になっていたのですが、 思い切って行ってみました。 寺庭さんも住職さんも、皆さん気さくで、 お堂も綺麗に整備されていました。 置いてあった勤行経典を読ませて 頂いたのですが、「提婆達多品」の 龍女成仏のクダリが気になりました。 女には、5つの穢れ、障りがあるとか…。 梵天、魔王、などと言われても、いまいち 理解できません。 女は菩提を得るのが困難、というのは、 何かの例えなのでしょうか? まあ確かに、男性より感情的になりやすい といわれていますが… だとしたら、化粧もせず、スカートも 履かずズボンスタイルでいると、 頻繁に男性と間違われる私は非常に 理想的と言えるかも… ご意見お待ちしております。
こんにちは、ミッションスクールに通う女子高生です。 タイトルどおりですが、何を持ってすれば仏教徒と言えるのでしょうか? キリスト教の場合は洗礼を受けることですが、仏教にもそのような行いをするのでしょうか? 仏教にとても興味があるのですが、何しろ幼稚園の頃からキリスト教をずっと学んできたので知識に関しては手塚治虫の漫画を読んだことぐらいしかないです。仏教の中にも、いくつかの宗派?がありますよね、本当に簡潔でいいので教えてください! 質問が多くて本当にすみません。回答していただけると嬉しいです。
お寺に嫁ぎました。 実家は、普通の家だったのでまだ慣れない部分があり心構えについて教えてください。 慣れない部分は、 まず来客や、電話が普通の家に比べて多いので、家にいても、自分の家にいるようなリラックス感がありません。 いつ誰が来るか、電話が鳴るかと思って、 横にもなかなかなれず、一人留守番の時は 2階の自分の部屋ではなく、なるべく下にいるようにしています。 子供が小さい時は、おっぱいをあげていても 誰かがくれば途中でやめたことも何回かあります。 実家にいた時は来客はほとんど来ませんでしたので、いつ誰がくるかが、ストレスに感じてしまいます。 どのように考え方を変えると 良いのでしょうか?
昨日、外に出てて駅で電車待ちの際、女性が意識なしレベルで倒れて。駅に私しかおらず消防に電話して蘇生を続けていました。成り行きで付き添って病院まで今も。その女性、意識を取り戻され「4月に結婚する」とおっしゃっていました。 付き添ってる間、副ご住職様から頂いたお言葉、メールを繰り返していました。何度かお伺いし、やっと話すことは辛かったことばかり話して泣いてた。 「掴めば膨れ上がる。客観的にみる」「マイナスに振り回されることなく、プラスにも振り回されることなく」だったら私のしている事は真逆。 お話にお伺いに行くなら「こんな事ができた!」「これが目標!」「こんな事をしたいけど、どういう心持ちでいたらいいの?」そういうお話をしに行くのだと思います。 昨日の自分を超えられるかもしれません。 いつやるの? 今でしょ!
日本には多くの宗派がありますよね。いままで私はお坊さんに対して、「おしょうさん」と呼んでいたのですが、全宗派の全部のお坊さん・・には使えないことを最近になり知りました。 和尚-Wikipediaによりますと・・・ 1.和上(わじょう) 律宗・浄土真宗(儀式指導者に対してのみ) 2.和尚(わじょう) 法相宗・真言宗など 3.和尚(かしょう) 華厳宗・天台宗など 4.和尚(おしょう) 禅宗・浄土宗・天台宗など 5.和闍(わじゃ) さらにさらに、 6.上人 7.聖人 8.そのた 調べれば調べるほどゴチャゴチャしてきました。 みなさんの宗派では、上記1~8のどれをお使いになりますか?祖師にだけ、宗祖にだけ、始祖にだけ、ふつうの僧侶に対して・・などお教えねがえればと思います。
インターネットで仏教布教や衆生救済にご尽力されているお寺様も多くなってきている昨今、祈祷寺院は世間の目に触れやすくなっているかと思います。 インターネットでの僧侶の露出が増えた結果、従来の檀家制度では考えにくかった、「どのお坊様・お寺様と懇意にするか選択する」ことが可能となっています。 メリットがある一方で「自称・僧侶」という僧籍を持たない、本山に属さない等偽物の僧侶に騙される危険性も否定できません。 (中には、自ら「破戒僧」と主張する方もいらっしゃいますが。) また、友人等から「お寺に行こう」と誘われたら新興宗教団体だったという話もききます。 お寺様・僧侶様が、本物かどうかを確認する方法というのはあるのでしょうか? 神社であれば、神社庁に属しているかどうかである程度の判別はつくと思うのですが(単立は別として)、お寺にはそういった統括組織等はありますか? よろしくお願いいたします。
よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。
先程の質問ではたくさんのご回答ありがとうございます。ひとつひとつ読ませていただきました。 私が経験したのが「悟り」であったかはさておき、お釈迦様への敬意は揺るぎないものとなり、さらなる修行を積む決意はできました。そこでお聞きしたいのが、「完全な悟りを得るためには具体的に何をすればよいのか」ということです。 無教養なので瞑想以外に修行方法を知らず、経典もさっぱりわかりません。 ご教授願います。
ずっと心に気になっていることがあり、お伺いします。よろしくお願いします。28年前に結婚し、マンションに野良猫がよく来ていたので、餌を与えていました。離れているぶんには逃げないのですが、手を出すと逃げていくような関係でした。でもある日、とても雨がひどい日のことでしたが、その猫が具合が悪いのか濡れそぼってやって来て、部屋に入りたがりました。今まではいくらこちらから近寄っていってもさっと逃げて行っていたのに、猫のほうから部屋に入れてと言うように鳴きながらやって来ました。私は長女を妊娠中で、お腹の子への影響を気にして(猫が持っている菌による奇形)可哀想と思いながらも入れてあげませんでした。猫はしばらく鳴いていましたが、どこかへ行ってしまいました。いくらお腹の子への影響が心配とはいえ、ひどいことをしてしまったと、この時のことが心から離れません。思い出すと、心が痛く、自責の念から逃れられません。長女はトラブルメーカーで何かと心配事を次から次へと起こし、実家を離れて一人暮らしをしている妹も姉の愚痴を聞くの嫌だから帰って来たくないと言います。長女がこのようなのは、あの時助けを求めていた猫を見捨てた報いなのでしょうか?
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願い致します。 私は祖父が昨年亡くなってから祖父の信じる仏教の宗派を知り その本山のお寺について知りました。 それから私はそのお寺に御参りに行きたいという思いが 生まれたのですが 御参り行けば何か祖父について 感じられることがあるのではないか という気持ちや祖父にしてあげられなかったことの後悔が どうにかなってくれるのではないかという気持ちがあります。 そういう自分勝手な気持ちでお寺に行っても失礼に なりませんでしょうか。 浄土真宗本願寺派なのですが本山は京都の 西本願寺で行けることができるのは来年になってしまうとは 思うのですが。。 何ともあいまいな質問で申し訳ございませんが お答えいただければ幸いです。
私はきっと周りから普通に見えると思います。 でも精神がおかしいのです。 生きたい、けど死にたい。 その感情が尋常じゃなく波のように押し寄せる。 死にたいのか、逃げたいだけなのか、ただ弱い人間だからこういう思考になるのか。 お坊様方の色々な体験談を聞きたいです。 人生の参考に。 私は今、煩悩を勉強しています。 出家も調べました。 でもまだまだ私には覚悟が足りません。 うまく説明できません。苦しいです。助けてください
まだ住職成り立てホヤホヤで、誰にも相談出来ず、恥ずかしながら、こちらにて、諸先輩方からの御指導頂きたく思います。 実は今日、檀家さんが相談事があるとのことで来寺されました。 その方曰く、『生前葬』をお願いしたい。 もう80で長くないし、どんな葬儀になるのか、また、自分の今までのご縁があった方が来るのか見たいとのことでした。 他にも様々な思いがある様子で、既に葬儀会館は押さえているようです。 私はその場では即答出来ず、教義的に可能かどうか、宗派の事務機関が、年末年始休みで問い合わせ出来ないと、その場しのぎの返答をしました。 個人的には、要は今回の件は、僧侶が、生前葬という名のエゴイズム丸出しの、パーティーのBGMに徹する事であろうと感じます。 お布施の誘惑と、宗教者としての確固たる立脚地との狭間で悩んでおります。 皆様はどう思われますでしょうか? 宗派を超えて、仏教者の忌憚ないご意見をお聴かせ願います。 追記 依頼者は裕福なお方です笑 あと、出来ればこの愚問の御解答は非公開だと嬉しいですが、如何でしょうか?
私の実家が空き家になっていて、私しか相続人がおりませんのでいずれ相続することになるのですが…私は私で別に家を持っているので、私がそこに住む必要がありません。 わが実家は地方都市ですが、過疎地というわけではなく、むしろ人口が少し増えているところです。にもかかわらず、地域の特性なのか、私の属する宗派のお寺が1か寺もありません。 土地を売ってしまって換金してから教団に喜捨したほうがそりゃーいいのだろうなぁと思いつつ、自分の実家でもあった土地なので、自分の宗派のお寺(お寺建てられる程度の面積はあります)を建ててほしい気もします。まぁ、教団がそんな土地はいらんと言ったらそれまでですけど。建てたって、いまどき寺を維持するのは大変でしょうから… でも、私の土地あげますからお寺立てて!…なんて、ちょっと古くさいような事例って諸先生方は見聞きしたことはありますか?