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hasunoha 問答検索結果 : 「 得度 」
検索結果: 275件

“我”の存在が辛い

いつも回答ありがとうございます。 うまく文章にまとめる自信がないのですが、聞いてください。 もともと私は、自分の意見を持つこと、気持ちを言葉にすること、それを他人に伝えることが好きだと感じていました。友達の相談に乗ったり、ネットに文章を載せたりしていました。周りからの評価は、『(正しいかはさておき)意志を持って行動できる人物』です。これは仕事で昇進するにあたって上司や顧客から頂いた評価です。 自分の意見を発信することで、存在を認めてもらいたい、という気持ちが根底にあるのかもしれません。ある時、私は「自分のことが好き」なだけであって「相手の気持ちへの配慮が欠けている」のではないか、と気が付きました。例えば、友人の相談に乗っている時です。相手の気持ちに寄り添うことは大事と分かっていながらも、自分が感じた意見と指摘をズバッと言ってしまいます。 意識しなければ、相手への配慮より自分の気持ちが先に出てしまうのです。ここまでの文章でも、「自分」という単語がたくさん出てきてしまっています。 ここからが悩みの本題です。 上記の問題に気が付いて以降、会話や文章を書く場面で、“我”の存在を感じて辛くなることが多くなりました。誰かと話していても、あぁ、私は今、近況報告と題して自慢を言ってしまった。と感じるし、ネットに投稿するにも、私は今、すごいねって感じてもらいたがってるんだ。だからこの内容を書こうとしてるんだ、と辛くなり消してしまいます。誰かへのアドバイスも、偉そうに言う権利なんて自分にはないのではないかと感じます。 また、下手の横好きなりにネット小説を書くのが数年前から一番没頭できる趣味だったのですが、登場人物を通して自己の主張を映そうとしている自分に気付き、執筆もできなくなりました。本当は書きたいのに。 ある程度は、他人の目線なんて気にしないほうが生きやすいだろうと思います。しかし元来の性格上、他人への意識を持たなければ私は自己主張が強くなるでしょう。 二つの折り合いをつけられず、今はただ“我”の存在が辛いです。そして根本的原因である、自分を認めてもらいたい欲求との付き合い方について、アドバイス頂けると嬉しいです。

有り難し有り難し 37
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夫の葬儀に来たお坊さんが…

3年前の夫の葬儀の際のお坊さんについて疑問に思ったことがあります 先日、家族で当時のことを話していた時に、「葬儀にきたお坊さんは自分で袈裟も着れず、通夜の際はギリギリにきて葬儀社の人とほとんど打ち合わせができなかったらしいよ。」と言われました。そして、母からは「まだ列席のかたの焼香が続いてるのにお経を止めて退席したお坊さんをはじめて見たし、あんなにひどいのは初めてだった。葬儀社の人もいってたよ。」と言われました。 地元とは離れたところでの葬儀だったため当初は葬儀社の方が手配していただく予定でしたが、夫側の家族が自分のお寺にゆかりのあるところにお願いしたそうです。(とはいえ、来ていただいたお坊さんとは初対面です) 私は仏教徒ではなく、また他の葬儀に参列したことがないのでいくつかお伺いしたいのですが、 1.お坊さんは自分で袈裟を着れないものですか(私の印象としては袈裟は  お坊さんの制服のようなものと認識していますが) 2.通常、焼香が続いている間はお経はつづけられるのでしょうか  (参列者がそんなに多かったわけでもありません) 3.ゆかりのあるお寺のお坊さんに葬儀をしてもらうのと、そうでないので は 何か違いはありますか(本人は自分の宗派もわからないぐらいお寺とは疎 遠な関係です。夫側家族の自己満足ではないですか) 当時は私自身に余裕がなくこのような話を家族でしたことはなかったのですが、夫の最後の別れをこんないい加減な葬儀だったのなら家族と友人でお別れ会という形で宗教にこだわらずに送ってあげたたかったなと思ってしまいます。 ちなみに、宗派は浄土真宗です。

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滅するべき煩悩とはなんでしょうか

よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。

有り難し有り難し 53
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報いについて

ずっと心に気になっていることがあり、お伺いします。よろしくお願いします。28年前に結婚し、マンションに野良猫がよく来ていたので、餌を与えていました。離れているぶんには逃げないのですが、手を出すと逃げていくような関係でした。でもある日、とても雨がひどい日のことでしたが、その猫が具合が悪いのか濡れそぼってやって来て、部屋に入りたがりました。今まではいくらこちらから近寄っていってもさっと逃げて行っていたのに、猫のほうから部屋に入れてと言うように鳴きながらやって来ました。私は長女を妊娠中で、お腹の子への影響を気にして(猫が持っている菌による奇形)可哀想と思いながらも入れてあげませんでした。猫はしばらく鳴いていましたが、どこかへ行ってしまいました。いくらお腹の子への影響が心配とはいえ、ひどいことをしてしまったと、この時のことが心から離れません。思い出すと、心が痛く、自責の念から逃れられません。長女はトラブルメーカーで何かと心配事を次から次へと起こし、実家を離れて一人暮らしをしている妹も姉の愚痴を聞くの嫌だから帰って来たくないと言います。長女がこのようなのは、あの時助けを求めていた猫を見捨てた報いなのでしょうか?

有り難し有り難し 29
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