hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「 執着 」
検索結果: 3187件

仏教徒に対する疑問パート4

それではさっそく質問です この世の最初の最初にあった無明それはなんの原因と結果で生まれたんですか? 無明を作った原因と結果それを作った原因と結果それすらも作った原因と結果 そうやって全ての原因を作った犯人を永遠と見つけれないでただ結果だけあったら 因果の法則というより因を無視した果の法則じゃないんですかね そしてその無明が業を作り出しこの娑婆の世界を作ったそして自分の存在も 最初の最初だった頃は自分は何の業も作ってないのに無明が勝手に業を作り 業の濡れ衣を着せられた自分はこの娑婆の世界へ落とされた これも因を無視した果の法則じゃないですか? ホントに最初の最初の状態 そこには原因の犯人がわからない結果だけがただ無明としてあり その無明は業を作り続けて 勝手に自分も業を作ったことにされるなら 悟りを開いても勝手に業を作らされれるんじゃないですか 無明は因果なんて無関係に悟りにも襲ってくると思います 無明は因果の法則というより因を無視した果の法則として 無明は最初の最初に始まりの原因と終わりの結果の全てを作ってしまった この世の法として襲ってくるからですよ まるで神のような速さで煩悩として悟りに追いつくと思います それなのになんで悟りはそこからも解脱できるんですか? 毒矢のたとえでそんなこと考えないで修行しろと説いた お釈迦様は無明からも解脱した根拠はなんですか? 人前で誰にも出来ない奇跡を起こしたりしたんですか? なぜお釈迦様は周りの娑婆僧とは完全に違うと周りは気ずいて その人の言うことが真理だとして宗教にしようとしたのですか? もしも何の根拠もないなら そこらへんの神を妄信するカルト宗教と大して変わらないですよね

有り難し有り難し 37
回答数回答 3

死後の世界について、助言をお願い致します。

私は、HSP(高感受性)の者で、霊は、見えないのですが、人の細かい感情や動物の気持ちも感じやすかったり、植物や大気のオーラを感じる事もあります。私は、見えないものに興味があり、死後の世界についてもよく考えるのですが、人生とは、魂を成長させる為の修行なのでしょうか? 死後の世界について、いくつかご質問したいと思います。お願い致します。 ①人は、体が死ぬと魂が体から抜け出て、人生を全うした善人であれば、現世への拘りが強く無く、死んだという自覚がある魂であれば、お迎えが来たり、来ない場合でも天国のような霊界に行くことが出来る。 ②現世への拘りが、強い魂や自分の体が死んだ自覚がない魂は、現世に留まり浮遊霊や地縛霊になって拘りがとれて、死を自覚するまで何年でも何千年でも現世を漂い続ける。 ③悪人(人殺しや自殺)をした者は、死後恐ろしいところや暗闇をさ迷い続けて生きていた時よりも苦しむ。 ④霊界で再度人間に生まれ変わる時は、霊界の偉い方と相談をして、どの体に入るか自分で選択する。そして、選択した体に魂を宿し、生まれてくる。体を選択するときには既に、その子どもとして生まれたら、どんな親の元で育てられ、どんな友人、恋人、結婚相手等と出会うのかわかった上で選んでいる。 ⑤霊には、私達と同じでお経の意味がわからないことが多い。 ⑥霊には、私達と同じ記憶と感情があり、精神は生きている者となんら変わらない。 ⑦霊は、生きている人と話せる。瞬間移動を出来る。軽いものを動かせる。電気機器などを動かせる。夢枕に立つ。体を生きている人と同じ見た目の姿に出来る。体に重量をつけれる。霊能力者と頭の中で会話が出来る。霊が見える人だけに憑依出来る。写真や映像に写り込める。 霊感の鋭い人には見えるが、普通は見えない人の方が多い。 ⑧地獄に鬼や閻魔大王はいない。死後の世界では、現世でのどの行いが良かったことで悪かったことか自分で解るようになる。死後の世界は、自分の心の現れでもある。 死後の世界は、精神世界で異次元空間。その空間は、現世と重なりあうように存在している可能性がある。 上記の①~⑧は本当でしょうか? 私が、死の世界について真剣に調べて、直感で感じたことです。長々と失礼いたします。ご意見お願い致します。

有り難し有り難し 63
回答数回答 4

生きるのは苦しみ?

うつ病(持続性気分障害)の治療を10年近く受けていいる者です。 先だっては、お坊様方からのメッセージをいただきありがとうございました。世の中には良い人もいると分かり嬉しかったです。 前回の質問よりも「命」について突っ込んでお尋ねします。 生きているのが苦しくて苦しくて楽になりたいです。 死にたいと思うことがあります。 【 自分の命であっても、なぜ命を絶ってはいけないのでしょうか? 】 「生きたくても生きれない人がいる」「生まれてこれなかった命がある」「困る人がいる」「悲しむ人がいる」「ひとつしかないから」「死ぬのは怖いから」「ご先祖様からの預かりものだから」「命のリレーだから」「なかなか人間に生まれるチャンスはないから」などの答えに頭では理解出来ます。 しかし、死について考えているときは負のスパイラルの真っただ中にいるので、自殺のストッパーに全くならないのです。 本で読んだのですが、「お釈迦様も生老病死を苦しみとおっしゃった」そうですよね?つまり生きることも苦しみ。 だから修行して解脱し、二度とどこの世界にも生まれないようにするのですか? もしそうなら個人的にはしっくりきます。(でも結局は生きていてもつまらないですよね。) こんな質問をしていますが、本当は死にたくないという自分もいると思います。死にたがりの生きたがりなのでしょう。 お答えをいただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 48
回答数回答 3

非我説(無我説)と我見

非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います

有り難し有り難し 33
回答数回答 5

飲酒について

お酒を飲みたい思いと葛藤しています。 親族の死をきっかけに仏教について調べるようになり、五戒のうちの一つに不飲酒戒 があるのを知りました。 ネットで調べていると、「『不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し悪行を行うことを戒めているのだから、多少ならば良い』などというのは詭弁」 「飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏教の核心に大きく差し障る行為」 とありました。 不安になり、ここ約半年間、飲み会の席でも飲むのをさけ、料理をするときもみりんや酒などを使わない、もしくは沸騰させてアルコールをとばすようにしたりしています。 みんな飲んでいるし、少しくらいなら、自分のためになることもあるのに、などと言い訳をしている自分がいます。不飲酒戒について知らなかった人は飲んでも許されるのだろうな、いいなと思ってしまったりもしました。 飲み会があってもいつもは飲んでいたのに飲まない私は他人からどう思われているのだろうとか考えてしまいます。 ここにこうやって書いているのは、「飲んでも大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。 罪悪感と煩悩と、いろんな考えで頭がごちゃごちゃです。 飲酒についてのお坊さんのお考えを教えてください。

有り難し有り難し 67
回答数回答 4

虐待

私の父は社会的地位のある人です。 しかし、私は幼い頃から厳し過ぎるしつけをされ、今思うと、虐待ではないかと思います。 幼い頃は、言葉遣いを誤ったり、口を滑らしたりという事は誰にでもあると思うのですが、他人にしつけが悪いと思われたくなかったのか、父は人前でよく怒鳴りました。家に帰ると、お前のせいで恥をかいた、と言って殴られました。 また、あくびやクシャミ、物に躓いたり、子供なら笑ってしまう何でもない事でも、笑うと、 『何がおかしいのか?』と言って殴られました。 冗談を言っても通じず、殴られました。殴られるとき、避けたり頭や顔を手で覆うと、卑怯だといって余計に何十発も殴られました。小学生の頃、一度走って逃げましたが、捕まって首を締められました。母が叫んだので、助かりました。 大人になってから知ったのですが、父は子供の頃チックがあり、からかわれていたそうで、笑われる事に敏感になっていたようです。 今になって思えば、父も若かったし、自分の怒りをコントロール出来なかったのかも知れません。また、子供のしつけ方が分からなかったのかもしれません。 父に殴られている間、母はいつも見て見ぬふりでしたか、大人になってから、あの頃は自分が殴られたら嫌だから助けられなかったと言って謝ってくれました。 私は今ほとんど笑わず、笑うことが罪の様に感じる性格になってしまっていて、人の冗談も、笑っても大丈夫か考えてからでないと笑えません。 テレビのバラエティ番組を見ても、人の欠点や失敗を笑いにしていることが多いので、見ていて怖くなります。 学生の頃から、面白くない、なんか真面目すぎる、とか言われ、心から友達と呼べる人は誰もいません。笑ってあげた方がいい軽い失敗なども、よく考えてからでないと、怖くて笑えないのです。 社会人になってからは実家にはあまり帰っていません。両親に会いたいとは思わないのです。 父は社会に貢献する仕事をしてきて、今でも世間からは立派な人だと思われています。いくら父が立派な仕事をしても、本当はそんな立派な人間ではないと私だけが思っています。 父に虐待されていた事を誰かに打ち明けたいのですが、そんなに親しい人もいないので、お坊さまに知っていただきたくて、書かせていただきました。 心の中の苦しさを軽くする方法かありましたらアドバイスをお願い致します。

有り難し有り難し 96
回答数回答 3

無我とはどういうものなのでしょうか

短気な性格を直したくて読んだ自己啓発本に書いてあった無我(人や物事に対する興味、自分自身の気持ちを無くせばイラつくことも無くなるということらしいです)というものを数年前から自分なりに頑張って実践していたのですが、効果が出てくる頃には人と会話が続かないようになってしまいました。 会話している相手や話している内容(流行などにもかなり疎いせい)に全く興味がわかないので向こうが話かけてくれても一言二言生返事で返してしまいすぐに途切れてしまいます。 頑張って繋げようにも面接というか質疑応答のように無機質な感じになってしまい、華が咲かずただ無意味な問答で相手を困惑させているような気がします。 自分自身、気まずいという感覚が麻痺してきているのか感情という面で困ることは無いのですが、やはり不和の原因となっている部分もあるのでこのまま社会に出るのは危ない気もします。 元から私的な場面では人とあまり関わりたくない性分ですのでパブリックな部分は徹底してドライに割り切りたいのですが、感情的な人には斜に構えた嫌味な奴に思われてしまうのかも知れません。 「嫌われようがどうでもいい」という今までのスタンスを崩し、多少無理にでも嫌われない様にと努めるとまた昔のように小さいことでイライラする自分が垣間見えるのでどうすればいいかわかりません。 本家本元である仏教での無我というものはどういう教えなのでしょうか。

有り難し有り難し 124
回答数回答 5

遺伝性疾患との付き合い方

こんにちは。遺伝子診断や尊厳死について、考えたいです。  先日父が神経変性疾患の一種で入院しました。体が不自由になり、精神も壊れ暴言、暴力を振るうようになり、10年くらいで餓死、窒息、肺炎等で亡くなる病気です。  父は病状が進み暴力問題もあり入院となりました。父は車椅子に縛り付けられ(病気の性質上、ずっと付きっきりで見てあげられない病院では仕方のない処置です)罵声をあげていました。  この病気は何割かの確率で遺伝し、遺伝していた場合には100%発症します。この病気について、母は発症するまで伝える気がなかったのですが、1年ほど前に実家に遊びに行った時に父から告げられました。  その時私は結婚したばかりで、混乱しました。金銭的不安、パートナーにかける迷惑、人格がゆっくり変わっていって父のように暴言、罵声を毎日のように言うようになるかもしれない、それが病気との線引きが難しく治療法もないこと、子供を持てるかどうか、遺伝子診断をするかどうか。沢山の悩みが湧いて出てきました。  そして父の入院を目の当たりにして、ますます怖くなりました。  遺伝子診断をしたいのですが、母からは反対され、医療関係者も自殺の恐れなどあるので消極的です。  尊厳死についても考えますが、心配させるのでとても口にはできません。父も意識のはっきりしている時は寿命が長くたってなにもいいことはない、体も辛い、早く死にたいと言っていました。しかし当たり前ですがそんなことを言っても聞き入れられず、病人の危ない考えだと黙殺され、今父は病院で椅子かベッドで縛り付けられて苦しんでいると思います。退院できるかも分かりません。  遺伝子診断はして欲しくない、出生前診断は法的に認められてない、尊厳死もありえない。 病気の人の存在理由とかを考えすぎて、死はいけない、命の選別はいけない、そこから話が進んでいかないように思います。やさしい母ですが病気の話をすると目をそらして見ないフリをして生きろと言われている気がして憎いです。ついつい、この家に来ると落ち込む、とか嫌味な言葉を掛けてしまいます。それに怖くて目を晒せません。治療法がどんどん研究されている病気でもあり、積極的に関わっていくことで恐怖と付き合いたいです。  とりとめのない文章になってしまいすみません。尊厳死や遺伝子診断はなぜいけないのでしょうか。とても苦しいです。

有り難し有り難し 25
回答数回答 2

人を見下してしまう自分が嫌いです

私は考える力はある方だと自負しており、それゆえに学校で習うようなことは周りよりもなんでも得意だったので、プライドが高く、人に見下されたりバカにされるのが嫌いです。 そのためか、相手を見下している人間がとても嫌いで、自分はそうなりたくないと思っています。 ですが、私はつい友達のことを見下してしまいます。 言葉や態度に出さないように気をつけてはいますし、その子のいいところや自分には敵わない素敵なところも分かっているのですが、どうしても人間的なレベルが低いなと思ってしまい下に見てしまいます。 時々それが態度にも出てしまっているような気がします。 そんな自分がすごく嫌で、どうにかしたいと思うのにどうにもできずとてもつらいです。 私は今30歳手前ですが、昔から友達と呼べる人も多くなく、彼氏ができたこともありません。 きっと私が仲良くなりたいと思う相手は、そういう私の本質的な醜さを見抜いて去っているんだと思います。 だから私に近寄ってくる人に対しては、そんなことを見抜けない見る目のない人、もしくは寂しいから誰でもいいと思っている人だと思って好きになれないのです。 どうしたら人を見下さない善い人間になり、自分のことを好きになれるでしょうか。 そして自分のことを好きになってくれる人のことを、素直に好きになれるでしょうか。

有り難し有り難し 24
回答数回答 2

悲しいことばかり思い出す母

私のことではなく母のことで相談です。 母はおしゃべりで楽しい人なんですが、家にいる時は基本ネガティヴ思考です。 うちは私が小さい時は両親と、近くに住んでいる母方の祖父母と対立していて毎日ケンカが絶えませんでした。 そういった状況であったので、辛いことはいっぱいあり、15年経った今でもその時の事を思い出しては1人で泣いています。 内容はいろいろですが、私が困っているのはとんと昔のことを、「あの時お父さんにこう言われて悲しかった」など。それを、父や私に言って覚えていないと辛がります。というか、今起きたことのように話ます。 そんな時、私も父も兄も正直正確には覚えていないので「はてな?」となります。 もちろん、私も忘れられない嫌なことを両親、祖父母のケンカのとばっちりを受けてひどいことを何回も言われていますが、母私に言ったことを全く覚えておりません。 それなのに自分がされたことを相手が覚えていないと怒り辛がり泣きます。 最近それが多く私も諭すのですが、何回親身になって話を聞いてあげても改善されず、私が一歩言葉選びを間違うと「私のことわかってくれない!」になるので心底疲れます。 私は今は平穏に暮らせているのだから、辛いことばかり思い出して泣いていては人生もったいないと思うんです。もちろん辛いことの度合いは人によって違うのでふと思い出すことは仕方ないとも思います。私だってたまには思い出しますが、辛いことあったな〜〜、でも今幸せだなくらいにしか思いません。PTSDとか重い精神的な障害があるのなら話は別になりますがそういったものでは無いです。 私が人の痛みを分かってあげられない冷たい人なのかな?とも思うようにもなってしまいました。 母が昔のこと思い出してしまった時どう接したらいいかわかりません。話の聞き方など教えてください。

有り難し有り難し 70
回答数回答 2