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検索結果: 2934件

LGBT差別に腹を立てることも煩悩なのか?

私はゲイです。 最近、LGBTの存在が広く知られるようになったおかげで、楽しいことも増えましたが、同時に酷い差別も目だってきました。 もとい、差別は昔からありましたが、ネットの発達によって、いわゆるヘイトスピーチを目にする機会が増えてしまいました。 私もパートナー制度の実現を喜んだりしただけで、虹色のイベントへの参加報告をブログに書いただけで、見も知らぬ人から心ない言葉をぶつけられます。 またゲイとの交流が深まるにつれて、差別で辛い思いをしている人々の話しを沢山聞き、自分と同じ性指向だけに他人事のように考えることは出来なくなりました。 「差別」は他人様がされているのを見るだけでも非常に不愉快ですが、自分が差別されると、その不愉快さは何百倍もします。 だから少なくとも自分は、他の少数派や弱者の方々を差別しないように気をつけていますし、「ヘイトにヘイトで返してはいけない」と自重しています。 でもやはり内心では、はらわたが煮えくりかえります。 いわゆるヘイトをする人には、これを娯楽半分で面白がっている人が少なからずいます。こちらは切実な問題なのに・・・ でも「怒り」は煩悩ですよね。 私は自分を差別してくる人間に対し、菩薩のように接するのは無理です。 私がお不動さんに惹かれるのは、これも理由かもしれません(お不動さんの慈悲の怒りとはほど遠いですが)。 そこで質問なのですが、 仏教でも差別に対しては、「右の頬を打たれたなら、左の頬を向けてやる」べきなのでしょうか? それとも、非暴力、例えば言論等での抵抗はゆるされるのでしょうか? 差別に対する怒りも煩悩であり、消さなければならないのでしょうか? よろしくお願い致します。

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老いること

こんにちは。宜しく御教授お願いします。 父の死後、九州で一人暮らしを続けていた80歳の母が身体的にも介助が必要になり、認知症らしい言動も出てきている為独居は限界と判断。私も兄も関東に住んでいる為、関東の施設入所して貰う事になりました。 離れている為、近くにいてもらった方がいいと思ったからです。 受診、入所先探し、転居の手続き、親戚への挨拶、荷物の送付、入居準備全て私が行いました。 後は、住んでいた九州の実家の片付けがあるのですが、かなり家財道具がある為大変です。 兄に相談しましたが、手伝ってくれる気は無さそうで、当然私がやるものと思っています。 その事で、喧嘩もしました。私は充分やったし、これ以上の負担は身体的、精神的に無理です。 母の認知症は、まだまだ軽い方ですが、以前と違う母といることがとてもつらく、ストレスを感じます。 冷たい娘とお思いになるかもしれませんが。 母は本当はずっと、生まれ育った町で暮らしたいようです。私達の為に、入所してくれるんだと思います。 そんな母を見ていると、本当にこれで良かったんだろうか?と思ってしまいます。兄弟で揉める姿も、見せたくはないです。 私はケアマネの仕事をしていますが、自分の親の介護については考えていませんでした。敢えて、考える事から逃げていたとも言えるかも知れません。利用者さんの御家族が、介護の負担分担で揉める姿を散々見て、悲しい気持ちになっていました。まさか、自分がこんなことになるとは。お恥ずかしい限りです。 私は 子供が出来ない身体ですが、たとえ子供がいても老後は決して安泰ではないのですね。 人は生まれて、それぞれ一生懸命その人の人生を生きて、老いていく。 やっと、ゆっくりと人生の最期の時のためにのんびりと穏やかに暮らせる時間が来たのに、子供たちは世話のなすり付け合い、生まれ故郷から離れての生活。 老いることは悲しい事でしょうか。 私達は、人生の最期の時期をお手伝いする仕事ですが、どんな人にも最後は幸せでいて欲しいと願って仕事をしています。御坊様は、本当の最期のお見送りをするお仕事だとおもわれますが、人の老いについてどのような考えをお持ちでしょうか。 私事の相談のはずが、話が大きくなってしまい申し訳ありません。

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非我説(無我説)と我見

非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います

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宗派の違う人の供養の仕方

教えていただきたいです。 大切な彼が自死を選びました。私は救うことも支えることもできませんでした。それなのに、最後に「ありがとう」と言ってくれた、心優しい彼でした。 彼は真言宗です。即身成仏で、現世において密厳浄土を目指す宗派と理解しております。 お父様の月命日には必ずお墓参りをしていた、心のきれいな彼です。 さて、ここからが質問です。 1 自死をした場合 自死を選んでも、心のきれいな彼であれば、密厳浄土に到達し、苦しみから解放されているのでしょうか。 2 逆縁の場合 彼のお母様は存命です。逆縁になってしまっても、密厳浄土に到達し、苦しみから開放されているのでしょうか。 3 供養の仕方 四十九日までは、追善供養が重要と理解しています。 家族でもなく、宗派も違う私の場合、彼を想って光明真言や般若心経を自分で唱えるようなことで、追善供養になるのでしょうか。 何をすることが、彼にとって最善なのでしょうか。 4 宗派の相違 私は真言宗ではありません。その場合、死後に会うことは叶わないのでしょうか。 5 悪人正機 私は様々な罪を犯しているため、こんな私でも彼のためになれるとしたら、高尚な真言宗ではなく、浄土真宗の教えに従い、阿弥陀仏に救いを求めることしかできないのではないかとも考えています。 真言宗の彼のために、南無阿弥陀仏と唱えることは彼のためにはならないのでしょうか。 質問ばかりで申し訳ありませんが、こんな私が彼のためにできることを教えていただきたいです。

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2021/12/07

これは同罪ですか?

私は過去に妻子ある人と、お付き合いをしていました。不倫です。 そして私も彼氏がいました。彼氏には隠して、お付き合いをしていました。 また、その妻子ある男性は覚醒剤常習、刺青があるような方で、収入は闇金融で法外な利息収入、車は確か盗難車だったような気がします。 写経をしながら過去を振り返り、いろいろ気付きが見えてきました。不倫に関してはお相手の奥様にバレてしまい、私は奥様を泣かせてしまいました。思い出して反省して、ものすごく苦しくなりました。涙ながら反省する事もあります。 また、深く深く振り返り、闇金融の法外な利息で得た収入で私達は遊んでいた事、そして盗難車に乗り遊んでいた事に気付き、これは罪である事に今更ながら気付きました。確かに私が得た収入ではない、盗難車も私の所有ではありません。 が、写経していくうちに、これはもしかして私は同罪にあたるのではないかと思うようになりました。 私からすれば当時は闇金融、盗難車という話を聞いても「ふーん、そうなんだ。」くらいの認識でしたが、よくよく背景を考えると収入源や車は、私は知らない人が働いて得た収入で遊び、私は不倫相手が所有していた知らない人から盗んだ車に乗り、というような状態でした。 普通の方であれば信じられない話でしょう。親であれば闇金融?盗難車?その人、大丈夫?となるでしょう。 しかし思考が曲がってしまったあの頃の自分には気付きません。 これは私は同罪にあたりますか? また私は地獄に値する罪だと思い、気付いたら、ひたすら謝罪しながら写経をしている自分がいました。 こうして書いているだけで苦しくなります。私は、とんでもない事をしたと思います。ごめんなさい。

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どうか少しでも何かアドバイスを頂ければ幸いです。

お世話になります。 「中絶からの立ち直り方」と「水子供養の方法」についてアドバイスを頂ければと思い、御質問させて頂きます。 私は6年程前に中絶を行ってしました。 その頃、供養も行ってはおりましたが、平均そのお寺で供養するのは3年程で供養を終わらす方が多いと聞いたので、私も命日に1年に1度足を運んだきり3回行いその後放置しておりました。 そして当たり前ですが、年々、その自分のした罪の重さに、周りの友達が出産や子育てをしていく中で改めて取り返しのつかないことをした、親としての生きていく価値のなさ、この命の重さを年々理解し苦しくて苦しくて耐えきることができません。体が鉛のように重く、全身の硬直、手の震え、口から我が子の手が出てくるのではないかと思うほどの気持ちの悪さ、息苦しさ、怖さに押しつぶされだんだんと気力がなくなってまいりました。本当に闇の底にいるため、この世の人との差を感じまるで別世界で生きている気がしません。 安産祈願で有名な近所のお寺(中絶当初と同じところ)に再び足を運んでみましたが、夫婦仲良く妊婦姿、また子連れの家族の幸せそうなの中恥ずかしくく、また子供も違う所の方が喜ぶこではないか?水子さんが仲良くみんなで過ごせるお寺さんの方が良いのではないか?と思いもう一箇所別のお寺で供養を行っていただいてしまいました。 ところが「オンカカカビサンマエイソワカ」と唱えれば良いとお教え頂いたのですが、我が家は浄土真宗なのに何か違和感を感じる、先祖と違うところに行ってしまうのではないか…また我が子の霊は2箇所で供養もしてもらいさ迷っているのではないか…再びただただ罪を重ねているだけの自分に苦しく…また浄土真宗は三回忌すぎているし過去帳にも記載することができない…今後一体どうすれば良いのだろうか… 我が子の命の分までと精一杯人一倍生きなければと保育を勉強し試験を受けたりと、人の何十倍何百倍は努力して生きていこうと思い頑張ってきましたが、人間の体はやはり正直でもう気力がありません。死んでも償うことのできない罪を前にどのように前に進めばよいのか、立ち直り方がわかりません。自業自得ですが立ち直ることができません。 長々と本当に申し訳ございません。 またお忙しいところ申し訳ございませんが、お手隙の際にご回答頂ければ幸いにございます。 よろしくお願い致します。

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自分が出せない

初めまして。都内の大学に通っておりますトミーと申します。一年生です。 私は小中学校で過去にいじめを受け、それが解決してからも、周りと分かり合えず浮いてしまい、高校に通い始めてからはそんな自分を変えるために明るく振る舞うようになりました。 しかし、それから今になっても、人に弱みを見せたり、薄暗い自分の本性や悩みを人に打ち明けることが出来なくなってしまいました。 大学でも友人は多く、しかし、その中で感じるストレスや悲しみを、人に打ち明けることが出来ません。 否定され、そうでなくとも突き放され、1人になるのが恐ろしいのです。 いつも笑っているので、作り笑いばかり上手くなって、怒ることも泣くことも出来なくなってしまいました。 家族にすら自分の姿を偽り、やっと1人の時間を得て、その時に泣きたくなっても、涙が出なくなってしまいました。 悲しいことも腹立たしいこともたくさんあります。 しかし、もはやそれを表現する言葉も見つからず、ありのまま話すことも、素直にそうしたくても、しようとしても出来ないのです。 私は、人を信じて、助けを求めたいのです。僕の悲しみや怒りが晴らされなくとも、ただそばにいてほしいのです。 私はいったいどうやって人に助けを求めて、どうやって満たされたらいいのでしょうか。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 36
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自殺してはいけない理由

お世話になります。 今すぐに死にたい、ということではないのですが、 私は、かねてから「自殺してはいけない理由」が分かりません。 遺族や他人に迷惑をかけるから、というのは理解できます。 しかし、生きているほうが周りに迷惑をかけてしまう者もあると思うのです。 私は同性愛者で、家族や伴侶はおらず、 将来、いわゆる無縁死や孤独死を迎えるのは、 ほぼ間違いないと考えています。 交通事故に遭うなどすれば別ですが、 そうそう都合よく、ぽっくりとは死ねないでしょうから、 体力が衰え、あるいは何かしら病を患うようになった頃からは、 例えば地域の民生委員や、市の高齢福祉課などに、 多少なりとお世話になってしまうでしょう。 そのような方々の手を煩わせ、 また、一般の方々が収めた税金を費やすべき価値が、 私の死にあろうはずが無いのです。 さらに、私は低所得者で、蓄えもございません。 つまり、死を迎える年齢の頃には、 金は無いわ身寄りは無いわ、 ただただ扱いづらいだけの年寄りになるのは、目に見えています。 これで認知症を患おうものなら、さらに厄介な存在となるでしょう。 だから、まだ体や頭が動くうちに、 無価値な自分自身に、落とし前をつけたいと考えてきました。 こちらの相談サイトで、 自殺を肯定するアドバイスなど頂けないのだろうと思います。 では、こんなクズでも生きていかねばならない理由を、 私に教えて頂けますでしょうか。 宜しくお願いします。

有り難し有り難し 634
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生きているのがつらいです。

自分の価値が分かりません。 自分を大切に出来ません。 数年前から、毎日毎日、寝る前に「目が覚めたら死んですように」「明日こそ死ねますように」と祈るようになり、朝起きるたびに「まだ生きてる」と絶望していました。 それでも、やりたいこと目指しているものがあったので、これではダメと鼓舞し未来をイメージするようにしました。 しかし、お前にはそれは許されないと戒めのように、プラスのイメージを持つたびに、大なり小なり突き落とされ続けてきました。 そのうち30歳までに死にたいと思うようになり、29歳のときに癌が見つかりました。 Ⅱb期の子宮体癌です。 抗がん剤と手術で根治する、と言われ絶望しました。 まだ、死ぬことが許されないほど苦しみ足りないのですか? 両親や友人に望まれ、治療を受けることにしました。 二月から抗がん剤投与が始まり、来月末に摘出手術を受けます。 周りの人達に心配をかけまいと前向きな発言もしますし、そのときは自発的に元気になったらやりたいことがイメージされます。 それでも、浮上すれば落とされの繰り返しです。 これ以上大切な人達に心配も迷惑もかけたくないから愚痴も言えないです。 けれど、毎日死にたいと思いながら生きるための行為を繰り返すのは辛いです。 やはり、一度死を渇望した私には心から笑って明るく生きる資格はないから苦しんで苦しみ抜け、ということなのですよね。

有り難し有り難し 171
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