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hasunoha 問答検索結果 : 「 お経 」
検索結果: 3053件

宗教や宗派ってそんなに重要ですか?

宗派のラベリングに重要性が見いだせず、むしろ弊害を感じることが多いです。 (800文字と長めです。) 以前とある牧師さんに教わりました。「キリスト教は浄土宗とソックリだ。日本向けのローカライズのために、あえて仏教に化けて広めた可能性を疑う研究者すらいる(笑)」 真偽はさておき、個人的には同感です。核心部たる念仏などは酷似しており、言葉が違うだけで内容はほぼ一致かと(素人目には)感じています。となると、キリスト教と浄土宗の本質的な違いは何でしょうか?人智を超えた神仏を※※教だけが独占できると見なす構造にも疑問があります。 ここからが本題です。その違い(ラベリング)は、諸々の軋轢を覚悟してまで保つべき、重要な違いなのでしょうか? 些細な見解の差で派閥や宗派が分かれていき、しまいには宗教戦争が起こるのだとしたら、単なるセクショナリズムと何か違うのでしょうか?5%の違いのせいで協力できず、残り95%の共通点を捨てているように見えます。ましてや同じ宗派や寺院の所属でも、個人ごとに意見はバラバラだというのに。宗派の上納金制度?などを聞いても、宗派はいわゆるビジネス上の"のれん"に過ぎないのでは?との現実的な疑問も浮かびます。 問いの対象は浄土宗だけではなく、宗教と道徳の境界線についてです。話がそれますが、中東問題などを理解する上でも避けて通れないテーマです。奇譚のないご意見を頂けると嬉しいです。 問を整理します。 「学べば学ぶ程に、宗教や宗派のラベリングに重要性が見いだせません。むしろなぜ拘るのかわかりません。私に欠けている視点を、どうかお聞かせください」 以下は補足です。 私はキング牧師やガンジーを尊敬しています。彼らは別々の信仰を持ちつつも、※※教徒のためではなく、社会全体の差別撤廃のために活動しました。それでいて、全ては信仰に基づくと明言しています。このスタイルに敬意を持つ反面、宗教宗派のラベリングに違和感を持つということは、何かを見落としているのでしょうか? 宗教とか宗派に拘りがなく、人に言われるまで気づきもしないのはダメなのでしょうか?

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罪悪感、恥

こんにちわ。私は3年ほど前、自分の人生を振り返った時にいくつかしてはいけないことをしてきたことを認識しました。例えば、小学生や中学生の頃友達をからかっていたこと。暴力をふるったわけではありませんが、やられた側からすればとても辛いことです。他にも中学生の頃、人生で一番後悔していることをしていました。当時はやった直後に後悔をしてやめようと思った程度で反省はしていませんでした。そして三年前に今までのことを振り返った時に、すごく罪悪感を感じました。過去の自分が、今の自分の善悪の基準で許せないことをしていました。謝罪、償いができることならまだ救われたかもしれませんが、いくら反省をしたところで、迷惑をかけた人に何もすることはできません。私の自己満足です。もちろん、反省をしてそういったことはしないと決意はしています。そうして考えているうちに、ニュースで見る悪いことをしている人、捕まっている人を見ると自分もあの人たちと同じなんだな、むしろバレないで今に至っているので罪を償っていない悪人だと思いました。それ以降、事あるごとに自分のしてきた事を思い出して罪悪感を感じます。そして、自分によくしてくれる人、友達、家族に申し訳なくなります。自分はそんなことしてもらえるような人ではないと思ってしまいます。もし、自分がこういう悪いことをしてきたということを知ったら、そもそも私と関わろうと思わないのではないか、私はいい人のふりをしているのではないかと思います。過去にこだわるのは良くない、今をよりよくしなければとは思いますが、どうしても自己嫌悪から抜け出せません。というよりも、逃げてはいけないと思います。人は過去や痛みを忘れるもので、常に辛いわけではありませんが、事あるごとに思い出しては落ち込み、またそれが和らぎ、を繰り返して生活しています。何かアドバイスいただけると幸いです。長文を読んでいただきありがとうございます。

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見返りを求めてしまいます

普段から好かれたくて人に親切にしたり、何か褒美を得られるからといった理由で行動を起こすことが多いです。 そのおかげでよく優しいね、えらいね、と言われますが、実際はとても自分本位な性格なので得にならないことだと途端に面倒くさがってしまいます。 他人に優しくするのも、自分が好かれたい、優しくされたいという下心からです。 浅ましいと自分でも思います。 優しくされたいから仕方ない!と開き直ったり、自分はなんて人間なのだと落ち込んだりする日々です。 どうしていいか分からず苦しいです。でも優しくされたいです。好かれたいです。見返りを求めてしまいます。 その一方で必死すぎてきもいなとも思います。 昔、友人から雑な扱いを受けていて、度々「いないもの」にされていました。発言、行動を無視されたり、否定されたり、馬鹿にされたりといった扱いです。それが2年ちょい続いて正直かなりきつかったです。 向こうは冗談のつもりだったらしく、のちに謝ってくれてこの件は解決しました。でもこれをきっかけに、こんな調子になった気がします。 また、「無償の愛」について語るドラマや人を見ると、そんなものあるわけないじゃん、と思ってしまいます。 そんな考えを持つ自分が嫌です。 長いうえに文章がまとまっていなくて申し訳ありません。 一体どうすれば考えを改められるのでしょうか。

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法灯明について教えて下さい

お釈迦様が入滅の前に弟子のアーナンダに自灯明、法灯明を教えましたが、私は今の世の中こそ、この教えをとても大切にする必要を感じてます。 私は、この、自らを灯とし、他者を拠り所にしないという教えを自分の人生に課しています。自分を理解した上で自らを律して、自分の力で立っていることをとても大切にしているつもりです。 しかしながら、社会の中で多くの人と関わりますが、情報がありふれて混迷するこの時代に、他者との関わり方も形を変えて複雑で多様になる為、自らをよりどころに自らを灯すことも難しく感じることがあります。 そこで、法灯明、法をよりどころに、仏様の教えを学ぼうと考えておりますが、仏教の教えに頼ることは、自らを拠り所にすることになるのでしょうか?法とは、どのようなことを指すのでしょうか? 私は人生で、困難や逆境を前にした時に、自分に自信がなくなり、生き方に、選択に迷いが生じることがあります。誰かに頼らず、自らの意思で乗り越えようと思うのですが、何かの道しるべがほしくなる時があります。 法灯明として仏様の教えに頼ることに、自分が考えることから逃避する恐れを感じるのですが、法灯明の法について教えて下さい。 何の教えを、どのように学び、どのように自分に取り込むべきでしょうか?また、その方法について、何かアドバイスがあれば教えて下さい。

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