現在メンタルクリニックに通院しています。 普段から誤解されやすい性格で、クリニックの先生にも上手く今の心情を伝えることができません。 生きていく気力がもうありません。 お世話になった方にはもう手紙を残してあります。 自分が死んだ場合の身の回りの処理も記しました。 あとは両親より先に死ぬことだけが申し訳なく思うくらいでしょうか。 私は子供の頃から周りのことを考えない人間でした。 大人になった今も人の気持ちに心から寄り添うことができません。 その分たくさん迷惑や嫌な気持ちをさせてきました。 それだけでも私は極楽行きには程遠いと思いますが、自殺したら魂は地獄行きですか?
色々なひとにイジメられ、親戚にすらバカにされ、 精神病になった私に生きる価値はあるのでしょうか? 娘が生まれましたが、子育てに自信もなくこのままでは娘を不幸にしてしまいそうで苦しくなります。 今までの悪いことを断ち切りたい。 それはどうすればよいですか。 生き直したいのに、私なんか必要ない、死ねという声が耳に残ります。
ただ生きていくだけのことが難しいです。今まで何度も何度も生きるか死ぬかの地獄みたいな場面に遭遇してきました。 そのたびに「死にたい」と人に言って人から見た"死にそうな自分"をイメージすることで、なんとか生き延びてきました。 人に死にたいと言うとたいてい2パターンの答えが返ってきます。 「死ねよ」系か「死んだら悲しい」系です。どちらにも心はこもっていませんでした。面倒くさそうでした。 死ねよ系の中に私が社会で生きていると「社会やすべての人にとって迷惑だから自殺してね。約束だからね」といったものがありました。これは真だと思います。(私は生活保護を受給していますし、精神障碍者です。誰かの力を借りてもただ生きていくだけのこともできません。)一方死んだら悲しい系の中に「他の動物の命を奪って生きているのにその自分が自殺することは悪だから地獄に行き、未来永劫苦しむ」といったものがありました。これも真かと思います。 この二つは矛盾すると思うのですが、私がこのまま社会に迷惑をかけ続けながら生きていくのと、自殺すること。どちらが悪なのでしょうか。仏教的な答えをご教示いただけたら幸いです。
24才からずっと皮膚炎です。それからはずっと友達とも遊ばず暗い日々を過ごしています。肌が綺麗だったころバイトをムリせず食生活に気をつけていれば皮膚炎にならずにすんで今頃もずっと楽しく人生を謳歌してたとおもうと後悔し悶え苦しんでしまいます。そして前回質問したことの引き出物なんですが結局親ももう年なため実家にはもどらず家のなかで一人で仕事ができる在宅のテレアポのバイトで生活費を稼ぎながら治療していくことにしました。私と同期の人は病院で働きスキルアップをしていくのに私はバイト。この差はなんなんですかね。私は何かわるいことをしたのでしょうか?これは罰なのですか?肌のことなんてきにしなければいい?無理です。自分の肌が綺麗だからそんなことがいえるんです。どうして私だけこんな目に合わなきゃいけないんですか?楽しそうに話をする人達やカップルをみて自分の悲惨さに絶望してしまう毎日。頑張らなきゃって思ってもその酔いはすぐ醒めまたネガティブモードになる。いっそもうしんだほうが楽なんじゃないかと思います。でも今はまだその勇気がでませんし死ぬのはやっぱり怖いです。一生私は死ぬこともできず老いて死ぬまで生き地獄を味わうのでしょうか?この先もずっとこの状況は続くのでしょうか?もう生きていくのが辛いです。苦しいです。でもやっぱり病気は治したいのでテレアポのバイトしながら治療も頑張りたいです。お坊さんが私の立場ならどうしますか?アドバイスや後悔してしまうときの対処方法、なにか励みになるような言葉をかけていただけませんか? お願いします。
こんにちは、初めてご相談させていただきます。 私はそこそこの家に生まれた末っ子で、生きるのに何不自由ない生活をさせていただいてきました。 しかし、最近は、父が私に与えてくれるものの価値に私自身が見合っているのかと思うようになったのです。 父と母は私に出来るだけ良いものを与えてくれようとしてくれます。靴や服、アクセサリーなどです。恥ずかしながら大学生にもなって、家族で出かけたときは父に服などを買ってもらうのですが総額が10万円を越してしまうこともしばしばあります。 先日は誕生日プレゼントにと10万円ほどのペンダントを頂きました。 正直、兄や姉が父から貰っていたプレゼントよりも一つ一つの値段は高いと思います。 私は兄のようにしっかりとした計画を持って就職活動を行えていませんし、姉のようにしっかりとした男性と結婚することも(今のところ)出来そうにありません。 私は一年ほど前から心の具合が良くなく、ずっと病院に通っていて、授業を休んでしまうこともしばしばあります。 就職活動を控えた今でさえきちんとした自分の軸すら危うく、どうしようもない人間です。 私は愛されて、その愛の分だけ色んなものを頂いてきたのに、それに見合うものを残さない自分が情けないのです。 父が私に高級なアクセサリーを与えて、兄嫁にそこそこのバッグを渡していたとき、私は思わず赤面してしまいました。 兄嫁は素晴らしい人で、二人の子供を抱えながら節約をしていて、その上で丁寧な暮らしをしています。身内ながら良妻賢母というほかありません。 この素晴らしいアクセサリーは本来なら兄嫁にこそふさわしいのです。 私は自分の価値が身につけているものにつりあわないと思い、恥ずかしくなったのです。 自分は生きているだけで恥ずかしく、みじめで、どうしようもなく情けないのです。 いっそのこと死んでしまいたいのです。しかし、私は宗教の都合上自殺が許されません。死んでからも居場所がないなんて耐えられません。 でも私が社会に対して何が出来るとも思えないのです。私は偉大なる先人たちのような価値は例え2回人生を過ごしたって到底持ち得ません。生きていても死んでいても意味のない存在なのです。 生きていてごめんなさい。死ぬことすら出来なくてごめんなさい。生きているだけで人に甘えていてごめんなさい。逃げてごめんなさい。
はじめまして。 39歳の男です。夫婦二人で子供はおりません。 2ヶ月程前から、自分にも必ずやってくる死についての恐怖からパニックになったりし、いつでもそれが頭から離れなくなってしまい、精神をおかしくしてしまいました。私は小さな頃から死ぬ事に関して人一倍恐怖として感じていたのですが、これまではただ考えないようにできていただけだったと思います。半年程前から母親の認知症介護や、子供が流産したりで授からないなど、いろいろな出来事から、人の生き死にを真剣に考えるようになり、考えないようにしてきた、いずれくるであろう避けられない自分の死の恐怖が夢の中でも襲ってくるようになってしまい、今は精神科に通い薬を処方して頂いておりますが、良くなる気配はありません。今は前のように笑う事もできなくなってしまい、仕事にも支障をきたす状況になってしまい、これからさきの不安などで自分自身どうして良いのかもわからない状態になってしまいました。 いろいろな死生観の本を読んだりしましたが、頭では今をしっかり生きるという必要性を理解できても、心の中の死の恐怖が勝ってしまっている状況です。仏教を勉強してみようかと思っていますが、何か少しでもアドバイスを頂けたら幸いです。
プロレスはショーとしても、プロのボクシングや総合格闘技は相手を痛めつけて勝敗を決めます。 私も学生時代は格闘技をやっており、試合直前には、やられる恐怖を、克服するために、相手を打ちのめすイメージを想像して付けて奮い立たせました。 この精神は、良くないものでしょうか。 プロの選手は気持ち的には試合前には命を懸けてリングへ上がります。 かつてプロのボクサーが命を懸けて闘うと言って、母親が黙ってしまった場面もありました。 おそらく、その時の本人の本心でしょう。周りでボクシングで死んでしまった友人を見ながら試合をするのですから。 実際、障害を負ったり、死亡してしまった事例も有ります。 その恐怖を相手を壊す精神に変えて。 観戦者からしてみては美談としても捉えられますが、結局、ルールのなかといえ、死を覚悟して試合をするのは良くない事でしょうか。
私は勤めている会社へ借金を返済しなければなりません。 上司と数日間話し合いをして、親に相談できないか?と言われました。 相談できるのであれば相談してみて結果を聞かせてほしいとのことと、 もし相談できないのであれば給料から返済して、退職したあと月々いくら払っていくかを決めようと言われました。 私の家族は比較的仲は良いほうで、周りからも仲のいい家族だねと言われていて、私自身も親に今まで何でも相談してきました。 ですがお金のことを相談しても大丈夫なのか、言いづらい面もあります。 きっと何かしら解決方法を教えてくれたり、親身になってくれると思っていますが、親を失望させたり泣かせたりするのが怖くてたまりません。 ただ前から職場の人間関係が崩れ、居心地が悪く現在食事もあまり喉を通らず、 毎晩このまま夜の時間が続けばいいのにとか、朝になったら死んだほうがラクかもしれないと考えたりしてしまいます。 でも、死んで逃げるより家族ともっと過ごしたいと思うし、今付き合っている彼とも生きたいと思って頑張ろうと思うのですが、この問題を解決する方法が分かりません。 親へ借金の相談をするのはいけないことでしょうか。 また、私はこれからどのように生きていけばいいでしょうか。 教えていただけると幸いです。
(編集部より。特定の回答僧を指名した質問はできませんので、タイトルを変更しました。) 暖かいお言葉ありがとうございました。人間嬉しくても泣くのですね。忘れていました。 でも御坊様、生きているのが怖いのです。生きていて良いのか?死んで初めて役に立つのではと自然に思ってしまうのです。夜かろうじてベッドに入る時、朝目覚めません様にと願い、朝目覚めるとガッカリの繰り返しです。自ら命を絶つ事は罪なのでしょうか?私が死ねば主人は法律的にも私を憎み叩き潰す事しか考えていない実の二親と妹から解放されるのです、間違いなく。二親と妹は厄介払いが出来たと間違いなく喜びますが、主人は解放されます。仏様が私の命を絶ってくださるか(恐れ多い言葉です、お許し下さい)アクシデントで死ぬか、自ら命を絶ってしまうにせよ、私にもしもの事があったら主人には死後離婚してもらいたいのです。夫にせよ妻にせよ、相手の家と縁が切れる法律です。御存知の様に私の二親と妹は主人にどんな難癖をつけてくるか分かっていますから。その上3人とも怖ろしい程の守銭奴です。どんな形で私は死ぬのか今は分かりませんが私の死後、主人が3人に苦しめられたりするのはたまりません。
30代手前にして気付いたことがありました。 夜勤で仕事から帰るとお風呂に入ってご飯を食べたら出掛け間際まで寝てしまい、気付けば毎日同じことの繰り返しで、仕事と眠るを繰り返す日々に無意味さを感じています。 昔は絵を描いたり、アクセサリーを作ったり、ゲームしたり、俳句、読書、マンガ、アニメやドラマ鑑賞。お笑いなど趣味や楽しみは様々なでした。 しかし、最近は何も気力が起きません。何を見てもやっても楽しくない。 唯一楽しみだった食事も最近では楽しくありません。 今1番やりたいことは眠ること。。 ずぅーっと寝ていたいんです。起き上がるのが怠くて、何かするのが億劫で。横になっているのが1番楽です 楽しいことも無いのに嫌な仕事をするのがとても苦しい。 生きてても無意味なのに生きなきゃいけない。 自殺を考えるけど、死ぬ勇気がない。 死ねないのなら生きるしかない。 だけど死んだ様に生きるのが嫌なんですが、どうしたら昔のようにいろいろやる気力が出せるのでしょうか? 周りには若いと言われますが、自分ではもう老婆の心境です。 どうすれば若さは取り戻せるでしょうか
わたしの人生は、とあるタイプの人から見れば「失敗」と映ると思います。中学校で不登校、高校で留年、大学も4年以上かけてやっと卒業、今はアルバイトです。 けれども、わたし自身、今には何の不満もありません。ここまで生きて来られたのも、家族や友人、師やドクターに恵まれたからだと思っています。 最近、わたしの人生を「失敗」だと見なすであろうタイプの方の、書かれたものを読む機会がありました。曰く、「アラサー実家暮らし非正規なんてあり得ない、結婚は無理。いわば〈下流女子〉。老後の保証もありません。友だちもろくな人ができません」なのだそうです。 それを読んで、ショックでした。 メンタルに病気を持って以来、多くを望まないことを心がけてきました。結婚も望みません。華やかな成功も望みません。ただ、自分ひとりで穏やかに生きていって、あまり苦しい死に方さえしなければ良いと思っています。でも、その方の意見では、その望みもままならないようです。根拠のない、いい加減な人の意見なら流せるのでしょうが、その方はわたしと正反対の人生の、社会的に見れば「立派」な方なので、心に突き刺さるばかりです。 その方は「そうなりたくなければ、今の〈下流〉に安住せず、甘えを捨てて上を目指しなさい」ともおっしゃっています。それもごもっともな意見だと思います。でも、今のわたしにはとても無理なことです。病気を抱えている身にいちばん合っているのは今のアルバイトです。さらに、正規の労働者として、将来は「医療事務」の職に就きたいと考えていますが、その方によると医療事務なんてまともな仕事ではない、のだそうです。 自分なりに真剣に考えて、たくさんの諦めも経てたどり着いた人生計画にダメ出しをされたようで、苦しいです。 でも、いちばん苦しいのは、その方の意見に自分が影響されて、ぐらついていることです。本当は、「〈下流〉で結構! それでもわたしはこう生きるしかない!」くらいに強気で、その方の意見も跳ね返す勢いで行きたいのに。 わたしは、「下流」でも「失敗」でも、今にも思い描く将来にも満足しているつもりです。いわゆる「立派」な方にバカにされてもダメ出しされても、ぐらつかないで生きていく強さが欲しいです。それとも、わたしの「満足」は単なる甘えなのでしょうか。どうぞお智慧をお貸しください。
私は親から離れました。そして今は20歳上の彼氏と同棲してます。物理的に離れても親の言葉が脳内を支配します。それから親の罵倒、父との喧嘩、母から父への悪口や暴力の光景が心に浮かんできます。5歳くらいの時、父親が母の首を絞め突き落とそうとしたことや、父がリスカしたり、私も母に暴力振るわれました。 それでも許そう許そうと努力し、私なりに頑張ろうとしました。 話は変わりますが、彼氏も変わってて、私に小さく指示したり世話を焼いてきます…すごく苦しいです。何度嫌と言っても相手には伝わらないです。むしろ大きい声で主張したり、何で?と何回も聞いてきます。帰ってくるなりおどけて笑いを取ろうとしてきたり本当にパーソナルスペースが合いません。疲れるけど私は生活力もないし、一人で生きる自信もありません。 完璧な人間はいないから許そう、自分が変わらなくちゃ…本で読んだことを実践しましたが、心身共に疲労して、ついには私の感情がわからなくなりました。 相手に期待するのはダメといいますが、期待しなくなると自分がゴミみたいになりそうで怖いです。 もう書いてて、今世では幸せを諦めた方が楽な気がしました…。幸せさえ諦めれば、素敵な人でありたいという願いさえ諦めればとても幸せです…。向上しようとする私自体、本当の自分じゃないです。 いつも、頭の中に他人がいます。そして、何度も何度も繰り返し頭の中で他人が話しかけてきます。 死ぬこともありなのでしょうか?心底、安堵するように思えます。何故なら、もう考えさせることにくたびれました。…お金、セックス、愛。人間…疲れました。私は人間など辞めたいのですよ。 ただ、楽になる生き方を教えてください…お願いします。
以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。 たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。 問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。 私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。 そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。 それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。 前置きが長くなりましたが、 お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。 また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。 お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
私は生きる価値のない人間です。 すぐに調子に乗ってたり、失敗を隠そうとしたり、自己判断したり、上司の顔色ばかり伺っています。 最悪なのが、それらのことをすべて把握した上で行動していることです。 こんな私は社会では通用しないので、死のうと考えてはいますが どうにも上手く死ねないです。 甘ったれたこと言ってしまい申し訳ありません。 ただ自分を肯定して欲しいだけの自己中心的な質問です。
中学生くらいの時から、毎日生きることが辛くなり、ずっと死を意識するようになりました。でも死ぬのは怖いし、死ぬ前の苦しみを考えると死ねません。 私は少しでも嫌なことがあると逃げ出したくなります。人が怒る姿を見るととても怖くなります。人生が嫌なことばかりだと分かりきっていますし、嫌なことの全部から逃げることは不可能なことは分かっています。でも、そう考えると絶望感が増します。逃げきれないなら死ぬしかないと思ってしまいます。 なんとなく生きている感覚があり、人生が空虚だという感覚が消え去りません。何をしても虚しいです。 こんな状態のまま生きていても良いのでしょうか?普通の人にとって、人生は虚しいものでは無いのでしょうか?仏教の観点からは、人生はどのようなものだとされているのですか?
大学3回生女性です。 私は、小学3年のときから死にたい気持ちがあります。 何か辛い事があった時、やりたくない課題の締切が近づいた時、「死んでしまったらやらなくてもいいじゃないか」と考えてしまいます。(その時はそれが最善の方法に思えるのです。) そして、自殺の仕方等を検索し、アームカットやボディカットをして現実逃避してしまいます。(結局自殺する勇気も度胸もないので、ギリギリに勉強などはやるのですが…) おそらく、自分は自殺する勇気はありません。しかし、これから生きていく60年も辛い時、やりたくない事がある度に自殺の計画をたて、自傷を繰り返すのかと思うとウンザリして死にたくなり、また負のループに嵌って行きます。 この現実逃避としての死にたい気持ちとどう付き合っていけばいいでしょうか? また、死にたい気持ちはいつか無くなることはあるのでしょうか? やりたくない事から逃げているだけの甘い考えなのは承知ですが、自分に都合が悪くなる度の自殺したい衝動に疲れてきました。 どうかよろしくお願いします。
久しぶりに質問をさせて頂きます。 会社の社長から、 この子は、気遣いが出来ない人間です。仕事が出来ない人間、と言われました。 こんな風に言われた事は人生で初めてでした。 そして、その為か、1人会社に馴染めないでいます。 家庭でも、子供も産めず、料理にしても美味しい料理を作ることができません。料理を作っても、主人からは家の料理は、日常の事だから普通に美味しく食べれる程度でいいと言われました。それ以来、料理を作ろうと思っても、主人は喜ばないと思うと、自分の料理を食べて貰うのも申し訳ない気がして作る事を気兼ねしてしまいます。 何も出来ない私は、生きる価値がない人間なんです。 死ぬ事も考え、海に行きました。でも、入水できませんでした。意気地無しなんです。 生きていてすみません。 お坊様に聞くとは罰当たりかと思いますが、死ぬ方法を教えて下さい。 この世から消え去りたりです。 自分が存在をしてしまって、すみません。今日まで生きている事を許して下さい。
私はいわゆるセクシャルマイノリティに分類される、 他人に性的・恋愛感情を抱くことができない人間(アセクシャル)です。 今まで家族以外の誰にもこの事を伝えられたことがなく、 両親にも伝えられないまま別件でギクシャクし疎遠となってしまっています。 アセクシャルと自覚した時から、 私はひとりで生きて死んでいくのだと覚悟を決めたつもりでいました。 しかし友人たちが結婚・出産して家庭を持ち両親が高齢になるにつれ、 両親がいなくなった時にこの世で本当にひとりぼっちとなった私は その孤独に耐えながら生きていけるのか、と 怖く思う気持ちがどんどん大きくなっています。 ここ最近は1人の部屋へ帰ると毎日、自分の中にいるもうひとりの自分が 「寂しい・悲しいと思うなど何を被害者ぶっているんだ。 お前が選んだ道だ、今までの行いの結果だろう。」 と毎日責め立ててきているような気持ちになり、 「自分はなぜこんな欠陥品なんだろう、一刻も早くこの世からいなくなりたい」と考えてしまう日もあります。 私はどんな気持ちで1人生きていけばいいのでしょうか。
はじめまして、引きこもりの無職です。タイトルの通り、もう死んでしまおうと思っています。一緒に住んでいる家族の事は好きだし、もっと大切にしたかったですが、それ以上に今後生き続けていくことに疲れ切ってしまいました。仕事に行っていた頃は無能故、改めようにも人に迷惑を掛けてしまうばかり。こんな自分なんて、この世にいてはいけないという考えに至っています。人の事もどうしても信用出来ず、愛する事ができません。冷えきった心を持つ私の将来はきっと明るくありません。社会復帰も、とてもできる気がしません。まだ生きていれば、もう少し生きてみれば光が見えてくるかもしれないと、日々些細な希望を抱くのにも疲れました。取り留めのない文章ですみません。ここまでお目通しくださりありがとうございました。
周りが羨ましいと感じてしまいます。 毎日自分は嫌なことばっかり起こっています。のうのうと生きているそこらへんの人間は、人に迷惑をかけても気にしなく、これからも何事もなく生きていく人らがいるんだなと思う反面、羨ましく感じてしまいます。私は嫌なことがあったりするとずーっと引きずってしまう性格です。明日も嫌なことあるんだなって思うし、毎日幸せ、楽しいと思えた日なんてありません。明日もまた嫌なことばっかり、嫌な人にあったり、辛い、悲しい日常が続いていく毎日に疲れを感じてしまいます。自殺も考えています。生きろと言われても、じゃあ元々お金もちだったり、何も困りごとがない人に言われても何の言葉も響きません。じゃあ、私の人生と交換しろって言っても、誰も口先だけで、他人になりたいなんて言う人はいないと思います。 もう、この世界を終わらせたいと思う反面、自殺未遂をするたびに、生きたいと思う馬鹿な私もいます。ですが、本当に死のうと思っています。自殺した後の世界は、 今よりも美しいのでしょうか。また、自殺をした人は今よりも苦しく、天国には行けないのでしょうか