祖母を亡くしてから半年で祖父を亡くしました。その気持ちに整理がつきません。 祖父は最愛の祖母を亡くした後、体が弱り入院しましたが、コロナ禍で見舞いもできず、危篤の際に短い時間に1人ずつ面会できただけでした。 病院近くにホテルも取って駆けつけられるようにしていたのに、情けない事に亡くなる瞬間には間に合いませんでした。 初孫で本当に可愛がってくれたのに、こんなに突然二人とも亡くしてしまうなんて。特に祖父は、こんなに寂しい最期になってしまったのが悲しくて、申し訳なくて仕方ありません。 ただ、祖父母共にコロナなどの病死ではなく老衰だったので、天寿をまっとうしたのは幸いだったと自分を慰めていました。 そんな中「マスクを外そう」「コロナはデマ」と駅前演説をしている人達を目の当たりにしてしまいました。 それを引き金に、 「コロナ禍さえなければ、もっと祖父母に会いに行けたのに」 「入院した祖父をお見舞いに行けたのに」 「危篤になった祖父の手をずっと握っていれたのに」 「今際の際に独りにせずにいられたのに」 という気持ちがずっと頭で渦巻いています。 コロナはしかたない。感染対策の面会制限はしかたない。寿命はしかたない。 それで抑えていた後悔ややるせなさが、先述した活動・主張をする人達への怒り、腹立たしさとなって噴出してきます。 陰謀論やら何やら面白おかしく騒ぐ人達に向かって「じゃあ何ですか、私が祖父とこんな別れ方をしなきゃいけなかったのは、あなた方が面白おかしく言ってるデマや陰謀論やらのせいですか、こんな思いをしてる人も居るのに騒いで楽しいですか」と喚きたくなります。 そんな事あるわけないのに「こんな考えの人がいなければコロナはもっと早く終息していたかもしれないのに」と考えてしまいます。 いやそもそも、コロナなんて関係なく、もっと私が孝行していれば良かった。そうすれば幾分か気持ちもマシだったかもしれません。 これは八つ当たり過ぎないのだと思います。 ただ、 祖父の四十九日を心穏やかに迎えるために、 祖父母を偲ぶ際にこんな恨みのような気持ちを持ち出さないように、 この怒りを落ち着ける方法など、何かご教授いただけたら幸いです。 ここまでご覧いただきありがとうございました。
人に妬まれることに不安を感じます。 それゆえに他人との会話でどこまで自分を出せばいいかわからずいつも聞き手になってしまい、自分のことがわからなくなりました。 私はある分野で能力があると認められ周りから褒められる機会が沢山ありました。 元々自信がないタイプなため自分が褒められているのを第3者視点で見て他人から妬まれていると思ってしまい、自分を出すことに引け目を感じます。 他人と会話する時自分のことを話すと自慢と捉えられるかも、と思ったりナルシストだと思われたくなくて自分のことを話すのが極端に苦手です。 そのため自分のやっている分野、活動に自信が持てません。 他人が自分を攻撃する人のように見えてしまったり自分の殻に篭りがちになり、自己開示できなかったり対人関係をどのように築けばいいかわからなくなってしまったみたいです。 これから1人で生きていく時に誰とも関われずひとりぼっちになってしまう予感がしています。それがとても怖いけれど他人との関わりも怖く堂々巡りです。挑戦も怖いです。最近はもうこんな人生辞めたいとまで思ってしまっています…もっと自信があればもっと活動的になれて友達もできるんだと思います。 本当は自分の能力を正しく認めたいのですが、注目されるとものすごく怖くなってしまい、謙虚なのか卑下なのかわからない状態になり、自己アピールも難しいです。 会話の時はひたすら聞き手になっています。 聞き続けるのが辛いと思う時もあり、自分を出せたら違うのかなと思う時もあります。 長々と申し訳ございません。 このような質問はお坊様から見るととてもくだらないものかと思いますが、お坊様が考える正しい人間関係はどのようなものでしょうか? そしてこれは疑問なのですが妬まれることが怖いのは傲慢なのでしょうか。 またこのような私が自分をどの程度出せば良いと思いますか?
大変お世話になっております。 自分の言動を注意されるとへこむことが多くなりました。もちろん、いけなかったこと(私の言い分では、そうかな?と思うこともありますが)に対して、注意点を反省することは大事な気はしますが、へこんでしまう自分の心を守るために、「なんだよ!」みたいな気持ちも芽生えてしまうのも事実です(相手や人にはあまり言いませんが)。 自分が悪かったと思うとよけい、へこんでしまうので、自分が悪ければ悪いほど抵抗して心を守りたくなるような。 でも、そうやって密かに反抗し続けるのも、人からの言葉で動揺してしまう心を守るには有効ですが、非を認められない素直でない自分に向き合うつらさもあります。 本心では、人畜無害で何事にも素直で従順に聞ける女性でありたいと思っているのかもしれません。もしくは、人から多少注意を受けても心には動揺を受けず、それでもうまく柔らかにやっていける女性。そんな勝手にかかげた「理想」とかけ離れた自分に、苦しんでいるのかもしれません。 特に今は「先生」と呼ばれる仕事に就いていることもあり、よけいプライドの高い気持ちがあるのかもしれません。「先生」は間違っちゃ行けないような、暗黙の了解に勝手に支配されているような。元々ほぼ初対面でも「しっかりしている」といわれがちなタイプなので(そう見えることは私は全く好きではありません。勝手に期待してほしくないと思ってしまいます) 人から注意を受けたとき真摯に受け止めるのは大事だと思います。 ただそれと同時に、自分の心に生まれる動揺にどう向き合えばいいかよくわかりません。 「そんなこといったって、そっちが100%悪いじゃん!」と思えるようなことは気にしないでいられますが、自分に少しでも非があるとへこんでしまいます。完璧になどなれるはずないのに。 あまり人の悪口も言わないほうですが、偏った見方、自分に都合のいい話し方でも、誰かに話してストレス解消したほうがいいのかな、とか考えてしまいます。もちろん根本的な解決にはなりません、ただのストレス解消です。。 育ちよく見られることもあり、その像を完成したいと思ってしまうのもあるかもしれません。礼儀完璧、非もなく、悪口も言わない、素直で綺麗な心の、、 素直さと豆腐メンタルの違いは何でしょうか? 芯が強いことと我が強いことの違いは何でしょうか? 心構えをお教えください。
僕は9年前(2013年)の模試試験で故意ではないが他人の答案が見えてしまうというカンニングをしてしまいました。 模試試験でカンニングしてしまったことから罪悪感や不安感に襲われています。それで心が重くなる時があります。 僕は絶対に許されないカンニングをしてしまいました。故意ではありません。他人の答案が見えてしまうカンニングです。 なかなか心が軽くなりません。
母がいつ亡くなってもおかしくない年齢になりました。自分は母子家庭で、母の存在はとても大きく、いつも一緒に過ごして来た、唯一の家族だと思っています。母も自分も、精神疾患を抱えています。苦楽を共にして来ました。 母がいなくなった後の人生を考えられないです。とにかく母に尽くして来た、それだけの人生です。自分の家庭にも興味が無かったくらいです。 唯一の生き甲斐を失ってしまう事は、自分自身の死を意味します。自分の半分が死んでしまう様な感覚です。 こういう時代でもあります。完治しない精神疾患の患者。先は見えています。早いか遅いかです。それでも生きるべきなのか、死んでしまおうか。深く悩む様になりました。
ギリギリなってしまってもう遅い?という状態になってしまった時、どう対処すれば良いでしょうか? いつも余裕を持って動くのが苦手で、頻繁に時間ギリギリや、期限ギリギリになります。取り掛かりは早く計画も綿密に立てていますが、途中で脱線したり、体調を崩して結局最後時間に追われて上手くいきません。 その上亀タイプで時間をかけてコツコツというのが得意だと思っているのですが、スタートダッシュは兎タイプでペース配分できずに精神的に、体力的に、息切れしてしまいます。 ギリギリにならない努力は勿論したいのですが、もしギリギリなってしまったとしても、あきらめずになんとかやり通したい時何ができるのかを知りたいです。特に、心と身体のケアはどうすれば良いでしょうか?よろしくお願いします。
最近怒りの感情について考えることが多々あります。 仕事でもプライベートでも怒ってしまうこと、頭にきて態度、言葉に出してしまうことがあるのですが、なぜ人には怒りの感情があるのでしょうか。 お釈迦様はこの世の悲しみ、苦しみの根元は 「思い通りにならないこと」と悟っていますが、怒りの根元も 自分の意思とは違うことが起こるからこそ生まれる感情なのでしょうか。 それに対して全てを受け入れる大らかで広い心が持てるよう 心掛けてはいるのですが、ついつい怒りの感情が湧いてきて 自己嫌悪の陥ることがあります。 そもそも人間には怒りの感情はいるのでしょうか。 穏やかに過ごせと言われるこの現代社会で“怒り”はいるのでしょうか。
例えば直に怒ってしまう自分がいます。 相手に対してこういう思いやりを持つべきなんだ、とか 物事に気をとられないで平常心に保とう、とか こう有るべきだという考えが頭に浮かび、現実は怒ってばかりいる自分にとのギャップに罪悪感と嫌悪感でいっぱいになります。 また、親切な友人や知人に沢山助けてもらっているのに、誰にも恩返しできていないようで非常に面目ない気持ちでいっぱいです。 考えようによっては、それほどまでに今まで盲目だったのだと思います。目を開けて、心を開いて見てみたら自分の心がカビだらけだった、そのような気分です。 すごく頑張っているつもりなのですが、一日の終わりには落第点です。 頑張りすぎなのでしょうか? 頑張るべきところが間違えているのでしょうか? これも精神の成長の過程なのでしょうか? 教えてください。
今付き合ってる彼女と別れたいです 以下理由 彼女の言動は時折目に余るように感じ、僕はよくそれを指摘します 指摘する際につい言い過ぎてしまいます もちろん悪意は無く、実際に不快な思いはしているのですが それでも僕はつい他者にかけるべきでない言葉までかけてしまいます 関係を続けることは僕にとってもストレスですし、彼女も嫌だと思い別れを切り出したところ (ひどいことを言われているという前提で)僕に愛されているのは変わらないだろうから別れなくていいと言われました ですが僕のきつい言葉で彼女は傷ついているように見えます 僕たちは別れるべきでしょうか それとも関係を続けるべきでしょうか また、僕はモラハラ気質なのでしょうか また、彼女の幸せを願うなら何をすべきでしょうか ご教示いただけたら幸いです
自分は小学生の頃から、お店の物を盗んだり家族や友達のお金や物を盗んだり悪いことばかりしてきました。お店に万引きがばれたこともありましたが、警察や両親には黙っていてくれていました。中学、高校、大学になってもそういうことが続いていました。でも親や親友にも知られていなかったので、大人からは真面目な良い子と言われ苦しかったです。 社会人になり、さすがに万引きはしていませんが家の金庫から大金を黙って使ったり、会社の備品を無断で持ち帰ったりしていました。でも何故かすごく悪いことをしているという意識はありませんでした。会社での仕事はきちんとこなし、真面目に働きました。 少し前にふとしたことから備品の窃盗が発覚し逃げられない状況になりました。自分がやったとことを報告し、結果諭旨退職の処分を受けました。盗んだ備品の弁済はしました。本当なら懲戒解雇になりうる解雇理由ですが、社長の恩情でしょう。本当に申し訳なくどうしてあんなことをしたのかと後悔の日々です。大人になったのに、こんなことをしていた自分が嫌で死にたいですが、反省して絶対に間違えは犯さないと心に誓いました。 夜になり寝る前には、勤めていた会社のことを考えます。一緒に仕事をしていた同僚、後輩、先輩、そして何よりも社長に。申し訳ない気持ちでいっぱいです。 子どもの頃から何不自由なく、裕福な家庭で育てられました。自分がくびになったことは両親にも話せず、自分で退職したと話しています。知ったらがっかりすると思うと話せません。これでまた嘘が増えますが話せません。今までやってきた悪いことは、許されることではありませんが、これからは絶対に悪いことをせず、真面目に生きて行きます。 勤めていた会社の人には二度と会えません。会う資格はないです。 自分がしてきたことは消せないですが、今後どのように罪を償えば良いでしょうか?どう生きていけば良いのかわかりません。 どうかお教えください。
海外在住のものです。 自分は結婚していたのですが、実は同性愛者であり、こちらで出会った日本人男性と一緒になる為に離婚を決意しました。 その彼にも、長年一緒にいるパートナーがいたのですが、彼もパートナーと別れて、自分と一緒になるということで、先日、日本に帰国して離婚の手続きをしてきました。そして、年内には、日本で一緒にパートナーシップ宣誓もしようと約束してました。 ですが、この前、彼と話していたら、彼には全く自分と一緒になる気はないと捨てられてしまいました。 現在、コロナで仕事も減り、海外で厳しい生活の中、唯一の希望は彼との未来でした。 でも、全てを自分は失ってしまい、もう生きていたくありません。 自ら命を絶つことは、大きな罪だとは分かっています。 だけど、このまま生きていくことに何の意味も見出せません。 ですが、離婚をしたことも大きな罪。 だから、自分はその十字架を背負って、生きていくしかないのでしょうか? その罪を償う為に生きていくしかないのでしょうか? でも、彼に対する憎しみは消えない。復讐もしたい。彼の生活もめちゃくちゃにしてやりたい。 自分が命を絶つことが彼にとって1番の復讐ではないかとも思ってしまいます。 そんか彼は何も傷付かず、これまで通りに平然と生きていく。 全部自分が悪いのですか?彼にはなぜ不幸は訪れないのですか?何でこんなに世の中は不公平なんですか? これから、自分が生きていくことに何の意味があるのでしょうか? お願いです。教えてください。
真言宗と天台宗のお寺でそれぞれ御護摩札をいただきました。 不動明王の御真言を唱えたいと思い調べたところ、真言宗と天台宗では御真言が少し違う事を知りました。 この場合はどちらかの宗派の御真言を唱えていいのでしょうか。 それとも、それぞれの御護摩札にその宗派での御真言を唱えた方がいいのでしょうか。 また、違う宗派のお寺の御護摩札を一緒に祀る事に問題はありますか? 初歩的な質問でお恥ずかしいのですが、教えていただけたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
はじめまして。よろしくお願いいたします。 生花をお供えしておりますが、このごろは花が痛んでいく様子を見るのが悲しくてなりません。当たり前のことなのですが、悲しいです。 表から見てまだまだきれい、大丈夫だと思っていたのに、花の裏はもうすっかり変色してしまっていたことがありました。亡くなったときのことを思い出し、とても寂しくなりました。 水をかえ、茎を切り戻しながら、できるだけ長くそこにあって欲しい、行かないで行かないでと思ってしまいます。 こんな気持ちで花をお供えしていては供養にならないでしょうか。時間が経てば感じ方も変わってくるかとは思っているのですが…。 うまくまとめられず申し訳ありません。よろしくお願いいたします。
自分が死にたいのか生きたいのかわからなくなりました。自分がわかりません。どちらかと言うと死にたいほうが強いです 自分で何かことを決めるにもどっち付かずで、仕事も順番がわからなくなることも。 ネットや本を鵜呑みにして、自己啓発も中途半端。 現実逃避を繰り返し、ネガティブ思考がかなり強い、 人の顔色をうかがっていた。 親に甘えっぱなし、友人も自分から離した。 自殺未遂寸前までいった。 人の話を聞かず自分の事だけ訴えた。 ひとつの事にこだわって自分の体を壊した。 自分の体の事なのにじぶんでわからなくなった これは自業自得だとおもう。 これを改めて苦しさを無くすことはできるのでしょうか。 いま改めて今までの行いがわかりました。
41歳男性です。 もうあまり頑張りたくないのが本音です。 もうゆっくり生きていきたいです。 23歳の時にうつ病を患って、今は元気ですがずっと17年くらいアルバイト生活で収入も乏しいので結婚は困難です。 生涯一人でも良いと考えています。
2年前に適応障害を患い、正社員を辞めました。 その後は、バイトをして生活しているのですが、どのバイトも長続きしません。 先月から新しい職場でお世話になっているのですが、一度でも「行きたくない」と思ってしまうと行けなくなってしまい、休むことが増えています。 「失敗してもいいよ」「着実にできるようになろう」などの言葉をかけてもらうのですが、それがかえってプレッシャーになってしまい、作業が進まないことが多いです。 人に見られていると作業ができず、手が止まってしまいます。 そんな自分が嫌で情けないと思ってしまいます。 「甘えだ」と言われると思いますし、誰だって辛い中頑張っているとも思っています。 自分が辛いこと、しんどいと思うことを店長に相談しても良いものなのでしょうか? 誰にも相談できずに悩んでいるので、ぜひご意見をお聞かせいただければと思います。
いつもお世話になっております。 今日も今日とて仕事帰りに祈願寺に行ったのですが、いつも使って いる浄土宗の二連念珠を忘れ、急遽祈願寺で購入しました。 祈願寺は真言宗、使用するのは百八念珠です。 浄土宗とは数珠の形式、合掌の組み方も違います。 真言宗の念珠なので、それに準ずる掛け方の方がいいと判断し 修験の先生から掛け方をお教えいただきました。 よく考えたらこれもすごいですよねw真言宗は原則徒弟制らしい ですが、浄土宗の信徒が修験行者さんから直々に教わるって。 そこで思ったのですが、 なぜ宗派ごとに数珠や合掌の形が違うのでしょうか? 堅実心合掌で慣れてしまっているせいかなんだかしっくり きませんでした…笑 ちなみに祈願寺の宗派は金剛合掌です。 教えていただければさいわいです。
生霊 幽霊 厄年に悪い事が起こるとか 本当にあるのでしょうか?
身体の痛み、不調がある知り合いがいます。 病気を治してほしいとはいいませんが、その方が自分のやりたいことを十分できるように、お寺での祈願をしたいと思っています。 その方はお坊さんなのですが、他の宗派のお寺で祈願されたり、そもそも自分が祈願の対象となることは、不愉快なものなのでしょうか。
結果には原因があり、それは等しく誰にでもあるものですが、巷にはあれだけ悪いことをしたのだから、因果応報であいつは不幸になるよと言う嘘がまかり通っています。 元々自分を高めるための思想であった、因果応報が相手に不幸が訪れることを望むような因果応報に何と言うか劣化しています。 物事すべては原因があって結果がある。 その程度の意味であるはずの因果応報が、いつの間にか善行や悪行と言った、その時代にあった、変化のある価値観に毒されるとこで本来の意味を失っている気がします。 絶対善や絶対悪が無い中、意味のない独りよがりの善行に縛られ、生きることに本来の因果応報はないのではないかと考えています。やったことの責任や、今の状態に対する責任は自分でとれよと言う程度だとの認識です。 悪行を重ねようとも、幸せな人間はたくさんいますし、善行を重ねようが不幸な人間はたくさんいます。結局のところそれが身の丈にあった選択であったかと言うことに尽きます。心の持ちよう一つです。 誰かを助けて食うに困りそれが不幸だと思えば不幸ですし、誰かを騙し、殺し、奪いしてもそれで幸せだと感じる気持ちがあれば、幸せです。 自分を気持ち的に制御するのは自分。 なので因果応報の意味がああ恣意的に解釈されるようになった理由が非常に不思議です。 因果応報で相手が不幸になる的な、本当になんの論理性もない風説が流布された理由をご存知の方がいたら教えてください。