hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「私 お経 」
検索結果: 2745件

本尊とお唱えの対応関係

 こんにちは。当家の菩提寺は曹洞宗なのですが、「うちのお寺のご本尊は歴史的な経緯から阿弥陀如来なんですよ」と住職に聞きました(あまり大きくもないこともあり、それまで遠目にはわからなかったんです)。宗派の本尊と各寺院の本尊が一致してないことはよくあることですので、それ自体はへえそうなんだ。ぐらいの感想でしたが、ちょっと後で考えてしまいまして。というのも、その阿弥陀如来様の前に「南無釈迦牟尼仏とお唱えしましょう」という掲示があり、ずっとそうしてたんですけど、目の前におられるのは釈迦如来じゃありませんよね・・・?「南無阿弥陀仏」じゃないんでしょうか??みんなに目の前で「南無釈迦牟尼仏」と言われて阿弥陀如来様はどう思われることなんでしょう?両方唱えてみるべき?  実は、法要の際に住職が「南無釈迦牟尼佛・南無高祖承陽大師・南無太祖常済大師」と列挙している部分に一言「南無阿弥陀仏」と挿入していたことがあり、おお!ここで配慮してたのかと得心したんですが、逆に言えば阿弥陀如来関係はここだけです。そもそも、曹洞宗のお経は釈迦如来や観世音菩薩関係のものばかりですよね。  寺の本尊もしくは各家庭の仏壇の本尊と、お唱えやお経って、必ずしも対応してなくてもいいものなんでしょうか?多分いいんだろうけど、なんでなんでしょう?(だって、そうじゃないと薬師如来や地蔵菩薩や不動明王のお経なんか唱えたくてもまず唱えられませんよね。)如来や菩薩は相互に「私の前で誰それからこんな読経があったよ」と報告してくださってるのか、それとも上司不在時の代理決裁のように宛先が別の如来でも処理してくださるのでしょうか?このあたり、どう理解したらいいものなんでしょうか、よろしければ回答お待ちしております。

有り難し有り難し 17
回答数回答 1
2023/12/26

阿弥陀如来の存在を確信できません

浄土真宗の方におうかがいいたします。 私は浄土真宗某派の門徒で、すでに法名もいただいております。 代々の門徒の家に生まれ、お経と言えば正信偈でした。 しかしながら、阿弥陀如来の存在を確信することができません。 人間を超えた大いなる存在があり、それによって生かされているということはしばしば実感し、そうしたときは感謝の念が自ずとわいてきます。 しかし、それが阿弥陀如来だ、と言い切れるかというとそうは言えないのです。 必ずしも阿弥陀如来でなくてもいいのではないか、という気がします。 大いなる存在は感じることができても、「法蔵菩薩であられたとき・・・」「四十八願を立てられ・・・」「西方浄土におはします・・・」と物語が始まった途端に、あまりの非現実さに白けてしまうのです。 現在の文献学の認識では、浄土三部経はゴータマ・シッダッタ様が直接に語ったものではないというのが、定説だと思います。 キリスト教がキリスト教たり得るのは、預言者イエス・キリストに近侍し、その言動と奇瑞に直接に心を揺るがされた弟子たちの福音書があるからだ、と考えます。 阿弥陀如来は、誰が、どのようにして見出されたのでしょうか。 別の言い方をすれば、浄土三部経は、誰が、どのように阿弥陀如来の存在を感得して、編まれたのでしょうか。 誠に不躾な質問で恐縮ですが、私にとっては根源的な問題なのです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1
2022/10/01

修証義について教えて下さい。

祖父の葬儀を境に改めて仏教を学び始めました。  宗派は、曹洞宗です。 お坊様が唱えて下さるお経を理解した上でご先祖様や祖父に手を合わせ今後、向き合いたいと強く感じたからです。また、現在の生活の中でお経について調べる事は、小さな安らぎを感じられる学びの場になっています。 現在の学び方ですが、hasunohaにてお経についての質問をブラッシュアップしたりしながら般若心経や修証義について調べています。 また修証義については、以下の現代語訳をみつつ内容を深めています。しかし、解釈や内容が正しいのか不安もあります。 https://www.zen-essay.com/entry/soujyo そもそも、現代語訳事態がダメでしょうか? 曹洞宗の教えが分かる書物があれば知りたいです。浅い状態ですが曹洞宗の教えに…悟ることすら手放す(悟りたい欲求を手放す)座禅スタイルが凄く衝撃的で素敵な考えでもっと色々と知りたいのです。 また、触れてみた状態な上での発言で恥ずかしいのですが…お経を調べると供養する相手よりも供養する側に対する生きる上での教えを説いている様に感じました。間違ってたらすみません。 余談ですが、普段、お世話になっているお坊様の爺様に法事後、お経について調べている事や内容を理解したいとの相談をしましたら笑顔で学んで来なさいと言って経本を頂きました。宿題を逆に出された気分で終わりましたので次の法事が違う意味で緊張します…。後、曹洞宗の本山は、身近な場所にあるので一度行ってみようと思っています。 ※質問して申し訳ないのですが現在、生活苦なので「お気持ち」は後々にさせて下さい。申し訳ありません。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

「般若心経不信」になってしまいました。

こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?

有り難し有り難し 184
回答数回答 9