お坊さん 生きる意味が分からないひとは多くいると思いますが、それでも生きてる理由はなんでしょうか。美味しいものが食べられる、とか好きな友達と遊ぶ、とか趣味が好きで好きでたまらないとか、なにもない場合のひとはどうしたら生きる意味を見いだせるのでしょうか。 人生は長く、とても走りきる自信がありません。なにかをするよりも、なにもしないでいるのが楽です。でもなにもしないでいるのが好きという訳でなく、この世に生きていなくちゃならないなら、なにもしないでいるのが良いというだけです。 他のひとにもこうした時期はあるとしたら、どうやって克服したのでしょうか。死ぬ以外の選択を、どのように見つけたのでしょうか。
人生の中で苦しい時に勇気づけれられるようなイイ言葉をお坊さんに聞きたいです。このサイトを見ている皆さんの応援歌となるような勇気づけられるような言葉をお願いします。お坊さん自身が勇気づけられている言葉でも大変ありがたいです。
以前もこちらで、相談しましたが、大変感銘を受けました。今日は、同じような質問ですが、やはり私は、死が怖く気が重いのです。1日中考えていますし、自分なりに答えを出そうとするのですが、悩みは尽きません。自分の死もこわいし、家族の死も怖いのです。何でそんなことを始終考えているのか、謎ですが、何かしら答えが欲しいのです。明日の運命もわからないなか、恐れなく生きて行くにはどうしたらいいのでしょうか?このように気が重く、憂鬱な気分を、どうにか軽くできないでしょうか?
自分を好きになれません。 自分を労ったり、頑張ったねと褒めることができません。 いつも、この程度しかできないとか、何も頑張れていないとか自己否定ばかりしてしまいます。 だからこそ、いつも他人から愛情を満たしてもらおうとしてしまいます。こんな自分、やめてしまいたいです。どうしたら、少しでも自分を肯定できるようになりますか。
中学生の息子のことです もともと学力は普通以上でしたが、中学入学後、勉強をしなくなりました 色々と悪事を行い、ただいま児童相談所のお世話になっております 児相の方いわく 息子が勉強をしないのは、勉強する意味を見いだせないからではないか、やる気になれば、学力は十分あるので、力を発揮できるはず 私自身、両親が中卒だったこともあり、学歴は大切だと親から聞かされていましたし、貧乏な家庭に育ったので将来お金の苦労はしたくたい、と思い、何の疑問もなく勉強していました しかしながら、息子自身勉強する意味が分からないと言います お坊さんは、勉強する意味とは、いかなるものだと思われますか?
自分の能力では、自分の望む生き方はできなさそうです 自分以外の人に生まれたかった。努力したらした分だけ、他の人より成果を得たかった でも自分は能無しなので努力しても無理です もう死にたいです
他人に何か言われるとすぐに心が折れてしまいます。 他人に無理だと言われたらもう何もかもやる気が起きなくなります。 先日志望校を決めたところ、そんなところに行けない、君の将来は見えてる、悪い方向にしか行かないと言われ何もかもやる気がなくなってしまいました。 相談しても弱すぎそんなんでショック受けんなと言われます。 私って弱いんですか?これってダメなことなんですか?
私は現在大学で社会学を学び、多文化共生の道筋(異文化教育学)を調べたりしています。自分を含めた複数の文化的ルーツの人々が暮らしやすい環境を作る為です。 先駆者の理論などを学ぶにつれ、社会における自分の立ち位置を理解し、精神も依然と比べて安定はしているのですが、どうにも腑に落ちないわだかまりを感じるのです。 見た目が違うと言う理由だけで警察に職務質問されたり、日本でずっと育ったのに外国人(犯罪者)扱いされたり、慣れてくると「考えても仕方が無い」と無感覚になるので今は怒ったりはしないのですが。 以前聞いた仏教における「因果」の話に矛盾を感じてしまいます。私の認識では善因善果や悪因悪果の様に自分の不幸の原因が自分にあり、大概の場合は理に適っていると思います。差別や警察への対処法では本当に当てはまってて、知り合いの混血もけんか腰で話してたら公務執行妨害で押さえつけられてました。(;´Д`) しかし差別される苦しみ(果)が自分が捲いた(因)であるとは思えないのです。もしこの苦しみをもたらしている因果に心当たりがあるのであったり、私の解釈が誤っているのであれば教えていただけるとありがたいです。 理不尽?と言えば良いのかはわかりませんが、この様な社会において他者に対してどの様な心構えを持てば良いのかもご存じであればご教授願えないでしょうか。
人に迷惑をかけてしまいました。 相手は大丈夫と言いましたが、避けられるようになりました。 最近自己嫌悪が激しく、人様にまで迷惑をかけてしまったら、幸せになってはいけない、なりたくないと考えてしまいます。 幸せになるのが申し訳ない気持ちです。 今までの私は世間知らずで、自己中心的で、悪いことを悪いと気付きもせずに、きっと色んな人に嫌な思いをさせてきたと思います。 今の苦しみは、何も考えずに生きてきた、その罰なのかなとも思います。 思い返せば、自分のことしか考えずに生きていた時は、幸せに向かって前向きに生きていました。 幸せになるには、他者のことは切り捨てるしかないのでしょうか? だったら幸せになりたくない、幸せに向かって生きていけないのなら、やはりもう死んでしまいたいと思います。 今はただ苦しいです。楽になりたいです。 苦しみから逃げたいだけなのかもしれません。 弱い人間です。 これからどうしたらいいのか分かりません。
はじめまして 誰にも話せないのでこちらでお話しさせてください。 二年前に亡くなった犬の死を受け入れられません 本当は生きられた命を私が奪いました あのこの異変に気づけたはずなのに 仕事に行ってしまい一人寂しく逝かせてしまいました それから別れることが怖くて仕方ありません 別れのない場所へいきたいです 今のこもいつか私の前から消えてしまうと 考えただけでなんともいえない恐怖が襲ってきます もっと強くなりたいのにどうしたら依存せず強くなれますか
成長過程であるのはわかってはいるのですが、13歳(中1)の息子の反抗期に頭を悩ませています。 とにかく全く勉強をしません。 提出物、テスト勉強、家庭学習一切しません。 なので、成績も下降するばかりですが本人は気にする事もありません。 私も始めの頃は口うるさく注意をしていたのですが、「言うからやらない」と… かと言って言わないようにしても案の定やりません。 正直、私も疲れはててしまい今は何も言わなくなってしまいました。 とは言え、やはり親として胃が痛くなるほど心配でなりません。 子供を信じるしかないのでしょうが、どのような気持ちを持ち続ければよいのかアドバイスいただければと思います。 よろしくお願いします。
結婚したいですが、なかなかお相手に巡り合えません。 「この人かも」と思っても、長く生活することを考えると相手の欠点が気になり別れることを繰り返してしまっています。 どうすれば良いのでしょうか。
私は釣りが趣味で、友人や家族で行くのですが、これって悪い行為でしょうか。 釣れたものはなるべく持ち帰って食べるのですが、中には食べれない魚が釣れて、放してもそのまま死んでしまう事もあります。 釣りによって生活に楽しみがあるのも事実です。 そして、生活のために釣りをしているのではなく、趣味として釣りをしています。子供たちも釣りに誘うとそれを楽しみにして生活し、釣りに行けば楽しんでいます。良い面だけをとらえるなら部屋にこもってゲームばかりよりも良いのかとも思ったりするのですが、どうなのでしょうか。
50歳代自営業者です 「運も実力のうち」 と言われますが、 この運でない 人には、どうにもならない運があると 諸先輩から教えられます。 私は 運の無い人生を送っていると言われます、 これが持って生まれた、どうにもならない運なのですか?? 運とは、仏教の教えでどのように考えたらよろしいのでしょうか。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。以前に質問したふゆじたくです。 ふと思いましたが、僧侶の方々は結婚したら結婚指輪はするのでしょうか?また、結婚式の時に指輪の交換の儀式があるのでしょうか? それ以前に婚約指輪も渡されますか? 最後にこれはお答え出来たら… プロポーズは何かお釈迦さまなどの言葉に基づいて言われるのですか?
私は昔からライバルがいる方が頑張りがきくタイプでした。受験勉強の時などは友人と点数を比べ合って競いあうことで、最後までモチベーションをキープすることができました。 しかし、仏教ではあまり他人と比べたり、競争心を持ったりすることは奨励されていないというイメージがあります。 たしかに他人と比較する事で、自分も他人も傷つける事がある、という事は私自身が身に染みております。 でも、他人と比較し競争心を持つことは人間の成長過程ではやはり必要な気がします。仏教では競争心の利点については認めていないのでしょうか?
現在大学1生です 今、部活とサークル2つ入っています 新しい自分になろう! やったことがないことをやってみよう! 就職のネタにもなるし頑張ろう! と1期の時は2つとも張り切ってやっていました しかし今2期になり課題も増えてひとり暮らしで家事などもやる必要があり 特に部活の方は運動系なのできつくなってきました それで部活をやめようかと思っています きつい理由は夜遅くなってしまい自分の中でキャパがなくなってしまうからです 週2回なので少しくらい夜遅くなっても なんとかできるだろうと大半の人はこなしてしまうと思うのですが 私にとっては難しいのです そのままの自分でいい、自分らしくというのと 今の自分より自分を高めるため、自分が苦手なことや不得意なことを克服することの境界線がわからなくなってしまいました 部活の先輩やメンバーはとても良い人たちです ですが私にとって体力的に厳しいのです 元々私は早く寝ないと体が保たなくて 基本睡眠時間が長めです それに加え就職するなら〇〇した方が良いなど 例えばコミュニケーション能力がある方がいいなど 自分はないからどうしようとか 考えてもどうしようもないことを考えて心配してしまいます 自分に自信がないのです 人がどう思っているか気にしてしまいます ありのままの自分でそれなりに 幸せに生きられたらいいというのが その人の生き方だとはわかっているつもりなのですが理想の自分と今の自分にギャップを感じて自分を責めてしまいます 私って両立とかもっとできる人だと思ってってたのに...とかです もちろん勉強や課題はしています ですがせっかく大学に入ったのでサークルなども入ってみました ありのままの自分とは何か 人と比べないためにはどう考えたらいいか 自分に自信を持つためにはどうすべきか 余計なことを考えないようにするためにはどう心掛けたらよいか 回答を頂けたら嬉しいです
長文失礼いたします。 祖母が8月に亡くなりました。92歳でした。2月に突然脳梗塞を起こして、肺炎を起こして1ヶ月くらい意識不明でした。そこから意識が戻って療養型病院に移って、脳梗塞は順調に回復して退院寸前でした。祖母も自宅に帰るのを楽しみにしていました。その直後もともと持っていた間質性肺炎が医者も驚くほど知らぬ間に悪化していることが分かりしてそれから3週間くらいで亡くなりました。発病してから本当に毎日休みなく家族3人全員が2時間くらい車で30分くらいの病院に顔を出して看病や介護をしました。私は亡くなる当日朝から亡くなる瞬間まで意識ない祖母の手をずっと握っていました。生きている限り希望を捨てはいけないと思っていました。でも、亡くなりました。でも亡くなった瞬間、全て努力なんか全く無意味で死んだら無なんだと確信しました。何をどう努力しても死んだら無なんだと。 唐突に話は変わりますが、漫画で、「ジョジョの奇妙な冒険」という本があります。その中で西部開拓時代のアメリカの話で、上手く言えませんが、ある国に特殊な技術を持っている、医療行為と死刑執行を代々生業している一族の登場人物が出てきます。ある時その登場人物の診療所に、夫のDVで失明した女性が仕事中の怪我で運び込まれます。登場人物は自分の持つ特殊技術で女性の失明を治せると確信したので、治そうと試みますが、ほんの少しの偶然の出来事で彼女の失明を治せず彼女は永遠に光を失います。治せるはずの彼女を治せなかったことにショックを受ける息子に、登場人物の父は、「彼女の失明を特殊技術で治せると父である自分は分かっていた。でも意図的に治さなかった。彼女は盲目が故に生かされている。もし失明を治せば、DVを行った権力者の夫達は、目が見えるようになった彼女の命すらも奪う可能性があるからだ」と言いました。 結局何を言いたいか上手く言えなくて申し訳ありません。ただ、祖母の死の無の感触を思い出すと、なぜかこの漫画のことを思い出します。 どう繋がっているか考えても分かりません。結局言いたいのは、題名の通り、いくら願っても努力しても叶わないことは一体どういう意味を持つかということです。本当はもっと突き詰めて自分なりの意見をじっくり温めてみたいと思っていますが、どんなことでもいいので、何かお言葉を頂けたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。
「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。
先日、クラスメイトがオタクを差別するような発言をしていたのでこの質問をしました。 自分でオタクで、アニメやマンガ、二次元のキャラクターが大好きです。 学校でも友達とアニメの話をしたりします。 問題はその学校の昼休みに起きました。 校内放送でアニメソングが流れていたのですが、前にいたクラスメイトが 「なんでこんな曲流すの?本当に嫌。オタクとか気持ち悪いんだけど」 とオタクを差別するような発言したのです。 自分は知らんぷりしていましたが、心の中では怒りと悲しい思いでいました。 最近はオタク文化も世間に広がりつつあって周りの人達もあまり差別するような発言は言っていませんが、SNSなどではオタクを差別する文が多くあります。 確かにオタクは二次元が大好きでイレギュラーな存在かもしれませんが、それでも普通の人と同じように働いたり勉強したりしています。 オタクはこれからも差別され続けるのでしょうか。オタクが差別されるのは仕方の無い事なのでしょうか。 ご意見をお聞かせ下さい。