悟りとは 実はすべて幻だった!ときづくことですよね? 悟りすら単なる概念ですよね?
ここ最近仏教に関する書籍などを読み漁っていますが、仏教を知る上での重要な要素の一つであろう「空」についてわかりそうでわからない状態が続いています。 空は無ではない、空は増えも減りもしない、空は関係性によって成り立つ。 わかりそうでわかりません。。。 考える上でのヒント等ご教示いただけないでしょうか。
昨日からずっとテレビで言ってますが女優の清水富美加さんが出家するようですが出家は誰でも簡単に出来るんですか❓
享年29歳で私の子供が事故で亡くなりました。あるお人に聞いたところその子の運命は生まれる前から決まっていたとの事、子供は親を選べないと言いますが、そうじゃなくそれも生まれる前からどの家に生まれるかも決まっているとの事でした。私の家に生まれて不幸だったのか、子供の今までの人生を考えるといたたまれない気持ちで、まだ死を受け入れきれなくてどうしようもないです。もうすぐ四十九日です。何も手に付かず悲しい毎日を送ってます。教えて下さい。
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?
なぜ在家得度はこんなに難しいんですか?たらい回しです
4回目の質問になります。 原因不明の病で入退院を繰り返していましたが、確定診断がつきました。症例の少ない難病で治る事はないそうです。 頼れる身内はいません。市役所では生活保護を強く勧められました。 働く事も出来ず、生活保護を受け、社会参加も困難。 薬を飲んで、ただ息をしているだけ。 まだ40代です。 先は長いでしょう。 治らないけれど死ぬ事もない。 この生活を続ける事に何の意味があるのでしょう。 食事して寝て過ごす生活。 外出も困難。 生きる意味は何ですか? 「頑張って生きて下さい」と言われますが、生きていて何の意味があるのか分かりません。
初めて御相談させていただきます。 3ヶ月前に中学生の一人息子を 不慮の事故で亡くしました。 自宅マンションからの転落で 誰も目撃者がいないので、 本当のことは息子しか知りえ ないことですが、警察の捜査 や聞き込みの結果、遺書や証拠 もなく、悩んでる様子も学校 でも見られなく、100%自殺 とは断言できない、半々、との結果でした。 家族も長年の友人達も先生達も 皆信じてました。 私にはよくこれからのことを 話してました。 来年の文化祭は~、とか、 高校生になったら~、など、 今コロナで出来ない分これから やりたいことが沢山ありました。 何もそのような前兆はありませんでした。 毎日手を合わせて 「今日も楽しく遊べたかな?」 と、自由に楽しく笑顔で過ごして くれてることを願ってます。 だけど、もう私自身は大事な 息子がいないなら何のために 生きなくちゃならないんだろう…… 生きていたってしょうがない…… この苦しみはいつまで続くんだろう…… 私がこの先どうなってしまうのか怖いです。 同じようにお子様を亡くされた 方々の相談を拝見しまして、 5年経っても10年経っても苦しみ 続けることを知り、 私は耐えられるのか… 耐えられる自信がありません。 息子は涙もろくて優しくて 面白い子でした。 私が死んだら、私と同じ思いを 息子にさせちゃうと思うと、 生き続けても死んでも苦しい思い をしちゃうんだなと、 仕事を辞めて何もしない毎日ですが、 ずっと疲れてる感じです。 しんどいです。
5月の25日に、娘が亡くなりました。 7月に四十九日を行います。 日蓮宗のお墓に入ります。 私は、娘のお骨の一部を手元に置こうか悩んでいます。 彼女の死は受け入れています、しかしさみしく思い、分骨を考え ています。 しかしそれが、彼女にとって良いのか解りません。 私の思いは、彼女に早く生まれ変わってほしいと願っています。 どのような形でもいいのでもう一度逢いたいです。 そもそも人は亡くなったら、どのような道を進むのでしょうか。 この年になってお聞きするのはお恥ずかしいのですが、どうかお答えください。
初めまして。 少し変わった質問をさせて下さい。 現在写真家をさせていただいております。 今年に入ってからまだ1カ月ですが、仏様に随分たくさんのご加護・お導きを頂きました。 その感謝の気持ちを私らしく表現したいと思い、仏様を表す色って存在するのかしら? と思ってご相談させて頂きました。 例えば薬師瑠璃光如来様だと漢字の中に「瑠璃」と言う漢字が入っていますから何となく分かるのですが、他の仏様は色を表す漢字が含まれていないのでどうなんだろうと。 こんな風に「この仏様は何色で」と言うのが知りたいのです。 そう言ったものがなければ仏様に関連するお花や自然の中にあるものを教えて頂ければと思います。 イメージでも構いません。 出来るだけ多くの色を知りたいので、どうぞお知恵をお貸し下さい。 宜しくお願い致します。
初めて質問させて頂きます。 先日、知り合いの葬儀に参列して、お坊さんのお話を聞かせて頂きました。心にしみる良いお話だなと感動したのですが、ふと一つの疑問が生まれました。そのお坊さんは「49日まで生まれ変わりを繰り返し、そしてご先祖様として私達を見守ってくれる存在になります。ご供養をかかさないようにしましょう。」とおっしゃっていました。『ご先祖様』という存在は今まで何の疑問もなく受け入れてきましたが、興味本位で色々な仏教書を読んでおりますと「人は生前の行いにより、亡くなった後何に生まれ変わるか決まる」といった輪廻という考えがある事を知りました。 もし生まれ変わり、新たな命としてこの世に存在するのならば、ご先祖様は存在しなくなるのでは?という疑問が生じて、先祖供養やお墓参りの時に誰に手を合わせているのだろう??と考えてしまいます。 「ご先祖様」はその姿形で私達の近くにいて、守ってくれているという存在だと思っていましたが、生まれ変わるのならば、何か姿形を変えて違う生命として私達の近くにいるという事なのでしょうか? 長々とまとまらない文章で質問させて頂き恐縮ですが、よろしくお願いします。
簡単に言うと、“考え方や本当に思い込めばその通りになる”ということらしいです。 量子物理学的に「思考は現実化する」という学者もいたりします。 言葉に発するなどはできるのですが、心に思い込むというのはなかなか難しいですし、どうしても悪いことや嫌な事、嫌なニュースに怒りを覚えたり、他人を妬んだりうらやんだり。マインドコントロールでもしない限りそんな人にはなれない気がします。 プラス思考は大事だと思いますが、そんな四六時中プラス思考になることなんてできるのでしょうか。嫌なことから目をそむけ、ある意味思考を停止して単純思考にならないと難しいと考えます。 量子物理学、プラス思考、コントロールとなるとなんとなく胡散臭く感じてしまいます。 そもそも“引き寄せの法則”という考え方は仏教にはあったりしますでしょうか? 教えて! お坊さん!
仏の教えを感じさせる日本の歌(JPopでも童謡でも演歌でも構いません)ってありますでしょうか? 歌のタイトル、アーティスト名、できればその歌を象徴する仏語を教えていただけますと聴く際の参考になります。
私の息子は 18歳 今年高校を卒業し 京都 聖護院様にて 得度式を受け 僧侶になりました しかし 障害を理由に 受け入れてくれる お寺が見つかりません 何とか 私が元気な内に 一人でも 生きていけるように したいのですが
わたしはサラリーマンとして働いていますが、 小さい頃から我が強く、中学生位から対人恐怖、劣等感等でずっとなやみっぱなしでした。正直今でも生きるのが辛いのです。そしていずれ老いて、病気になって死んでしまうのかと思うと、生を厭う他ありません。 歴史上も、人間は戦争、飢餓、貧困、自然災害、病気の流行等、多くの人が圧政、侵略、理不尽に苦しみ、そして、死んでいったのでしょう。 そして現代の資本主義社会では強いものが勝り、弱きものは犠牲になります。豊かさとは何なのでしょうか?物質的なゆたかさ?はたまた心の平安? 生まれも選べない、容姿も才能も、環境も全て理不尽です。 悩みの大小はあれ、人生は圧倒的に理不尽すぎます。 また、単なる生物として遺伝子を残すためだけの存在ならばなぜ、人間は高度な意識を持っているのでしょうか。神は信じていませんが、単なる自然淘汰の産物だとは思いたくありません。 生きることに意味があると思いたいのです。生きていくにはそうして辛いことに目をふさいで自己欺瞞を積み重ね、社会という牢獄につながれた囚人として生きていくほかないのだという絶望も受け入れたく は無いですが、受けいれざるをえません。 どのような生き方が正しい生き方といえるのでしょうか? 囚人として生きるか、死という自由を迎えるか 支離滅裂で済みませんが、何か生きるヒントをください。
お坊さんになりたいと思っています。 どうすればお坊さんになれるか知りたいです。 年齢的なものは関係ありますか?40才近くになると難しいですか?
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
お世話になります。 未だ一人娘の死が受け入れられずにいて、胸が苦しいです。 私はシングルで、19歳まで育ててきた娘を事故で失いましたが、1年経った今も毎日涙が止まりません。 この先ずっとひとりで、辛く悲しい人生を歩いて行かなくてはならないと思うと重い十字架を背負わされて、耐えろ!耐えろ!と神様に言われてるような気がして…まるで生き地獄です。 私の生きる意味がよく分かりません。 どうして、神様は不幸ばかり与えてくるのでしょう。 人に意地悪などしないで、今まで一生懸命真面目に生きてきたのに… どうして、たった一人の宝物をなぜ奪うのでしょう… 何をしても何を食べても、楽しい、美味しい、と思わなくなりました。 趣味のドライブに一人で出かけても、今まで娘を横に乗せ走らせてた楽しい思い出だけが蘇ってきて、運転中も涙が出てきます。 この辛く、長いトンネルは私の命が消えるまで続くんでしょうか…。 最期、人は何を思って死んでいくのでしょうか?