悟りとあきらめは何が違うんでしょうか?
悟りって結局、あきらめなんじゃないでしょうか?
昨今の悟りブームで「今ここ」「ありのままの自分」を許容することが悟りであるとよく色んな本で言われていますし、釈迦も「むさぼるな、足るを知れ」なんておっしゃっておりますよね。
でも、これって結局、あきらめなんじゃないでしょうか?
釈迦が「むさぼるな、欲望とは空しいものである」なんて言えたのは釈迦が貴族に生まれて若いころに金だの酒だの女だのって遊びつくしたからこそ気づけたものですよね?
贅をつくしたことがある人が、贅をつくしたことがない人に欲望とはむなしいと言っても伝わらないと思うのですが・・・。そりゃあ、誰だって金だの酒だの女だのって遊び尽くせば、つまらなくはなるでしょうって感じです。
よって、欲望はつきることはないので今の自分を許容しましょうというのはただ単に、
お前は金がないんだから、あきらめろ
お前はブスだから結婚できない、あきらめろ
お前なんかに将来は見込めない、あきらめろ
ということを、ものすごくきれいな言葉で言っているようにしか聞こえません。
確かに今の自分や状況を受け入れてしまえば、一時だけは「このままでいいんだ!」なんて楽になりますが、後から反動で満ち足りた人とは違う惨めな自分にフォーカスがいき、ネガティブの渦に巻き込まれてしまいます。
結局、悟りなんてものは、上手く自分の不幸な状況から脳をだませた状態、きれいにあきらめた状態というものではないでしょうか?
乱雑な長文を失礼しました。たくさんの回答をお待ちしております。
有り難し 208
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