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hasunoha 問答検索結果 : 「 煩悩 」
検索結果: 3775件

死にたいのに死ぬことすらできない

私はいよいよ明日、命日を迎えることとなります。 親や友人にも話はしました。 ただの冗談だと思っており、真に受ける人はほとんど居ませんでした。 お金をあげるのはやめました。こんな人達にお金を残したところで、私の事などすっかり忘れて豪遊していることでしょうし、それを思えば腹が立ったからです。 しかし不思議なもので、あれほど待ち遠しかった私の命日。 いざ来てみると何だか、嬉しい反面、怖いような、悲しいような、そんな気持ちが湧き上がって来ます。 そして、何故か今更、「まだ死にたくない」という気持ちが僅かに出てきてしまいます。 これほどまでに苦しくて。やりたいことも既に自分にとって無価値なものに感じるほど、こんなにも悩んで苦しんでいるのに。 くだらない煩悩を捨てることができず、そんな自分に対しても嫌気がさして死にたいと願っているのに。 どうして今頃、急に生きたいという気持ちが微かに出てくるのでしょうか。 全くもってわかりません。 本当はどこかに、まだ生きたいという気持ちがあるというのでしょうか。 これほどまで死を願い、徹夜してまで準備するほど必死だったのに。 あとはもう実行するだけなのに。 死ぬことさえまともに出来ないのかと思うと、余計に自分に嫌気がさします。 きっとこのままだと、私は誰かを傷つけてしまいかねないと思います。トラックで歩行者天国に突っ込んだ男のように....。 そうなる前に、自分は消えるべきなのです。 もしこの質問を見てくださっている方々。 僧侶の方に限らず、ここに立ち寄った一般の方々でも結構です。 どうか私が死んでしまうよう、誰かに殺されたり、不慮の事故に遭ったりするように願ってください。 呪って頂いても構いません。 もしかしたら、それによって私が気を変えて、自殺を実行に移せるかもしれません。それが一番良いのですが...。 罪作りなお願いであることは十分承知しております。 しかし自分から楽になることができない以上、何かが私を死なせるよう、願うしかないのです。 どうか、よろしくお願いします。

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2025/06/13

自分の苦手は誰もフォローしてくれない

私の勤める会社は、適材適所を重視しています。 それはとても良いことだと思っています。 ですが 他の人の苦手のカバーを任されるだけで、私の苦手は誰もカバーしてくれません。 上司に相談をしてもそれは自分で乗り越えてと突っ返されてしまいます。 頻繁に相談しているわけではなく、ほとんどの業務はこなしています。 私の働く福祉の現場ではどうしても私には困難な方がいるのです。 周りに悪意がないとしても自分だけ蚊帳の外の様に感じてしまいネガティブになってしまいます。 難しいながら最大限努力をして向き合っていますが、上手くいかないときもあります。 そんな時は決まって代表が全体の連絡ツールでこれができていませんでした。どういう考えでこんなことしているんですか? と公開処刑のような形で注意されてしまいます。 他の人のできないことを任されてばかりでそれに応えてきたのに…… どうして私のことは誰も助けてくれないのでしょうか? 他の人はできないことがあっても他人に流すことが許されているのかわかりません。 もう無理ですと伝えてもボーナスで差をつけてるからと言われます。 お金ではなく気持ちを理解してほしいのです。 私は仕事だからと我慢して生きていけばいいのでしょうか? 誰かに認めてほしいです。 一生懸命頑張っているのです。 頑張っている人は頑張っていると言わないようですが、私はそんなに強くなれません。 頑張りを言葉で認めてほしい時はどうしたら良いのでしょうか。 友達もいないのです。

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「師匠無しは外道です。仏教は世界を救うためにあります」

坐禅会で副住さんと二人きりだった。 気候に依るか、今日は二人だけという縁に依るものであったのか、僕がムカつく顔をしていたのか…なるようにして、そうなったのでしょうが…。 会話量は僕が2、お坊様が8くらいでした。法話聞きに行ってるので。 風の吹き方一つで虫の居所も変わるでしょうし…なるようになったのか? 「山には色んな入口と登り方があり、諸宗教も同じですよ。」 僕「山なんて本来無いのでは?」 「貴方と話してるとウンザリするんですよ…こう言うのも面倒くさいんです(半笑い)」 「えっ」 突然だったので驚きました。これは何らかの方便なのでしょうか? 縁が整った故の個人的な考えですが、神様には個々人の内に誕生日があって、各々が見聞していく中で神々の造形や威光が深められていき、その信徒が己の生み考えた偶像にひれ伏すようになっていく。そういった一切は縁起に依り、各々が思うように仕立て上げていると気付くために坐禅等の諸行によって三昧、思い込みの縄を解き、無自性=縁起に気付き、よくよく見極めていく。 「自覚」縁起の教えが仏教。そこが諸宗教と一線を画する所では? と考えています。 そう思える縁が整っただけですが…。 上記のような屁理屈だって蹴倒れる程に悲しい。 因縁仮和合云々並び立てても殴られりゃ痛いし、彼の軽蔑は悲しい。 それで心相続していって変遷していく。 またその場の気分も風の吹き方一つで変わるので、次はお寺に行くかもしれないし、行かないかもしれない。嵐か地震が来るかもしれないし、実際は考えに依ってくれないし。 世界を救うって何を…? 僕「師がいなくて外道なら、在家信者は外道ですか?」 「師ならそこらじゅうのお寺にいるでしょう。 解釈に囚われているから、そういった考えになるんです」 僕「はい」 「ウチは檀家100件を超えておりますが、法事をして救いもして、救いもしない事が救いになる事もありますよ」 「師について学ばないとオウムと変わりませんよ。空だから〇してもいいっていう」 僕「え?(なんで突然オウム?そもそも誰かを〇すなんて)」 彼が気に入るだろう答案を提出できる縁に僕は恵まれなかった。 痛い位に今日の彼から伝わってきたのはもう僕に二度と会いたくないってこと。 僕が出来るのって出来る限り接する人に親切にしていこうと願う事位。 世界を救うって何?彼の真意は何でしょう?

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世界一優しい戦士

以前から希死観念について相談させて頂いている者です。何回もお世話になり申し訳ありません。 これまでの相談で、私は生きる理由が無いにも関わらず原始的欲求や死の苦痛に対する恐怖、なけなしの人情などに屈して死ねない自分に苛立ってきました。そんな中で「人の煩悩、ひいては人という概念に打ち勝つ」という人生で初めての目標を持ち、それを自殺によって達成しようと思いました。 しかし、数々のご相談で皆様になだめられ、煩わしさを感じながらも踏み止まる間、ある偉人の格言に出会いました。 「戦いは万物の父である」 古代ギリシャの哲学者ヘラクライトスの言葉です。 彼は「存在する」という万物の本質を「空間や構成要素の奪い合い」つまり戦いと解釈し、万象を陰陽や男女といった対立概念で説明した人です。 しかし、彼は決して酷薄な考え方をしたわけではありませんでした。何故なら、彼の言う戦いは、相対する存在を断滅する事だけではないからです。 彼は、対立概念が共倒れしない理由として「調和」というあり方を提唱しました。対立概念が居場所を取り合って争ううちに譲歩の仕方を学び、釣り合いを取るというあり方です。それは、片方が死滅するまで終わらぬ死闘ではなく、鎬を削りながらも相手を尊重する世界一優しい戦いです。 私は、生命の本質に抗う自分を戦士として鼓舞し、死という選択肢がありながらその恐怖に屈する人々や頑なに生を説い続ける皆さんに辟易していました。そうしていれば、生に抗う自身が特別に見えたからです。 しかし、存在することは戦うことだと説くこの格言を言い換えるとこう表せます。 人間は生きるだけで戦士である、と。 生に屈したと思われた人たち、生を説く皆様は死に抗っていました。戦う相手、戦い方が違うだけの戦士だったのです。 仏道を進む皆様はことさらに凄い。不完全な自身を抹殺対象ではなく研鑽の相手として受け入れた上、他人に寄り添って共に戦っています。自分を殺そうとした私と違い誰も殺そうとしない。 世界一優しい戦士だったのです。 私は戦い方を間違えていました。今やるべきことは死を恐れて理想から遠ざかる自身を受け入れ、研鑽し続けることです。 前置きが長くなり申し訳ありません。 私は皆さんのように、万象と調和する戦い方をしたいです。 世界一優しい戦い方の心得を教えて下さい。

有り難し有り難し 13
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