何気なく立ち読った本屋で帯に<お金は空>と衝撃的?!なタイトルに思わず手に取り拝読しました。昔から金の切れ目は縁の切れ目と離婚や相続などでお金は人を狂わせるのかなぁ、でも生きてくためのツールだし今は分相応?身の丈にあった生活をしてると思っていました。だけれど ふ と親の医療費、子どもの学費と、お金があればもっと余裕を持って(セカンドオピニオンや奨学金に頼らなく)してあげられる事もあるし悩み事も減るんじゃないかと思ってみたり。お金もまた煩悩の一つなのかなと。宝くじは楽しみに購入してます。年末、師走は何かとお金に振り回され生活しています お金は空とは…腑に落ちなく質問となりました。 hasunohaでお金のことを問うのは失礼になるかと思いますが…
私は、地元が関西弁の者なんやけど、関西弁を使っていると自分の大嫌いな親と同じ方言を使っている、という状況すら嫌に思えて、最近茨城弁を覚え始めたっペ。 茨城は推し配信者さんの地元だし、流石に親もコレは喋らないだろうということで。 とはいえ、いざ使ってみると、やはり周りには通じないし、同級生に変な目で見られてしまう。自分はこっちを使うほうが居心地がいいのだけれど、当然周囲との調和を取る必要がある学校内では適切とは言えない。 自分の中で過去にとらわれないような思考ができるようになれば良いのだろうけれど、僕のような煩悩具足の凡夫にはかないそうにありません。 この葛藤(?)をどう処理すればいいでしょうか?ご意見お願いします。
私は毎日祈ります。手を合わせ、座禅をし、写経します。 虐待を受けてきた時も、差別や偏見で区別される時も、私の中の煩悩のせいでそう感じるのだと、言い聞かせてきました。ですが、無くならないのです。 私は、悲しいです。なぜいつも差別され偏見を持たれ区別されるのか、わかりません。 僧侶になろうとも思いました。しかし、その世界にも様々なことがあるのを知って、とても悲しい気持ちになりました。誰でもなれるわけではなく、檀家でもない、大学で専門的なことを学んでからどこかで受け入れてもらいなさいと言われたこともありました。 私の親族のお葬式でいろいろなことをたくさん経験しました。 お経を読んでいただき、ありがたい気持ちでいっぱいでしたが、額が少ないとお礼を返され、やりなおされたこともありました。 なぜなのか、この仕組みはなんなのか、教えてください
お世話になっています。浄土真宗についてですが、僕は仏法を素直に聞くことができません。例えば、人間だけは救われるという内容です。まさに、ヒューマニズム的な考え方で、納得がいかないのです。絶対的真理には、分別はないんじゃないかと。太陽が善人にも悪人にも(世間の善悪)日を当ててくれるように、全てのものが救われるのが絶対的な真理だと思います。なのに、人間だけが救われるのはおかしいじゃないかと思うのです。そう考えると、道元様が言うように「衆生は仏性の中にいる」という考え方が一番府に落ちるのです。だが、人間の煩悩は消えないという考え方については納得しています。なんだか、他の宗派と混合して考えてしまわないと、納得ができないのです。 僕はこのまま仏法を聞いた方がいいのでしょうか?そうすればいつか納得できる瞬間がくるのでしょうか?
特に何の報せもありませんでしたが、ふと、何故か急に地獄に行きたくないな、と思いました。 気になって調べてみました。手段としては、 1:これまでの罪を懺悔し、反省すること。 2:今よりこれからを、より良く(正しく?)生きること。 3:自力ではなく他力として念仏を唱えること。(唱えることで心の闇を祓い、また祓って下さった仏様へお礼として唱えること) 4:他者の罪を許すこと。 5:心の闇(仏教では我執や煩悩に区分されるのでしょうか?)に囚われないこと。囚われて、心の闇に操られ、それが求めるままの行動をしないこと。 これ以外に地獄行きを回避する方法はありますでしょうか? また、自分の家の宗教は法華経なのですが、地獄を免れる念仏として「南無阿弥陀仏(浄土宗)」を唱えると良いと書かれていました。法華経の自分が唱えるのは場違いでしょうか? よろしくお願いします。
二次元三次元関わらすロリコンがキモいと言うのが理解できません。見た目が中年男性と少女の組み合わせで中年男性が少女に手を出そうとする考え(煩悩?や欲望や性欲)に問題があるみたいですがネットの無料でアップロードしたり不特定多数が閲覧できる2ch系個人ブログサイトやYOUTUBEやニコニコやSNSなどで軽々しく披瀝する人が悪いのではないのですか?やはり根本原因に1989年の東京埼玉の少女誘拐殺人事件の宮崎勤元死刑囚とマスコミの報道姿勢に問題があるのですか?しかし、人の見た目で犯罪者扱いはあまりにもひどいのではないですか?でもそういうのは有料会員登録サイトでやってほしいです。ただより高いものはないですよ。
自分自身の煩悩なのかは分かりませんが、普段はイライラしてしまっても人に当たったりはしないんですが、不意に人に当たってしまった時が何回もあり、その時は後で家族でも色んな人にも謝っています。自分は人の悪口を言わないようにしよう。絶対に自分が不幸せだと思っても誰かに当たらないように心がけていますが、自分に嫌な事をする人の悪口をつい親に言ってしまうとずっと溜息しか残りません。自分は人に平気で陰口、悪口を言ったり、酷い事をする事など死んでもしたくありません。そこまで悪い人間にはなりたくないとずっと思っています。心が綺麗になるという場所、神社、お寺にも行きましたが、心が洗われているのかさえわからない状態です。自分がこういう性格だから悩まされているのかどうかアドバイスお願いします。
心がざわつく毎日を過ごしています。 ふと、全て忘れて前向きに生きようと思う時があったかと思うと、すぐにまた黒い醜い気持ちが溢れてきます。 過激な思想や、死んでしまいたい思い、後悔、怒り……瞑想や色々な話を読んでみたりと気をまぎらわそうとしても日のほとんどを恨みと虚しさで潰してしまいます。休日に外に出れなくなりました。 前向きに前抜きに生きたいです。この虚しい気持ちは心のなかでは自分は悪くないと思いこんでいるのでしょう。 このドロドロした気持ちを今年のうちに蹴りをつけたいです。 煩悩や怒り、悲しみ、後悔、この暗い気持ちを払拭し、無とするために心がける方法があればご教授いただければ幸いです。
最近、自分は人と接するべきではないと感じます。 人の心が平穏であればと常に祈っているます。ですが、自分が人とふれあうことでその人の平穏を壊してしまうことがあります。それが恐ろしく、また申し訳ないです。 自分が欲や煩悩を持って人と接したとき、その人の心を乱してしまう。僕が人とふれあわないほうがその人の心は平穏なままであるので、僕は人とふれあわないべきなのではと考えてしまいます。 特に性欲や愛されたいと願う気持ちを持ちながら女性に接してしまったとき、申し訳なく思います。相手が自分の浅ましさに気付く気付つかない関係なく、そんな気持ちで人に接する自分を恥じ、申し訳なく思います。自分の欲をコントロールできるようになるまで、人を避けるべきでしょうか。 どうしたらよいでしょうか? お力を貸していただけるとありがたいです。
こんにちは、初めて質問します、煩悩と申す者です。 私は3月に大学を卒業し、就職せずに大学1年生から続けている資格の勉強をするつもりです。 以前は資格の勉強が難しく、劣等感に悩まされていましたが、最近は資格に受からなくても生きていけると前向きに考えることが出来るようになりました。 しかし、今は資格の勉強に集中できなくなってしまいました。 具体的には、勉強中にエロい妄想をしたり、ボケっとしたり、現在のようにスマホをいじったりなどです。 前もいくばかそういうことはしていたのですが、最近は頻度が高くなっています。 前向きな思考になったのが原因なのでしょうか。 悩みが解決できるようなアドバイス、叱咤激励をお願いします。
下宿先での引きこもり生活が1年を過ぎ、最初は「今はゆっくり休めばいい」と言ってくれていた両親からも呆れられたのか連絡が来なくなりました。 毎日誰とも話さないと孤独感や不安が強いのですが、自分から両親に連絡を取るのが怖く、相手も連絡してこないで欲しいのではないかと思ってしまい無為に日々が過ぎていきます。 自分を変えたいと思うほど気持ちを強く持てず、無力感、無気力、自信がない、どこにも居場所がない、疎ましがられているに違いない、生きる希望がない、空しい、死にたいと言った気持ちでいっぱいです。 いっこうに文章がまとまらないのですが、よろしければ何か一言いただけないでしょうか。(プロフィール欄や煩悩に加筆していこうかと思っています)
十年ほど前に、作家の玄侑宗久さんの般若心経の解説本で、初めて仏教的な物の見方を知りました。 息苦しい日々に、涼しい風が吹き込んだ様な気がしました。以来、少しでも仏教的な悟りや心の安心に近付きたく、仏教書(仏教関係のエッセイなど)を読んだり、座禅に通ったり、欲を捨てる事を心掛け、諸行無常、諸法無我を心に留めてきましたが、相変わらず心弱く、煩悩に振り回され続けてます。 心の安心を仏教から得るには、どのようにしたら良いのでしょうか?座禅会では、座っていれば自然に気付くと聞きましたが、何も分かる気がしないのです。信仰ではなく考え方としてしか仏教を見ていないからでしょうか?
7歳年下の夫と再婚して17年 現在 私52歳 夫45歳 勝手者の夫で仕事や金銭面でも波乱万丈な人生を過ごしてきましたが純粋で優しい所のある夫に いつしか私は依存してしまったようです。 昨年 夫の親戚になる28歳の女性が子供2人を連れ離婚し 悩みを夫に打ち明けるようになり急接近し、いつしかお互いに好きという感情が芽生えてしまったようです。気付いた私は夫に問い詰めましたが、今は突き放せない、彼女の傷が癒えるまで待って欲しいと言われました。 私は嫉妬で狂いそうになり死にたいと思いました。でも夫を愛しています。この嫉妬に狂った煩悩をどうやって抑えたら良いでしょうか?
私はいよいよ明日、命日を迎えることとなります。 親や友人にも話はしました。 ただの冗談だと思っており、真に受ける人はほとんど居ませんでした。 お金をあげるのはやめました。こんな人達にお金を残したところで、私の事などすっかり忘れて豪遊していることでしょうし、それを思えば腹が立ったからです。 しかし不思議なもので、あれほど待ち遠しかった私の命日。 いざ来てみると何だか、嬉しい反面、怖いような、悲しいような、そんな気持ちが湧き上がって来ます。 そして、何故か今更、「まだ死にたくない」という気持ちが僅かに出てきてしまいます。 これほどまでに苦しくて。やりたいことも既に自分にとって無価値なものに感じるほど、こんなにも悩んで苦しんでいるのに。 くだらない煩悩を捨てることができず、そんな自分に対しても嫌気がさして死にたいと願っているのに。 どうして今頃、急に生きたいという気持ちが微かに出てくるのでしょうか。 全くもってわかりません。 本当はどこかに、まだ生きたいという気持ちがあるというのでしょうか。 これほどまで死を願い、徹夜してまで準備するほど必死だったのに。 あとはもう実行するだけなのに。 死ぬことさえまともに出来ないのかと思うと、余計に自分に嫌気がさします。 きっとこのままだと、私は誰かを傷つけてしまいかねないと思います。トラックで歩行者天国に突っ込んだ男のように....。 そうなる前に、自分は消えるべきなのです。 もしこの質問を見てくださっている方々。 僧侶の方に限らず、ここに立ち寄った一般の方々でも結構です。 どうか私が死んでしまうよう、誰かに殺されたり、不慮の事故に遭ったりするように願ってください。 呪って頂いても構いません。 もしかしたら、それによって私が気を変えて、自殺を実行に移せるかもしれません。それが一番良いのですが...。 罪作りなお願いであることは十分承知しております。 しかし自分から楽になることができない以上、何かが私を死なせるよう、願うしかないのです。 どうか、よろしくお願いします。
私の勤める会社は、適材適所を重視しています。 それはとても良いことだと思っています。 ですが 他の人の苦手のカバーを任されるだけで、私の苦手は誰もカバーしてくれません。 上司に相談をしてもそれは自分で乗り越えてと突っ返されてしまいます。 頻繁に相談しているわけではなく、ほとんどの業務はこなしています。 私の働く福祉の現場ではどうしても私には困難な方がいるのです。 周りに悪意がないとしても自分だけ蚊帳の外の様に感じてしまいネガティブになってしまいます。 難しいながら最大限努力をして向き合っていますが、上手くいかないときもあります。 そんな時は決まって代表が全体の連絡ツールでこれができていませんでした。どういう考えでこんなことしているんですか? と公開処刑のような形で注意されてしまいます。 他の人のできないことを任されてばかりでそれに応えてきたのに…… どうして私のことは誰も助けてくれないのでしょうか? 他の人はできないことがあっても他人に流すことが許されているのかわかりません。 もう無理ですと伝えてもボーナスで差をつけてるからと言われます。 お金ではなく気持ちを理解してほしいのです。 私は仕事だからと我慢して生きていけばいいのでしょうか? 誰かに認めてほしいです。 一生懸命頑張っているのです。 頑張っている人は頑張っていると言わないようですが、私はそんなに強くなれません。 頑張りを言葉で認めてほしい時はどうしたら良いのでしょうか。 友達もいないのです。
坐禅会で副住さんと二人きりだった。 気候に依るか、今日は二人だけという縁に依るものであったのか、僕がムカつく顔をしていたのか…なるようにして、そうなったのでしょうが…。 会話量は僕が2、お坊様が8くらいでした。法話聞きに行ってるので。 風の吹き方一つで虫の居所も変わるでしょうし…なるようになったのか? 「山には色んな入口と登り方があり、諸宗教も同じですよ。」 僕「山なんて本来無いのでは?」 「貴方と話してるとウンザリするんですよ…こう言うのも面倒くさいんです(半笑い)」 「えっ」 突然だったので驚きました。これは何らかの方便なのでしょうか? 縁が整った故の個人的な考えですが、神様には個々人の内に誕生日があって、各々が見聞していく中で神々の造形や威光が深められていき、その信徒が己の生み考えた偶像にひれ伏すようになっていく。そういった一切は縁起に依り、各々が思うように仕立て上げていると気付くために坐禅等の諸行によって三昧、思い込みの縄を解き、無自性=縁起に気付き、よくよく見極めていく。 「自覚」縁起の教えが仏教。そこが諸宗教と一線を画する所では? と考えています。 そう思える縁が整っただけですが…。 上記のような屁理屈だって蹴倒れる程に悲しい。 因縁仮和合云々並び立てても殴られりゃ痛いし、彼の軽蔑は悲しい。 それで心相続していって変遷していく。 またその場の気分も風の吹き方一つで変わるので、次はお寺に行くかもしれないし、行かないかもしれない。嵐か地震が来るかもしれないし、実際は考えに依ってくれないし。 世界を救うって何を…? 僕「師がいなくて外道なら、在家信者は外道ですか?」 「師ならそこらじゅうのお寺にいるでしょう。 解釈に囚われているから、そういった考えになるんです」 僕「はい」 「ウチは檀家100件を超えておりますが、法事をして救いもして、救いもしない事が救いになる事もありますよ」 「師について学ばないとオウムと変わりませんよ。空だから〇してもいいっていう」 僕「え?(なんで突然オウム?そもそも誰かを〇すなんて)」 彼が気に入るだろう答案を提出できる縁に僕は恵まれなかった。 痛い位に今日の彼から伝わってきたのはもう僕に二度と会いたくないってこと。 僕が出来るのって出来る限り接する人に親切にしていこうと願う事位。 世界を救うって何?彼の真意は何でしょう?
バイトしては嫌なところを見つけて辞めてしまいます。これまで100箇所以上の職場を転々として来ました。 恋人ができては嫌なところを見つけて振ってしまいます。これまで20人以上と付き合ってきました。 友達がいません。嫌なところを見つけてはブロックして連絡先を消してしまいます。 孤独です。孤独にも飽きました。退屈は毒です。自分の中の”飽き”の感情にずっとずっと苦しめられています。
どうぞよろしくお願いします。 うまくいう事ができませんが、私は、事故やその他の事で死んでしまう動物の事で、心に非常に大きなダメージをうけてしまいます。妹も同じで、車で子猫がひかれた所に遭遇し泣きながら電話をかけてきました。(猫も犬も好きで、私は猫3匹、妹は猫5匹、犬1匹飼っています。) 犬や猫や動物好きの人間はみな同じだと思うのですが、私たち姉妹はおかしいのではないかと思うほど、強くショックを受けてしまいます。しばらくというより、ずっと悲しいまま引きずってしまいます。私も妹も40才もこえているのに、変なのではないかと思うほどです。 どうしたらこの悲しみ、苦しみをおさめることができるのでしょうか? そして動物たちの死に際して、どの様にうけとめたら心がダメージをうけずにすむのでしょうか。
揉めた神社から祟られて辛いです 私は8月末ぐらいに 仲の良かった神社と揉めて 袂を分かちました。 それから私は 自律神経失調症や 呼吸器系の持病が酷くなったり 職場では社長の娘から パワハラを受けて精神的に 死ぬほど辛くなりました。 その神主のアカウントで 間接的に私のことを 悪く書いていました きっとその神主の念が 私を苦しめてるのだと思います 向こうは神職なので 本気を出せば一般人の私を 抹殺できるぐらいの呪いを かけられると思います。 なので、本当に殺されそうで 毎日、戦々恐々としております。 この状況はどう対処すれば 宜しいのでしょうか?
以前から希死観念について相談させて頂いている者です。何回もお世話になり申し訳ありません。 これまでの相談で、私は生きる理由が無いにも関わらず原始的欲求や死の苦痛に対する恐怖、なけなしの人情などに屈して死ねない自分に苛立ってきました。そんな中で「人の煩悩、ひいては人という概念に打ち勝つ」という人生で初めての目標を持ち、それを自殺によって達成しようと思いました。 しかし、数々のご相談で皆様になだめられ、煩わしさを感じながらも踏み止まる間、ある偉人の格言に出会いました。 「戦いは万物の父である」 古代ギリシャの哲学者ヘラクライトスの言葉です。 彼は「存在する」という万物の本質を「空間や構成要素の奪い合い」つまり戦いと解釈し、万象を陰陽や男女といった対立概念で説明した人です。 しかし、彼は決して酷薄な考え方をしたわけではありませんでした。何故なら、彼の言う戦いは、相対する存在を断滅する事だけではないからです。 彼は、対立概念が共倒れしない理由として「調和」というあり方を提唱しました。対立概念が居場所を取り合って争ううちに譲歩の仕方を学び、釣り合いを取るというあり方です。それは、片方が死滅するまで終わらぬ死闘ではなく、鎬を削りながらも相手を尊重する世界一優しい戦いです。 私は、生命の本質に抗う自分を戦士として鼓舞し、死という選択肢がありながらその恐怖に屈する人々や頑なに生を説い続ける皆さんに辟易していました。そうしていれば、生に抗う自身が特別に見えたからです。 しかし、存在することは戦うことだと説くこの格言を言い換えるとこう表せます。 人間は生きるだけで戦士である、と。 生に屈したと思われた人たち、生を説く皆様は死に抗っていました。戦う相手、戦い方が違うだけの戦士だったのです。 仏道を進む皆様はことさらに凄い。不完全な自身を抹殺対象ではなく研鑽の相手として受け入れた上、他人に寄り添って共に戦っています。自分を殺そうとした私と違い誰も殺そうとしない。 世界一優しい戦士だったのです。 私は戦い方を間違えていました。今やるべきことは死を恐れて理想から遠ざかる自身を受け入れ、研鑽し続けることです。 前置きが長くなり申し訳ありません。 私は皆さんのように、万象と調和する戦い方をしたいです。 世界一優しい戦い方の心得を教えて下さい。