私は本来なら回答者側にいるはずの坊さん見習い。世襲によって住職になってしまった、檀家さんに顔向けできない三流のダメ坊主です。 仏教大学を卒業してこの世界に入って思ったんだけど ・飲み会多すぎない? ・不必要な会議多すぎない? ・下品なやつ多すぎない? ・どうでもいい修行多すぎない? って思っています。(最後のはうちの宗派だけかもしれない) 元々体育会系のノリでの人付き合いがあんまり好きじゃないコミュ障なので、マジで会議後の飲み会とかいうダブルコンボが辛いです。 なぜ抜苦与楽のために仏教やってるのに私自身が苦しんでるの???ってなってきてます。 下品な坊主多すぎない?って思っています。「どこどこの修行を何回やった」みたいな謎のマウント取りがそのまま地域内での寺ヒエラルキーに影響するような世界に辟易としてます。 実家が寺なので寺そのものを捨てると家族が路頭に迷う関係上、俗世間を離れるのはできないんですけど正直したいくらいに今仏教に疲れています。 ここにご回答して下さるお坊さんの方は、そういうことを思ったりとか、しませんか? したなら、どうやって折り合いってつけてますか?
現在私は、学校で言ってしまえば1人なのです。 一年の最初も原因はふわふわとしたことで追い出され、その後おいでと言われた所でも、じゃれてやる様なこちょこちょが嫌だったと結果的に言われ、イジメのように追い出され。 その後もそのような事が2回ほど続き、結果的最近までは何とか学校を卒業したいと思い、辞めずに普通に過ごしていました。 安定してきた、絶対一緒に行動すると言うような子はいませんでしたが、皆と楽しく過ごしこれなら大丈夫と思っていたのですが、数週間前から、以前こちょこちょが嫌だったと私を追い出したリーダー格の女が私に近づいてきて、もう許したから来てもいいよ。と。 ですので女からも話しかけてくるのでそれに応じて楽しくやっていました。所が数日前からまた、おかしいのです。私と目を合わせようとしなく、話しかけても来ません。なので今日もリーダー格のその女は私の目の前で他の皆だけでUNOをしたりしていました。何となく一緒に行動していた子までそこにいるのです。 お昼もその子と保健室に行って食べてたのですが今日は、その周辺で食べている仲のいい子と食べると言い出したのです。と言うことは、私がそこについて行っても楽しくないのです。話に入れないし、UNOもさせてくれないし。 1人で保健室に行くしかないかもしれませんが、今まで2人で行っていたので何だかあれですし。 ほかのクラスに友達と呼べるであろう人はいますが、その子もクラスのグループがあります。そこに入るのもまた厄介だと思うんです。 今月にもバス見学もあるし、クラスマッチも…。 本当に辛くて。こんな事何回繰り返すんだろう。私そんなに悪いのかな。嫌われてるのかな。でも、そのリーダー格の女はもっと悪い所があるとみんな言うのにのにな。 他の人に聞いてみても、私どこか悪い所あるのかな?と聞いても、うーん?どうなんだろう。とか、親や先生親戚にすべて話しても私が悪いと言われたことはありません。 なので、どうすればいいのかもう分からなくて。やってもやってもこうなる。死にたくなります。涙が出ます。私は何かいけないんでしょうか。 クラスは二人づつ固まっていて、私の入る隙間はありません…。 どうするべきだったんでしょうか… 長くなって申し訳ありません。 もう切羽詰っていて…助けてください。明日も怖いです。通学中死にたいです。
ハスノハ初心者です。 殆どのお坊様方の下さるご意見は温かく時に厳しいものもあり、大変親身になってお答え下さっているのだと感じます。 しかし先ほど私の質問に対してではないのですが、ショッキングな回答を見かけてしまいました。 あるお坊様が「結婚は女性向き」「結婚制度は女を守る為のもの」等と回答に書かれておられたのです。 要約すると、女は自分に見返りを求めたがる傾向が強いからこそ結婚すべきだし、女は結婚により守られる存在だ、といった感じです。 このお坊様以外にも「子供を作らないのは身勝手」だとか 「男女には向き不向きがあるからこうした方がよい」等と仰るお坊様方もおられました。 男女は対等な存在であり、結婚は支えあい愛する為にするもの。 女だからといって弱くて至らない存在として守ろうとするのは対等ではなく見下しているのと同じ。 子供は授かりもので、その選択も夫婦の自由意思によるもの。 男女に性差はあるがあくまで傾向でしかなく、腕力等ハッキリ違いがあるものを除いて「向いている向いてない」と決めつけるものではない。 私はこう考えています。 そして当たり前のことではないでしょうか。 とても前時代的なお坊様がおられること、そしてこんな書き方はしたくありませんでしたが差別的な発言をされる方が少なからずおられることにショックを受けております。 こんな風に思う私はおかしいのですか? ハスノハの印象が変わってしまいました。
(編集部より。こちらの質問は規約違反を含むため内容を一部削除、修正しています) 最近このような記事を見つけました。 (リンク削除) ●エラスムス大学(オランダ)の最新の研究によると、女性は男性に比べて知能指数が3.75ポイント低いことが分かった。 また、女性の空間認識能力は、男性に比べて著しく劣っているとのテスト結果が得られた。一方、記憶力のテストでは、女性のほうが男性よりも優れていた。 男女約900名のMRI検査をもとにした調査では、男性の脳は女性の脳よりも約14%大きいことが分かった● 私は薄々女に仕事は向いてないと思っていました。 前回お坊さんたちにコテンパンに叩かれましたがやっぱり納得いきません。 この記事はまさに私が正しいことを科学的に証明してくれています。 しかも最新の研究結果です。 (以下規約にもとづき削除、編集、非表示しています) 女はせっかく・・・ そうすれば少子化も解決するし日本経済も活性化します。 女に・・・ 男の・・・ この世の・・・ 優秀な女は(以下利用規約にもとづき全削除)
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。