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hasunoha 問答検索結果 : 「 否定 」
検索結果: 5186件

助けてください。明日にでも死にたい。

現在私は、学校で言ってしまえば1人なのです。 一年の最初も原因はふわふわとしたことで追い出され、その後おいでと言われた所でも、じゃれてやる様なこちょこちょが嫌だったと結果的に言われ、イジメのように追い出され。 その後もそのような事が2回ほど続き、結果的最近までは何とか学校を卒業したいと思い、辞めずに普通に過ごしていました。 安定してきた、絶対一緒に行動すると言うような子はいませんでしたが、皆と楽しく過ごしこれなら大丈夫と思っていたのですが、数週間前から、以前こちょこちょが嫌だったと私を追い出したリーダー格の女が私に近づいてきて、もう許したから来てもいいよ。と。 ですので女からも話しかけてくるのでそれに応じて楽しくやっていました。所が数日前からまた、おかしいのです。私と目を合わせようとしなく、話しかけても来ません。なので今日もリーダー格のその女は私の目の前で他の皆だけでUNOをしたりしていました。何となく一緒に行動していた子までそこにいるのです。 お昼もその子と保健室に行って食べてたのですが今日は、その周辺で食べている仲のいい子と食べると言い出したのです。と言うことは、私がそこについて行っても楽しくないのです。話に入れないし、UNOもさせてくれないし。 1人で保健室に行くしかないかもしれませんが、今まで2人で行っていたので何だかあれですし。 ほかのクラスに友達と呼べるであろう人はいますが、その子もクラスのグループがあります。そこに入るのもまた厄介だと思うんです。 今月にもバス見学もあるし、クラスマッチも…。 本当に辛くて。こんな事何回繰り返すんだろう。私そんなに悪いのかな。嫌われてるのかな。でも、そのリーダー格の女はもっと悪い所があるとみんな言うのにのにな。 他の人に聞いてみても、私どこか悪い所あるのかな?と聞いても、うーん?どうなんだろう。とか、親や先生親戚にすべて話しても私が悪いと言われたことはありません。 なので、どうすればいいのかもう分からなくて。やってもやってもこうなる。死にたくなります。涙が出ます。私は何かいけないんでしょうか。 クラスは二人づつ固まっていて、私の入る隙間はありません…。 どうするべきだったんでしょうか… 長くなって申し訳ありません。 もう切羽詰っていて…助けてください。明日も怖いです。通学中死にたいです。

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ハスノハ内の回答について。

ハスノハ初心者です。 殆どのお坊様方の下さるご意見は温かく時に厳しいものもあり、大変親身になってお答え下さっているのだと感じます。 しかし先ほど私の質問に対してではないのですが、ショッキングな回答を見かけてしまいました。 あるお坊様が「結婚は女性向き」「結婚制度は女を守る為のもの」等と回答に書かれておられたのです。 要約すると、女は自分に見返りを求めたがる傾向が強いからこそ結婚すべきだし、女は結婚により守られる存在だ、といった感じです。 このお坊様以外にも「子供を作らないのは身勝手」だとか 「男女には向き不向きがあるからこうした方がよい」等と仰るお坊様方もおられました。 男女は対等な存在であり、結婚は支えあい愛する為にするもの。 女だからといって弱くて至らない存在として守ろうとするのは対等ではなく見下しているのと同じ。 子供は授かりもので、その選択も夫婦の自由意思によるもの。 男女に性差はあるがあくまで傾向でしかなく、腕力等ハッキリ違いがあるものを除いて「向いている向いてない」と決めつけるものではない。 私はこう考えています。 そして当たり前のことではないでしょうか。 とても前時代的なお坊様がおられること、そしてこんな書き方はしたくありませんでしたが差別的な発言をされる方が少なからずおられることにショックを受けております。 こんな風に思う私はおかしいのですか? ハスノハの印象が変わってしまいました。

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仏教の今後

仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?

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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 741
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