はじめまして。 私は昔から他人の成功を喜ぶことができない性格なのです。 例えば、友達が仕事で成功したり、難しい資格に合格したりなどの話を聞 と、表面的には一緒に喜びますが、心の中では悔しいような、寂しいような、 不安な気持ちが沸いてきます。 親しい関係であればあるほど、その気持ちは強くなります。親友や恋人に 対しては特に強く感じます。逆に親しくない関係の人の成功は素直に喜ぶ ことができます。 自分でも嫌な性格だな、と思ってはいるのですが、どうしようもないのです。 誰でも少しは似たような嫉妬の気持ちはあると思いますが、自分は特に強く 嫉妬してしまいます。 この気持ちはどう整理すればよいのでしょうか。
こんにちは。以前に質問したふゆじたくです。 ふと思いましたが、僧侶の方々は結婚したら結婚指輪はするのでしょうか?また、結婚式の時に指輪の交換の儀式があるのでしょうか? それ以前に婚約指輪も渡されますか? 最後にこれはお答え出来たら… プロポーズは何かお釈迦さまなどの言葉に基づいて言われるのですか?
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。