自傷行為について質問です。私は以前仕事中に建築現場の足場の4メートルくらい上から仰向けのまま地面に落ちました。 幸いにも全身打撲と軽い脳震とうだけでした。 その時体がスローモーションになり空には輝く太陽、澄み渡る綺麗な青空、キラキラした雪、 落ちてる間は「やばい」「死ぬかも」「怖い」などの感情は一切なく、ただただ美しいと思いながら落ちました。 その瞬間一瞬死を悟りました。 それからは嫌な事がある時、ストレスが溜まると死ぬのも怖くないな…と思い自分で自分の首を絞める行為をするようになりました… 不思議と首を絞めると落ち着きます。 ダメな行為と分かってても辞められないです… 死にたくて自傷行為をしたくなったらどうすればいいでしょうか…? 乱文ですいません
昔から、0か100かの考え方をするタイプだったように思います。 最近は、「生」か「死」について考えていないといられなくなり、苦しいです。 「死ぬのが怖い」と発作を起こすこともあります。でも、落ち着くと 「さっさと死にたい」と考えています。 自分が死ぬシチュエーションを何パターンも考えたり、 「もし今ここで死んでも大丈夫?-うん(orまだ嫌等)」自問自答を繰り返しています。 幼少期から死ぬことが怖くて仕方なかったです。発作を起こすこともしばしばありました。 大学在学中~大学卒業後、フリーターをしていたときに 自分の置かれた状況、無能さに嫌気がさして、死にたいと思うようになりました。 その後就職し、なんとかもちこたえていましたが、コロナのせいか、楽しみがなくなった途端に不安・恐怖におそわれるようになりました。 どうせ死ぬならいつ死んでも同じなのでは? 生きる意味も必要もないのにどうして皆生きていけるのだろう、 でも死ぬのがとてつもなく怖い…ぐるぐると考え、 考えることに疲れ果て、「今なら安らかに死ねそう」と思ってやっと眠りにつくことが多いです。 心療内科を受診したこともありますが、先生のスタイルもあってか、 睡眠薬の処方のみで、強制的に眠って体力は回復できましたが、 考え方が変わらないとずっとこのままだな、と感じています。 現在の生活に不自由は特になく、心だけが置いていかれているような気がします。 「死が怖くない」今のうちに死んでしまいたいです。また怖くなるターンが来ても苦しいので。 違うことを考えていたり、趣味を楽しんでいるときにもふと、 「どうせ死ぬのに何やってるの?」と現実に戻されるような問いかけが浮かんでしまいます。 思考に左右されるのにも疲れました。どうしたらいいのでしょう。 家族を遺すことに少し抵抗がありますが、でも皆死んじゃうからな…と思っています。 長文・駄文すみません。書き出してみれば何かわかるかも、と思いましたが、難しいですね。
共通の趣味を見つけたことから高校時代の友人と連絡を取る機会が増え、定期的に遊ぶようになりました。 遊んでいる時や解散した直後は、楽しかったな〜また遊びたいな〜という気持ちになるのですが、帰宅すると一気に病んでしまいます。 友人は夢のために頑張っているのに、私は夢も目標もなく、何も成し遂げられていないな…、友人は彼氏もいて人生が楽しそうだけど、私には彼氏ができる気がしないから孤独死の未来しか見えないな…などとネガティブになります。 友人のことは大好きです。これからも仲良くしたいのですが、会うたびに自己嫌悪に陥ってしまうのは怖いです。 どうしたらいいのでしょうか?
自死遺族であり、精神疾患者家族です。 精神疾患を理解しなければと家族会等へ行くと、上の子を助けられなかった失敗者の様に感じ、障碍と向き合いながら明るく対処されている方々との距離を感じます。 また、自分の心を鎮めればと参加してみる自死遺族会等でも、辛くても他の家族との幸せを語る方々を遠く感じます。 年老いた両親は他の孫の成長を嬉しそうに話すし、 友人は子供の就職や結婚の事を悪気なく喋る… どれもこれも、自分には手に入れられ無い事を普通に話して聞かされると、涙が出できます。 人は人、我は我… 言わないだけで、皆悩みは有る… そう自分に言い聞かせてますが、辛くて落ち込む事が増えました。 特に年末年始は世間を見るのが更に辛かったのです。 何かお言葉を頂けますか?
去年は辛いことが重なり、普段は帰ってこないこの年末に帰省しました。主人とも激しく口論し、別れるかどうか落ち着いて考える機会も欲しかったのです。主人は帰省に反対しましたが、結局お互い、それぞれの実家に帰ることになりました。 ところが、おととい、我が家の猫が急死したと、家を預かっていた友人から連絡がありました。事故死でした。あまりのことにショックで、心配した主人が電話をしてきました。ずいぶん慰められ、私はこの人の支えがなければ生きていけないということを再認識しました。 猫の死が、私たち夫婦の仲を取り持ってくれたように感じてなりません。でも、こんな犠牲を払わなければならなかったのかと思うと、なぜもっと早く、主人の大切さに気付くことができなかったのか、主人が反対したのに出かけてしまったのか、今は私が猫を殺したのだという自責の念でいっぱいで、涙が止まりません。 過去を悔やんでもどうしようもないのですが、これから、猫のいない我が家に帰るのが怖くて、潰れてしまいそうです。どうか現実に直面する勇気を与えて下さい。
先日大好きな祖父が亡くなりました。 今日告別式を無事に終えました。 でもまだ祖父の死を受け入れられません。 近い親族の葬式に参加したのは今回が初めてです。 今すぐ会いたくて。話したくて。心細くてたまらないです。 入院中もっとお見舞いに行けたのにと後悔ばかりです。 どうして会えたときに会っておかなかったのか。 最後に会ったのは亡くなる二週間前でした。私が風邪をひいてしまいおじいちゃんにうつしたら大変だからと治ったら行こうと思ってたところでした。 「また来るからね」の約束が果たせませんでした。 後悔ばかりです。 こんな私を祖父は許してくれますか? 大好きな祖父の死を受け入れられるときは徐々に来るのでしょうか? 今、私は祖父のために何かできるでしょうか?
こんにちは。 先日初めて質問いただきました、ありがとうございます。 前回も、死についての質問をさせていただきました。 それについてどうしても考えてしまい、泣きそうになります。 私たちには前世と来世はあるのでしょうか。 私はたまに自分は前世もあったと思います。 来世があればまだ生きる希望を持つことができますが、なかったらどうすればいいかわかりません。 怖いです。 自分がなんでいるのかもわからなくなります。 来世はあるのでしょうか、また、その来世でまた家族と結ばれるのでしょうか。
こんにちは。 私の友人が他殺で亡くなりました。 その方とは、ネット上での繋がりしかなく電話もしたことはありませんが。チャットで3年間ほど毎日連絡を取り合う仲でした。 ある時、わたしは卒業論文の執筆が忙しくなってしまい、返信が滞る時期があったのですが、その方は安否確認のためにもメッセージをくれる優しい方でした。 しかし、それにも関わらず再度連絡を1週間ほどまた無視してしまいました。 1週間ほど経った時に、その方の住んでいる地域で殺人事件があり、安否確認のために連絡を入れました。その時には既読が付いたのですが、返信はなく、 生きていることは確認できたのですが、嫌われてしまったんだと思いそこからは忘れて暮らしていました。 しかし、事件から数年経って最近その方が夢に出てきて近況が気になったため検索をかけて見ると私が危惧していた事件に巻き込まれて亡くなっている事がわかりました。 ここまでが経緯です。 わたしは嫌われたと思い、長い間記憶から消して過ごしてしまったこと。 ずっと頼りにしてくれていたのに、最後の最後で自ら連絡を切ってしまい、そのまま亡くなってしまったこと。 この2つの後悔が頭の中をぐるぐると周り続けて忘れられません。 また、友人は苦しい生活を乗り越えてやっと少し楽な生活が出来そうになった所でかなり若くして亡くなったため、苦労だけして亡くなってしまったように感じ、全てが水の泡と化してしまったような気もしていたたまれません。 さらに、犯人は既に亡くなっているため恨みのぶつけ方もなく、気持ちの行き場もありません。 その上、友人とはネット上での関係しかなかったため、お墓参りをして友人の死を目の前にすることで受け入れたいのですが、それも叶いそうにありません。 長々と書いてしまいましたが、すごく親しかった友人なのですが、後悔する点が多く、また、死を受け入れたいのですが脳での処理しかすることができず、モヤモヤした気持ちが続いてしまいます。 友人の死とこれからどのように向き合うべきでしょうか。 友人の死を乗り越えて、これまでの暮らしに戻るためにはどうしたら良いでしょうか。 拙い文章で、分かりにくい部分が多々あるかと思いますが、よろしくお願い致します。
今日、祖父の姉の葬式がありました。 離れたところに住んでおり最後に会ってから10年近く経っていますが、小さい頃遊んでもらってお世話になった人なので、最後の機会だと思い向かいました。 棺に花を入れる時や火葬では涙が出そうになりましたが、悲しいよりも、もらい泣き、雰囲気につられているだけだと思いました。 ところが葬式が終わり、帰ってきてから夜。 もし自分の子供が死んでしまったら… もし夫が死んでしまったら… と考えると涙が止まりません。 事故、事件など最悪の可能性を想像してしまいます。 少しですが、自分も死んだらどうなる?と子供みたいな事を考えてしまいます。 1度考え出すと止まらず心がぐちゃぐちゃです。 葬式に行かなければよかったとすら思います。 こんなに心がボロボロになるなら、もっと近い人の死で自分がどうなってしまうか怖いのです。 その人がいなくなって悲しいのに加え、お見送りをした後も、こんなにも怯えなくてはならないのでしょうか。 こう考えてしまうのは普通ですか? 亡くなった人だけの事を考えないのは薄情ですか? 検索しても、近しい人の死後のメンタルを労る記述があっても、私とは違い相談できるのがここしかありませんでした。 今後あるであろう死の度、これではとても心が持たないと思い どう思えば前向きに見送ることができるのか、 大きすぎる不安を感じなくていいのか 教えていただきたいです。
高校2年生の女子です。 先日、私の習い事の先生が突然亡くなったと知りました。私はその習い事を8年続けており、その先生とも親しかったです。先生とは、1週間前に話したのが最期になってしまいました。その時はいつも通り元気だったのに…もうあと少しで、その習い事の発表会があったはずなのに…先生と一緒に本番が迎えられるはずだったのに…たくさんお世話になったのに、何も感謝を伝えられないまま逝ってしまった…… そう考えるととても悲しくて感情の整理ができません。 私はここ10年ほど、周りの人を亡くした経験がなく、ひい祖母が亡くなった時もまだ幼かったため、ただ漠然と、「もう二度と会えないのか」と思った程度でした。しかし、冷たくなったひい祖母を触った時、生きている人間とは違う冷たさに驚き恐怖を感じたことは鮮明に覚えています。 久しぶりに人の死と向き合い、本当に突然で、とても混乱しています。 数日後にお通夜に参加する予定なのですが、自分がどんな感情を持つのかが怖いです。先述した通り、とても悲しく、寂しく、先生への思いも沢山あります。それなのに、何となく、その先生が亡くなられたことを冷静に見つめている自分がいて、自分は薄情なのかと思ってしまいます。泣きたいのに何故か涙が出なくて、悲しいはずなのにどこか冷静に考えている自分がいて、相反する感情がグルグル回ってます。 私はどうすれば良いのでしょうか。 長文乱文失礼しました。 何かご意見を頂けると幸いです。
前回ご質問させて頂いた続きというか重なる部分があります。 22歳の誕生日前日母の自死。 母は直前あの夫婦(姉と姉の旦那)に言われた事が忘れられません死にます。と残していました。 母の死から1ヶ月経たず、母を死に追い詰めた姉が亡くなりました。 詳しいことは分かりませんが病死だとの事でした。 周りからは母が連れていったんだ、長女で初めて出来た子供だから大切で大好きだから連れていったんだと言われました。 そんな事を言われて悲しかった。 私もお母さんの娘。私を連れて行ってよ。私をママのそばにいさせてよと思いました。 本当に母が連れていったんでしょうか。 死んでしまいたい、消えてしまいたい。お母さんに会いたい。 毎日毎日死にたい消えたいママに会いたいそう思っていても、朝が来て夜が来る。 私には死ぬ勇気すらない。それなのに生きる力もない。 お母さんにあの時声をかけられなかった手を取ってあげられなかった温かい言葉で温かい存在で包み込むことが出来なかった。未だ後悔でいっぱいです。毎日母の分まで生きようと過ごしていますが、でもそれすらも疲れてしまった。 薄情で人としていけないけれど、正直姉が亡くなったと知った時悲しいという感情はうまれませんでした。もうこれから先姉に苦しめられる事はないんだとホッとしました。 でもそれと同時に、1度は目の前で母に手を合わさせたい、母にごめんねありがとうと伝えて欲しかった。 止められなかった自分も憎いけれど、それ以上に姉が憎い。償ってほしい。一生許せない。母が亡くなってそれだけの感情で過ごしていました。 そんな姉まで居なくなり気持ちのやり場がなくなった気がします。 毎日苦しくて辛くて死んでしまいたくなります。 姉ではなく私を連れていってくれたら良かったのにな。 どうしてよりによってあの人を…と思ってしまいます。 死ぬ勇気もない、生きる力も湧かない私はどうしたらいいんでしょうか。 簡単に死ねるのならいいのに、いざとなると怖くて出来ない。 母の死との向き合い方、大嫌いな憎い姉の死との向き合い方が分かりません。 父と話していた時ふと、父私妹3人でもう死んでしまおうかと思った事もあったと。 それを聞くと、母を守れなかった事で父の笑顔、生きる気力までも奪ってしまったとまた後悔に押しつぶされそうになります。 下手くそな文ですがどうかお願いします。
北朝鮮情勢が緊迫し、アメリカが日本海に空母を送り込んだあたりから「自分は近いうち死んでしまうのではないか?」と思うようになってしまいました。 戦争に対する恐怖感は、ここで他の方の質問の回答を見てだいぶ無くなりましたが、(といっても北朝鮮に加え中国や韓国も怖いですが) 最近、調べ物をしてたら「死海文書によると2018年に人類滅亡」とか、今年とそれ以降の人類滅亡に関する予言とか、そういった予言の記事を偶然発見し見てしまい、最近はそっちの方に恐怖感を抱いています。 ノストラダムスの予言の後に生まれたので、ノストラダムスに関してはあまり知りませんが、2012年のマヤ文明の予言にはすごくビビっていた記憶があります。 そういった記事を見てしまったおかげで、頭の中で終末の時の感じとかを想像してしまったりして怯えたり、「今すぐ世界の終わりが来たらどうしよう」などといったことを四六時中考えてしまったりするようになって体調がさらに悪化し、この間主治医に相談して精神安定剤もまた飲み始めましたが、それでもこの胸の気持ち悪さは治りません。主治医の先生には環境が変わって気が張ってるのかな?って言われましたが、そうでもない気もします。 「まだ見たい景色や、やりたい事も沢山あるのに、若いうちに死にたくない!そういった予言怖いわ!そんな全人類が一斉に死ぬなら戦争で死んだ方がまだマシ!だけど戦争も怖い!」って思うのと、今までの人生ろくなことがなかった自分の母親の人生についに光が射し始めているというのに、こんな予言に振り回されたり恐怖感を持ち体調を思いっきり崩したりして母親を振り回している自分が恥ずかしいです。 一日でも長く生き延びるために、この負のスパイラルから抜け出したいです。 長文乱文失礼しました。
ガン告知から3年。先日、転移が悪化し完治はほぼ見込めず、病巣によって骨折もし、最近は死についてよく考えます。しかしピンときていないのか「死が怖い 死にたくない」というより「死後の世界はあるのか どう人生を閉まっていこうか」といったことが気になり、エンディングノートを書いたり、断捨離したりしてます。 先日、友人とコロナについてや、痛ましいと報道される有名人の人生の集結のニュースについての話になり、私も死についてや「一人で旅立っていくときのことを考える」ということを話すと「考えすぎは良くないよ」と言われました(励ましてくれたのかなと思います) 「私にとっては、この気持ちは日常で、あまり悲観的ではなく考えすぎっていう感じでもないんだよ」と伝えると、はいはい、という感じで流されました。ある友人は「それでも不遇な死はあると思う」と述べました。 理解されなかった気がして、些細な出来事ですがショックでした。 私は、死は死でしかなく、その死は不遇であるかどうか他人が言うものではないと思うのです。また、何かしてあげられればよかった、と必ず思うものですが、簡単に言うことでもないとおもうのです。私も他界した母に何もあげられませんでしたが、してあげられなかったと思いすぎるのも、亡くなった方に対して失礼なんじゃないかと。なら生きているうちにできたではずですし、まず亡くなった人がそれを望んでいたかもわからないし、他人が人にできることは限界があると思うからです。 病気になってから、どうも周囲とのズレを感じ、30代であんまりこんなことを考えている人も今までの交友関係だと少なくて、孤独を感じます。 そして「人生のステージが違うのだ」と思うようになってきました。 それは「私のほうが死に近いステージだからだ、きっと彼らもそうなったときにわかるだろう」というニュアンスもあります。 ふと「それはおごりではないか?」と思い質問させていただきました。 確かに病気や死は近づいた人じゃないとわからないものがあると思います。私が感じた寂しさや孤独を「人生のステージが違うから」と帰着させるのはおごりでしょうか?偉そうな立場からの勝手な帰着なのでしょうか? そして、死に不遇はあるのでしょうか? 人が人の死を不遇というのは失礼なことではないのでしょうか? 私が死について考えるのは「考えすぎ」なのでしょうか?
お世話になります。 自分は悪人です。善き行いがどのようなものであるかも分からず、ただただ「よき人」になろうとしている悪人です。 善き人であろうとしてきました。現在もそうです。できるだけ善き人になりたいと思っており、「自分は悪人である」などと嘯いて、ダメ出しを恐れています。 ダメ出しが怖いのです。己の人格を否定されるようなダメ出しが最も怖いです。今日の行いは善だったか?あの時取った行動は善だったか?どうすればよかった?もっと善き人にならなければ。という思考が堂々巡りを始め、「やはり自分は悪人に違いない、こんなに悪いことをしたのだから。こんなに善き人であろうとしているのだから」という思考に落ち着いてしまいます。 過度な自罰は他者から「そんなことないよ」と言ってもらえます。甘い蜜です。でもそれを受け入れることができません。欲しがっておいて拒絶反応が出ます。これこそ悪人たる所以なのではとも思います。まるで悪人のままでいたがっているようです。 この善悪の判断も主観によるものであり、浄土真宗の「悪人正機」に闇雲に縋ろうとしているのではないかと、そのような自己嫌悪もあります。もはや死にたい。死が必ずしも救済ではないことは知識として知っていますが、悪人であることに耐えられないのです。 とても苦しいです。仏教の智慧をお借りしたいです。
初めまして。今回凄く悩んでいることがあり相談させていただきます。よろしくお願いします。 私は最近自分はそろそろ死んでしまうんじゃないかと思って(考えて)しまいます。 原因は5ヶ月前に見た夢で、半年後に死んでしまうと言われたことです。私はまだ死にたくないです…数日前にもそろそろ死ぬと言われる夢を見てしまい毎日恐怖で泣いてしまいます。怖くて怖くて…家のお仏壇の仏様にもしっかりと手を合わせてお願いをしてしまうくらいに悩んでいます… ですが、このまま悩んでてはいけないと思い、気分転換で物事に手をつけようとすればするほどそのことが頭をよぎり、手をつけられなくなってしまいます。親にも友人にも相談できません… ついには親の死のことまで考えてしまいます…怖いです 私は夢の通りにこのまま死んでしまうのでしょうか?まだまだこの先も楽しく生きて、そして長生きしたい気持ちが凄く凄く大きいです。なので私はまだ死にたくないです! 私はどうすればいいのでしょうか…?
自分の未来に不安な事があってこれから生きるのが怖い高校生です。 (自分の未来の不安は定期テスト、模試、大学選び、大学受験、大学生活、自立できるか、就職、仕事、人間関係、親しい人達との別れ、推しロス、健康、恋愛、性、結婚、子供、親の介護、親の死、犯罪や事故を起こしたり、巻き込まれないか、自分の老後、自分の死、自然災害、将来の日本、世界の事など) そんな感じで最近はこれから生きることが怖いしめんどくさいなと感じていますが、かと言って死んだら自分の好きなことが出来なくなるし、美味しいものも食べれなくなるから死にたくはないです。だからこれから生きるのも死ぬのも怖いし嫌だという気持ちになっています。どうすれば良いでしょうか?
自分の根本的な人生や命に関する考えについて、相反するような考えが同時に私の中にあり、ギャップに悩んでいます。 例えば、人を殺してはいけないと思う一方で、 殺すことがあってもおかしくはないと思う。 人に迷惑をかけてはいけない、人の役にたちたい、人に平等に接したいと思う一方で、他人なんてどうでもいいと思う。 親戚や友人の子が生まれるのが嬉しく、幸せに感じる一方で 生まれてきてかわいそうと思う。 死はつらく受け入れがたいと思う一方で、 死は怖くないと思う。 このように、陰陽のような部分が自分にあり、どちらにも振り切る事ができません。 回りをみると、皆疑い無く陽の世界に生きているようで、自分もそうできれば楽なのでしょうが、どちらの声も消えません。 このせいで、行動や選択、発言がしばしば矛盾してしまったり、自分も混乱してしまいます。 このような自分をどう受け入れ、生きていけばいいのでしょうか?
親が老いて体が動かなくなり、認知症になり、死んで行くのを看取る苦しみ。 そして、同じ様に自分も老いて行く事が分かっていながら何も出来ない苦しみ。 なので、時の過ぎるのがとても怖いです。 「一日一生」と分かっていますが、生きてきて46年。 無駄にしてきた時間を思い返し、もう若くなく、社会では「初老」 人生を社会でやり直すには必要とされない年齢となり、思い描いてい た自分の像と、現在の自分とのギャップに苦しんでいます。 仕事はしていますが、自分のしたい事ではありません。 すれば良いと言われるかもしれませんが、年齢を考えると事業に失敗する事が恐ろしいです。 でも、したい。 「老い」も怖いのですが、「思っていた事をしないうちに老いる」のが怖いのです。 今は、高齢者の方を見ても、死んで空き家になった家を見ても、老い 始めた両親を見ても「怖さと不安」がこみ上げてきます。 この苦しみを受け入れる心構えを教えて下さい。
離れて暮らしていた父親が突然亡くなりました。いろんな事情があり、亡くなる直前すごく酷いことを言ってしまいました。その後、なんとなく元気の無い姿を見てしまい、心苦しくも仕方なかった事だと、自分の気持ちを抑えてきました。その後父は孤独死しました。父の突然の死は、私の行動が原因だったかもしれないと誰にも話しませんが思ってしまいます。そしてたまにいろんな辛さが押し寄せてきて、自分の欲求が全て無くなって、もういいかなと思ってしまうときがあります。死にたいとかではないですが、ふっと体の気が全て抜けるような感覚です。父も最後は今の私のような状態で亡くなったような気がしてならず、怖いです。 私には子供が居るのでしっかりしなければと思うのですが‥ どうしたらいいのでしょうか?
人の幸せな生活や、良い暮らしを知ると(snsや人からの噂)とっても羨ましく激しく嫉妬心を抱いてしまいます。私は4人家族の長女に生まれ、ごく一般家庭的で育ちました。親からは毎日愛され、お誕生日や行事などは必ずしてくれて、やりたい事もできる範囲でやらせてくれて本当に愛されて育った自覚があります。 18歳の頃上京し、大学卒業、就職し働く中、27歳の頃母親の癌が見つかり約3年後に亡くなりました。母は51歳でした。 それからは人生に大きな穴が空いた感覚があり、満たされていない気持ちからなのか 他人がとても羨ましく感じるようになりました。母親の死はまだ受け止めてられておらず、未だに墓参りにも行けていません。 母に最後の親孝行として、ウェディングドレス姿を見せたくて、母の病気が分かってから付き合った人と結婚し、ドレス姿を見てを見てもらい、その結婚式が終わるとその日に母は亡くなりました。 母が死ぬという事は、私の中で人生でありえない事が起きるという事を実感し、それ以来は些細なことでも不安になる事が増えました。 (電車に乗ってる時、このまま事故で死ぬかもしれない、とか、飛行機が怖い、とか、お腹が痛くなりこのまま死ぬかも知らないと思うと過呼吸になり、手足が硬直し救急車で運ばれるなど。。。) そして今1番辛いのは、他人を羨む気持ちが激しく、自分が嫌になる事です。 仕事もあり、家も買い、優しい夫が居て(仲良しです)、十分幸せなはずなのに、 自分より良い暮らしや、贅沢な生活を知ると、とても嫉妬してしまい、結婚相手がもっとお金持ちだったら、。とか、、離婚してお金持ちと結婚すれば。。。などと考えてしまう時さえあり、同時に夫にも申し訳なく、悲しい気持ちになります。 母親が亡くなるまでこんな気持ちになった事がなく、本当につらいです。 他人と比べず、自分の幸せを感じながら 丁寧に暮らしていきたいです。 母親の死を受け止めきれていない事も 人の嫉みに関係しているのでしょうか。 母親の死の受け入れ方と、幸せを感じながら生きる為にアドバイスを頂きたいです。 長文失礼しました。 どうぞ宜しくお願いします。