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検索結果: 5749件
2021/07/16

主人に疲れてしまいました

現在1歳3ヶ月の息子を育てています。 平日はワンオペ育児です。それもあり私自身が息子と2人っきりで家にいることができず(イライラしてしまう、一緒に死にたいと思ってしまう)育児ノイローゼのような状態です。 主人は極端な人間で以前から飼っている犬が夜体調が悪くなった際に病院に連れて行きたいと伝えた所「今から兄とゲームの予定だ。ゲームができないなら明日の予定(出かける予定)はやらない」とかをいうような人でした。昨日私がパニックになり「育児ノイローゼでも頑張ってる」と話した所「私が辛いなら、○○(息子)はいなきゃいい」と言われました。すごく悲しくて。今でも思い出して涙が出ます。いつも売り言葉に買い言葉なんだと言いますが、毎度傷つけられそれを伝えてもさほど反省もせず表向きの謝罪のみ言う形です。 私がメンタル的に来ており、自傷行為をまた始めてしまいました。それに関しても「薬やジップロック(掴み合いになったので)が勿体無い」と言われる始末です。余計あー私なんてどうでもいいよねと思ってしまいます。 相談する機関も分からず、困っています。このまま酷い言葉に傷つき続けるのかと思うとしんどいです。私自身躁鬱と少し前に診断されましたが、それを伝えてもこのような状態です。 喧嘩にならないと育児にも協力的ですごくいい人です。ただ、喧嘩になると極論や相手を傷つけることを簡単に言います。 どうしていいかわかりません。お知恵を貸していただきたいです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 18
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輪廻の主体

輪廻転生の事を考えると胸が痛くなります。何故仏教は命を一回限りとしないのでしょうか。 もちろん今ある生も今生限りのものですから人生が一回限りであることには変わりありません。 ただ殉教、殉死、心中等を遂げた歴史上の偉人の前世や来世が全く下らない物だったかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになります。 自分の運命や人生を全面的に肯定して死に切ったとしても、過去世や来世の全く違う人生によって矛盾をきたしたものになるとしたらどうでしょうか。 「七度生まれ変わって朝敵どもを皆殺にしたい」と言って自決した楠木正成が果たして貧民街の子供に生まれ変わる事は無いと誰が言えましょう。 彼は生まれ変わりを願いましたが、あくまで自分の人生を貫き通す意思であり、運命愛に過ぎません。 生涯不犯を誓って異国で命を落とした宣教師達の前世がどこかの売春婦であると考えただけで吐きそうになります。 もしそれで良いのならこの世での清貧、忠義や誠意も全く無意味なものとなりますから。 ただ輪廻思想が広大無辺な仏教の歴史の中で偉大な説法者達に受け継がれてきたものである事は否定できませんし、 私は至らぬ凡夫ゆえ仏教の各宗派の前提とする輪廻の教義まで仔細には存じ上げません。 仏教では、特に自性を認めない中観派では何が輪廻するとされているのでしょうか? 水車を廻す水や携帯を動かす電気のように、「私」ではない、「私」の生み出す執着そのものが輪廻するのでしょうか? 執着が輪廻するのであれば悟りを得た=執着を滅した釈迦が解脱に入られたと解釈できるように思えますが。

有り難し有り難し 55
回答数回答 3

どうしてお坊さまになったのですか?

相談ではなく、単純な質問ですみません。 しかしとても気になります。 私は現在職を探して3ヶ月になろうとしている20代です。 履歴書や面接の準備のときに必ず用意するものの中で、「志望動機」というものがありますが、 私はこの「志望動機」が苦手で、つまずいて応募も躊躇してしまうこともあります。 その為、この3ヶ月は道行く働いてる人へ 「ねえ、あなたはどうしてその会社に入ったの。なんて理由で応募したの。」 心の中でめちゃめちゃ問いかける毎日です。 半分くらいは知識欲なのですが… そんな時、「お坊さん」という、あまり私の身近にはいない方々に質問相談ができるというこちらのサイトを見つけました。 しかも真摯に、丁寧に、おそらく正直に回答してくださっているご様子。 私、今、喜んで質問させていただきます。 「なぜ、『お坊さん』という道を選んだのですか?」 欲張りで申し訳ありませんが、もし差し支えなければ、 「お坊さんになる前はどんな事をしていましたか?」 という疑問にも答えていただけると嬉しいです。 まとまりのない文章で、他の誰かの為にもならなさそうな質問で大変申し訳ありませんが、どうかこの個人的な疑問にお答えください。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 229
回答数回答 5

完璧な幸せへの不安、それによる病気を解消するには?

以前、深く絶望し、幼時からの精神疾患も悪化させ、自傷行為に走ったこともありました。 しかし、今ではとても幸せです。 親の仕送りで暮らす学生で、趣味も多く、好きな人も友人もいて、何も不足はありません。 それなのに、精神的にも肉体的にも、いつも何らかの不調が絶えません。 幼時からの強迫性障害は完治を諦め、うまく付き合っていくように心がけています。 でもそれ以外で、緊張すると一言も話せなくなる症状や、ストレス性の難聴などの疾患が、改善と悪化、出現と消滅を繰り返しています。 身体でも痛みなどがあり、病院に行っても原因不明、ストレスかもと言われ、そう言われた途端に症状が軽減したりなくなったり…ということが多いです。 結局、いつも身体には異常はないのです。要は心の問題なのです。 一度、検査に行った病院で「あなた、異常であってほしいの?」と聞かれたことがあり、はっとしました。 私は絶望を経験してから、幸せになりたいと思って努力したし、幸せをつかみました。でもどこかで、完璧な幸せを手にすれば、その先に来るのは幸せの終わり、前のような絶望ではないかと、不安に思っています。だから、幸せが完璧にならないように、身体に出ているのだと思います。 でも怖くても不安でも、私はやっぱり病気になんてなりたくない、幸せになりたいのです。幸せの先にあるのが前のような絶望だなんて、思いたくないのです。 どうしたらこの不安を和らげて、身体の症状を軽減させていくことができるでしょうか。 良い心の持ち方を教えてください。 蛇足ですが、懸命に「この痛みや病気は幻だ、本当は何ともないんだ」と思ってみても、ちっとも軽減しませんでした。

有り難し有り難し 20
回答数回答 2
2023/01/21

神仏の経済的な消費について

お尋ねして良いものか悩みましたが、本職の方のご意見をお聞かせ願いたいと思い投稿しました。 お寺や神社への関心が経済的に消費されていることがどうしても受け入れられません。 とても嫌な言い方になってしまいますが、 パワースポットだ何だと聖域を土足で踏み荒らし、信仰するつもりもないのにその恩恵だけは受けたい利己的な人々。 スタンプラリーのように自己の収集欲を満たすためだけに御朱印を集めてまわる人々。 過度に美化された歴史上の人物や神々のキャラクター化。 大河ドラマなどに代表されるような、経済効果ばかりに目が眩む自治体や企業。 大多数の人はそんな事気にしないでしょう。これは私の認識の問題であって、自分が一方的なものの捉え方をしている事は理解しています。 でも、歴史って、信仰って、人の生きた証って、そんなふうに扱って良いものなのでしょうか。まるで見世物の様に経済的に消費されている様に感じてしまいます。 需要があるから供給されているという事はわかります。お寺や神社に多くの人に来てもらえるように所有する文化財や偉人との関わりを宣伝、アピールしていらっしゃる事も重々承知しております。拝観料などは支払って当然とも思っています。 そう言った事ではなく、自己の欲望のために喧伝・消費するような行動に、嫌悪感を覚えるのです。 法隆寺に参拝した際、夢殿にてご老人が何やら怒鳴っていました。 「救世観音が見られないとはどういう事だ!その為にカネを払ってるんだぞ!カネ返せ!」と。 何処かの檀家さんなのでしょうか、そのご老人は輪袈裟のような物を身につけていました。ある程度日本のお寺に詳しければ、救世観音像が秘仏である事は知っている筈です。知らずとも、金を返せと怒鳴り散らすなど言語道断です。 この時感じた猛烈な嫌悪感が、ずっと心に刺さっています。 このご老人を責めたいわけではありません。ただ、大げさとは思いますが、この出来事が信仰のある人にとって神聖なものや、歴史的価値のある物に対する、今の日本人の扱いの縮図に思えてなりません。 繰り返しになりますが、これは私の認識の問題です。苦しみの発生源は私自身の心です。いわゆる"無宗教"の一個人の考え程度に受け取って頂いて構いません。 誰も悪くありません。誰も間違っていません。ただどうしてもやるせなく、哀しいのです。自身の狭量に恥じ入るばかりです。

有り難し有り難し 23
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不条理について教えて下さい。

人は 「真面目に生きていれば」「頑張っていれば」「悪い事さえしなければ」 「人の為に」「困っている人の為に」 と考え実行し生活をしている人も大勢いると思います。 又はそういう考えを持たなくても 自然とそういった生き方になっている方も少なくないと思います。 そういう生き方に対しては成果が出て欲しい、 成果が出なくともよくない事は最小限であって欲しい又はあるべきと そういう生き方ではない人達でさえも そう思うものではないでしょうか? しかしながら現実はそうではありません。 尊敬したくなるような方 普通の方 他人を蹴落としずる賢く生きる方 極悪非道な方 他様々な方 それらとは全く関係ないような事象が起き そのまま終わりを迎える事が多いように思えます。 例えば、生まれてから悪い行いもなく 逆に一生懸命血の滲むような努力を続けていても成果が出ないばかりか よくない事が多く、どうにもならなくなり力尽き 最後には苦しんで苦しんで人生を終える方も少なくないと思います。 それは本人も苦しいし周りにいる人も苦しい上に 本人が居なくなった後も周りの人は苦しみます。 これらを不条理とした場合、 子供にどう教えていったらいいのか難しいと思う事や 自分自身どういう考えを持ったらいいのか悩みます。 結局「努力をすれば」ではなく「成果の出る努力をしないと」になってしまうだけです。 これを前向きになれるような説明をするには 死後の世界・死後の魂・前世などを持って来ることが多いかと思うのですが それを信じる又は受け入れる事が出来ない人も少なくないと思います。 私自身そうですが、かと言って宗教思想を否定する考えでもなく 普段は仏壇に手を合わせたりお墓参りをして 形だけではなく心から敬う気持ちも持ち合わせます。 ただ先の事を考えると人生の最後は「無」になってしまいます。 そういう人に人生の糧をのようなものを見出させてあげる考え方が思い浮かびません。 仏教(ほかの宗教もそうだと思うのですが)は基本的には 死後の世界・死後の魂・前世など有りきの思想だと思うのですが それを無くして人に何かを見出させることは出来るものでしょうか? それとも死後の世界などを信じる事が出来ない時点で宗教思想を否定することになり そういう人との間には相容れないものなのでしょうか? どうぞ宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 45
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