大好きな父を病気で亡くしました。 若いうちに私を産んだのに、きちんと育ててくれて成人させてもらえました。 私はパパが大好きで、ファザコンと言われる程仲良しです。父に限らず家族が大好きでしたが、父が1番の味方でした。私はインドアで1人が好きで、友達ですらも人と過ごすのが苦手で。 なので休みの日はいつも父と一緒でした。いつも私のワガママに付き合ってくれました。 急性と名のつく病気だったためありがとうもごめんねも言えず、どのくらい痛いのかどのくらい苦しいのか、何か伝えたいことがあったのかどうか、父の言葉も何も聞けず。 私はいつか絶対に父に会いたいのです。父と母からもらったこの身体と命を自分の手で無駄にしない為には、死後の世界に縋るしか生きる希望がないのです。 本題ですが、 自死をした場合は、天寿を全うした人達と同じ世界には行けない、即地獄行き、自死は罪なのでカルマがどうのこうの、沢山調べました。 これらは本当なのか、少しでも自死をする人を躊躇させるため減らすために適当に作られたものなのか。 そもそも死因によって魂の行先は変わるのか。 仮に私が自死をしたら、病死した父には会えないのか会えるのか。 知りたいです。 もちろん死後の世界のことは誰にも分かりませんから、私が見漁ったWebサイトよりも信用出来るお坊さんの考え方が知りたいだけです。 別に死ぬつもりも度胸もないので私を止めるための綺麗事は必要ありません。死について調べてる間に見飽きました。 自死でもお父さんに会えるよ!という返答が来たからと言ってじゃあ自死します!ともなりませんので、変に気遣わずそのまま元々のお考えを教えていただければ嬉しいです。 お忙しいところ恐れ入りますが、よろしくお願いいたします。
本当に死にたいわけではないのに、何に対しても「死にたい」って思ってしまいます。 例えば後悔した記憶や恥ずかしかった記憶を思い返しては「なんであんなことをしたんだろう死にたい、死ねばいいのに」って考えてしまったり、楽しい事があっても「私なんかが楽しんでいるなんて許されないから死にたい」と、そういう風に考えたり口に出す癖みたいなものが昔からあるのですがここ数年それがとても酷くなってきて、どうしたらいいのかわからずにいます。 酷くなった引き金は、生きがいだった愛猫が病気で亡くなってしまい、再就職に失敗したからです。現状実家暮らしのフリーターな事もあり自分への失望感や負い目が酷く他人との関わりも極力避けるようになりました。 自分が落ち込んだり悲しんでいると心配してくれる家族がいます。楽しいと感じることも嬉しいと感じることもこれからやりたいこともあったと思います。 でもすべてが「死にたい」という言葉に直結してしまって、酷い息苦しさと八方ふさがりのような、生きにくさみたいなものに囚われています。死以外に道はないぞと自分自身で言いきかせているようで怖いです。 どうしたらこのような気持ちに囚われず前向きに生きていけるのでしょうか。ご意見聞かせて頂けたら幸いです。
大学4年生の女です。一昨日、父がくも膜下出血で倒れました。 具合が悪いと言って会社から早退してきた後、自室で変ないびきをかいていることに気付き、私が救急車を呼びました。 昨日手術があり、手術自体はうまくいったのですが、非常に稀な症例のようで、このまま帰らぬ人となる可能性が60%、生きていても植物状態となる可能性が20〜30%、意識が戻り自力で動けるようになる可能性が10%程度と言われました。意識もなく、コロナの影響で原則面会も禁止なので、これから私と母は基本自宅待機になります。 父はまだ50代で、これまでに大病を患ったこともなく、ついこの間まで元気でした。あまりに突然のことで、どうしたらいいのかわからずにいます。手術後、病室で管に繋がれた父の姿を見て、涙が止まりませんでした。 気を抜くとすぐに涙が溢れてきます。家にある父の私物を見るのも辛いです。 もっと早く救急車を呼んでいれば何か違ったかもしれないとか、どうして普段からもっと素直に接してあげられなかったんだろう、感謝を伝えてこなかったんだろうと、自分を責めるようなことばかり考えています。 まだ父は生きているのに、もう二度と意識が戻らないんじゃないかと不安しかありません。 私は大学までずっと実家暮らしで、親に甘えきった生活をしてきました。なんとか就職も決まり、初任給で親に美味しいものを食べさせてあげようとか考えていた矢先のことでした。 私がメソメソしているので、母も気丈に振る舞ってはいますが、眠れていなかったり食欲がなかったりするようです。そのうち母まで心労で倒れてしまうのではないかと不安で仕方ありません。 今回の父の件では、祖父母や叔父、叔母も支えてくれていますが、私が一人っ子なこともあり、こうやって大切な人の死を今後何度も経験しなければならないのかと思うと、とても怖いです。 私は、可能性が1%でもあるなら、父が戻ってきてくれることを信じたいです。数年前、祖母が同じくくも膜下出血で倒れ、かなり重篤な状態でした。しかしその後奇跡的に回復し、今は元通りの生活を送れています。そんな奇跡がまた起こると信じたいです。希望を捨てたくないです。でもその思いとは裏腹に、最悪の事態ばかりを想像してしまいます。 こんな不安だらけの私はこれからどうやって生活していけばいいでしょうか。どうすれば前向きになれるのでしょうか。
真心をこめて関わる方々が、自死を選んでしまったのがつらいです。 自分が関わると死に追いやってしまうのだろうか、立て続けなのは何か因縁があるのだろうかと考えたり、また繰り返してしまうかもとこわいです。 信頼できる人には感情を出し切って、話し合って現実的に動いていますし、皆私を必要としてくれているのを感じる一方、自分を疫病神のようにも感じてしまいます。 また、お墓参り等できないので、厳しい弾圧に耐え抜いたご先祖様の力もかりたく、自分なりにお経をあげ弔いました。が、宗教が違うのにそんな弔いをしてよかったでしょうか。
同級生が亡くなりました。 自死でした。 それほど親しい間柄ではありませんでしたが、すれ違ったときには元気に挨拶をしてくれる明るい方でした。 なぜ自死してしまったんだろう? そう思えるくらい明るい人でした。 相談内容ですが、同級生の自死に驚いたことを某SNSで発信しましたら 『自〇したひとは成仏できずにこの世をさ迷うんだよ。一生死んだ場所に鎖でつながれて地縛霊になる』 というようなオカルトめいた返信を付けられました。 私は幽霊やオカルトの類は信じていませんが、なんて無礼なやつだと思いました。 仏教では自死してしまった人も救われるのでしょうか? 仏さまは救ってくださるのでしょうか? 自死を肯定したり推奨するわけではありませんが、私は自死を選んだ知人の選択、生き方を尊重したいです。 きっと誰にも言えない心の闇があったのだと思います。 きっとたくさん苦しんだのだと思います。 考えて考え抜いて、彼は一つの選択肢を選んだのだと思います。 そんな彼の生き方、最期にに取った選択を尊重してあげたいです。 どうか死後は安らかにいてほしいです。
愛を失い続ける人生に疲れました。 何も得られない人生に疲れました。 もう投げ出していいですよね?私はもう疲れたんです。私はもう何かを得るなんてことはありません。私には何も残されていません。少しでも価値あるものは次々と消えていきました。夢も最愛も。何もかもが私のもとからさっていきました。 もう投げ出してもいいですよね?私はもう十分戦った。もう休んでいいですよね?阿弥陀様、貴方様のお慈悲こそが私の唯一の希望。私を導いてくれる光です。 阿弥陀様、どうか死を選ぶしかなかった憐れで惨めでみっともない私をお救いください。あなた様のお慈悲の光ころが私の唯一のよりどころ。どうか私を憐れんで、お浄土へとお導きください。それだけが私の望みです。死しか選べなかった私を、どうかお導きいただき愛するものと再開させてください。これ以上は望みません。だからあの子に合わせてください。再会させてください。なんの苦しみのないお浄土で。それが叶うなら私は喜んで死にます。どうか私を救ってください。
家族の死をどうやって乗り越えたらいいのでしょうか、、、 昨年、家族の病気が進行し、治す術もなく看取り優先での生活を告知され、そばで看取りをしました。 最後の瞬間まで看取り、人の死ぬまでのその一瞬も逃さず、他の家族と一緒に静かに見守り、泣きながらありがとうと伝えました。 私にとって一番の応援者であり、師であり、父であり、時には喧嘩相手でもありました。 看取りは母が一番そばで行っており、私は死が近づくのを見てられなくて父に対して素っ気ない態度で接したり、話さなかったりと酷いことをしてしまったなと後悔しています、、、 毎日、父とメッセージのやり取りをしていました。父は亡くなる前まで応援や励まし、アドバイス、いつもの冗談をメッセージに残して送ってくれていました。 私は、父に対して親孝行ができなかったと、かなり後悔しています。 結婚して子どもがいたら孫を見せられたかもしれない、花嫁姿なんて見てくれたかもしれない、母との食事のプレゼントもできたかもしれない、一緒に旅行もたくさん連れて行けたかもしれない、、、 そんなことばかり、頭に浮かびます。 最後まで心配させてしまったし、素っ気ない態度で話してしまったり、、、 もっと心温まる言葉とか、優しさとか、そういうのを以て対話していたらよかったのに、とずっと後悔ばかりです。 もう二度と、父からメッセージは来ないし、会話もできない、父が大好きだった旅行もできないし、二度とそういう時間は来ないのだと思うと、どうしていいのか分からない程の悲しみと虚無感と後悔とで苦しいです。 でも乗り越えなければならないし、家族を支えなければならないと自覚しています。その中で、一人にしないで、という残りの家族に対する自分自身の寂しさと甘えとが一気に上がってきます、、、 自分自身もいつかは死ぬというのは分かっているんですが、今目の前にあるこの虚無感と怖さとどう対峙すればいいのか、分からないのです。 お叱りでも大丈夫です、お忙しい中この文を見ていただいてありがとうございます。
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。 仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。 「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。 たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。 前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。 ご教示いただけましたら幸いです。
こんにちは。私の祖父について相談させて下さい。私の祖父は80代後半ですが先月まで働いていたほど、元気でした。 しかし、先月倒れてしまって命が危ないとまで言われましたが先日退院することができました。 しかし、退院してからの祖父は弱々しくて歩くのもやっとになってしまってトイレも着替えもままならないし、「辛い、痛い」とよく口にします。 病院に行っても「早く帰りたい」と何度も口にして、病院が辛かったらしくその日は病院から帰宅後、立つこともできず、寝返りすら辛そうになっていました。祖父が退院したと言っても根本の病気の治療はこれからで、何度も通院しなきゃいけないだけでなく、遠距離の通院になります。 酷い孫ですが、辛そうな祖父を見てると「病院に行かない方がいいのかな」とか祖父にそういう選択肢がある事を伝えた方がいいのかなとか考えてしまったり、お金の事が頭を過ったりします。 祖父が入院した時は「死なないで」と思ったのに、祖父が大切だとも思ったし、祖父が退院した時は嬉しかったのに…こんな事を考える私なんて死ねばいいのにと自分の事ばかり考えてしまって… 祖父に死を選ばせる事、お金の事、自殺願望などどうすればこんな嫌な事を考えなくなりますか? また、矛盾してるかもしれませんが、私は他の人の死への覚悟の仕方もわからないんです。覚悟ってどうすればできるんでしょうか?
2年前に仕事を辞めてから趣味に没頭するためにフリーターをしています。先日読んだ本に『人間はある一定の年齢を過ぎると自分が幸せなだけじゃ物足りなくなる。美味しいものを食べて幸せとか、趣味に没頭して楽しいとかそう言う感情は歳を重ねていくに連れて経験し尽くして、幸せと言う感情そのものに飽きが来る。そして歳を重ねていくに連れて誰かを幸せにする事が幸せと感じてくる。だから配偶者や子供は作っておいたほうがいい』と書いてあり、その言葉が頭から離れません。 私は結婚には興味がなく、出来ればしたくないとさえ思っています。そもそも1人の時間が好きだし、例え結婚して一緒に暮らすのが自分の好きな相手でも、相手が発する生活音、例えば歩く音や息遣い、気配にさえ気を遣ってしまって、それをストレスと感じてしまいます。今一緒に暮らしている家族にさえそう感じています。だから私は結婚には向いていないと思っています。 周りはどんどん結婚する子や子供をつくる子が増えて、飲み会の度に『最近良い人いないの?』『結婚したくないの?』って聞かれます。その度『向いてないと思うんだよね〜』って上手く濁してきました。『孤独死が怖くないの?』と言われるけど、例え看取ってくれる人がいたとしても死ぬ時は1人だし死は死だと思ってしまい、死後何週間も発見されない話をよく聞くけど、そんなのは実際死んだ側の人間にとっては関係ないと言うか、他人事のように感じています。でも、幸せに飽きるって言うその話、その話はとてつもなく怖いです。いつか自分の幸せを幸せと感じられなくなったらどうしよう。ずっと私の生き甲斐だった趣味に飽きが来たらどうしよう。これを取ったら私には何も残りません。もしこれからその飽きが来ても、きっと『なんか物足りない』を感じながらも、その感情に気づかないフリをして今まで通り過ごし、そんな自分に劣等感を感じながらも何となく生きていく事になりそうで怖いです。
はじめまして。 どうしても苦しく、初めて投稿いたします。 中学生頃からずっと希死念慮があり、早く死にたいと思っていました。 大人なり愛する人に出会って、生きていたいと思うことが増えたのですが、それでも些細なことでやはり私は生きていてはいけない人間なのでは、と考えてしまいます。 死にたいと考えることで、夫に辛い思いをさせてしまう。夫に辛い思いをさせる私なんて要らないのでは、と矛盾した思いの堂々巡りになってしまいます。 そして、今年がん検診に引っかかり前がん段階で手術を受けました。現在は病理検査待ちですが、死にたいと思っていながら、いざ実際に死の可能性が目の前に来た時、最初に思ったことは「怖い」でした。 なんて弱くずるい人間なのでしょうか。 夫は癌になっていても、一緒に頑張ろうと言ってくれましたが、不安な気持ちはなくならず、意味もなく泣いたり八つ当たりをしてしまったり、毎日生きることが苦しいのです。 このようにままならない気持ちをどうしたらいいのでしょうか。 そしてこのままたとえ死んだとして、こんな私ではお釈迦様でもお許しくださらないまま、本当に無価値になってしまうのではないかと恐ろしいです。 まとまりのない文章になってしまい申し訳ございません。 このような場をいただけたこと、感謝いたします。
いつも心の迷いに寄り添ってくださってありがとうございます。 弟の死から2年が過ぎ、悲しみが癒されるどころか、ぶり返し、日がたつごとに寂しさが募ります。寂寥感、虚しさ、悲しみ。。。 母を支え、自分を支え、いろんな感情に押しつぶされそうになりながらまた立ち上がり、日々過ごすということを繰り返しています。 新しい趣味も始め、自分自身の人生を歩むことも忘れないようにしていますが、 どうしようもない悲しみ、寂しさは自分が人生を終えるその日まで続くことはわかっているのですが、こういう気持ちをだましながらというか、いやすにはどうしたらいいのでしょうか? たまに襲われる深い悲しみに耐えられる自分になるための道しるべをご教示いただけたら嬉しいです。 いつもありがとうございます。
度々お世話になります。 就職して、紆余曲折あって辞職して、自死に失敗して、そして転職して1年が経ちました。 この1年、仕事こそが生きがいだと自分に言い聞かせ、前職を辞めた自分への罪滅ぼしも兼ねて脇目も振らず突っ走ってきました。結果的に仕事に不満はなく、良好な人間関係に恵まれています。 ですが、その裏で常にどうしようもない生きづらさを感じています。物心ついてから今まで、ただ生きてるだけであれこれ考える事が多すぎて、生きる事が相変わらず苦しいです。 仕事もキャパオーバー気味な上、いろいろなことを考え込んでしまい潰れそうです。地元在住ですが頼れる人はいません。上手く例えられないのですが、自分を支えてる張り詰めた糸が何かの拍子に切れてしまいそうです。 そもそも、自分は1度自死を試みた時に死んでたはずです。あの時感じた「やっと終わった」という、今までにない安堵感のようなものが忘れられません。 耐えられなくなった時、衝動的に自死を選んでしまいそうで、実際その一歩手前の段階まできています。 苦しみながら生きる意味が分かりません。かといって前回とは違って仕事上の責任を負った今、投げ出すこともできません。 以前、死んでしまおうと思っていたところを救っていただき今に至ります。今回も何とか頑張りたいのですが、こんな状態の私はどうしたらいいでしょうか。
前回自死してしまった娘のことでご相談したのですが、 とある僧侶の方から自殺した者はすぐに仏様の元へ行くことはできないと考えている。なぜなら辛くとも最後まで精一杯生き抜いた人と途中で諦めた人が評価が同じではないからと言われました。 私はそうは思えません。 自死する人はみな心の病が原因だと思うのです。普通の精神状態であれば誰が自ら死を選ぶでしょう。諦めたのではない、それしかもう選択肢が無かったのだと思います。 心の病も身体的な病も同じものではないのですか。 また闘病されて亡くなった方でも生前に悪行ばかり行った方もいるでしょう。それでも自死してしまった人間がすぐには行けない極楽へ行けるのですか? 娘は苦しみ抜いて自ら死を選んでしまいました。 精神科へ通院入院もしていましたしカウンセリングへも通いました。それでも病は少しも良くはならなかったのです。 これも立派な闘病だと思います。 娘は生前、抗ガン剤治療で髪を失った方の為に長い時をかけて髪を伸ばしヘアドネーションへ32センチもの毛髪を寄付しました。 免許証の裏面の臓器提供の欄にサインしてあったのを知っていたので、死後に角膜提供もしました。 子供の頃から人の悪口を言ったり無責任な噂話をするのも嫌いな子でした。 親バカかもしれないですが、こんな心の美しい子が自死してしまったからと言って、生きるのを諦めたから生から逃げたから、病死の人と違うからすぐに極楽へは行けないというのは本当に哀しく気持ちの持っていきようがありません。 その僧侶の方は残された私どもの行い次第で娘は成仏するのだと言われました。私達が娘のために功徳を積むのは当然と考えますが、 だからと言ってそれをしなければ娘が成仏できないとは考えられません。娘の人生は短かったかもしれないけれど、立派に生きたと思います。 残されたものが功徳を積まなければ成仏できないのであれば天涯孤独で自死してしまった人はどうすればいいのですか。 自死を選んでしまった人間は本当にすぐには極楽に行けないのでしょうか。 私の前回の質問への回答を読まれてしまった同じような自死遺族の方々もショックを受けられるのではないかと心を痛めております。 自死を容認できないからと言ってわざわざ自殺と言う言葉を使う僧侶の方は回答なさらないでください。
私は子供の頃から、死に対する強い恐怖があります。10代後半頃にそれが原因で精神的な病気になり、今も治療を続けています。 死に対する恐怖は、当初よりマシになってきたと感じます。 ですが、最近では自分が年をとることに対してどう考えて生きていけば良いのか悩んでいます。年をとる、と言っても老後の話だけではなく、現在20代前半の私が30代になったら…という、比較的最近のことに悩んでいるのです。 どうやら、年を重ねると若い時にしていたことや好きなことをやめなきゃいけなくなるのでは?ずっと続けているのはおかしいのでは?と、感じているようなのです。 これから頑張ろうと感じている趣味や、今のファッションなどにも悩んでいます。 死に対する恐怖もプラスされて、今やってることって何の意味があるのだろう?ととても悩みます。 今後の生き方がどうしても分からないのです。アドバイスをお願いしたいです。 よろしくお願いいたします。
私はいつも、楽しいことがあったあと、 一人になるとどうも “ 死 ”への恐怖が増します。 “死にたくない。”“生きていたい。”と…。 それは、今が楽しいからで、死んでしまったあとの事が分からないから、今いる大切な人たちと離れるのが怖いから。。。? それと、 今年2017年の5月?9月?10月?に、 隕石が南極に落ちてきて地球滅亡人類滅亡だのというネットの記事を見てしまいました。 デマとかガセとかどこか信じていても、 怖くて、楽しいことへ集中して楽しめません。 もう、こんなくだらないとんでも記事にも騙されたくないです(笑) こういうのは、すぐに信じてしまいます… 死への恐怖もどう対処したらいいか教えてください。お願い致します。
精神疾患のある友人がいます。 鬱病傾向で、自己肯定感が低く、ことある度に落ち込んで希死念慮が激しくなります。 自分はその友人のことが好きで、話していると楽しいのですが、落ち込む度にどう声をかけていいのかわからず、正直面倒だなと思ってしまいます。 友人は親から虐待を受けていたことがあるなど、私には到底理解してあげられない苦しい過去を持っています。 友人のことを理解してあげたいと思う反面、私のような普通の家庭で平凡に育った人間がどう関わったらいいのか、そして正直面倒くさいと思う自分もいて、悩んでいます。 まとまりませんが、今後こういった友人とどう付き合っていったらいいのかアドバイスいただければと思います。
個人の行いは社会の行いに通じる、逆も然り自殺の原因は苦しみがほぼだろう、詳しい原因はそれぞれだが、周りが与える影響が、その人の行いを左右するのは事実であろう。 故に他の人の自死は大小あれ社会全体に影響を与える(水滴と水槽の理論)ので我々は自殺者をなるべく減らす様に行動しなければならない。自死が増える→社会が病む→苦しみが増える→自死が増えるのループこのループの最初は社会が病むかもしれない。 とはいえ、実際に追い詰められている人は周りの事など考える余裕などないであろう。よってその様な場合は理論構築よりも寄り添いや共感で心の余裕をつくる必要がある。 以下、理論構築精神的に余裕のある時に参照 ケース1 自分なんか 何らかのの理由で自己肯定感が低下した場合、これは方っておくとなぜ自分だけ→恨みに変化する。 原因となる自己肯定感の低下を解決できればいいがそれが不可能なケースも存在するはず。自分の価値観を変える、若しくは多角的な視点を持つ必要がある。恐らく実物的な苦しみは消えないが生きがいは生まれる事になるので恨みには発展しにくく自死まで考え辛くなる可能性がある ケース2 環境による攻撃等 この場合は自身が疲弊していくため特に正常な判断がし辛くなるのでは。一番はその環境から離れる事だかそういう訳にもいかないパターンも存在するであろう。この場合は自分自身と周りから距離を取り休息が必要になるだろう。何もかも疲れたは限界のサインなのですぐ自分を危険から守れる安全な場所を探すべきなのだろう。動けるうちにどれだけ安全な場所を探し回復できるかが鍵になりそうだ。 ケース3 理想への解離 このケースは自分が思い描いていた理想とのギャップに苦しみケース1と同じように自己肯定感の低下に繋がる。いろいろな状態が考えられるが手っ取り早い解決法は今に満足する事であると考える。今この瞬間をマイナスではなくスタートと考えてこれから進めばいいし進めず後退しても意外とどうにでもなる(社会保障等を使うなど)と気楽に考えるのもありかもしれない。仮に未来への絶望があったとしても今スタートラインに立てているので(少なくとも死んでいない)この状態から自分にとってプラスになる可能性の行動をすればすぐに今より好転。 ケース4 恋愛関係の悩み よくわからん がアイツの意見なんですがどうなんでしょう 長くてすみません
久しぶりぶりに質問します。いつもありがとうございます!母が亡くなり2年がたとうとしていますが、未だに受け入れられない日々です。私には妹がいますが、それは、妹も同じで母の死を受け入れられずにいます。私は結婚して実家とは離れた県外に住んでいます。妹は実家に父と二人暮らしです。妹は、よく私には夫がいるからいいよね、私なんかいらない、どうでもいいんだよね、など私が結婚してなければよかったのになどと言ってきます。寂しいし母を亡くした辛さからそのように言ってくる気持ちはわかります。ですが、私自身自分だけ夫としあわせに暮らして何か後ろめたい気持ちです。妹の話はなるべく聞くようにはしていますが、お姉ちゃんはいいよね、ずるいと言われるたびに苦しいです。母を死に追い詰めたのはわたしにも原因があります。私一人しあわせにはなったらいけないようにも思います。どうすることもできず相談しました。また、妹は私なんかいなくなってもいいよねと、自殺をほのめかしたりもするので心配です。夫も妹も同じくらい大切です。どのような心構えでいればよいでしょうか。
ずっと休職していましたが回復の目処が立たず来月中に退職しようと考えています。両親にはまだ相談していません。 生活と家族の為に少しずつ転職活動していますが、生きる自信も希望も全くありません。 また、最近は妹と母との口喧嘩が頻繁でどうしたらいいか分かりません。 毎日が辛く希死念慮が常に頭から離れません。両親に何一つ親孝行できない役立たずな自分が情けないです。 転職活動を含め今後について両親に相談すべきか悩んでいます。しかし、これ以上迷惑や心配はかけたくありません。 支離滅裂な文章で大変申し訳ありません。